2025年10月19日礼拝 説教 「人を非常に恐れたため」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship  

ペテロの手紙第一2章9-10節

さ ん び Opening Praise 主イエス神の愛
さ ん び Praise
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第5戒)コロサイ人への手紙3章20節-4章1節
黙とう Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ペテロの手紙第一2章22-24節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌355番「私の望みは」
転入式 membership transfer ceremony
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書7章1-18節
聖書の話 Sermon 「人を非常に恐れたため」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
主の献金の招き Lord’s Call to Give マラキ書3章8-10節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章3-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。もしお父さんやお母さん、あるいは誰かに悪いことをしたのが見つかったとき、みなさんはどうしますか?例えば、私が小学5年生のとき、ボールで遊んでいて、高価なランプを割ってしまったことがあります。母に聞かれたとき、私は「僕じゃないよ。弟がやったんだ」と嘘をつきました。もしかしたら、嘘をついてしまう人は多いかもしれませんね。中には、逆に怒ってしまう人もいるでしょう。「リビングに高価なランプを置く方が悪い!」と言ったり、あるいは大げさに謝ったり悲しんだりする人もいるかもしれません。「どうしていつも私だけ責めるの!」と泣いたりする人もいるでしょう。皆さんなら、どうしますか?

さて、考えてみましょう。私たちはなぜ、自分がした悪いことをなかなか認められないのでしょうか?それは、悪いことをしたと知られたら、みんなに嫌われてしまうのではないかと恐れているからです。今日の聖書の箇所では、イエス様がある人たちの罪を明らかにします。すると、その人たちは怖くなって、イエス様に怒り、ついには殺そうとまでしてしまうのです。しかし、イエス様が私たちの罪を明らかにするのは、決して私たちを責めたり嫌ったりするためではありません。私たちを愛し、救うためなのです。今日は、そのことについて、聖書の言葉から一緒に見ていきましょう。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景からくるいくつかの証人の証言が並べてある本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人は、イエス様に驚くことです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

先月、私たちは新約聖書の中でイエス様の最も長い説教を見ました。イエス様は、2万人の群衆のために奇跡的にパンを与えられました。それによって、多くの人たちがイエス様を強引に王にさせようと思ったのです。しかし、イエス様はすぐに察したのです。彼らが自分たちの願望と欲を満たすために、イエス様を信じようとしていることを。ヨハネ6章の説教の目的は、本当の信仰とは何なのか、誰が信仰を持っているのか、をはっきりさせることでした。イエス様の説教の本質がまとめられている1か所を読みます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(6:53-54)

表面的な信仰と本当の信仰の定義は、シンプルです。イエス様のことばには永遠のいのちがあると信じ、イエス様のことばをパンのように、また、飲み物のようにいただくことなのです。そして、それは逆説的に言うと、今まで「食べていた物」や、「飲んでいた物」には命がなく、死に至らしめる物であるという事です。

 

本日の箇所は、イエス様の説教の後のイスラエル人の反応を描写している箇所です。今日の箇所の7章は、イエス様が説教されたときから、約6カ月たっていました。最初の1節は、本日のメインポイントかもしれません。

その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。

普通の人は、朝起きて、「今日は誰かを殺したいなー」とは思いません。よっぽどのことがない限り、誰かを殺そうとはしません。ものすごく大事なものを奪われたり、奪われそうな場合には、殺意を抱くかも知れません。例えば、自分の子どのいのちが狙われているとき。恥をかかされたとき。自分の国や故郷が攻撃されそうなとき。ヨハネの福音書を読んでいくと、ユダヤ人にとって、イエス様の教えは、彼らが大事にしている神様の教えを破り、神様の存在を冒涜しているように思われたのです。ヨハネ5:38にそう書いてあります。しかし、考えてみてください。ユダヤ人の中にも、安息日を破った人がいたと思います。また、偶像崇拝をする人、神様を冒涜した人もいました。普通は、それだけなら、そこまでの殺意は抱かないと思います。

 

