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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | 黙示録21章5-7節 |
| さ ん び | Opening Praise | 新しい命 |
| さ ん び | Praise | 希望の歌 |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第8戒) 出エジプト記20章15節
エペソ人への手紙4章28節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ミカ書7章18-20節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書7章37-44節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 聖歌273番「命の泉に」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | コリント人への手紙第二8章8-9節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。全然のどが渇いていないのに、コップいっぱいの水を「がんばって飲みなさい」と言われたら、どうでしょう。のどがカラカラの人には、その水はごちそうです。でも、お腹がタプタプの人には、飲むのがつらいだけの水です。まるで罰ゲームみたいですよね。水は、本当にのどが渇いている人にしか、おいしくないからです。今日の聖書で、イエス様は「だれでも喉が渇いているなら、わたしのところにきて飲みなさい」と話しています。イエス様は私たちに「いのちの水」(生きるための大切な水)をくれる、と約束してくれました。でも、それは「喉が渇いている人」にしかあげない、とおっしゃいます。
私たちが教会に来ているのは、自分たちの心が渇いていると分かっているからです。逆に、イエス様を信じられなかったり、神様の言葉がおもしろくない時、教会に来るのがつらい時は、もしかすると、自分は喉が渇いていないと思っているからかもしれません。ですが、イエス様はこう言います。「みんなは渇いていないんじゃないよ。とってもとっても渇いていることに、ただ気づいていないだけなんだよ。本当は、世界中の人が砂漠のように渇いている。でも、私はその人の心を、いつも流れる生きた水の川に変えることができるよ!」と約束してくださいます。今日の聖書を見て、イエス様のこの大切な約束をじっくり聞いてみましょう。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くということです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。
ヨハネの福音書の中を読んでいくと、イエス様が「世について、その行いが悪いことを証し」されると、ユダヤ人たちはイエス様に反対し始めることがわかります。私たちも、自分の罪深い、ありのままの状態が露わにされると、恥ずかしくなり、周りの人に拒絶されるかもしれないとか、神様に拒絶されるかもしれないなどと思って全力でイエス様の存在と教えを阻止しようとすると思います。しかし、神の民がイエス様を脅威に感じたとしても、イエス様は、拒絶されることを恐れず、真っ向から神の民の疑問、殺意、反対に立ち向かわれます。これは、ただ自分の正さをアピールするためではありません。イエス様は、どれほど、群衆が神様のことばを聞きたくない様子であったとしても、彼らを説得しようとされました。そして、イエス様は群衆と対話する中で、なぜ群衆が信じようとしないのかを愛をもって、真実を語られたのです。前回、群衆が信じる事が出来ない理由を見ました。①神様に興味がないから。②自分の自由を失いたくないから。③イエス様に魅力を感じないから。④イエス様は弱いと思っているから。この4つの理由があるゆえ、群衆はまだイエス様を信じることができないと、イエス様は指摘されたのです。本日の箇所は、イエス様と群衆の対話の結論だと言えます。
結論の意味を深く理解するためには、イエス様が群衆と対話されていたその場所と背景が非常に重要になります。ユダヤ教において、仮庵の祭りは最も人気のある祭りの一つであり、多くのユダヤ人が年に一度、首都エルサレムへ上ってきました。イスラエルが一つの国として始まったきっかけは、神様がユダヤ人を430年間続いた奴隷制度から救い出された時です。そして、その後に四十年間にわたって荒野で民を導き、「乳と蜜の流れる」約束の地を与えられたのです。この「仮庵の祭り」は、エルサレムで「仮庵」を建て、一週間のテント生活を体験することを通して、神様の偉大な救いを思い起こし、感謝を捧げる祭りなのです。
初代教会の歴史学者(Everett Ferguson)はこの祭りの様子をこのように描写しています。
仮庵の祭りでは、人々がなつめやしの枝とシトロン(レモンに似た果実)を持って行進しました。毎日ハレル(詩篇113篇~118篇)が歌われる間、それらを喜びの表現として高く振りかざしました。祭りの期間中、毎朝、祭司たちはシロアムの泉から水を汲み、祭壇に注いで神様に水を献げる儀式を行いました。最終日には、祭司たちが祭壇の周りを七回巡り、来るべき雨の季節のための降雨を祈願しました。また、神殿の庭の周りには四つの大きな燭台(メノラー)が設置され、毎晩、夜通し燃やし続けられました。夜が明けるまで、踊りや笛の演奏が続き、レビ人たちは「都上りの歌」(詩篇120篇~134篇)を、イスラエルの庭と女の庭の間にあるそれぞれの段(階段)で一節ずつ歌い上げました。
