2025年11月2日礼拝 説教 「互いに愛し合いなさい。カインのようになってはいけません」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌30番「御前にひれ伏し」1-2、4-5番

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌126番「血しおしたたる」1-3番

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          出エジプト記20章13節、ヨハネの手紙第一3章10-18節

聖書の話       「互いに愛し合いなさい。カインのようになってはいけません」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌127番「主イエスは尊き」

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

[制定のことばInstitution] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29

[式辞 Fencing][祈り Prayer][分餐 Distribution]

献 金 Offering

   Doxology  教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。第6戒は何でしょう? はい、そうです、「殺してはならない」ですね!このおきては、ただ「人を殺さない」というだけじゃなく、「人のいのちを大切にする」という意味なんです。ここで、こんな場面を想像してみましょう。みんなが住んでいるマンションで火事が起きました。大変!みんなはエレベーターの中に閉じ込められてしまいました。そこへ、三人のおかしな消防士がやってきました。まず、一人目の消防士。あなたの状況を見て、「かわいそうに。ごめんね、今お昼休みだから助けられないんだ」と言って、のんびりとお弁当を食べ始めました。次に、二人目の消防士。優しく「本当に熱くてつらいでしょうね。あなたの気持ち、よくわかるよ」と言って、あなたの話を聞いてくれました。でも、助けようとはしません。最後に、三人目の消防士。ちょっと怖そうな声で「こんな場所で子どもを放っておくなんて、何事だ!」とプンプン怒っています。そして、怒りながらもすぐに自分たちのところまで降りてきて、助け出してくれました!

この中で、誰があなたを一番愛していると思いますか?一人目は、何も悪いことをしていなくても、あなたのいのちを大切にしていませんね。二人目は、優しいし、共感してくれたけど、いのちを救おうとしませんでした。三人目の消防士は、怒っていましたが、それはあなたのいのちを大切に思っていたからこそ怒ったのです!そして、行動でいのちを救おうとした事で、その愛が伝わりますね。イエス様は、この第6戒を完璧に守ってくださる方です。イエス様は、ただ「かわいそうに」と言うだけではありません。ただ「あなたの痛みがよくわかるよ」と同情するだけでもありません。イエス様は、私たちが火事(罪)に閉じ込められたとき、ご自身のいのちをかけて助けに来てくださった、愛の行動をされる救い主です。今日は、イエス様を通して、この「いのちを大切にする」おきてについて、もっと考えてみましょう。

十戒を通して、私たちは十戒の三つの視点を学んできました。十戒は、創造主の御心の地図であり、主の御国の試金石であり、救い主への矢印です。この三つの視点を通して、今回も第6戒を見ていきたいと思います。もし、第6戒が「神の御心の地図」であるなら、それは私たちに何を教えているのでしょうか?それは、「神様の似姿に造られた人のいのちを尊び、憎まず、愛しなさい」ということです。この戒めには、三つの基本的な要素があります。

 

まず、一つ目の要素は、人のいのちは神様の傑作であり、何があっても威厳があり、価値のある者だという事です。聖書の初めの章を読むと、神様はいのちの源であり、この地上のいのちをすべて造られたことがわかります。地球は「生きているもの」であり、豊かでいのちに溢れています。海の魚、空の鳥、地の動物。その中で、人間は特別ないのちを持っていると創世記1章に書いてあります。神様はその理由を述べられました。

 

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 (創世記1:26-27)

人間は、すべての生き物とは違い、神様の「似姿」に造られ、神様と似た性質をもっているということです。この地球を「治める」ための知性、感情、道徳観、判断力などが与えられ、他の生き物と違って、人間は「王国」と「文明」を建てることができました。人間が築いた「王国」や「文明」を通してこの地上を治めることが人間の存在意義とも読めます。要するに、神様が王様だとすると、男性と女性はこの地球の王子様と王女様のような存在として造られたという事です。

