2025年10月5日礼拝 説教 「主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌158番「子羊をばほめたたえよ」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌319番「主イエスのみ声は罪ある者を」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          出エジプト20:12; エペソ6:1-9

聖書の話       「主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」 

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

   Doxology  教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。第五戒は何でしたか?「父と母を敬いなさい」ですね。何年か前に私はある動画を見つけました。それは、ある会社の偉い人が、仕事を探している若い人たちを面接する動画です。そして、面接官はこう言います。「今日は、最高執行役員のポジションのための面接です。この仕事は、立ち仕事で、常に腰をかがめ、様々なものを拾い集めなければなりません。かなりの体力が必要です。勤務時間は1日19時間です。食事は部下が食べ終わった後に取ることができ、部下が帰るまで仕事は終わりません。休憩はありません、週7日出勤。有給もありません。年末年始やお盆休みも残業があり、むしろ仕事が増えます。あと、月給は0円です。ボーナスも0円です。いかがでしょうか?」すると、仕事を探していた人たちは、「そんな仕事、あるはずがない!違法だ!こんな仕事をしなければならない人はかわいそうだ!」と反発します。その瞬間、面接官はこう言うのです。「いいえ、これは世界で何億人もの人がしている仕事です。それは『母親』という仕事です!」すると、仕事を探していた人たちは、苦笑いしながらも、母親たちの苦労に感謝して涙を流す人もいました。子どもたち、私たちが父と母を敬うべきなのは、親が見えないところで、私たちのために大きな犠牲を払っているからです。

しかし、親以上に、大きな犠牲を払う「かわいそう」な仕事があります。それは、私たちのような罪人の神様になることです。神様はこの世界をつくられ、私たちのお世話をされ、私たちのわがままを忍耐され、私たちを救うために、ご自分の息子を犠牲にされたのです。そして、神様の報酬はいくらでしょうか?0円です。しかし、神様はご自分のことを「かわいそう」とは思っていません。むしろ、喜んで私たちを愛されたのです。神様が私たちの最高の父親なのです。ですから私たちも地上の父と母に感謝しつつ、天のお父様に感謝しましょう。これについて、ゆっくり考えたいと思います。

十戒を通して、私たちは十戒の三つの読み方を学んできました。十戒は、創造主の御心の地図であり、主の御国の試金石であり、救い主への矢印です。この三つの視点に沿って、今回は第五戒を見ていきたいと思います。もし、第五戒が「御心の地図」であるなら、それは私たちに何を教えているのでしょうか?それは、「上の人として、犠牲を払って下の者を愛し、下の者として、感謝をもって上の人を愛する」ということです。この戒めには、三つの基本的な要素があります。

 

まず、一つ目の基本的要素は、すべての上下関係が親子関係の愛に基づいているということです。お気づきになった方もおられるかも知れませんが、「父と母を敬いなさい」という戒めですが、「上の人」と「下の人」と広く解釈しています。ウェストミンスター大教理問答を書いた人は、聖書を総合的に読んで、こう結論付けました。「第五戒の父や母とは、本来の意味の両親ばかりでなく…神の定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指している」と。そして、親として、先輩として、教師として、上司として、店長として、首相として、すべての上に立つ者は、親と同じように、責任をもって、自分が導く人々を寛容と忍耐をもって愛さなければならない。 そして、その前提があるからこそ、子供として、後輩として、学生として、部下として、国民として、すべての下にある者は、子供と同じように、謙虚さと忠実さをもって、上の人を愛さなければならない。そのように、教えています。 先ほど読んだエペソ6:1-9の箇所を読むと、新約聖書でも、第五戒をそのように解釈していることが分かります。

私がこの説明をしたとき、非常に難しい家庭に育ったある人から、こう尋ねられたことがあります。「その根拠はどこにあるのですか?」皆さんの中にも、ご自分の家庭に思いを巡らしながら、同じような疑問を抱かれた方がおられるかも知れません。これは本当に素晴らしい質問です。自然の世界に於いても、人間の歴史、社会の伝統、文化の慣習に於いても、このようにお互いを愛する為の絶対的な根拠はありません。常に浮き沈む人間の感情や、常に変化する損得勘定では、第五戒のような変わらない原則の根拠にはなり得ません。私は、親子関係の根拠が三位一体の上下関係に基づいていることを、その方の質問によって初めて気付かされました。御父は、御子の「手にすべてをお与えになった」(ヨハネ3:35)ほど、御子を惜しみなく愛され、御子は「父が命じられたとおりに」すべてを行われた御父を愛され、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:8)のです。私たちがすべての人を愛する根拠は、御父と御子の愛に満ちた関係に於いてのみしかないという事なのです。