仮庵の祭りの主な目的は、収穫のために、神様に雨のために祈るためですが、それだけではないとよくわかります。歌われていた詩篇を読んでいくと、神の民がもっと大きなことを待望していたことが分かります。
神の民は、神様が与えてくださった約束の地に住んでいたのにもかかわらず、「潤っている」生活を送っていなかったのです。むしろ、イスラエルは、実りのない、いのちのない荒地に例えられました。それはなぜでしょうか?旧約聖書を読むと、当時のイスラエルは、枯れた木あるいは荒野として例えられています。神の民が神様のことを忘れ、ことばに従わず、良い実を結ばないブドウの木と例えられました(イザヤ5:1-6)。そのため、霊的ないのちのないイスラエルは「干からびた骨が散乱していた平地」としても例えられました(エゼキエル37:1-4)。ですから、神様はこのように結論付けられました。「枝が枯れると、それは壊され、女たちが来て、それに火をつける。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方はあわれまず、 これを形造った方は恵みをお与えにならない。」(イザヤ27:11)その結果、神様はさばきとして、異国がイスラエルを支配することを許され、社会的に、霊的に、イスラエルがますます「荒れ果てて」、いのちのない「荒れ地」となってしまうのです(イザヤ1:7,6:11参照)。ローマ帝国に支配された1世紀のイスラエルは正しくそのような状態になってしまったのです。皆さんも自分の今までの歩み、判断、生活を振り返ってみると、自分の人生は「荒れ果てた地」になってしまったと思うかもしれません。
しかし、このようなさばきの預言の中に、神様は神の民に希望を与えられたのです。「主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、 あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。」(イザヤ58:11-12)イスラエルの罪で荒れ果ててしまった土地を、神様ご自身が潤わせるという約束です(イザヤ43:19-21参照)。それを最も明確に描いている箇所はエゼキエル47:1-12の預言です。この預言は、神様の新しい神殿から川が流れ出て、その川がすべての魚が死んでしまう「死海」に流れ、その水を良い水に変え、非常に多くの魚が生きることができます。そして、その川が荒野であるイスラエルに流れ、「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつけ」、荒れ果てた荒野が潤うのです。これは文字通りの預言というよりも、神様の救いの比喩なのです。神様がいつか、神の民の荒れ果てていた王国、生活、魂を潤して下さることを約束されていたのです。ですから、仮庵の祭りの中心にあった儀式は、水の儀式です。そして、神の民が「都上りの歌」(詩篇120篇~134篇)を歌っていた理由は、いのちの水が流れ出る新しい都、新しい神殿を待ち望んでいたという意味もあります。このようなことを待望している神の民と、イエス様は数日間も対話されました。
そして、仮庵の祭りの最後の日に、イエス様はこの対話の締めの言葉を語ろうとされました。イエス様は、数学の問題の答えを説明するように、淡々と話されませんでした。「私を信じるかどうかは一人一人の判断です」というようなドライな結論でもありませんでした。イエス様は私たちの罪深さと頑なさを露わにされましたが、私たちを裁かれませんでした。イエス様を殺そうとする群衆。イエス様を馬鹿にしていた群衆。イエス様の話を否定していた群衆。イエス様は、群衆の中に立ち上がり、大きな声で語られました。イエス様は、神様の「預言者」として、また、神様の「使い」として、神の民をいのちへの道へと招かれたのです。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
これがイエス様の最後の締めの言葉です。これもまたまた驚きのことばです。
イエス様は、神様がいのちの水の源であるとはおっしゃっていません。また、神殿が生ける水の川の始まりだともおっしゃっていません。そして、イエス様は、川のほとりは神様の教えで、神様の教えに根付く人は実を結ぶことができるともおっしゃいませんでした。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」とおっしゃったのです。どの宗教をみても、ここまで言い切る大宗教のリーダーは—ユダヤ教のモーセやダビデ、仏教のブッダやダライラマ、イスラム教のムハンマド、ヒンドゥー教の著名な先生たち―いません。イエス様だけが、「自分がいのちの水の源である」と主張されているのです。
しかし、イエス様はご自分のことを命の水として言われたのは、ナルシストだからではありません。「聖書が言っている通り」の事を、神の民に語られたのです。そして、これは遠い未来のことではありません。仮庵の祭りの最後の日に、祭司たちがシロアムの泉から水を汲み上げ、祭壇に注いで雨を祈り求めた直後に、イエス様は神の民の目の前で大声で叫ばれました。「私が、神様が約束された、あなたの荒れ果てた心から生ける水の川を流れ出させる、そのいのちの水です!もう待つ必要はありません!」とおっしゃったのです。
