2025年10月26日礼拝 説教 「イエス様を信じない4つの理由」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ピリピ人への手紙2章8-11節
さ ん び Opening Praise ワンボイス〜One Voice〜
さ ん び Praise その日全世界が
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第6戒)マタイの福音書5章20-21節
黙とう Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ヨハネの手紙第一2章1-2節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌359番

「私の望みは主イエスだけにある」

聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書7章14-36節
聖書の話 Sermon 「イエス様を信じない4つの理由」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌465番

「キリストにはかえられません」

主の献金の招き Lord’s Call to Give マタイの福音書6章19-21節、24節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章3-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに質問です。もし何かをうまくできないとき――例えば、キャッチボールや、お絵かきなどが苦手なとき――どうすれば上手にできるようになりますか?練習、そうですよね。しかし、全く同じことを繰り返すだけでは、なかなか上達しません。自分がなぜボールをまっすぐ投げられないのか、どうすればうまく顔を描けるのか、その具体的な原因や方法を理解しないと、上達しませんね。

イエス様は多くの人々に、ご自身のことを教えてきましたが、なかなかイエス様を信じることができませんでした。力強い奇跡を見せても、長い説教をしても、長い時間を共に過ごしても、彼らは信じませんでした。ですから、イエス様は今日の聖書箇所で、多くの人がイエス様を信じられない四つの理由を教えられました。ある人から見ると、これは少し意地悪な言い方かもしれません。しかし、イエス様から見ると、信じられない理由を明確に把握することこそが、イエス様を信じられる近道である、ということです。

私たちもまた、イエス様をなかなか信じられない時、あるいは従って歩めない時があるのではないでしょうか。それはなぜだと思いますか?聖書の勉強不足だからでしょうか?それとも、教会に来ていないからでしょうか?イエス様は、その四つの理由を教えてくださいます。①神様に興味がないから。②自分の自由を失いたくないから。③イエス様をカッコよくない(魅力的ではない)と思っているから。④イエス様は弱いと思っているから。今日は、聖書を通してこれらの理由について、ゆっくりと見ていきたいと思います。

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人は、イエス様に驚くことです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

 

先週は、イエス様に対する神の民の反応を見てきました。イエス様が、「世について、その行いが悪いことを証しし」、ユダヤ人がイエス様に反対し始めました。私たちも、自分の罪深い、ありのままの状態を露わにされるのは恥ずかしく、周りの人に拒絶されるかもしれないとか、神様に拒絶されるかもしれないなどと思い、恥ずかしくて「死んだ方がマシだ」と思うかもしれません。私たちは全力でイエス様の存在と教えを阻止しようとします。前回の聖書箇所では、いくつかの阻止の仕方を見ました。ユダヤ人は、イエス様を殺そうとしました。イエス様の家族は、ガリラヤからイエス様を追い出そうとしました。単にイエス様を信じることをあきらめた人もいます。イエス様が群衆の罪深さを露わにされるとき、イエス様を脅威に感じたのです。

神の民がイエス様を脅威に感じたとしても、イエス様は、拒絶されることを恐れず、真っ向から神の民の疑問、殺意、反対に立ち向かわれます。イエス様は、仮庵の祭りの半ばで神殿が人で大混雑していたとき、どれほど、群衆が神のことばを聞きたくない様子であったとしても、神の民に教え始められました。常に人の目を気にする私たちとは対照的に、人に拒絶されることを全く恐れず、神様だけを恐れ、真実を語られるイエス様です。そして、群衆は、その教えに驚き、感銘を受けます。今日の話は、イエス様と群衆の対話とも言えます。背景を知らない方にとって、これはイエス様と群衆の口喧嘩のように聞こえるかもしれませんが、イエス様がはっきりと、愛をもって真実を語られます。群衆が四つの疑問をイエス様に投げかけて、イエス様がその四つの疑問にお答えになる箇所です。今日は群衆の四つの疑問に沿って、そのポイントを見たいと思います。

 

