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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇16篇8-11節 |
| さ ん び | Opening Praise | 真昼のように |
| さ ん び | Praise | 死を打ち破り |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第7戒)マタイの福音書5章27-30節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | イザヤ書1章18節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌105番「主イエスの御業を」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙2章17-21節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「キリストによって生きる」
呉載炫 教師候補 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌132番
「イエスの十字架の深い恵み」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | コリント人への手紙第二8章1-2節、7節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
皆さんは、夢を叶えられましたか?皆さんの子どもの頃の夢は何でしたか?私はプロレスラーになりたいとずっと思っていました。学生時代は道場に入門して、汗を流して一生懸命に鍛錬していたことがあります。でも、なれませんでした。今は30代一般男性です。
私たちが生きるこの社会は、夢を叶えるためだけでなく、ある目標や目的を達成するために努力することが当たり前ですね。その中で、他者との競い合いも発生します。会社や学校では、競争が私たちを待っています。
一方でこんな人もいませんか?御曹司、社長令嬢、世襲議員、二世タレントのような人です。こういう人たちに会ったり、ニュースなどで話を聞いたりすると、どうも「私はこんなに頑張っているのに、あの人は楽して生きている」、「親のおかげだよね」と思ってしまいます。
これはどうしてでしょう?私自身の機会、チャンスが直接的に奪われたわけではなくとも、こういう人に対してはあまり良い気分にはなれません。人々は親の七光の自慢話より、自力で成り上がった、叩き上げの成功ストーリーを好みます。
これには「あの人は頑張っていない」、「頑張っていない人が評価されるのはおかしい」という思いがあるからかもしれません。頑張りや努力は世の常、常識、この世界を支配する価値観の一つのように思えます。
キリスト者にも努力の基準は例外なく適用されます。主によって置かれた各自の人生の場において、与えられたことを誠実に行うことは良いことです。しかし、信仰生活のすべての面において自分の努力が基準となってはなりません。
とりわけ、ガラテヤ人への手紙では、信仰者の救いと人の努力=自分の義は直接的に結びつきがないと教えます。むしろ、自分の義を主張することは、福音の真理に反するものだと教えます。
本日は、ガラテヤ人への手紙2章の後半から、次の三つのことを共に考えましょう。一つ目は「パウロの二つの戦い」です。今日の本文から学ぶために、2章の文脈をおさらいします。二つ目は「律法に対して死ぬ」です。パウロが律法に死んだことが何を意味するのかを確認します。三つ目は「キリストのいのち」です。律法に対して死んだパウロは、何によって生きているかを学びます。
一つ目のポイントは「パウロの二つの戦い」です。10月は、幸いな教会の修養会がありましたので、ガラテヤ人への手紙シリーズは1ヶ月ぶりになります。ここでは、今日の本文から学ぶために、前回までの流れを思い出す作業をしたいと思います。
パウロはガラテヤの諸教会、ガラテヤ地方にある教会たちに手紙を書きました。それは教会員の多くが福音の間違った教えについていったためです。教会員たちを惑わす教師たちを断罪し、彼らの主張を福音の真理によって論駁することが、パウロがこの手紙を書いた目的でした。
