2025年11月23日礼拝 説教 「わたしは世の光です」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ書60章1-3節
さ ん び Opening Praise 詩篇100篇
さ ん び Praise 愛の光輝きーShine Jesus Shine
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第9戒)出エジプト記20章16節

エペソ人への手紙4章29節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ヨハネの手紙第一 1章7-9節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌198番「目を上げわたしは見る」
任職式 Installation Ceremony 呉載炫 教会主事
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書7章45-52節、8章12-30節
聖書の話 Sermon 「わたしは世の光です」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌353番「あなたこそわが望み」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ピリピ人への手紙4章14-17節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。もし、公園にいるあなたに、見知らぬ30代の男性が近づいてきて、「私はあなたの暗闇をいのちの光で照らし、あなたを救います。私を信じれば、最高の人生になります!」と言ったら、すぐに信じますか?むしろ、「危険な不審者だ」と思ってしまいますよね。では、もしその人とあなたがある程度時間を共に過ごし、彼の人柄を知り、突然「私はあなたの暗闇をいのちの光で照らし、あなたを救います」と言われたとしたらどうでしょう。少し戸惑うかもしれませんが、不審者だとは思わないかもしれません。それでも、「この人は本当のことを言っているのだろうか?」「本当に私を助けるためなのか、それとも自分の利益のためなのか?」と疑いの気持ちは残るかもしれません。しかし、もしこの人が、たとえみんなに嫌われ、誤解され、馬鹿にされても、嘘をつかず、諦めずに「私はあなたの暗闇をいのちの光で照らし、あなたを救います」と私たちに言い続けたとしたら、「もしかしたら、本当かもしれない…」と思えてきませんか?

実は、今日の聖書箇所は、まさにそういう話です。イエス様は、繰り返し繰り返し、イスラエルの人々に、ご自分がこの世の暗闇の中でさまよい死んでいる人たちに、救いと希望を与える「いのちの光」だと言い続けます。しかし、なかなか誰も信じてくれませんでした。イエス様は、なかなか信じようとしない人たちに、愛をもって真実を語り続けます。しかし、周りの人々はイエス様の話を聞かず、馬鹿にし続けます。そのような状況でも、イエス様はひたすら私たちを説得しようとされます。その姿を見た人々の中には、こう思い始める人がいたのです。「イエス様の言っていることは本当かわからない。しかし、イエス様を馬鹿にしている人たちよりも、イエス様は私たちのことを愛してくださっているのではないか」と。イエス様は、私たちに対する愛については、誰にも負けません。人々がどれほど否定しても、イエス様はひたむきに真実を語り続け、私たちが信じられるようにと、その愛の究極の証明へと向かわれます。今日は、その決して諦めない愛と光について考えたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くと言うことです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

 

ヨハネの福音書の最初の4章を読むと、イエス様は、神の民(イスラエル人)に、ご自分がどのような人物なのか、そして、どのような救いをもたらすのかを聖書から教え、いくつかの奇跡を行われました。多くの人たちは、イエス様の話を表面的に信じ、「聞いたことのない教えだ!」「イエス様が行われたしるしはすごい!」というふうに受け入れたのですが、イエス様がおっしゃっていることの核心は、全く受け入れませんでした。むしろ、無視していました。何度、イエス様がいろんな角度から教えたり、いろんな奇跡を行われても、人々は「いい話だね」とお茶を濁し、するっと逃げるのです。私たちもークリスチャンであっても、クリスチャンでなくてもー同じようなことをしているかもしれません。

5章から7章を読むと、イエス様のアプローチが変わります。会衆がまた逃げないように、神の民がイエス様の話を無視しないように、イエス様はイスラエル人の癪に障るような話をして、会衆の不信仰に真っ向から立ち向かわれました。すると、イスラエル人はついにイエス様の話をちゃんと聞くようになります。当時、イスラエル人の間で最も人気があった「仮庵の祭り」が首都エルサレムで行われました。

