2025年11月30日礼拝 説教 「荒野の日の祈り」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ローマ人への手紙8章35-39節
さ ん び Opening Praise Here I am to Worship
さ ん び Praise Still ~静まって知れ~
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第10戒)出エジプト記20章17節

ヤコブの手紙4章1-2節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God 詩篇130篇3-5節
賛   美 Hymn 詩篇歌51B 51篇(8-14節)1-3番
聖書朗読 Scripture Reading 詩篇63節1-11節
聖書の話 Sermon 「荒野の日の祈り」

呉載炫 教会主事

賛   美 Hymn of Response 詩篇歌 67 篇
主の献金の招き Lord’s Call to Give 詩篇96篇7-9節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

皆さんは、一人暮らしをしたことはありますか?私は結婚するまで、15年ほど一人暮らしをしていました。大学のために東京に出てきて、それからずっと一人暮らしをしていました。

大学1年生で、一人暮らしをするとどうですか?自由ですね。何時に寝て何時に起きても、何を食べて、または食べなくても親兄弟に小言を言われることがない。1−2週間は王様になった気分です。しかし、しばらくすると気がつきます。実は一人暮らしって大変なんですね。

一人で炊事、洗濯、掃除をしてみると、今まで親と兄弟が大きな犠牲を払ってくれていたんだと気付かされます。仕送りとかあれば良いのですが、それもなくなるとバイトをしなければ缶ジュースを一本買うのもものすごく躊躇する。あの頃の私は貧乏で孤独でした。まさに、人生で初めて荒野に立たされた経験をしました。

さて、先ほどお読みした詩篇63篇は大変有名なダビデの詩篇です。63篇を元にしたプレイズも何曲もあります。しかし、ダビデはこの時、順風満帆ではありませんでした。表題はダビデが荒野にいたと言います。

荒野は厳しい環境ですね。食べ物や飲み物もなく、決して満ち足りることのない場所です。蛇やサソリなど危険な生物がいたり、盗賊や強盗もいたりするかもしれません。ダビデは、孤独と苦難の中に置かれていました。

本日はこの詩篇63篇から次の三つのことを考えたいと思います。一つ目は「ダビデの詩」です。荒野でのダビデの祈りを見てみましょう。二つ目は「詩の完成者キリスト」です。ダビデの詩篇を究極的に完成されたイエス様について学びます。三つ目は「荒野の日において」です。霊的な荒野にいる時、私たちはどう祈ることができるか、共に考えます。

 

まず、一つ目のポイントは「ダビデの詩」です。この詩篇を理解するために、ダビデの状況について考えたいと思います。ダビデはどうして荒野にいたのでしょうか。

まず、11節の前半を見てみましょう。主語は「王」とあるので、これがダビデを指すのであれば、ダビデが王になってからのことです。次に、9〜10節にはダビデの命を狙うものがいるので、王であるダビデが命を狙われて、荒野に逃れていると考えることができます。

この点、聖書を通してダビデの歴史を辿ると、アブサロムの反逆の時のように思われます(Ⅱサム15章)。ダビデは息子アブサロムの謀反によって王座から追い出されるような形で、命からがら逃げました。王位も名誉もすべて失い、荒野で命を狙われる立場になりました。

しかし、詩篇63篇には息子アブサロムに対する個人的な恨みや後悔は見られません。また、王座や名誉を奪回したいという思いも語られていません。王宮に戻りたいと願う祈りもありません。

それどころか驚くべきことに、63篇には賛美の祈りが溢れています。状況的には苦しくて、辛くて、また途方に暮れて、どうすればいいか分からないはずです。ではどうして、ダビデは神様を賛美し、神様により頼む祈りができているのでしょうか。

これはダビデの信仰によるものです。これまでの人生に注がれた恵みを振り返り、自分自身を励ましているように思えます。恵みの神様を見上げるように、この詩篇をもって自分を鼓舞しているのです。

では、ダビデにとって神様はどんなお方ですか?ここから1節からのダビデの祈りを通して、神様と神様のくださる恵みについて確認していきましょう。

1節です。「神よ、あなたは私の神。」ダビデは神様を、私の神様だと言っています。「イスラエルを治める神」や「教会や共同体の神」ではありません。神様以外の他の助け、他の誰かを求めているわけでもありません。