 

第五戒の二つ目の基本的要素は、「親」の責任は、子供を犠牲を持って養い、信仰の模範となる事です。神様が親に子供たちを導く権威をお与えになった理由は、二つあります。第一に、親は「子供を養う存在」です。子供たちは自立するまで誰かに頼り、多くのことを学ぶ必要があります。ですから、親は子供を養う必要があります。しかし、その意味は、必要な食事、服、お金を提供するだけではなく、必要な知識や知恵、価値観などを教えること、精神的な支えとして愛を注ぐこと、時間をかけて信頼関係を築くこと、よく子供の話を聞いて理解し、適切なアドバイスを与えることなど、いろいろあります。これらを提供しないことは、子供たちの成長の妨げになってしまいます。ですから、パウロは親たちにこう促します。「父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。」

そして、親は、第一の責任を果たすことによって、自然に「子供の模範」となるのです。これが親の二つ目の責任です。良くも悪くも、子供たちは、私たちからすべての事を見習います。私たちの話し方やしぐさ。私たちのお金や時間の使い方。私たちの習慣や価値観。私たちの希望や、私たちが最も望んでいること。ですから、使徒パウロは、クリスチャンの親にこう促します。「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:4)クリスチャンの親として、私たちの子供たちに提供できる最高の「宝」は、私たちのクリスチャンとしての愛と信仰と希望の模範なのです(1テモテ4:12; ピリピ3:17; テトス2:7-8)。

親は、この二つの責任を果たすために、想像を絶する程の大きな犠牲を払わなければなりません。母親たちは、命懸けで子供を産み、文字通り、自分の命を削って、乳児に母乳を通して栄養を与えます。親たちは、自分の時間や体力を削って、子供たちが生きるために必要なことを提供します。そして、子供たちが過ちを犯すとき、親は、全力で自分の負の感情を抑えつつ、責任を取って子供たちの過ちを背負い、前に進む道を子供たちのために作ります。

しかし、残念ながら、その犠牲を払いたくないとき、親たちは、神様からいただいた権威を悪用し、親の責任をないがしろにすることがあります。極端な例としては、身体的・精神的・性的虐待やネグレクトなどがあります。身近な例としては、子供たちを過度に責めたり、過度に甘やかしたり、必要な助けを与えなかったり、御言葉を教えなかったり、子供たちに悔い改めの模範を示さなかったりすることなどです。これらはすべて、親としての、第五戒の違反だと言えますし、上司やリーダーとしての罪を表していると思います。ですから、パウロはこう言います。

9 主人たちよ。…脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。

神様が私たちに惜しみなく必要なものを与え、上に立つすべての者たちを養い、良い模範を示してくださったのです。それゆえに、御父が私たちを愛されたように、私たちもすべてを尽くして、行動と言葉と態度をもって、謙遜に「下の者」を愛する義務があります。

 

第五戒の三つ目の要素は、「子供」の責任は、耐え忍びながら「親」を敬い、喜んで従うということです。

もし「親」が子供たちのために膨大な犠牲を払うという前提であれば、子供たちには二つの責任があります。まずは、親を「敬う」ことです。敬うことは、行動だけでなく、態度に於いてもです。もし親が惜しみなく自分たちのいのちを削って、子供たちを養ってくれているなら、親に感謝を示すことは、子供達がすべき第一のことであり、その適切な表し方は、親を「敬う」ことです。

 

