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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書55章1-3節 |
さ ん び | Opening Praise | どうしてそこまで ~Amazing Love~ |
さ ん び | Praise | 喜びの声上げて |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の律法 | Law of God | (第3戒)コロサイ人への手紙3章16-17節 |
罪の告白 | Confession of Sin | |
赦しの確証 | Assurance of Pardon | ローマ人への手紙8章1-2節, 38-39節 |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌45番「神の子羊」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音6章48-71節 |
聖書の話 | Sermon | 「人の子の肉を食べなさい」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌127番
「主イエスは尊き」1-3番 |
主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 歴代誌第一29章12-14節 |
献金 | Offering | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章3-6節 |
信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。もし皆さんがクラスのお友達を連れてきて、「マーク先生、私のお友達にイエス様を信じることをわかりやすく説明してください」と言ったとしましょう。私が「わかりました。イエス様を信じることは、自分のいのちのために、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むことですよ」と言ったら、皆さんどう思いますか?びっくりしますよね。「先生、言葉の意味はわかるけど、何を言っているのかさっぱりわかりません!むしろ、その例えを聞いてお友達が引いてしまいます!」と思ってしまうかもしれませんね。実は、イエス様は、ご自身を信じることについて、このように生々しい言葉で説明されました。そして、イエス様の話を聞いた当時の人々も、同じように引いてしまったのです。
なぜイエス様はこのような生々しい例えを使われたのでしょうか?なぜなら、イエス様を信じることは、綺麗で清く、みんなが憧れるようなものではないからです。自分のいのちのためにイエス様を信じることは、まさしく生々しいことなのです。イエス様が十字架でご自身の肉を裂かれ、血を流されたのは、私たちのいのちのためです。イエス様を信じることは、ただ口で「信じます」と言うだけではありません。イエス様が私たちのために用意してくださった「肉」を食べ、「血」を飲み、自分のいのちのためにいただく必要があります。そのように、私たちはイエス様に完全に頼る必要があると、イエス様はおっしゃるのです。この言葉を聞いて、「そこまではできないな…」と去っていった人たちもいます。しかし、ある人たちは「イエス様しかいない。喜んでいただきます」と言いました。皆さんは、どうでしょうか。このことについて、今日の箇所を一緒にゆっくり見ていきましょう。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が並べてある本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。イエス様の話を信じたいと思った人もいましたし、イエス様の話を聞き続けたいと思った人ももちろんいました。しかし、多くの人たちは、イエス様の話の信じがたいところは無視して、信じやすいところだけを信じました。それ故、イエス様は、だれがイエス様を信じ、誰がイエス様を信じないかをはっきりさせるために、このヨハネ6章で説教されたのです。
説教の前に、イエス様は、2万人の群衆のために奇跡的にパンを与えられました。そして、こっそりと弟子たちと一緒にガリラヤ湖の向こう岸に渡られました。群衆は、そこにイエス様も弟子たちもいないことを知ると、すぐに小舟に乗り込んで、イエス様を捜しにカペナウムに向かいました。大勢の人が「先生、いつここにおいでになったのですか?」と、どやどやと会堂に入り込んで、イエス様の話を聞こうとしました。会堂の講壇におられたイエス様は、こう説教を始められます。
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。
つまり、イエス様は群衆の熱心さや勤勉さ、熱意(ねつい)は認めてはおられましたが、その「対象」が根本的に違う事を指摘されたのです。群衆はイエス様の話に戸惑い、いろいろと文句を言い始めます。今日の聖書箇所は、その説教の続きで、群衆の文句に対する応答とも言えます。