1章の後半から2章にかけて、パウロは、以前にアンティオキア教会にて奉仕していた頃の出来事を書いています。ガラテヤの人々に、アンティオキア教会にもガラテヤの諸教会と同じ問題があったことと、また、その問題に対して教会のリーダーたちの会議はどのように結論づけたかを知らせるためです。
これをパウロは二つの戦いに分けて書いています。一つはエルサレム会議での律法主義者たちへの勝利(2章1-10節)です。律法主義とは何でしたか?律法を行うことによって、自分の義とすることです。行いによって人は神様に受け入れられ祝福され、救われると教えていました。だから、彼らは異邦人出身クリスチャンの割礼問題に非常にこだわっていました。
パウロを含む使徒たちは、この問題において、律法主義者たちの主張に少しも譲歩したり妥協したりせず、彼らの主張を排斥しました。律法主義は、人間の救いについて、人の熱心や努力によって左右されると教える、間違った教えです。救いは、キリストの完全な従順が私のためであると信じる人に与えられる、神様からの賜物です。
二つ目の戦いは、ペテロの偽善に対する戦い(2章11-21節)です。パウロのいるアンティオキア教会を訪れたペテロは、エルサレムから律法主義者たちが来たのを見ました。ペテロはそれまで異邦人出身のクリスチャンと共に食事をしていましたが、律法主義者たちを恐れて、ユダヤ人だけの席に移って食事を続けました。
律法によると、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしてはなりません。律法主義者たちはキリストの教会の中でも、以前のように律法の行いを続けていました。ペテロは、この律法主義者たちとの衝突や誹謗を恐れたのでした。
教会の尊敬されるリーダーの一人であるペテロが取った行動は、先のエルサレム会議の決定とは反するものでした。また「異邦人とは一緒に食事をしない」という律法遵守の有益を認めることになり、これは律法主義者たちが喜ぶことでした。ペテロの行動に、何人かのユダヤ人が惑わされたことも問題でした。その中には、バルナバもいました。
何より、ペテロは主イエスから直接教えられ(律法の食物規定の廃止)、幻のうちに神様からの指示(異邦人コルネリウスへの伝道)を受けた者でした。ペテロの行動は、彼が信じていることとは明らかに反することであり、これは厳しく非難されなければなりませんでした。
パウロはペテロの間違いに対して公に抗議し、何が問題であるかを指摘しました。今日の本文の17節からは、その指摘の後半です。ここで、二つ目のポイントに移ります。
二つ目のポイントは「律法に対して死ぬ」です。2章でパウロは、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると教えてきました。本日の聖書箇所である17節では、こう続けます。
「しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。」
私たちはパウロが生きていた時代と、彼の背景にある文化や言語の脈絡から遠く離れています。文章の構造も複雑なので、その意味が一見よく分からないかもしれません。特にこの文章は少し難解ですね。そのため読み飛ばしやすいかもしれません。
パウロがここで言っているのは、こういうことです。「ペテロたち含む私たちクリスチャン皆、律法の遵守にかける宗教に戻るのはやめましょう。律法は私たちを罪に定めるものです。律法を行うことでは義と認められず、イエス様もそのように教えておられません。」
さらに18節ではこう言います。「もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。」
ここで言う「自分が打ち壊したもの」とは、律法の遵守のことです。パウロは、これまでのガラテヤ人への手紙の内容から分かるように、律法を守ることで人が救われるのではないと教えてきました。
もし、パウロがペテロたちの行動を許すとなれば、それは決して些細なものではなく、以前のような、律法遵守によって自分を救いたいと思う宗教への逆戻りを許すことになります。これは主イエスの教え、福音の真理に反するものであり、パウロは自分自身を違反者であると証明することになります。
19節の前半です。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。」
パウロは、自分は死んだと言います。何に対して死にましたか?律法に対して死んだと言います。パウロと律法はどんな関係ですか?どうして、パウロは律法についてここまでのことが言えるのでしょうか。パウロは律法を守る競技の代表選手にでもなったのでしょうか?