このシンプルなポイントで、非常に重要な土台が造られます。男性も、女性も。生まれて1カ月の赤ん坊も、寝たきりの高齢者も。障害を持っている人も、健常者であっても。貧しい人も、富んでいる人も。アメリカ人も、中国人も、ロシア人も、ウクライナ人も、イスラエル人も、パレスチナ人も。すべての人間は、神様の最高傑作であり、尊い存在であり、この地球の「王子」と「王女」なのです。人間のいのちにこのような尊厳があることは、科学的に証明することはできません。科学では人間はただの分子の塊で、進化論によれば弱肉強食です。人間の歴史や文化から自然に生み出されたものではありません。西洋と東洋の文化では、すべての人間の尊厳が平等であるという概念は全くなく、歴史的に見れば、それは、聖書から生まれた概念です。

 

もし人間のいのちを神様の最高傑作と例えるのであれば、この世界の最高傑作を思い浮かベてみてください。私はなぜかモナリザが頭に浮かんできます。誰にでも認められていて、誰でも知っているダヴィンチの最高傑作ですね。しかし、残念ながら、私には美術のセンスは全くありません。そんな私が、もし「モナリザの魅力は全く感じないから、捨てていいよー」と言ったら、皆さんどう思いますか?それはもう美術界にとって冒涜であり、人類に対する罪のようなものですよね!人間のいのちも同じです。いのちの尊厳というものは、私たちがどのように感じて、どのように理解しているかというような、人間の「見方」によって変わるものではありません。いのちの尊厳は、私たちが感じているかどうかとは全く関係なく、本質的に、常に存在しているものなのです。

 

それを踏まえた上での「第6戒」の二つ目の要素は、殺人は、人のいのちを傷つけ、損ない、冒涜し、破壊することだということです。

多くの人たちは、「殺してはならない」と聞くと、「自分は殺人はしていない」と思って安心するのではないでしょうか。しかし、先ほどの例を使って考えてみましょう。例えば、私がモナリザの絵を所有していたとします。私はモナリザを家の外の倉庫に放置していたので、カビが生えてしまいました。そして、子どもたちのイタズラでちょっとだけ破れてしまい、雨に濡れてしまったので絵の状態も悪くなってしまいました。誰かが「モナリザは破壊してはならない」と言っているのを聞いて、「ああ、よかった。私はモナリザを破壊してはいないから大丈夫」と安心していたとしたら、私が「破壊」の意味を完全に誤解していることがわかりますね。第6戒の「殺人」とは、「完全に人のいのちを破壊する」という事だけを指しているのではなく、例え少しだとしでも「人のいのちを破壊する」ことを指しています。そして、これは他者のいのちを傷つけることだけではなく、自分のいのちをも傷つけてはならないという意味です。なぜなら、私たちのいのちは、神様の最高傑作なので、私たち自身が、好きなように使ってはならないのです。

人間のいのちを傷づけること、損なうこと、破壊することにはいろんな形があります。暴力、性的暴力、暴言、精神的虐待、いじめ、差別、圧制、ネグレクト(生きるために必要なものをあたえない)などは、人のいのちを傷つけ、損ない、破壊する行為です。しかし、殺人は目で見える「行為」だけとは限りません。イエス様は、傷あとが目に見えない様な「ことば」や「思い」をも殺人と同様であるとおっしゃいます。

21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

なぜイエス様は、そこまでおっしゃるのでしょうか?大きく分けると、客観的な理由と主観的な理由があります。客観的な理由は、傑作(モナリザ)に唾をかけることによっては、作品に大きな害はないかもしれませんが、それは、製作者と芸術、人類への冒涜だからです。

そして、主観的な理由は、もう少しわかりづらいかもしれませんが、私たちの罪の根っこを露わにします。それは、殺人という行為が、殺意という種から芽生えることです。創世記4章で、アダム後の人間の最初の罪が描かれています。それは、殺人です。アダムの子として、長男のカインと次男のアベルが生まれました。カインとアベルは、神様に捧げものを捧げましたが、神様は、信仰をもって捧げたアベルの生贄を受け入れ、カインを拒まれたのです。カインの心には、アベルに対する苦味と激しい怒りが芽生えました。じわじわと怒りをつのらせているカインを御覧になった神様はこうおっしゃいました。「もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」 (創世記4:7)その後、カインはその怒りの種を治めきれず、怒りが爆発し、弟を殺してしまいました。怒りと苦味が「殺人の種」であるなら、「種」と「木」が違う形をしていても、本質は同じだと、イエス様はおっしゃっているのです。