群衆は、イエス様が素晴らしい先生であることを知っていました。その驚くべき力についても知っていました。実際に2万人もの人々に食事を与えられたのを目撃していたからです。群衆は、彼こそが「あの預言者」であると告白し、彼を王にしようとしていました。それと同時に、イエス様がご自身の言葉を神の言葉として信じることを望んでおられることや、イエス様を信じるならば復活することになる、ということも理解していました。
そのすべてを理解していながら、イエス様に従う決心をすることができませんでした。なぜでしょうか。それは、天から下った「人の子」としてイエス様を信じるというのは、彼らにとってあまりにも大きな要求だったからです。もしかしたら、私たちもその時の群衆と同じような状態にいるのかもしれません。そこで群衆は、さらなる証拠を求めます。「モーセのことを思い出してください。彼は偉大な預言者でした。天からのマナのような、もっと大きな奇跡を見せてください。」彼らは、もう少しの証拠、もう少しの奇跡、もう少しの情報があれば、信じられるようになるだろうと考えていたのです。
イエス様は、もう一度「いのちのパン」と比喩を使って、群衆がお茶を濁すような答え方をしないように、あえて、驚きを与えるような説明をされます。
48 わたしはいのちのパンです。 49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。 50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。 51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
群衆も私たちも「わたしはいのちのパンです」というイエス様の言葉は、比喩が使われているとはわかります。しかし、比喩だからこそ、イエス様は、私たちが自分たちの思うように解釈してしまうことをご存じなので、群衆がもとめていたモーセの「いのちのパン」に命がないことを、オブラートに包むことなくはっきりと言われます。むしろ、マナは、「死に至ったパン」であった事を、イエス様はほのめかしておられるのです。そして、この比較を通して、イエス様の「いのちのパン」の意味が明確になります。「天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。」いのちのパンの比喩は、文字通りの永遠のいのちを指していたのです。それだけではありません。イエス様が「天から下って来た生けるパン」であり、イエス様ご自身の「肉」が神様が与える永遠のいのちにいたるパンなのです。
群衆は、イエス様がモーセや彼らの先祖を侮辱(ぶじょく)していると感じただけでなく、人が人を食べるような生々しい比喩もあったので、彼らが望んでいたよりも難しく、狭い信仰が提示されているように感じていました。なぜなら、イエス様が提示しておられる信仰は、群衆の目の前にいる「イエス」という人物にすべてがかかっていたからなのです。ですから、群衆のフラストレーションは膨らみます。「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と言い、群衆は、ヨハネ3章のニコデモのように、ヨハネ4章のサマリアの女のように、ヨハネ6章の弟子たちのように、イエス様を馬鹿にしていました。
つまずいた群衆を見たイエス様はどうされたでしょうか。やさしく、かみ砕いた説明はされませんでした。それどころか、群衆がつまずいた点をもっと強調されたのです。火に油を注がれたのです。
「53 まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
イエス様は、ご自分を信じることを、ご自分の肉を食べることと、ご自分の血を飲むことに例えられました。人は、食べ物と思えない様なもの、信用出来ないもの、毒のように自分に害を与えるものは食べません。そして、人に何かを強制的に食べさせることもほぼ不可能です。人は、いのちを得るために、元気になるために、喜びを味わうために、信用している食べ物を食べ、飲み物を飲みます。また、食べることと飲むことは、ひとつの「行為」ですが、受け身の行為とも言えます。ある食べ物や、ある飲み物から、いのちをいただく行為です。ですから、イエス様を信じることは、イエス様を「いのちのパン」として信用し食べることなのです。
そして、最も驚くべきことは、そのあとの説明です。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。 57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。