ダビデは渇いています。荒野では喉が渇くだろうな、と思いますが、この渇きは神様に対するものです。神様との交わり、神様の恵みを求めています。ダビデはこの逆境の時に、生きておられ、人格的に、ダビデと交わってくださる神様を求めています。

ダビデがこのように神様を求めることができたのは、既に神様との恵み豊かな交わりを経験したからに他なりません。2節はダビデが神様の力と栄光を経験したのは、聖所、神殿で神様を礼拝した時だと回想しています。ダビデが礼拝する時、大勢の民も共にいました(Ⅱサム6章など)。

神様は礼拝において、一人の礼拝者としてダビデと交わってくださいました。ダビデは荒野の中で、この恵みを思い起こし、切に神様を求めます。そして3節では神様を賛美します。彼の賛美の理由は、いのちにもまさる恵み、大きな恵みでした。

神様は今も、ここで礼拝する私たち一人ひとりの礼拝をお受けくださり、私たちと交わってくださいます。「神様は私の神です。あなたのいつくしみ、恵みは私の大事に思っているどれよりもまさります」と告白できる恵みが、私たちにもありますようにと願います。

4節からはダビデの祈りはさらに深まり、広がっていきます。3節までは唇で賛美していましたが、4節では両手を上げています。神様の恵みのゆえに、荒野にいる今だけではなく、彼の一生の間、主をほめたたえたいと告白しています。

5節の表現は面白いですね。この脂肪と髄というのはお肉のことですが、食べ物としては私たちにあまり馴染みのない表現かもしれません。例えば、「骨付き霜降りカルビ特上」と言い換えられるかもしれません。

ダビデはいま荒野にいます。王の食卓で振る舞われる上等な食事はありません。それでも、ダビデのたましいは満ち足り、口は喜びに溢れて神様を賛美しています。神様との交わりから与えられる恵みは、人を霊的に満たし喜びを与えます。

6節のダビデの告白はこう言い換えることができます。私は皆が寝る時に寝室で神様のことを考え、一晩中、神様のことを黙想します。信仰者はこの世の喧騒から離れ、祈りやみことばの黙想を通して、神様との深い交わりに入ることができます。ダビデは荒野でも主を求め、信仰の確信を次のように宣言します。

7節と8節です。「まことにあなたは私の助けでした。 御翼の陰で私は喜び歌います。 私のたましいはあなたにすがり あなたの右の手は私を支えてくださいます。」

神様の助け、この時ダビデの場合はアブサロムの手からの守りは、親鳥が雛を守るイメージで語られます。信仰者は神様にあって、神様のうちに、広く温かく力強く守られます。だから心配せず、御翼の中で喜び歌うことができます。

また、神様にすがるというのは、至近距離にいる、一体のように合わさるという心の姿勢を意味します。神様にすがる私たちを、神様は右の手で支えてくださいます。そして、9節と10節にあるように、悪いものをさばき、救いを与えてくださいます。ダビデは、このように信じ、期待し、宣言しました。

ここで、二つ目のポイントに移ります。

 

二つ目のポイントは「詩の完成者キリスト」です。11節です。「しかし王は神にあって喜び 神にかけて誓う者はみな誇ります。 偽りを言う者の口が封じられるからです。」

ダビデは祈りの終わりに、王は喜び、神にかけて誓う者=教会は誇ることになると言います。それは、神様の正しいさばきが、後に行われると信じているからです。今は荒野で彷徨っていても、神様がダビデとアブサロムの間を正しくさばいてくださるという信仰が、ダビデにはありました。

ここまで、私たちはダビデの荒野での経験と、彼の祈りを見てきました。本当の喜び、真の助け、義なるさばきは神様にあるという祈りです。ここまでは詩篇を読む時の第一義的な読み方でした。