しかし、多くの場合、「親」を敬うことは、非常に難しいときがあります。ですから、このような事を聞くと、私も含め「え~嫌だなー」と思ってしまうこともあります。そんな時は、このように考えてみてはどうでしょうか。「感謝」を示すことは、お金や時間、体力、プライドなど、何かを犠牲にして感謝を示すことであり、苦しみを耐え忍ぶことは、感謝に付き物だという事です。なぜかというと、自分のために大きな犠牲を払ってくださった方に、また犠牲をもって感謝することは、相手の犠牲を認め、感謝することになるからです。大教理問答は、親を敬うことの一部は、「彼らのさまざまな地位と立場の性質に応じた、その人物と権威に対する忠信と弁護と支持、彼らの弱さを忍び、愛をもってそれを包み、彼らにもその支配にも名誉となるようにすることである」と書いてあります。それを実現するには、ものすごい犠牲を払う必要もありますが、親が払って来てくれた犠牲には到底値しないことははっきりと言えます。

そして、「敬う」「感謝する」気持ちを最も明らかに表す行為は、親に聞き従うことです(参照:箴言1:8、23:22)。もし親が子供たちを養い、模範となるために一生懸命働いているのであれば、それを助けるために、子供たちは従うべきなのです。そして、エペソ6:1-3を読むと、一生懸命に子供たちを養う親に従うなら、祝福につながると聖書が約束するのです。

しかし、皆さんもご存じのように、すべての親、教師、上司、政治家は聖人ではありません。それどころか、模範になることもなく、責任をないがしろにしている人が多いかも知れません。その現実の中で、パウロは常に不義を受けていた1世紀の奴隷たちにこう促しました。

「奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。」(エペソ6:5-8)

「主にあって」親に従うとは、天におられる私たちの父がすべてを整えてくださることを信じ、私たちの上に置いてくださった親、教師、上司、政治家、主人を、うわべだけでなく、御父に仕えるように、喜んで仕えることです。

ある人は疑問を持つかもしれません。「え!目上の人がたくさんの過ちを犯しても、従う必要があるの?!ロボットみたいに、何も言わずに、間違った指示に従えっていうこと?」これは、聖書の考えではありません。ポンテオ・ピラトやユダヤ人の長老たちがイエス様を処刑する際の判断に対して、イエス様は何のためらいもなく従われましたが、イエス様は、彼らの判断が間違っていることをはっきりと述べられました。しかし、イエス様は相手がどれ程、無知であっても、弱くても、罪深くても「喜んで従う」姿勢を取られ、裁判官を愛されたのです。「相手に従うこと」は「相手を愛する」ことなのです。

 

第五戒の意味を理解した上で、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし、第五戒が「主の試金石」であるならば、それは私たちに何を教えているのでしょうか?それは、「親を敬わないことは、親の犠牲を認めず、親が捧げたいのちをないがしろにする」ということです。

妻があるコラムから一つの記事を見つけて、私に教えてくれました。題は『努力は実を結ばないのね』です。ちょっとお読みしますね。

虫歯で苦労しないよう仕上げ磨きを欠かさなかったのに、今じゃ歯磨きしない男に。毎晩本を読み聞かせていたのに、今じゃケータイ以外の活字は読まない男に。保育園や学校の給食票を冷蔵庫に貼り、献立が重ならないよう手作りしていたのに、今じゃカップ麺大好き男に。環境のため親子でエコ活動をしていたのに、今じゃ一面ごみ部屋で暮らす男に。少子化バンザイ。こんな理不尽な母親になれなんて、未来ある人に絶対言えない。徒労感いっぱいで、私は卒親する気満々だ。ただ、あふれる愛で、大切な存在を守ることに必死だった日々。幻でも、ひと時それがあったことに感謝している。卒親にあたって息子らに一言。『努力が全く実を結ばない世界があるってこと、教えてくれてありがとう。』」(西東京市、疲れた母、55歳)

子供が5人いる私と妻は、これを読んだ時に、爆笑してしまいました。私たちは、この疲れた母親が自分の子供を憎んでいるのではなく、ただ面白おかしく、皮肉った感じで、愛情を表現していると捉えました。しかし、母親の愛情の裏には、深い嘆きもありますし、すべての親が抱えている深い痛み、喪失感、虚しさを明文化したようなものです。

聖書の中で、親を敬わないことは重罪として捉えられていて、「自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。…自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:15, 17)と書いてあります。旧約聖書が特別に厳しいと思ってはいけません。ローマ人への手紙1章29-32節を読むと、親に逆らうことは、「殺意」や「神を憎むこと」と同じリストに入っており、「親に逆らう」ことは死に値するものだと、新約聖書にもはっきり書いてあります。