イエス様を「食べる」あるいは「信じる」ことは、私たちがイエス様のうちに「とどまり」、イエス様が私たちのうちに「とどまる」ことです。「とどまる」という意味は、イエス様が生ける神様によって生きておられるように、私たちも生けるイエス様によって生きるということです。教会として325年から告白し続けられている二カイア信条は、イエス様と神様の関係を、こうまとめています。「唯一の主イエス・キリストを信じます、神の御子は父から生まれ、父の本質からのみ生まれたのです。神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られたのではなく生まれた者、父と同一の存在である者」と。つまり、神様の独り子であるイエス様は、神様の性質といのちをすべて、御父のみからいただいているのです。それと同じように、イエス様を信じるものは、イエス様からすべてをいただき、イエス様の永遠のいのちをそのままいただくことができるということです。イエス様を「天から下ってきたパン」として食べるなら、イエス様のように、御父のように、永遠にいきることができるということです。
21世紀の日本に住んでいる人として、そう聞くと「うーん。難しい」と思ってしまうかもしれませんが、1世紀のユダヤ人にとってはもっとつまずきになったたと思います。まず、旧約聖書の儀式律法を守るユダヤ人は、血のまじった肉を食べることによって神の民から断ち切られます(レビ17:10-14)。ですから、「イエス様の肉を食べる」「イエス様の血を飲む」は、耳障りの悪い表現です。そして、目の前に立っているユダヤ人が「神の子」であり、その人を信じることによって永遠のいのちが与えられることは、一神教のユダヤ人にとって、自分たちの世界観の土台を覆すような信仰なのです。
ですから、これを聞いて、「イエス様の弟子」と呼べるような群衆のうちの多くの者はこう言いました。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」 それを聞いたイエス様は、「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。」とおっしゃいます。「つまずかせる」を指す原語は、「憤慨させる」という意味もあるのです。この言葉は、パウロが1コリント1:23でつかった同じ言葉です。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことです。」
イエス様の「いのちのパン」の説教が、群衆の表面的な信仰を揺るがせ、多くの弟子たちを憤慨させ、イエス様から背かせました。弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエス様とともに歩もうとはしなくなったのです。しかし、これが群衆を憤慨させることは、イエス様の予想通りでした。
「63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。 64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」
ヨハネ3章で、イエス様はニコデモに似たようなことをおっしゃいました。
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
要するに、『父が与えてくださらないかぎり、だれも【イエス様】のもとにこない』(6:65)ということなのです。
大勢の人たちが離れ去ったので、イエス様は12人の弟子に質問されます。「あなたがたも離れて行きたいのですか」これは、イエス様が弟子たちが信仰を捨てることを心配されたからではありません。彼らに、自分たちの信仰をことばにする機会をお与えになったのです。リーダーであるペテロがこう答えます。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」
興味深い回答ですよね。「あなたは私のいのちのパンです。天から下ってきたパンを食べまくります!」のようなペテロらしい回答ではありません。群衆と同じぐらい戸惑ったと思います。躊躇している答えです。「私たちはだれのところに行けるでしょうか。」消去法の回答でもありますよね。しかし、一番大事な点、イエス様が最も望まれている点を、ペテロはしっかりとつかんでいます。イエス様のお言葉が「永遠のいのちのことば」であり、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」イエス様の説教の目的は、12人の弟子たちからこの信仰告白を引き出す事だったのかもしれません。
しかし、この信仰告白は、弟子たちの信仰からのものではありませんでした。最後にイエス様はもう一度信仰の源はどこにあるかを教えられます。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」そして、そのあとに、12人の弟子の中でも、まだ、真の信仰をもっていないことを注意されます。
「しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。
これが福音書に記されている最も長いイエス様の説教の結論です。全部理解できなくても、三つの事を、皆さんに覚えていただきたいです。