ユダヤ人たちが抱いた殺意の根本的な理由を、イエス様は二つの角度から見ておられました。一つは、イエス様がユダヤ人たちの悪い行いを露わにされる事によって、彼らがイエス様の光に脅されたからです。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」(3:19-20)もう一つは、ユダヤ人たちが「唯一の神からの栄誉を求めず」に、お互いから人間的な栄光を求めていたからです(ヨハネ5:43-44)。イエス様がユダヤ人たちの罪を明らかにすることによって、彼らが大事にしていた「面子」「名誉」「人に認められる」ことなどが脅されました。その為、自分たちのプライドを守るために、イエス様のいのちを狙ったのです。私たちも同じかもしれません。私たちが弱さを感じる時、私たちが恥をかかされたとき、私たちが人に認められなかったとき、人に対して怒りを覚えるかもしれません。そして、イエス様のことばを素直に聞く事ができない理由は、おそらく、その教え自体にではなく、自分のプライドが傷つくからかもしれません。

2節に「仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた」と書いてあります。この祭りは、神様が40年も荒野でさまよっている神の民を支えつづけ、約束の地まで導いてくださったことを思い出し、究極の約束の地を待ち望む祭りです。ユダヤ人は首都エルサレムに戻り、荒野で使っていたテントのような仮庵を立てて、一週間過ごす祭りですが、1世紀のユダヤ人の歴史家(ヨセフス)によると、仮庵の祭りは、当時一番人気があったようです。

その文脈の中で、イエス様の兄弟たちはこう言います。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを望みながら、隠れて物事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」一部の聖書注解者の中には、兄弟たちのこの言葉を、6章の説教で多くの弟子を失ったイエス様を励ますためのポジティブな助言、つまり「弟子を増やすために上京し、教師として頑張ってきなさい!」というように捉える人もいます。しかし、ヨハネ7:5を読むと、そのような解釈は難しいです。5節の原語(ギリシャ語)では、「ユダヤに行きなさい」と言った理由は、兄弟たちがイエス様に真っ向から敵対していたからだと、はっきりと書かれています。ですから、3節と4節の兄弟たちの発言は、イエス様を皮肉っぽく非難していると捉えるべきです。

他の福音書でも、イエス様の家族がイエス様の働きを応援するどころか、むしろ否定していたことがわかります。マルコ3:20には、イエス様と弟子たちがガリラヤにいたとき、多くの群衆が集まってきて、「彼らは食事をする暇もなかった」と記されています。この状況を知ったイエス様の家族は、「イエスはおかしくなった」と言って、強引に家に連れ戻そうとしました(マルコ3:21)。つまり、イエス様の家族は、その働きを迷惑だと感じていたのです。クリスチャンになった皆さんの中にも、家族からそのように思われた経験があるかもしれません。

この文脈を考慮すると、イエス様の兄弟たちはイエス様をガリラヤから追い出そうとしていました。彼らはこう言いたかったのかもしれません。「そんなに目立ちたいのなら、田舎のガリラヤで弟子を集めるよりも、首都エルサレムへ行って、奇跡を見たがっている弟子たちに見せたらどうだ? 預言者として、首都にいる先生たちに認められる必要があるだろう? いや、むしろ、全世界にお前の素晴らしい業をみせびらかす方がいいんじゃないか。」兄弟たちは、イエス様がなぜユダヤへ行かないのか、その理由を知っていたはずです。ヨハネ7:1にある通り、ユダヤ地方にはイエス様を殺そうとするユダヤ人がいたからです。ですから、兄弟たちは、イエス様がエルサレムに行って、首都の権威ある教師たちに正され、大勢のユダヤ人の前で恥をかき、必要であれば罰せられることを期待していたのです。彼らはイエス様を皮肉たっぷりに挑発していたのであり、事実上の「敵」だったと言えます。

この攻撃的で皮肉な挑発に対し、イエス様はどのように答えられたのでしょうか。「わたしの時はまだ来ていません。」この一文には、深い意味が込められています。「わたしの時はまだ来ていません」という言葉は、こう解釈できます。「その通りだ。私がエルサレムへ行けば、あなた方が期待しているように、偉い教師たちに正され、多くの人々の前で恥をかかされて、罰せられるだろう。そのような『時』が来る。しかし、神様がその『時』はまだ来ていないとおっしゃっているので、私は行かないのだ。」つまり、イエス様は、ユダヤ人がご自身を十字架につけることをご存知でしたが、それは、ご自身のタイミングでも、兄弟たちのタイミングでも、エルサレムの教師たちのタイミングでもなく、神様のタイミングで行動することを宣言されたのです。

