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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇1篇1-3節 |
| さんび | Opening Praise | 10,000 Reasons |
| さんび | Praise | 主は良いお方 |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第6戒 出エジプト記20章13節)
マタイの福音書5章21-22節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ルカの福音書23章40-43節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌319番
「主イエスのみ声は罪ある者を」 |
| 転入式 | Membership Transfer | |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書15章1-17節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「わたしはまことのぶどうの木」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌432番「いつくしみ深き」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | エペソ人への手紙1章3、7節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。お母さんの誕生日や母の日に、花束をプレゼントしたことはありますか?そのお花をお家の花瓶に飾ると、最初の1日目、2日目はどうでしょう? まるでお庭に咲いているときと同じようにきれいで、いい匂いがして、「わあ、きれいだね!」ってみんなが笑顔になりますよね。でも、そのお花をよーく見てみてください。どんなに美しく咲いていても、ハサミで根元からチョキンと切られてしまったお花は、実は「もう死んでいる」のです。根っこから切り離されたお花は、自分で新しい花を咲かせることも、おいしい実をつけることも絶対にできません。数日もすれば茶色くカピカピに枯れてしまいます。
実は、それは、私たちのことを表しています。日曜日に教会に来て、賛美歌を歌って、聖書を開いていると、自分はまるで生き生きとした立派なクリスチャンであるかのように見えます。でも、もし私たちの心がイエス様から離れていたらどうでしょうか?それはただ枯れていくのを待っている「切り花」に過ぎないのです。しかし、ここに最高の良い知らせがあります。神様は、枯れ果てるしかなかった私たちをゴミ箱にポイッと捨てたりはされませんでした。神様はイエス様を「まことのぶどうの木」として遣わし、死んでいた私たちをご自身の命あふれる幹へと力強くつなぎ合わせてくださったのです!イエス様につながっているなら、イエス様の命と愛が私たちの心へドクドクと流れ込んできます。このまことのぶどうの木であるイエス様に生かされる大きな喜びを、今日一緒に見ていきましょう。
Ⅰ.会話から「説教」へ
前回のヨハネの福音書14章を覚えているでしょうか。イエス様と弟子たちの間には、緊迫した、しかし本当に親密なやり取りがありました。イエス様は「父の家へ帰って、あなたがたのために場所を用意する。」と告げ、残される彼らを慰め、助けるために「聖霊様を送る」と約束してくださいました。そして31節の最後で、突然こう命じられます。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。この世を支配する者が近づいているからです。」
普通に聖書を読んでいると、私たちは次の節で、彼らが階段を駆け下りて、夜の暗い通りへと急ぎ足で出ていく場面が思い浮かびますよね。ところがどうでしょう。15章に入った途端、イエス様は突然「まことのぶどうの木」についての説教を始められるのです。しかも、愛、従順、聖霊、そして「実を結ぶこと」という、14章と全く同じテーマを再び語り出されます。会話のキャッチボールだったものが、ここから3章にもわたる、イエス様の「説教」へとガラリと切り替わるのです。
聖書を読む人たちは、昔からこの急な展開に首をかしげてきました。「真っ暗なゲツセマネの園へ歩いて向かう道中で、イエス様はこの教えを語られたんじゃないか」と考える人もいれば、「このあたりの章は、後から別のメモをパズルのように組み合わせたものじゃないか」と言う学者もいます。
しかし、その理由はもっとずっとシンプルです。古代の人たちは、現代の私たちが時計の針を見るような「分単位のスケジュール」で物事を考えたり書いたりしませんでした。彼らは「テーマごとのサイクル」で文章を書くのが当たり前だったのです。一つの重要な場面を、カメラのアングルをぐるりと変えて何度も映し出すように、より深い意味を浮き彫りにするために語り直しました。