7章でイエス様は、どれほど、群衆が神様のことばを聞きたくない様子であっても、彼らをまた説得しようとされました。イエス様は、何日もかけて、群衆と対話し、なぜ彼らが信じようとしないのかを、愛をもって真実を語られたのです。そして、祭りの終わりに、イエス様は立ち上がり、大きな声でこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)つまりイエス様は、聖書でもなく、抽象的な神でもないご自分自身が、神の民に新しい永遠のいのちを与えられる存在であることを主張されたのです。それを聞いた会衆は、やっとイエス様がおっしゃりたいことが分かり始めました。「この方は、確かにあの預言者だ」「この方はキリストだ」というふうに群衆が言い始めます。つまり、何日間もの激しい対話の中で、イエス様が蒔かれた種が少しずつ芽生えてきたのです。

 

しかし、今日の聖書箇所を読むと、首都エルサレムの「祭司長たちとパリサイ人たち」は、イエス様を阻止し、捕え、殺そうとしました(44-45節)。この時代の背景から見ると「祭司長たちとパリサイ人たち」の組み合わせは非常に不思議な組み合わせです。「祭司長たち」は、ユダヤ教の中心である神殿の利用と収支を管理する者たちで、非常に影響力のある者たちでした。本来なら、祭司長は、聖書に基づいて、神様の権威によって選ばれるべきなのですが、当時のヘロデ王の時代では、王が自分の思うがままに選出していました。多くの場合、政治力と影響力のある家族が選ばれ、個人的な信仰深さや聖書の知識によって選ばれることはなく、コネや家系で選ばれることが多かったのです。そして、よく選ばれた祭司長たちの宗派は、「サドカイ派」で、彼らは社会的エリートでした(使徒4:1-2)。

「パリサイ派」は、「サドカイ派」とは正反対で、「社会的地位」に頼る貴族性ではなく、地域の会堂(シナゴーグ)で教えていた宗派でした。教師たちは、家系やコネによってではなく、個人的な信仰深さと知識で選ばれていたので、一般のユダヤ人たちに大きな影響を与えていました。パリサイ派はサドカイ派と違って、旧約聖書を厳密に守ろうとする上に、聖書を解釈する「伝統」も聖書と同じぐらい重視していました。パリサイ派は、サドカイ派が管理していた神殿が70ADに破壊された後に、ユダヤ教の主流になったとも言えます。

ですから、貴族制のサドカイ派と、実力主義のパリサイ派は、水と油なのです。反対の立場を表しているからこそ、イスラエル全体を代表しているようなものです。しかし、右派と左派のリーダーたちが連盟を組むほど、イエス様のことを憎んでいたのです。なぜなら、イエス様は、左派でも、右派でもなかったからです。もしそうであれば、イエス様はどちら側だったでしょうか?その答えが今日の聖書箇所の核心であり、今日のメインポイントとも言えます。

 

今日の聖書箇所は、非常に面白いところから始まります。サドカイ派とパリサイ派が送った神殿の警備員たちは、イエス様の話を聞いて、圧倒され、感動したのです。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」「信じる」とは言い切れないけど、今まで聞いたことのない話、今まで感じたことのない権威、今まで感じたことのない希望を、イエス様を通して体験したということです。

しかし、イエス様に反対していたパリサイ人たちの反論をよく読んでください。「おまえたちまで惑わされているのか。 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」怪しく、危ない教えを信じないように気をつけないといけないのは当然のことです。しかし、イエス様の教えについては一切触れていませんし、理解している気配さえありません。下役たちが感じたことを否定し、彼らの知識と経験のなさを訴えつつ、「エルサレムのリーダーたちはー右派も左派もーだれもイエスを受けいれないよ」、とただただ主張するのです。「律法を知らないこの群衆はのろわれている」とまで言うほどに、自分たちの正しさを訴えます。イエス様を否定するリーダーたちは、会衆が言っていることを真摯に聞くこともせず、導かなければいけない神の民をけなしてしまっているのです。