①イエス様のことを「いのちのパン」だと認めるだけでは十分ではありません。実際に、イエス様を「食べる」必要があるのです。
皆さん、6章を読んで気づかれたでしょうか?「いのちのパン」のイエス様の説教は、伝道メッセージではなく、イエス様の下に集まってきた弟子たちへの警鐘(けいしょう)なのです。現代に言い換えると、毎週、イエス様の礼拝に通うクリスチャンの目を覚ませたいのです。ですから、皆さん、聞いてください。イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。「あなたがたは、毎週ここに、何を食べに来るのですか?」と。今日のイエス様の説教は、すべての人を説得するためではなく、まず、信仰のない人たちに自分の霊的状態を認めさせるためにあったのです。
イエス様を、神様と認めているかもしれません。イエス様があなたの罪の赦しのために十字架にかかり、あなたに永遠のいのちを与えるために蘇ってくださったことも知っているかもしれません。イエス様の弟子として、教会に来て礼拝し、御言葉を読んで、神様を自分の唯一の喜びとする、それも知っているかもしれません。「私は、そこまでイエス様を拒否していない。イエス様が、『いのちのパン』であると認めている。」と思っているかもしれません。しかし、イエス様を見て、「いのちのパンだ。おいしそうだね」と言いながら、いのちのない、すぐなくなってしまうパンを求め、食べ続けることもできます。もし、2万人の弟子たちの中にそのような人がいたとすれば、12人の弟子にそのような人がいたとすれば、この会衆の中にもそのような人がいる可能性はゼロではありません。
ですから、もう一度お聞きします。私たちは、毎週ここへ、何を食べに来るのでしょうか?私たちがイエス様以外のものを食べに来たのであれば、私たちは永遠のいのちをもっていません。「本当に『いのちのパン』を食べる気で来ているのですか。」と、イエス様は私たちに問いかけておられるのです。もし、イエス様を信じていない事に気づいたのであれば、ニコデモのように、悔い改めてイエス様を信じてみるのはどうでしょうか。
②もし、イエス様の言葉が永遠のいのちであると信じるなら、あなたは自分がどれほど愛されているか、知っているでしょうか。
「お腹がぺこぺこで、のどがカラカラで、イエス様を食べ、イエス様を飲みに来ました!」とはっきりと、確信をもって、言う方がおられるかもしれません。それは感謝ですし、それは立派な信仰です。しかし、そこまで言えない方も多いと思います。ペテロのように、「うーん、そこまで言える信仰はないかもしれない。だけど、他にいくところもないし、イエス様にしか永遠のいのちのことばはないと思うから、ここに残ります。」という方もいらっしゃると思います。むしろ、ペテロのような信仰告白が大半だと思います。
しかし、忘れてはいけません。大勢の人たちがイエス様のことばを聞いて躓いてしまう中で「イエス様のことばは永遠のいのちを持っている」と思えることは、神様が天地を無から創造されたことよりも、はるかに偉大な奇跡なのです。もっと言うと、自分がイエス様を信じれられることは、どれほど三位一体の神様に愛されているかの証拠なのです(エペソ1:4-5; ヨハネ15:16参照)。ですから、自分に確信があるかどうかに不安を持つよりも、自分に信仰が与えられていることに驚くべきなのです。御父が自分をイエス様に導かれ、聖霊様が自分の中に信仰を生み出され、イエス様が私を選ばれ、三位一体の神様が私を特別に愛してくださっていることに感動していますか?
③もし、私たちがイエス様を「食べる」ことができるなら、それは、あなたに永遠の命を与えるためにイエス様の肉が裂かれ、血が流されたからなのです。
イエス様が「わたしはいのちのパンです」とおっしゃったときに、イエス様は、抽象的で霊的な「いのち」について指しておられませんでした。イエス様は、私たちが永遠の死を味わわないこと、そして、文字通りの永遠のいのちである蘇り、神様の独り子として御父からいただいた同じ永遠のいのちをいただく、とおっしゃっていました。同じように、私たちは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」と言う御言葉を抽象的、霊的に解釈してはなりません。イエス様が文字通りの「復活」を約束されたように、文字通りに、私たちのために、ご自分の肉を裂き、ご自分の血を流されることを約束して下さったのです。
そして、文字通りに、イエス様は十字架の上でご自分のいのちを捧げられ、聖晩餐でその意味を説明されました。
それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。」(ルカ22:19)
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイ26:27-28)
私たちがイエス様を「食べる」「信じる」という行為は、100%私たちが受け身で、全てはイエス様ご自身が用意してくださるという意味です。信仰によってイエス様を食べ、イエス様の永遠のいのちのことばに留まり、感謝しつつ、今週も歩んでいきましょう。お祈りします。