まず、群衆の一つ目の疑問は、「イエス様が誰からも認められていないから信じない」ということです。15節を読むと、群衆はこう言います。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 当時のユダヤ人の先生たちは、著名な学者の下で何年も学び、何人もの学者の本を読んで、そこから引用して教えることが多かったそうです。優れた師から学んだと言うことや、著名な学者の書物から引用することによって、会衆の信頼を得ようとするようなテクニックです。今の時代でもよくありますね。しかし、イエス様には、会衆の信頼を得られるような要素は全くありませんでした。つまり、何の権威や肩書もないのに、どのように権威をもって聖書の話が出来たのか、という疑問です。

 

イエス様はこのように答えられます。

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。」

要するに、イエス様は、私たちにこう問われているのです。「あなた方は誰の話を聞きに来たのですか?」と。イエス様はただイエス様を遣わされた神様の事を語っておられ、ただ神様のみこころに従っておられただけでした。もし、会衆が神様のことばを聞きに来たのであれば、それは何の「不正」もない、むしろ、一番説得力のあることでした。

しかし、もしそれ以外のものを求めているのであればー多くの人が認めている組織、コンセンサスに近い考え、みんなが面白いと思うことや、みんなが認めている資格ー、それらは神様のみこころではなく、むしろ、人からの栄誉を求めている証拠だ、とイエス様はおっしゃっているのです。それだけではなく、群衆が信頼している人たちがそもそも神様のみことばであるモーセの律法を持っているのに、その律法を本質的に守っていなかったのです。ですから、イエス様は、「もしあなたたちが信頼している人たちが神様の教えやみこころに興味がないのであれば、そもそもあなたたちも神様に興味がないのではないのか」と単刀直入に群衆におっしゃっているのです。これは厳しく聞こえるかもしれませんが、群衆が「普通」に思っていた前提をひっくり返すために、愛をもって真実を語っておられたのです。

 

イエス様のお答えから、一つ目に覚えていただきたいポイントはこれです。「神のみこころを知ろうとする人しか、イエス様のことばを神のことばとして受け入れることができない」ということです。伝統と習慣を守るために。知識と知恵を得るために。目の前の問題を解決するために。さらに幸せになるために。家族と自分の成長のために。教会というコミュニティーに根付くために。イエス様の下へ行く為の良い理由は様々あります。しかし、「神のみこころを知ろう」としない者は、イエス様をいろんな解決手段の中のひとつとしか考えていないのです。しかし、イエス様は、神様に遣わされたしもべであられ、完璧に従い通された神の子、神様のことばそのものを語られる使いなのです。「神のみこころを知ろうとする者」にとって、イエス様以上に信じられる人はいないということです。

そのあと、イエス様は話を変え、群衆にこう問われます。「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」かなりの急展開ですね。 これが群衆の二つ目の疑問です。「イエス様は腹を立たせる存在だから信じない」という疑問です。

群衆はイエス様の質問にこう答えました。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」皮肉なことに、群衆がすぐにイエス様を「悪霊につかれている人として呼ぶことによって、怒ってないことをどれほど否定しても、殺意と怒りがにじみ出ていたことがわかります。彼らが気づいていなくても、イエス様は群衆が感情的になっていることを指摘しようとされます。

ヨハネ5章を読むと、多くのユダヤ人がイエス様を殺そうとしていた理由は、イエス様が安息日に病人を癒されたからでした。当時の安息日についての解釈であれば、仕事してはならない日に、イエス様が明日でもできる「仕事」を安息日に行われたからでした。それを聞いたユダヤ人が非常に腹を立てて、イエス様を殺すことを企み始めたのです。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていることを知っている中で、イエス様は冷静に群衆の訴えの矛盾を説明されます。

20 わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。 22  モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。 23  モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。 24  うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。