そして、イエス様は兄弟たちの皮肉な挑発に、さらに皮肉な言葉で応えられます。「しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」これは、「あなた方は、いつでも動く準備ができている。なぜなら、神様のタイミングよりも、自分たちのタイミングでいつも行動しているからだ。」と反論されているのです。

 

イエス様はさらに続けます。

世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。(ヨハネ7:7-8)

イエス様は、ご自身と「世」が敵対関係にあることをはっきりと述べられます。なぜなら、イエス様は「世」の行いが悪であることを証しされているからです。そして、こうおっしゃいます。「あなた方がこの世に憎まれない理由は、この世の悪を証ししていない、そもそも賛同しているからでしょう? もし、そうなら、どうぞエルサレムへ上って、この世と共に祭りを楽しみなさい。」つまり、ご自身の兄弟たちがイエス様の味方ではなく、「世」を選んでいることを示唆されているのです。その結果、兄弟たちはエルサレムへ上り、イエス様は別行動を取られました。これは、イエス様と兄弟たちが根本的に異なる「側」に立っていることを物語っています。

それでも、イエス様はエルサレムへ向かわれました。イエス様は「この祭りに上ってはいきません」と言われましたが、それはどういう意味でしょうか。著者のヨハネは、イエス様が「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」と記しています。そして、7:1にあるように「ユダヤ人たちは祭りの場で、『あの人はどこにいるのか』と言って、イエスを捜していた」のですが、見当たらなかったのです。このことから、イエス様が「上っていかない」と言われたのは、最初から祭りの行事に参加しないという意味だと考えられます(7:14)。

ユダヤ人たちが、どのような理由でイエス様を捜していたかは定かではありませんが、イエス様が世の期待に応えようとされなかったことは明らかです。この聖書箇所には、群衆の様々な思いが記されています。

「群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは『良い人だ』と言い、別の人たちは『違う。群衆を惑わしているのだ』と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者は誰もいなかった。」(ヨハネ7:12-13)

このように、群衆の中には多様な意見がありました。しかし、様々な考えがある中で、一つ共通していたことがあります。それは、皆が「小声」で話していて、イエス様について「公然と」語る者は誰もいなかったということです。人々は、人の目を非常に恐れていたのです。

 

しかし、イエス様はどうだったでしょうか。祭りがすでに半ばになった頃、イエス様は祭りの中心である宮に上り、自分のいのちが狙われているのにもかかわらず、人の目を気にすることなく教え始められました。ユダヤ人たちは驚いて「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」と言いました。彼らはイエス様の教えの内容そのものよりも、人が気にしがちな「経歴」に注目していたのです。それゆえ、イエス様はこうおっしゃいました。

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。誰でも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:16-18)

要するに、イエス様は人に認められるためや、ご自身の名誉のために教えているのではないということです。イエス様は、ご自身を遣わされた神様の御心を行おうとされ、神様の御言葉だけを語り、その栄誉だけを求めておられるのです。この箇所は、イエス様の生き方が、ユダヤの群衆の生き方とは正反対であり、むしろ、敵対していることが明確になっています。そして、イエス様が証しされている神の民の「悪い行い」とは、神様の御心を行うよりも、常に人の目を非常に恐れて行動することなのです。

来週の説教で、どのように展開していくか見たいと思いますが、今日はこの箇所から三つ覚えていただきたいことがあります。

① この世はイエス様を公に認める人々を脅威に感じます。

イエス様が最も望まれているのは、私たちクリスチャンが公然と、大胆に、イエス様を信じることを公にすることです。婚約者同士に例えると、同じかもしれません。もしあなたがみんなの前で、自分の婚約者に「私はこの素敵な方と結婚するんです!」と言われたら、嬉しく思うと思います。イエス様も同じです。

しかし、今日の箇所で学んだように、この世はイエス様の存在を脅威に感じるのです。その上、この世は、イエス様を公に認める人々にも脅威に感じます。ヨハネ15:18-20で、イエス様はこう説明されます。

18  世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。 19  もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。 20  しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。