 

第6戒」の三つ目の要素を紹介します。私たちは、人のいのちを積極的に養い、守り、愛する責任があるという事です。

 

前に、十戒が「愛」のあり方を表している十の掟であることを説明したことがあります。ですから、第6戒は、人のいのちをただ傷つけないという消極的な面だけではなく、積極的に人のいのちを愛さなければならないという意味もあります。イエス様は、律法を「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という掟にまとめられたときに、ある律法の専門家が、「では、私の隣人とはだれですか。」と イエス様に聞きました。そのとき、イエス様は有名な良きサマリア人の例えを教えられました。強盗たちが、ある旅人の着ている物をはぎ取り、彼を殴りつけ、半殺しにし、道端に置き去りにしました。そこに、律法を愛していた祭司が一人、その道を下って来たのですが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じように神様に選ばれた民族であるレビ人も、通りがかったのですが、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。しかし、最後には、イスラエル人から見ると、みことばをないがしろにしている民族であったサマリア人が、その半殺しにされていた旅人を助けたのです。そこでイエス様は律法学者にこう問われました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」律法学者は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答えました。イエス様が教えられたかったのは、例え、自分がその人のいのちを傷つけたのではなくても、あるいのちが破壊されそうな時、無関心でいることは、愛のないことだ、ということです。愛は消極的で、保守的なものではありません。愛は動くものです。「隣人を愛する」ということは、積極的に人のいのちを守り、養い、愛することなのです。

違う角度から考えてみましょう。「怒り」は、いつも悪いことだと思いますか?最も怒っておられる存在はどなただと思いますか?その通りです。神様です!「神は正しい審判者 日々憤る神。」と詩篇7:11に書いてあります。しかし、神様の怒りは、人のいのちに害を加えるような怒りではなく、人のいのちに害を加えようとする加害者に対する怒りです。つまり、人のいのちを積極的に愛しておられるので、正義の怒りがあふれ出るのです。旧約聖書では、神様はいつも立場の弱い寄留している外国人や貧しいやもめ、自分を守ることができない孤児のいのちを守ろうとしておられるので、弱者を圧制する人たちに対して、神様の怒りはいつも燃え上がっていたのです。

 

出エジプト22:21-24が最もわかりやすいかもしれません。

“寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。 そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。”

神様はいつも弱者に惜しげもなく恵みと支えを施され、神様の似姿に造られたいのちとして尊厳をもって守られ、養われ、愛されたのです。

1ヨハネ3:17-18は私たちをこのように励まします。

17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。 18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

ですから、第6戒は、人のいのちをただ保護するのではなく、すべてのいのちー中々許すことのできない家族・親戚との関係、経済的に苦しんでいるシングルマザー、コミュニケーションをとるのが難しい外国の人々、近寄りがたい務所帰りの人、声をあげる事ができない胎内にいる赤ちゃん、寝たきりのご高齢者ー私たちは周囲の人々をすべて積極的に愛さなければならないという意味です。

 

第6戒の意味を理解した上で、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし、第6戒が「主の試金石」であるなら、それは私たちに何を教えているのでしょうか?それは、「人のいのちを憎むものはサタンの子であり、人のいのちを愛するものは神の子」であるということです。

 

そう聞くとびっくりするかもしれませんが、もう一度、先ほど読んだ1ヨハネ3:10-15を読みます。

10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。 12 カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。 13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。 15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

本当に衝撃的なことですよね。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」「~のこども」という表現は、同じ性質をもっているという意味です。そして、イエス様は、サタン(悪魔)をこのように描写しています。(ヨハネ8:44)「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。」ですから、カインのように、人のいのちを憎むこと、害を加える程の怒りに燃えること、暴言を吐くこと、目には見えなくても心に根深い苦々しさを抱くこと、人のいのちの尊厳を無視して無関心になることなどは、サタンと同じであるとイエス様は主張されます。