具体的に言うと「いのちの水」とはなんでしょうか。著者のヨハネは重要な説明を付け加えました。
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
「いのちの水」は、何となく感じる喜びや平安ではありません。「いのちの水」は、自分の飢え渇いた魂を潤す事の出来るような不思議な霊でもありません。もっと具体的なことを指しています。39節では、イエス様が栄光を受けられたゆえにしかいただくことができない「御霊」のことを指しています。それはどういう「御霊」でしょうか。
十字架を前にして、イエス様は、ご自分が受けられる栄光についてこう描写されました。
(ヨハネ17:4-5) 4 わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。 5 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。
つまり、御父に与えられた「わざ」「行い」「ミッション」を果たされたあとに、その報酬として受けるものが「栄光」なのです。イエス様が十字架を受けられた後の報酬として、聖霊様が約束される「栄光」がいくつかあります。聖霊様は、イエス様に栄光の蘇りの体と(ローマ1:4)、神様の右の座に座られる栄光の特権(イザヤ11:1-2, 42:1; 使徒10:38)を与えられました。そして、イエス様は御霊を注がれた王様として、御国を受け継がれたお方として、栄光の証印(黙示録5:6)が押され、神の子としての相続権を受けられ(ローマ8:16)、全世界を新しく造り変えることの出来る栄光の力(イザヤ44:3-4; 65:17)を約束されたのです。要するに、イエス様が受けられた「栄光」とは、御父に与えられた業を完成したあとでいただく「御霊」の事でした。では、それは私たちにどのような関係があるのでしょうか?聖書を読んでいくと、十字架にかけられたイエス様が、蘇られて天に昇られ、神の右の座に着かれて、天の御霊をいただいたとき、イエス様は信じる者に、その「栄光」、その「御霊」を分け与えられたのです。(それがペンテコステなのです。)
私たちが「救いの福音を聞いてそれを信じたことにより」、私たちは「約束の聖霊によって証印を押され」、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証【手付金】」になるのです(エペソ1:14-15)です。つまり、イエス様が完璧なわざを果たされた事の「報酬」を、私たちはイエス様を信じるだけで、イエス様の「栄光」「御霊」「いのちの水」を、ただで飲むことができるのです。
そして、著者のヨハネはこのように天国を描いています。
(黙示録21:5-7) すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」 6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。 7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
イエス様が全ての事を、最初から最後まで成就してくださったので、私たちはイエス様が獲得されたいのちの水の泉の永遠のいのちをただで飲むことができるのです。
ですから、それまでイエス様をなかなか信じられなかった会衆は、イエス様がおっしゃっていることに圧倒されました。「この方は、確かにあの預言者だ」「この方はキリストだ」と思い始め、信仰の種が芽生え始めました。イエス様を捕えようとしていた人たちもイエス様の救いの話を聞いて、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」と言ってしまうぐらい圧倒されます。しかし、「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」と言い返す人もいました。イエス様は、力強く救いの約束を宣べ伝えられましたが、それは、一つの真実の下で群衆を一致させるものではなく、むしろ、会衆を「信じる」人と「信じない」人に分裂させるものでした(7:43)。
この箇所から、覚えて頂きたいポイントを三つの質問にしてみました。
①荒れ果てた地のように、自分が渇いていることを認めていますか?
私たちはプライドの高い生き物ですから、この事実を素直に受け入れるのはなかなか難しいものです。私たちは、仕事や家事の忙しさ、ステータス、服装、あるいは自分や家族の経歴・実績、趣味、プライベートなど、様々な手段を用いて、「自分は満たされている」と周りにアピールするかもしれません。
しかし、イエス様は、それら全てを見通しておられます。忙しさで忘れようとする孤独感。笑顔で隠そうとする劣等感。お酒やセックスで埋めようとする虚しさと疲労感。見栄えと権威で紛らわそうとする悲しみと怒り。私たちは、自分自身の選択と生き方によって、人生が荒れ果て、干からびた骨のように乾ききっていることを、どんな水で自分を満たそうとしても、なかなか潤すことができないことを認めますか? 私たちは、どれほどお金を注ぎ込んでも、どれほど懸命に努力しても、どれほど現実逃避しようとしても、自分が手の施しようがない渇きを抱えていることを認めますか?