ピリピ人への手紙3章6節で、パウロは自分について「律法による義については非難されるところがない者」だったと言います。すごいですね。ユダヤ教にいた頃のパウロは、まさに宗教エリートでした。有名な先生のところで学び、知識においては皆から一目置かれる存在でした。
ユダヤ教において学んだことを、当時のパウロはすべて守っていたと言っています。ユダヤ教には、旧約聖書だけでなく彼らの先祖が創作した様々なしきたり(長老たちの言い伝え、マタイ15:2など)がありました。パウロはこの重荷のような伝統までも、熱心に守っていたことでしょう。
そんなパウロが、自分は律法に死んだと言っています。「私は律法をすべて守ったので、免許皆伝です」、「律法にあって私は生き生きとしています」とは言っていません。その逆です。律法にいのちがないので、パウロは律法に死んだと言います。
確かにパウロは、ユダヤ教にいた頃は、彼自身が覚えている限りでは律法を文字通りに守っていました。しかし、律法についてイエス様は何と言われましたか?「そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛する」(マタイ22:37-40、マルコ12:33、ルカ10:26-28)ことだと言いました。
以前、ユダヤ教にいた頃の自分を振り返ったパウロは気付かされました。律法の遵守について、外に表れる形で、文字通り律法を守ることは幾分かできたかもしれない。しかしパウロは、彼の内面において、自分のすべてをもって神様を愛すること、そして、隣人を自分自身のように愛することはできませんでした。神様が定められた基準、本当の意味で律法を完全に守る基準には、遠く満たない自分を発見しました。
人は外面的にも、内面的にも律法を完全に行うことはできません。ですから、律法を行うことによって、いのちを得ることはできません。そこには神様との平和もありません。律法の役割の一つは人に罪を教えるものです(ロマ3:20、7:7)。だから律法を行ったところで、平安が与えられるわけもなく、喜びをもって守る力も与えられません。
だから、パウロは律法に対して死にました。そして、主イエスに出会ってパウロは、神に対して生きる者となりました。主イエスに出会う前のパウロは、神様のために生きる人ではありませんでした。
その頃のパウロは、救われるために律法を行う者でした。神様の祝福を獲得するために律法を行う者でした。神様を愛し、このお方と共に歩むといった生活ではありませんでした。
しかし、イエス様に出会ったパウロは、イエス・キリストにあって自分が神様に愛されており、既に受け入れられていることに気がつきました。パウロはもはや、神様に受け入れてもらうために、律法を行う必要がなくなりました。重荷として、または義務感、恐怖心から律法を行うのではありません。「神様、私があなたのために頑張っているのを見てください」、「頑張っているから救ってください」、「私は祝福されるために努力しています」と言う必要はなくなりました。
パウロは神様に向かって、神様のために生きていると言います。パウロの生きる意味、彼の動機が変わりました。自分のために生きる必要はなくなりました。パウロは、神様の御心のために生きたいと願うようになりました。この点については、次のポイントでさらに詳しく確認したいと思います。
三つ目のポイントは「キリストのいのち」です。19節の後半です。「私はキリストとともに十字架につけられました。」パウロがイエス様と一緒に十字架につけられたというのは、どういうことでしょう?文字通り、パウロはイエス様の隣で十字架刑に処せられましたか?いいえ、そういうことではありませんね。
私たちは先ほど、パウロの死について確認しました。どんな死ですか?律法に対する死でした。パウロは気づきました。キリストに出会う前のパウロの希望は律法の遵守にありました。律法を行うことによって、永遠のいのちを得ることができると思っていました。
アンティオキアで起こったことにも、同じ思想が働いています。救われるためには、信仰を持った後にも、律法の食物規定を厳しく守り、異邦人出身の人との交わりを制限しなければならないですか?
パウロはそうではないと言います。律法を行い、自分の義を表そうとした以前のパウロは死にました。どのようにですか?主イエスの十字架の死とともに死に、葬られて、もういません。
パウロはこう言っています。ペテロを含むアンティオキアの人々(さらにはこの手紙を読むガラテヤの人たち)。信仰者の義は自分によるのではなく、十字架につけられたイエス・キリストによります。もう自分の義を獲得するために律法を行う必要はありません。イエス様の十字架がありますから。自分の義を求めていた以前の私はこの十字架で死にました。
さらに20節の前半ではこう続けます。「もはや私が生きるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」パウロは、以前は永遠のいのちという高価な宝を得るためには、自力で頑張るものだと考えていました。パウロが律法においてものすごい努力家であった理由です。