それは、イエス様がー私たちも含めーすべての人を「罪人」と呼ばれ、すべての人の悪い行いを露わにするお方だからです。ですから、私たちが公に自分の信仰を告白するとき、私たちもイエス様と同じように、自分の民、自分の故郷の人、自分の家族に憎まれるのは自然なことです。なぜなら、すべての人は罪人であると、私たちは信じていています。そして、周りの人はそれを脅威に感じるのです。

しかし、なぜ憎まれるかをも覚えていただきたいです。② イエス様に脅威を感じる人々は、拒絶されることを恐れています。

この世がイエス様を脅威に感じる理由は、イエス様によって、自分たちの悪が露わにされるとき、人に拒絶される恐れや、神様に拒絶される恐れを根深く感じるからです。これは「恥」の定義とも言えます。「恥」は罰を恐れることから来るのではなく、誰かに拒絶されることを恐れることから来ます。私たちは日々、人に嫌われないように、自分たちの弱さ、欠点、嫌なところ、罪を、服装と化粧で、学歴と経歴で、お金やステータスで、見栄えと表面的な喜びで、隠そうとします。

しかし、私たちがイエス様に出会うとき、イエス様は、私たちの罪深い状態をおおい隠しているものを一つ一つはがされます。私たちは、それが怖くて怖くてしょうがないのです。自分の罪深い、ありのままの状態を露わにされるのが恥ずかしく、周りの人に拒絶されるかもしれない、神様に拒絶されるかもしれないと思い、「死んだ方がマシだ」と結論付けます。そして、私たちは全力でイエス様の存在と教えを阻止しようとします。本日の聖書箇所では、いくつかの阻止の仕方を見ました。ユダヤ人は、イエス様を殺そうとしました。イエス様の家族は、ガリラヤからイエス様を追い出そうとしました。「イエス様は良い人だ」と思ってはいましたが、人の目を恐れたユダヤ人は、単にイエス様を信じることをあきらめました。多くの場合、イエス様を信じない理由は、神学的な理由ではないと思います。自分の罪深さが露わにされ、誰かに拒絶されるのが怖いだけだと思います。

しかし、イエス様が「悪」を露わにされた理由を思い出していただきたいです。これが最後のポイントです。③ イエス様が十字架の屈辱を受けた理由は、罪人が神様に永遠に愛されるためです。

 

先ほど、説明しましたように、イエス様はエルサレムへ戻り、自分のことと神様の教えを公に宣べ伝える神様の『時』を待っておられたのです。それがヨハネの福音書のクライマックスなのです。「時が満ちた」その時、イエス様は密かにではなく、堂々とエルサレムへと入られました。ユダヤ人たちはイエス様をメシヤとして迎えましたが、イエス様には、その先に何が待ち受けているか、すべて見えていました。 過ぎ越しの祭りのさなかに、イエス様は家族よりも信頼していた弟子に裏切られ、ユダヤ人たちに逮捕され、エルサレムの偉い先生たちに冒涜罪と決めつけられました。 大群衆の前で辱められ、異邦人によって十字架につけられ、ついには、神様の永遠の裁きをその身に受けられたのです。これほどの拒絶と苦しみを知っていながら、なぜイエス様は恐れなかったのでしょうか?

その答えは、ヨハネ17:16-18にあります。今日のイエス様の言葉と主旨を説明しています。イエス様は祈ってこうおっしゃいます。「父よ。時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。…それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」 イエス様がエルサレムで拒絶と屈辱を受けられたのは、他でもない、罪深い私たちに永遠のいのちを与えるためでした。聖書が言う「永遠のいのち」とは、「唯一のまことの神」と「イエス・キリスト」を親しく知ることです。それは、罪深い私たちが神様とイエス様に拒絶されるのではなく、永遠に愛される関係へと招き入れられることなのです。 そして、イエス様が罪人に永遠のいのちを与えられることによって、神様の栄光とその恵みの深さが、この世に現されるのです。

 

皆さん、もしあなたが自分の「罪」が明らかにされることで、人や神様に拒絶されることを恐れているなら、思い出してください。イエス様は、その反対のことを成し遂げようとされました。あなたを愛をもって迎えようとされているのです。 この世を歩む中で、私たちは自らが罪人であることを恐れずに告白し、イエス様の十字架に感謝しつつ、地の果てまでイエス様の御名をほめたたえていきましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church