もし、そう認めているのなら、私たちは、自分を新しくしてくださる方を求めていることになります。それは、単に荒れ果てた地に少し雨を降らすくらいの力ではなく、死海におびただしい数の魚を生かし、砂漠のただ中に潤い豊かな園を成長させる力を持っておられる方が必要だと、認めているのと同じです。このように、自分の必要を認める人だけが、イエス様のもとへ行くことができます。そして、感謝すべきことに、イエス様は誰をも拒まず、全ての人を招いておられます。
②イエス様が私たちに飲ませてくださるのは、命の最低限を満たすくらいのただの「水」ではなく、神の右に座る王の「栄光の杯」であることを知っていますか?
イエス様が私たちに差し出してくださる「いのちの水」を軽く見てはいけません。イエス様が与えてくださる「いのちの水」は、聖霊様です。聖霊様が、イエス様に栄光の蘇りのからだを与えられたように、私たちにも蘇りのからだが与えられます。聖霊様が、イエス様に御国を受け継ぐ権利を与えられたように、私たちもイエス様との共同相続人になるのです。聖霊様が、神の子としての王権を注がれたように、私たちをもイエス様と同じように神の子にしてくださるのです。聖霊様が、イエス様を永遠のいのちで溢れさせたように、私たちも心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエス様は、抽象的な比喩を用いられません。イエス様は、具体的な希望を与えてくださいます。
しかし、だれでもただで、イエス様の杯から飲めると言う理由を忘れてはいけません。500mlのペットボトルを飲むため、子供を養うため、会社を成功させるため、ノーベル賞を受賞するため、金メダルを取るため、そのためには、何かを犠牲にしなければなりません。私たちが御霊という「命の水」をただで飲むことができるのは、イエス様ご自身が、ご自分のいのちをささげられ、最後の最後まで神様のご意志を全うしてくださったご栄光が報われたからです。そして、それをイエス様は惜しむことなく、私たちに分けてくださったのです。このように具体的に考えると、イエス様以外で、そのような方と出会ったことはあったでしょうか?
③イエス様の杯から飲むことによって、周りの人が、あなたを受け入れるか受け入れないかの二つに分かれることを覚悟していますか?
イエス様がいのちの水を差しだされたときに、群衆は二つに分裂し、イエス様を「キリスト」「あの預言者」として認め始めた人と、「キリストはガリラヤから出るだろうか。」とイエス様をちょっぴり馬鹿にする人がいました。それと同じように、イエス様の杯から飲むことを決心するなら、私たちがこれまで歩んできた人生の道筋、人間関係に、必ず波風が立つことを覚悟しなければなりません。なぜなら、「いのちの水」を飲む者は新しく生まれ(ヨハネ3:1-8)、今までの価値観は、全く無意味なものとなるからです。しかし、私たちの歩み方を見て、イエス様のいのちの水に引かれる人も出て来ますし、拒絶したり、理解しない人も出てきます。
この栄光の杯を受け取ることは、一時的にこの世からの拒絶を意味するかもしれません。イエス様が歩まれた十字架の道は、私たちが歩んでいる道なのです。しかし、私たちの道は十字架で終わりません。私たちは、イエス様と同じ道を体験しているという、究極の慰めを思い出す必要があります。イエス様は、十字架の苦難の後に、死から蘇り、天に昇られ、今や神の右の座に着座しておられます。私たちも、イエス様と同じ苦しみと拒絶を受けますが、同じ栄光も約束されています。私たちがこの世で負う一時的な苦しみ、孤独、拒絶は、全てその栄光への道であり、その慰めは計り知れません。ですから、渇きを認めて、イエス様の招きに応じた私たちは、この地上の渇きを満たそうとする虚しい努力をやめ、ただキリストのもとへ行きましょう。なぜなら、イエス様こそ私たちの確かな希望であり、私たちの魂を永遠に潤す、尽きることのないいのちの水だからです。お祈りします。