しかし、主イエスに出会ったパウロは、以前の自分は十字架につけられて死んだと言います。以前の自分が死んだことによって、パウロは希望を失いましたか?むしろ、その逆です。パウロには、自分が希望していた、永遠のいのちが与えられました。
いのちを与える方はどなたですか?パウロの中に生きておられるイエス様です。パウロは以前は永遠のいのちを得るために、律法への従順に自分を駆り立たせていました。しかし、それは終わりのない果てしないもので、そもそも律法は永遠のいのちを与える用途のものではありません。
イエス様が、信仰者にいのちを与えてくださる方です。イエス様だけが、本当の意味で律法を全うされた方です。イエス様は、地上での歩みのすべてを通して父なる神様を愛し従いました。また、イエス様はご自分の隣人を愛しました。
そして、主イエスはご自分の大きな愛のゆえに、十字架の死にまで父なる神様に従われました。このキリストの父なる神様への完全な服従こそが、神様に受け入れられる唯一の完全な義です。人間の不完全な義とは異なります。
パウロが「キリストが私のうちに生きておられる」と言うのは、イエス様の義がパウロに移された=転嫁されたことを意味します。反対に、19節で言うようにパウロの罪、律法によって自分の義を表そうとしたことを含むパウロのすべての罪は、十字架上のキリストに移されました。
この義(イエス様の義)と罪(パウロの罪)の交換により、神様の前にパウロは無罪と宣告され、神様に受け入れられ、永遠のいのちが与えられました。パウロを救ったのは、律法を守ろうとした以前のパウロの努力ではなく、イエス様の完全な従順でした。イエス様の義がパウロに転嫁されたので、律法に死んだパウロはキリストにあって生きるのです。
では、パウロはどのようにして、イエス様の義を受けることができましたか?人はどうすれば救われますか?イエス・キリストの神様への完全な服従、従順は私のためであると信じる信仰によります。
この点、20節の後半は私たちに、信仰の大事な原理をいくつか教えてくれます。「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
まず、パウロは律法には死んだ存在ですが、肉においてキリストからいただいたいのちを生きる人となりました。パウロはパウロです。キリスト教信仰は、他の宗教や異端的な神秘主義者たちが言うように、神々と合一したりそれと同一な存在になるのではありません。主はパウロをパウロとして受け入れ、パウロの口によって人々に福音を伝え、兄弟たちを励まし、神に感謝するようにされました。
次に、信仰の主体です。信仰、救いとは第一義的に個人的なものです。20節の短い文章の間に「私」という言葉が5回も用いられています(ギリシア語の聖書では7回)。家族が信じているから、または、自分はある共同体に所属しているから救ってもらえるというものではありません。自分自身がキリストを主と信じ、このお方と個人的な関係を持たなければならないことを教えます。
さらに、信仰の対象です。キリスト教信仰は何を、誰を信じますか?イエス・キリストです。イエス様に関する何らかの事柄を信じるわけではありません。主イエスのご性質を信じるものでもありません。私たちの信仰は、イエス様からいただける何かを信じるものでは決してありません。
神の御子、キリストを信じる信仰です。20節の後半は、神の御子イエス・キリストがどんなお方だと教えますか?私を愛してくださった、イエス様だと言います。私をよく知っておられ、私がどんな人であったとしても、私を愛してくださるお方です。
また、私のためにご自分を与えてくださった、イエス様だと言います。十字架の上でご自分を捨ててくださった贖い主、イエス様です。生まれながらの人間は皆、罪の罰としての死が待ち構えている存在です。
私を愛したイエス様は、私の代わりにご自分のいのちを捨てて十字架の上で死に、よみがえり、信じるものに永遠のいのちを与えてくださるお方です。私たちはこのイエス・キリストを信じます。
最後に、21節を確認してメッセージを終わりにしたいと思います。パウロが「私は神の恵みを無にはしません」と言ったのはどう言う意味でしょうか。
人がもし律法を行うことによって神様に受け入れてもらえる、すなわち、義と認められるのであれば、「キリストの死は無意味」だということです。しかし、私たちがこれまでのメッセージで何度も確認してきましたように、人の努力は、自分の救いにおいては無意味です。何の効力も持ちません。
覚えていただきたいです。信仰者の救いは、自分の努力によって達成したものではありません。神様の賜物、プレゼントです。救いにおいて、信仰者は自分の功績を自慢することはできません。誇る者は主を誇れとある通りです。
イエス様は私たちを愛してくださいました。私たちの救いはイエス様によって成し遂げられたものです。信仰者は自分の今の霊的な状況や努力、頑張りとは関係なく、既に神様に受け入れられています。主の恵みは決して揺るぎません。今週も、この信仰の確信に固く立って歩む一週間となるように、主にあって願います。