ヨハネは、15章から17章で「夜の散歩の次の15分間」を実況中継しているわけではありません。あの2階の部屋で、キドロンの谷を渡ってゲツセマネの園へ向かう直前、イエス様が弟子たちに手渡された「教えの核心」へとズームインしているのです。そして、ヨハネがここでどうしても私たちに見せたい中心のテーマこそが、この決定的なイメージ――「まことのぶどうの木であられるイエス・キリスト」なのです。ここは物語というよりも教えの箇所ですので、理解しやすいように3つのポイントでお話ししたいと思います。①イエス様のたとえ ②イエス様の命令 ③イエス様の約束。
Ⅱ.イエス様のたとえ:ぶどうの木
私たちがイエス様の「ぶどうの木」の教えを読むと、一見とてもシンプルで分かりやすいたとえ話のように思えます。「イエス様につながっていなければ、良い実は結べないよ」という教訓話のように聞こえるかもしれません。
しかし、その場にいたユダヤ人の弟子たちにとって、これは旧約聖書全体を貫く壮大なストーリーの「最高のクライマックス」でした。この歴史の背景が分かって初めて、イエス様が語られた言葉の計り知れない深さ、衝撃、そしてあふれる恵みが、私たちの心にズシンと響いてくるのです。
聖書の最初の書物である「創世記」で、アブラハムの家族は成長して12部族になりました。父ヤコブは死の床で、ユダの部族から「王なる支配者」が現れると預言しました。その王様は、あまりにも圧倒的な平和と豊かさをもたらすため、自分のロバを「極上のぶどうの木」につなぎ留めるほどの時代が来ると告げられたのです(創世記49:10-11:「王笏はその足の間を離れない…彼は自分のろばをぶどうの木に、 雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。」)
その後、この家族はエジプトで奴隷となって苦しみました。しかし、神様は彼らを力強く救い出し、まるでぶどうの木を植え替えるように、イスラエルをあの「約束の地」へと移植してくださったのです。神様は、彼らが豊かに育つことを心から期待しておられました(詩篇80:8-9:「 あなたは エジプトから ぶどうの木を引き抜き 異邦の民を追い出して それを植えられました。その木のために あなたが地を整えられたので それは深く根を張り 地の全面に広がりました。」)。
神様にとって、イスラエルは単なる植物ではありませんでした。心から愛する「花嫁」だったのです。夫である神様は、「愛」という「美しい実」を、イスラエルが実らせてくれることを心待ちにしておられました(イザヤ5:1-2)。ところが、彼女がしたことは何だったでしょうか。偽りの神々を追い求め、霊的な不倫(姦淫)に走ってしまったのです。神様は、張り裂けんばかりの悲しみをもってこう訴えられました。「なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、 酸いぶどうができたのか。」(イザヤ5:4)。預言者エレミヤを通しても、神様はこう嘆いておられます。「まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、 青々と茂るあらゆる木の下で、 寝そべって淫行を行っている。 わたしは、あなたをみな、 純種の良いぶどうとして植えたのに、 どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。 22 たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、 あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。」(エレミヤ2:20b-22)
さらにエゼキエル書の中で、神様はショッキングな事実を語られます。実を結ばないぶどうの枝は、何の役にも立たない。建築の木材にも使えず、ただ火の燃え草にしかならない、と(エゼキエル15:2-4)。この裏切りのゆえに、神様はバビロン帝国をお許しになり、この王なるぶどうの木を根こそぎ 引き抜かせ、民を捕虜としてバビロンへと連れ去らせました(エゼキエル17章、19:12:「しかし、それは憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ……火に焼き滅ぼされた」)。ダニエル書のシリーズを一緒に学んできた皆さんなら、この悲惨なさばきを、もう、ご存知ですよね。
しかし、神様の愛はそこで終わりませんでした。神様は「回復」を約束してくださったのです。神様は、いつの日か怒りを捨てて、新しくされたご自身のぶどう園を守り育てると宣言されました。そのぶどうの木は深く根を張り、全世界を満たすほどの実を結ぶのだと(イザヤ27:2-6:「その日、『美しいぶどう園、これについて歌え。わたし、主はそれを見守る者……やがてヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出して花を咲かせ、地の面を実で満たす』」)。そして詩篇80篇は、このぶどう園の回復が、ある「たった一人の人物」の手にかかっていることを預言していました。「どうか、このぶどうの木を顧みてください。あなたの右の座の人の上に、あなたご自身のために強くされた人の子の上に、あなたの御手を置いてください」(詩篇80:14, 17)。