親が自分たちのいのちそのものを子供たちの為に犠牲にしたにもかかわらず、子供たちが敬わないことは、親のいのちを呪っているようなことなのです。親の犠牲が膨大なものであるからこそ、子供に対する罰も大きいのです。親のいのちには、子供のいのちを、という原則です。そのため、旧約聖書はこう命じます。

「ある人に強情で逆らう子がいて、父の言うことも母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても聞こうとしない場合、その父と母はその子を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへ連れ出し、町の長老たちに、『私たちのこの息子は強情で逆らいます。私たちの言うことに聞き従いません。放蕩で大酒飲みです』と言いなさい。町の人はみな彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」(申命記21:18-21)

また、旧約聖書では、神様が、ご自身を信じる民を「子」または「息子」として呼ばれることが度々あります(出エジプト4:22-23; 申命記8:5, 14:1a)。その中でも一番分かりやすい箇所は、ホセア書11章1節です。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。」神様は、「イスラエル」という神の民をご自分の子のように愛し、恵みを惜しみなく注ぎ続けられたのです。

しかし、先ほど私が読んだ疲れた母親の気持ちは、実は、神の民である私たちに対する父なる神様のお気持ちとも言えます。親としての神様のフラストレーションは、数え切れないほど多くの箇所で見られますが、イザヤ書1章2-4節もその一つの例です。

天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。

そして、旧約聖書の最後の書物であるマラキ書1:6では、神が何度も放蕩息子である神の民を注意された後に、神の民の態度を反抗期の高校生のように描いています。

子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。

私たちが神の民であったとしても、ご自分の子供のように愛されたとしても、もし私たちが御父に懲らしめられても聞こうとしない、強情に逆らう「放蕩息子」であれば、申命記21章に書いてあるように、私たちは「神の子」には値しません。むしろ、私たちは、退けられなければならない「悪を行った罪人」なのです。

しかし、自分の罪を自覚し始めると、十戒は「救い主への矢印」へと変わります。第五戒は、イエス様が、私たちの代わりに、神が喜ばれる神の子として歩まれ、呪われた放蕩息子として罰せられたことを教えてくださいます

イエス様は、神としての神の子であるだけでなく、人となってユダヤ人となられました。イエス様は、ホセア書11章でエジプトから呼び出された「神の子」そのものであり、神の御心を完全に満たしておられたのです。イエス様は神の子として、長子の権利を持っておられただけでなく、神様に「わたしの愛する子、わたしの心にかなう者」(マタイ3:17; 4:17)として呼ばれ、父に喜ばれた唯一の息子でした。そして、イエス様は父の御心に逆らうことなく、言葉と行いと態度を通して御父を喜びをもって敬い、十字架の死を耐え忍ぶまで従い、父に栄光をもたらされました。

しかし、なぜイエス様は木の上で死ななければならなかったのでしょうか?それは、先ほどの申命記21章に答えが書いてあります。強情に逆らう者は、悪者として、処刑され、神の民として除外されるべきだとかいてあり、そのあとにこのような説明があります。「ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」イエス様が十字架にかけられた理由は、イエス様が、「神様に強情に逆らった」私たちの罰を受けて下さり、「神に呪われた放蕩息子」として死なれたからです。

私たちの人生は、親や目上の人を敬うことにおいて、常に第五戒の試金石にさらされ、罪を犯してきました。私たちは、親の愛と犠牲をないがしろにし、神様の愛と恵みを侮ってきました。私たちは皆、神様から退けられるべき「悪者」でした。しかし、イエス様が私たちのために、この罰をすべて引き受けてくださいました。

そして、感謝なことに、今、イエス様を信じる私たちは、もはや呪われた反抗する放蕩息子ではなく、イエス様の特権と完璧な歩みを通して、神様が喜んでくださる「神の子」として受け入れられました。私たちはこの恵みのゆえに、御父に愛された御子イエス様がそうされたように、喜んで神の御心に従い、地上での親や目上の人を敬い、愛することができるのです。御父と御子の愛に感謝しつつ、お祈りしましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church