パリサイ派のニコデモは、同僚たちの発言に問いかけます。「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないでしょうか。」これは、イエス様が以前、彼らに語った言葉と重なります。(ヨハネ7:19, 24)「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。…うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」ニコデモはもともと、イエス様の教えを疑い、疑問を抱いていた聖書の教師でした(ヨハネ3:4, 9)。しかし、イエス様の話と歩みについて注意深く聞き始めて、ニコデモが尊敬していたエリートたちや長年信じてきた考えに、疑問を感じ始めたのかもしれません。その疑問について分かち合うと、エルサレムの祭司長たちはこう答えます。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」(ヨハネ7:52)残念ながら、ニコデモの本質的な疑問には答えず、ただ彼をガリラヤの田舎者として訴えたのです。

 

しかし、面白いことに、イザヤ書9章には、ガリラヤから大きな光である救い主が出ることが記されているのです。イザヤ9:1-2,6をお読みします。

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。 先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。 闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る。 死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く…ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

これは、神の民が闇の中で苦しんで歩んでいる中で、ガリラヤでメシヤである救い主が現れ、大きな光として、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光を輝かせるという預言なのです。皮肉なことに、聖書を一番よく知っているはずのエルサレムのリーダーたちが、聖書に何が書いてあるのかを見失ってしまい「ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」と言っているのです。

リーダーたちのニコデモに対する発言に対して、イエス様はこう返されました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)このやり取りが、どういう場面でなされたのかも忘れてはいけません。仮庵の祭りは、7日間の祭りです。神殿の庭の周りには四つの大きな燭台(メノラー)が設置され、毎晩、夜通し燃やし続けられました。その神殿は、高い山の上にありました。当時、電気はもちろんありません。ですから、多くのイスラエル人がエルサレムの仮庵で泊まっている7日の間、神の民は、暗闇の中で山の上の神殿を仰ぎ見ながら、大きな光を見ていたのです。この7日間を通して、神の民は自分たちがまだ、「寄留者」のようであり、ローマ帝国の支配のもとで苦しい暗闇の中で、荒れ果てた霊的な荒地をさまよっていることを思い巡らしていました。神殿の光は、神様にある希望を表していました。ですから、仮庵の最後の日に、イエス様の「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」という言葉は、非常にインパクトのある、感動をあたえるような言葉です。

しかし、エルサレムのリーダーたちはすぐに反対します。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」イエス様が神の民に希望と救いを与えようとされるとき、彼らは、イエス様がおっしゃった言葉を検証もせずに、すぐに反対するのです。

 

それに対してイエス様は、二つの証言を出されて、丁寧にエルサレムのリーダーたちの発言の矛盾を指摘されます。まず、イエス様は、「自分のことを、なぜ自分で証言してはならないのですか?あなたがたは私のこと知らないのに、なぜ私の証言を否定するのですか?」と言い返されました。例えば、私が皆さんに「私はアメリカのデトロイト市に生まれ、アメリカ国籍を持っています。」と言ったとして、私のことを全く知らない人が「何偉そうに、何の証拠もなく、勝手に自分がアメリカ人であると決めつけているの。お前は間違っている。」といきなり言い出したら、どう思いますか?違和感を感じますよね。マーク・ボカネグラがどこから来たのかを一番よく知っているのは、マーク・ボカネグラですよね?ですから、イエス様の証言を、何も知らない人がすぐに否定するのは、筋違いな事になります。

 

イエス様は、もう一つの証言を出されます。「わたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」 イエス様は、ご自分のお父様が神様であることを信じておられます。ある人は、「え?イエス様が神の子であることを、神様はどこで証言されたの?」と思うかもしれません。イエス様は、こうおっしゃいます。

5:37-39 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

つまり、旧約聖書は、「イエス様が世の光である」ということの神様の証言なのです。しかし、残念ながら、エルサレムのリーダーたちは、「あなたの父はどこにいるのですか。」と言って、神様ご自身の証言をも否定するのです。

 

それで、イエス様はもう一度、救いの言葉を与えようとされました。

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。…あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 24  それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