私たちはこの箇所を読むと、すぐに「イエス様にとどまりなさい」という言葉に飛びついて、「私たちは何をしなければならないのか」という思いばかりに心を向けてしまいがちです。「私は毎日祈っていますか?」「聖書を読んでいますか?」「本当に信じていますか?」「キリストのうちにとどまっていますか?」と、自分を責めるように問い詰めてしまうのです。もちろん、そうした歩みは大切なのですが、後ほど2つ目のポイントでしっかり見ていきます。
このような旧約聖書の背景を考慮しながら、イエス様があの2階の部屋に立ち、「わたしが、まことのぶどうの木です」と宣言されたとき、イエス様が語っておられたのは「あなたの実」「あなたの頑張り」「あなたのとどまり方」という話ではありませんでした。イエス様がおっしゃったことは、耳を疑うほどショッキングで、圧倒的な恵みに満ちた、すべてを包み込む「最高のグッドニュース(福音)」だったのです。イエス様は、ご自分の命をかけて、イスラエルの代わりに豊かな実を結び、神の民が絶対に滅びることがないようにしてくださる「真のぶどうの木」なのです。イエス様こそが、私たちのぶどう園を完全に回復させてくださるお方です。
ですから、イエス様が「まことのぶどうの木」であられるという本当の意味を、決して見落とさないでください。それは、良い実を一つも結べず、何の役にも立たず、本来なら神様のさばきの火で燃やし尽くされるしかなかった、枯れ果てた枝のような私たちに向けられた、最高の救いの良い知らせなのです。これがキリスト教の福音なのです。
III. イエス様の命令①:「わたしにとどまりなさい」
もしイエス様が、実を結ぶ事ができない神の民に救いをもたらす「まことのぶどうの木」であるなら、イエス様が次に語られることは、ごく自然で当然の結論だと言えます。これが二つ目のポイント、「イエス様の命令」です。イエス様は、ご自身につながるすべての人に向かって、切迫した思いでこう命じられます。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(4-5節)
イエス様から離れてしまえば、神様が喜ばれる実を結ぶための命も、エネルギーも、何一つ受け取ることはできません。それどころか、木から離れた枝は枯れ果て、最後には火に投げ込まれてしまうのです(6節)。
しかし、そう聞いて少し混乱する方もいるかもしれません。「あれ? イエス様につながっているなら実を結ぶんじゃないの? なぜ、つながっていながら実を結ばず、取り除かれる枝があるんだろう?」と。これは、信仰生活においてものすごく重要なポイントです。
皆さんもよくご存じの通り、洗礼を受け、教会の席に座っているからといって、その人が本当にイエス様と結びついているとは限りません。このヨハネ15章の文脈の中で、その最も悲惨な実例は誰だったでしょうか? 言うまでもなく、イスカリオテのユダです。ユダは弟子たちの輪の中にいて、信仰を告白し、使徒という重要な働きを任され、外見上は誰が見てもイエス様にしっかりつながっている枝のようでした。しかし、霊的な意味において、彼はイエス様と一度もつながっていなかったのです。
だからこそイエス様は、弟子たちにも、そして今ここにいる私たちにも、強く迫っておられます。イエス様との本当のつながりとは、洗礼を受けた記録や、毎週礼拝に来ていること、教会での奉仕といった「外見」だけで決まるものではありません。あなたの心が、本当にイエス様と生きた関係で結ばれているかどうかなのです。イエス様は今日、私たちにこう問いかけておられます。「あなたは形だけでなく、本当にいのちの源である『まことのぶどうの木』につながっていますか?」
Ⅳ.イエス様の命令②:みことば、愛、戒めのうちにとどまりなさい
そう問われると、私たちは心の中でパニックになってきますよね。「えっ、ちょっと待って…自分は本当にイエス様にとどまっているのかな? そもそも『とどまる』って具体的にどういうこと!?」と疑い始めます。私たちは「とどまりなさい」と聞くと、すぐに「もっと必死にイエス様を追いかけなきゃ!」「頑張って戒めを守らなきゃ!」と、自分の力で何かしようとしてしまいます。しかし、聖書が言う「とどまる」とは、本来とてもシンプルです。その場所から離れず、じっと居続けることです。
宗教改革者のジャン・カルヴァンは、マタイ23章37節の御言葉を使ってそれを説明しています。あの、「めんどりがひなを翼の下に集める」光景です。小さなひよこが生き残るための最良の方法は何でしょうか? それは、お母さん鳥のあたたかい翼の下で、じーっと安心していることです。一番危ないのは、「よし、今日から自立するぞ! 自分で飛んでエサを探してくる!」と翼の外へ飛び出していくことです。ところが私たちは、この「自分の力で頑張ろうとする姿」こそがクリスチャンとしての成熟だと勘違いしてしまうのです。