 

そして、旧約聖書の展開を読んでいくと、神様の怒りは、一人一人の罪に対する怒りだけではなく、地上のあらゆる王国に対する怒りが徐々に燃え上がっているのがわかります。その要因は、あらゆる国々が暴虐で満ちてしまい(創世記6:9)、正義を果たさず強者が弱者を圧制し(アモス1-2章)、世界の人々の「足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。」(ローマ3:15-16)からであり、神様はこの人類に対して怒りを燃え上がらせておられるのです。また、神の民であったのにもかかわらず、同じように人のいのちをないがしろにしていたイスラエルのリーダーたちにも、神様は何度も訴えられました。ミカ3:1-4にそれが描かれています。

“私は言った。 「聞け。ヤコブのかしらたち、 イスラエルの家の首領たち。 あなたがたは公正を知っているはずではないか。あなたがたは善を憎んで悪を愛し、 人々の皮を剝ぎ、その骨から肉をそぎ取る。 わたしの民の肉を食らい、皮を剝ぎ取って、 骨を打ち砕き、 鍋の中のもののように、 また大釜の中の肉切れのように、 それを切れ切れに裂く。」 そのため彼らが主に叫んでも、 主は彼らに答えない。 そのとき、主は彼らから顔を隠される。”

神様は、この世界の暴虐、神の民の歴史、また私たち一人一人の歩みをご覧になるとき、私たち人類が人のいのちを軽んじ、兄弟に対して無関心であったり、憎んだりする心に対して、義による怒りを燃やされるのです。

 

しかし、私たちが自分の罪を自覚し始めると、十戒は「救い主への矢印」へと変わります。第6戒を全うされたイエス様は、私たちのいのちを積極的に愛され、殺人者である私たちのために、ご自分のいのちを捨てて救ってくださいました

 

イエス様は、良きサマリア人よりも積極的で、愛に満ちておられるお方です。私たちが自分の行い、ことば、思いで人のいのちを傷つけてしまったとしても、神様に敵対しても、私たちが神様の永遠の御怒りと死に値する者であったとしても、イエス様はことばや口先だけではなく、行いと真実をもって私たちを愛して下さり、私たちを救って下さったのです。

(ローマ5:6-8)実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。 しかし、私たちがまだ【殺人者】であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

この箇所から、私たちは自分がどのような者であったかを悟ります。私たちに与えられた第6戒の基準は、どれほど私たち人間の心と行いが主の試金石に届かず、根深い憎しみと自己中心に満ちているかを露わにしました。私たちは皆、心の中で兄を殺したカインであり、神の永遠の怒りを受けるに値する者でした。しかし、私たちにとっては絶望の淵であるその場所で、イエス様は私たちのために、最も積極的で真実な愛で救ってくださいました。

この第6戒の光の下に立つとき、私たちは皆、ピラトの前で釈放を待つバラバに似ています。イエス様が十字架にかけられる前、総督のポンテオ・ピラトは、バラバという殺人者を十字架につける予定でした(マルコ15:7)。私たちは心の中で隣人を憎んだ者ですが、バラバは私たちの罪の究極的な結末を体現しています。私たちは永遠の死に値する殺人者であり、裁きの時を待っていました。しかし、私たちの裁きの場に、御子イエス・キリストが立たれました。群衆は「バラバを解放しろ!」と叫び、バラバを、すなわち私たちを釈放し、身代わりに罪なきイエス様を殺人者として十字架で罰したのです。この驚くべき交換—「正しい者が罪人の代わりに死ぬ」—こそが、神様が私たちに示された愛の現れなのです。

もし私たちが解放されたバラバならば、そのあとで、人のいのちを軽んじるでしょうか?そんなことはないですよね?むしろ、すべてのいのちを愛そうとすると思います。ですから、ヨハネはこのように言っています。

16  キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(1ヨハネ3:16)

イエス様がご自分のいのちを惜しまず、人のいのちを愛されたように、私たちも隣人を愛することができるように歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church