イエス様は、逆の観点から説明されました。「あなたがたは、暗闇に住んでいる下にいる者なので、このままでは罪の中で死んでしまう。しかし、私は上から来た者であり、私を信じるなら、救われる!」、イエス様はもう一度、民を救いへと招かれたのです。しかし、エルサレムのリーダーたちは、「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」とイエス様を馬鹿にします。イエス様が5章から8章にかけて、ご自分のことを長々と説明されたのにも関わらず「あなたはだれなのですか?」とまたイエス様に聞くのです。

 

ですから、イエス様は最後にエルサレムのリーダーたちにこう言われます。

それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 …あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

当時のリーダーたちは、「人の子」があげられるとは、神様が選ばれたメシヤが王として「上げられ」ること指すと解釈していたと思います。しかし、イエス様は、エルサレムのリーダーたちに「あなたがたは私が十字架にかけられるまで、信じないでしょうから、私がこれからすることを見なさい」とおっしゃいます。

 

今日は長い聖書箇所だったので、説明が長くなりましたが、イエス様について覚えて頂きたいことを、短く三つのポイントに絞ってみました。

イエス様から逃げる必要はありません。イエス様は、暗闇の中で苦しんでいる私たちにいのちの光を輝かかせてくださるお方です。

エルサレムの群衆と同じように、私たちもいろんな理由でお茶を濁そうとするかもしれません。いろんな言い訳をして、イエス様からするっと逃げようとするかもしれません。信用していないかもしれません。イエス様の話をあまり理解していないかもしれません。しかし、はっきり言えるのは、イエス様の真意です。渇き切った私たちの心に、心の奥底から溢れ流れる出るほどの、生けるいのちの水を与えようとされているのです。今、暗闇の中で自分の恥ずかしいところを隠そうとしているなら。今、罪の闇の中に捕らわれているなら。今、死の陰の中で一人で苦しんでいるのなら。イエス様は、あなたにいのちと希望の光を輝かせたいと思っておられるのです。逃げる必要はありません。むしろ、イエス様の光を浴びてください。

 

イエス様は、右派と左派とは違い、私たちを否定されるのではなく、罪と死から救い出すために、一生懸命私たちを説得しようとされるのです。

エルサレムの右派と左派のリーダーたちは、真っ向からいのちの光であるイエス様に反対します。どのように反対していたか、よく考えてください。彼らは、イエス様がおっしゃったことなど聞いてもいません。聖書を引用することもありません。ただただ、会衆が無知であると訴えます。イエス様がただの田舎者の若僧だと主張します。ただ相手を否定して、説得しようとしているのです。しかし、この対話をよく読むと、相手がどれ程怒ったとしても、イエス様が丁寧に、回答してくださっているのが分かります。イエス様も私たちに愛をもって、あきらめず、一生懸命に説得しようとされます。それは、私たちがイエス様をご自分の傘下にするためではありません。私たちを罪と死から救い出すためです。

 

私たちがイエス様の言葉を受け入れなくても、イエス様は十字架へ向かわれ、そこから世に光を放たれたのです。

イエス様が何回も群衆を説得しようとされても、神の民は信じませんでした。ですから、イエス様は「人の子を上げたとき、…わたしが『わたしはある』であること…を、あなたがたは知るようになります。」とおっしゃいました。今まで読んできたヨハネの福音書の中には、「人の子を上げる」と言う表現は、1回しかありません。もう一度読みます。

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。 15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

仮庵の祭りの山の上にある神殿の燭台と違って、イエス様は、カルバリーという山の上に、呪われた蛇のように、私たちの代わりに罪人として十字架につけられました。それは、イエス様の十字架を仰ぎ見て、信じる者がみな永遠のいのちを持つためです。つまり、まだイエス様が、暗闇の中で苦しんでいる私たちのいのちの光であることを信じていないのであれば、十字架をご覧になってください。神様がイエス様を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、イエス様によって世が救われるための究極の証拠です。それ以上の証拠はありません。むしろ、それ以上の証拠を求めてはいけません。ぜひイエス様を世の光として信頼して、歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church