当時、ユダヤ人は安息日に割礼という「仕事」を行っていました。それには理由が二つありました。一つは、割礼は、モーセを上回る父祖であるアブラハムに与えられた儀式でした。ですから、その儀式は、モーセが教えられた規定よりも大事だとユダヤ人は理解していて、安息日に割礼を施していたのです。アブラハムは、モーセの立場を上回っていたので、アブラハムの教えが優先されたということでした。もう一つは、割礼の意味が安息日と相反するものではないからです。割礼は、男性の生殖器官に神様のしるしを受けることです。神様のしるしを体の一部に刻むことによって、神様からの永遠の恵みをいただく者であることを表しました。割礼は神様の恵みという永遠の安息を指していたので、安息日に割礼を施すことによって、神様の安息の究極の意味を味わうことができたのです。

その理解の上で、イエス様はご自分がおこなわれた奇跡が「割礼」よりも上回るものだと主張されたのです。ご自分がモーセよりも、アブラハムよりも上回る存在で、神様に直接派遣された「神の子」であることを主張されました。ですから、イエス様を止めようとすることは、モーセの父祖であるアブラハムを止めようとすることよりも無礼なことだ、とおっしゃっているのです。そして、イエス様は、神様の安息を病人のからだの一部にではなく、全身に示されたとおっしゃいました。ですから、38年も歩けなかった人が奇跡的に歩けたことを見た群衆が、これが割礼の恵みを上回る「神のしるし」だと認めていながら、尚も怒っている群衆をご覧になり、「あなたがたはわたしに腹を立てる理由はなんですか?」とイエス様は質問されたのです。

イエス様の質問によって、群衆の「怒り」の根本がどこにあるのかがわかります。「神学的に間違っている」からではないのです。イエス様が「律法を破った」からでもありません。イエス様ご自身がすべてを上回る「救い主」「神の子」であること。イエス様が、病人のような、私たちの全身と魂を「健やかに」することができる永遠のいのちを与えること。それを知って、群衆が怒っているのです。それはなぜだと思いますか?著者ヨハネは、その理由を皮肉った形で記しています。

25 エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。 26  見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」

イエス様を殺そうとしている人は、もちろんイエス様が永遠のいのちを与える救い主であることを認めていませんが、何も言い返せないのです。なぜなら、イエス様はただ真実を語っておられ、不正がないから、殺す理由がないのです。

 

この、二つ目のイエス様の回答から、二つの事が学べます。私たちがイエス様に腹を立てる理由は、自分の自由を失いたくないからです。群衆は、イエス様のことを「キリスト」、または「救い主」であると心の中で知っていました。しかし、イエス様を救い主として認めれば、自分が間違っていることを認め、イエス様に従う必要があるのです。ですから、イエス様を否定する理由がないので、最終的に、私たちはイエス様の存在そのものを消したいのです。その為の方法は、いくつかありますー真っ向から反対すること、既読スルーすること、表面的に従って逆方向へ向かうことーしかし、私たちが本当にイエス様の教えに腹を立てる理由は、ただただ、今の自分たちの自由を、維持したいからかもしれません。私たちは今の自由をイエス様から奪われたくないからかもしれません。

そこで群衆は、三つ目の疑問をイエス様にぶつけます。

「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(6:27)

これが群衆がイエス様を信じない三つ目の理由です。「イエス様には神秘性がないから信じない」という訳です。

「キリスト」という言葉は、これから来て、神の民を救う神様に選ばれた王様を指しています。当時のユダヤ人は、「キリスト」はベツレヘムから生まれ、人間として来られると信じていましたが(ミカ5:2; ダニエル7:13)、誰も気づかないうちに突然現れ、世界の王としてすべての国を治め、裁かれることを期待していました。キリストには、「神秘的な」イメージがあったのです。私たちも普段の生活で「神秘的な」ものに惹かれます。「神」のような成功者あるいは実力者。天使のような美しさと現実離れした生活を送っている人。

しかし、イエス様は、その正反対でした。イエス様は、ナザレという田舎町から来て、ヨセフとマリアの間にどのように生まれたかの噂もあり、特別な血筋も教育も実力も何もなく、普通に上京し、大群衆の一人として「仮庵の祭り」に普通に参加し、30何歳の大工の青年として来たのです。人々は何の神秘性もないイエス様と、彼らが抱いていた神秘的なキリストのイメージとのあまりのギャップに戸惑っていたのです。