では、具体的にどうやってイエス様の翼の下にとどまるのでしょうか。イエス様は3つの姿を示してくださっています。第一に、「主のみことば」のうちにとどまることです(7節)。イエス様は「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」と言われました。私たちは、聖書に記されたイエス様のみことばという翼の下へ、日々の生活の中で逃げ込んでいるでしょうか? 不安なときや恐ろしいとき、世の中のニュースや人の言葉ではなく、イエス様のみことばを「自分の安全な隠れ家」として、その中でホッと息をついて休んでいるでしょうか。
第二に、「主の愛」のうちにとどまることです(9, 13節)。イエス様は言われます。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」私たちは、イエス様の十字架という、守りに満ちた陰にとどまっているでしょうか? 「この世界で、イエス様以上に私を深く愛してくれる人は絶対にいない。」という事実に身を委ね、心からの安心を覚えているでしょうか。イエス様は私たちを、ただの召使いではなく「友」と呼んでくださるのです。
第三に、「主の戒め」のうちにとどまることです(10節)。「わたしが父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」私たちは、主の戒めの中に?むしろ?「守りと知恵」を見出しているでしょうか? 何が正しいか分からない混沌とした世界の中で、イエス様の道に従って歩むことこそが、最も安全で、最も深い喜びをもたらすことを信じているでしょうか(11節)。
もう一度言わせてください。「とどまる」というのは、私たちが何かを成し遂げたかどうかの「行いのチェックリスト」ではありません。それは、キリストのみことば、キリストの愛、そしてキリストの戒めという大きな翼の下で、私たちが安心して力を抜き、安息しているかどうかです。イエス様は今日、私たちにこう語りかけておられます。「自分の力で飛ぼうとするのをやめなさい。あせるのもやめなさい。恐れを手放して、わたしの翼の下で休み、わたしにとどまりなさい。」
Ⅴ.イエス様の約束:「わたしが、あなたがたにとどまる」
「わたしにとどまりなさい」という命令を受けるとき、反抗的でプライドが高く、自分の力で自立しようとするも、すぐにふらふらと迷い出てしまう自分の心を知っている私たちは、皆こう思うはずです。「自分なんかが、本当にイエス様につながり続けられる保証なんてどこにあるんだろう?」と。しかし私たちの救いは、「私たちがどれほど強くイエス様を握っているか」ではなく、「イエス様がどれほど強く私たちを握りしめてくださっているか」にかかっています。だからこそ主は、ご自身にとどまる者に4つの約束を与えてくださいます。
第一に、豊かな実を結びます(5節)。 枯れ木のようだった私たちが、自分の力で必死に頑張らなくても、イエス様につながっているだけで、その命と栄養がドクドクと流れ込み、豊かに実を結ぶようになります。第二に、祈りが力強く聞かれます(7-8節)。 イエス様は「何でも願いたいものを願いなさい。そうすればかなえられます」と約束されます。もしあなたが「もっと実を結びたい!」と祈るなら、イエス様はそれを力強くかなえ、父なる神様が豊かに栄光をお受けになるのです。第三に、満ちあふれる「イエス様の喜び」が与えられます(11節)。 イエス様が御父に従っていたときに持っておられたのと、まったく同じ喜びが与えられるのです。状況によって浮き沈みする浅い喜びではなく、私たちの心の底から満たされる、本物の喜びです。第四に、王なるイエス様が「最も親しい友」となってくださいます(14-15節)。 イエス様は私たちのために命を捨てるだけでなく、父なる神様について知っておられるすべてを打ち明け、他の誰にもできないほど深く、神様を知る特権を与えてくださるのです。イエス様は私たちに、実を結ぶ日程表や実の大きさを約束されたわけではありません。人と比べる必要はないのです。イエス様が約束されたのは、豊かな実、聞かれる祈り、あふれる喜び、そして親友としての深い交わりです。
でも、皆さんはこう言いたくなるかもしれません。「マークさん、それって全部『私たちがとどまったら』という話ですよね? 自分がとどまれているか不安です…」だからこそ、私たちはすべての約束の土台となる 「究極の約束」へと立ち返る必要があります。イエス様が「わたしにとどまりなさい」と言われるのは、イエス様ご自身が、私たち一人一人にとどまることに100%コミットしてくださっているからです。 ひよこがお母さんの翼の下にいられるのは、お母さん鳥が先に全力で愛してくれたからです。だからイエス様は言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命しました。」(16節)
イエス様は、私たちのために「まことのぶどうの木」となられました。イエス様は命をかけて、私たちに実を結ばせるために、私たちにすべてをそそがれたのです。自分の頼りない力を見つめるのはやめましょう。イエス様は約束を必ず果たされるお方です。この真実な恵みにより頼み、今日も主の翼の下にとどまり続け、イエス様の約束に期待し、イエス様のことばに従っていきましょう。お祈りします。