 

イエス様はまた、皮肉った疑問に皮肉った回答で返されます。

「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」

つまり、イエス様はこうおっしゃっているのです。「そうですよね。あなた方は私のことをよく知っている。私が神から出た神の子であり、そして、私が神から遣わされたことをね、、、」群衆は、いくつかの説教を聞いて、数々の奇跡を見て、イエス様の神秘的な教え、神秘的な家系、神秘的な力、神秘的な権威をよくわかっていたということです。それでも、群衆はイエス様が「神秘性」に欠けていると感じていたのです。

このイエス様の回答から学べる三つ目のポイントは、「私たちは、イエス様の神秘性を感じないよりも、すでに見える神秘性を受け入れたくないから信じないのです。」その理由を、イエス様ははっきりとおっしゃいました。「わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。」つまり、私たちがイエス様の「神秘性」を見たくない理由は、本当の神様、真実の神秘性を知らないからです。私たちは全く違う、偽りの「神秘性」を追いかけているのです。私たちが見慣れていると思っているイエス様の神秘性よりも、この世界が憧れる「神秘性」に惹かれる理由は、私たちが「真の神様」の「真の神秘性」に触れておらず、触れた事がなく、あるいは、知らないからかもしれないということです。

イエス様が群衆とこのような対話をしているのを聞いて、祭司長たちとパリサイ人たちは、イエス様を捕らえようとして下役たちを遣わしました。そこで、イエス様は終わりに群衆にこうおっしゃいます。

「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。 34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

そして、ユダヤ人たちはこう言います。

「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。」

群衆が信じなかった四つ目の理由は、群衆は、イエス様がいつでも捕らえて殺すことが出来る存在だと思っていたので、信じませんでした。イエス様のことを、ただの若造だと思っていたのです。コントロールできる人。阻止できる人。もみ消す事ができる弱い存在。そのように思っていたので、イスラエルの祭司長たちとパリサイ人たちは、イエス様を信じなかったのです。

ヨハネの福音書のクライマックスは、実際に祭司長たちとパリサイ人たちがイエス様を捕らえようとしたときです。イエス様を捕らえ、唾をかけ、拳で殴った。ある者たちはイエス様を平手で打って、「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と罵りました。イエス様が着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せました。 それから彼らは茨で冠を編んでイエス様の頭に置き、右手に葦の棒を持たせました。そしてイエス様の前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかったのです。そして、イエス様を十字架につけ、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエス様の頭の上に掲げたのです。イエス様のことを、捕らえることができる「キリスト」だと思っていたので、イエス様を信じなかったのです。しかし、私たちが信じている方は、そのような「キリスト」ではありません。

 

私たちがイエス様を信じる理由は、イエス様が誰にも捕らえることができない存在だからです。ヨハネ1:2-5に書いてあるように、イエス様は、「初めに神とともにおられ」、「すべてのものは、この方によって造られ」、「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」のです。イエス様にはいのちがあり、このいのちは全人類のいのちの光なのです。イエス様という光は闇の中に輝き、闇はこれに打ち勝つことができませんでした。 そのイエス様が十字架につけられたあと、「少しの間」ー厳密にいえば、三日後にー蘇られ、死の鎖を切られ、天に昇られ、神様の右の座に座られ、すべての者を裁く方になられたのです。私たちがイエス様を信じる理由は、イエス様が、エルサレムの祭司長たちや世界最強のローマ帝国、この世界の支配者であるサタン、この世界の破壊者である死でさえも捕らえることができない存在だからです。

クリスチャンの皆さん。イエス様をまだ信じていない皆さん。私たちはなぜイエス様により頼まないのでしょうか。なぜイエス様に従わないのでしょう。神のみこころを知りたいのであれば、本当の「神秘性」に触れたいのであれば、自分の自由をイエス様に捧げ、誰も捕えることができない復活の主として、イエス様に従っていきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church