今一度、11節を見てみましょう。11節の冒頭は「しかし王は」という言葉から始まります。これは一見、イスラエル王国の王であるダビデ自身を指しているように思われます。確かに、ダビデは荒野にいますが、イスラエルの正統的な王であることは間違いありません(Ⅱサム7章の神様との契約が保証)。

しかし、63章11節まで、ダビデは自分のことを私(一人称)と呼んできました。では、どうして11節では主語を「私」と言わず、一歩引いて客観視しているように「王」と呼んでいるのでしょうか。

この解釈について聖書の学者たちは、ダビデはやがてアブサロムとの戦いで自分が勝利することを知っていたから(マシュー・ヘンリー)、または、神の民の代表として(カルヴァン)言ったものだと言います。いずれの意味に従っても確かなのは、ダビデは王位に復帰し、神の民の歴史は続くということです。

ここで思い起こしていただきたいです。神の民が住まう国と、その王が究極的に指す方はどなたですか?イエス・キリストです。ダビデは、後に来られるイエス様を指し示す予型のような人物です。これまでの詩篇の説教で学んできたように、この詩篇を祈り、完成させてくださったお方は、私たちの主、永遠の王である主イエスです。

三位一体の神であるイエス様は、人となってこの世界に来られました。地上ではご自分の思いによってではなく、自分を遣わされた方のみこころのために祈られました(詩篇63:1)。主イエスの地上の歩みは、御父の栄光を優先するものでした(63:2)。

イエス様のくださった恵みはいのちにもまさります(63:3)。この世の人々にとってもっとも大事なものは自分の命です。命より大切なものはないとよく言われます。

この「いのち」という言葉は、まずは肉体の生命を指しますが、その他にもこの世で楽しむことのできるあらゆるものが含まれると考えられます。つまり、クリスチャンにとっていのちは、神様から与えられた良いものの総称と考えることができます。

それでも、いのちより恵みの方が勝ると言えるのはどうしてでしょうか。主イエスが与える恵み=いのちの水を飲む人が、本当の意味でのいのちを持っているからです。

このイエス様の働き、イエス様の祈りがあるからこそ、私たちは昼も夜も(63:6)、キリストによって両手を上げて祈る(63:4)ことができます。イエス様のいのちにもまさる恵みは、脂肪と髄のように私たちを満たしてくださり、私たちの霊は満たされ口は喜びの賛美を歌うようになりました(63:5)。

私たちはイエス様によって守られ(63:7)、神様の御許に近づくことができます(63:8)。信仰者がこれらの祝福に与ることができるのは、どうしてでしょうか。それはキリストの贖いのみわざによるのです。

私たちは本来、滅びるべき子らでした(63:9)。罪に陥ったものに求められるのは、そのいのちです。ダビデはアブサロムにいのちを脅かされていましたが、私たちの場合は、自分の罪が自分自身を滅びに差し向けるものでした。

本来であれば、私が生きるべき正しい人生を、イエス様が生きられました。本来であれば、私が死ぬべき死を、イエス様が十字架の上で死なれました。そして、イエス様は三日目の朝によみがえられました。

キリストを信じる者は皆、終わりの日にキリストと同じようによみがえります。永遠のいのちを生きる栄光の姿に造り変えられます。主イエスの贖いのみわざによって、私たちのいのちを狙う罪と死が滅ぼされました(63:10)。

ですから、私たちの王であるイエス様は、父なる神様にあって喜んでおられます。私たちは、イエス様のことを誇ります。私たちの敵は滅び、この世の荒野から贖い出されたからです(63:11)。

このようにイエス様は詩篇63篇を祈ってくださり、詩篇63篇を成し遂げてくださいました。

 

最後、三つ目のポイントは「荒野の日において」です。ここでは、私たちはどのようにすれば、自分たちの霊的な荒野から脱することができるかを考えます。詩篇63篇を通して、私たちはどのように祈ることができるでしょうか。

ここまで私たちは、詩篇63篇の祈りをダビデの視点から学んできました。また、この詩篇がどのようにキリストを通して成し遂げられたかも確認しました。

人はそれぞれの理由で、その人生が神様によって荒野に置かれる時があります。自分が望んでいなくても、荒野に置かれるわけです。聖書の人物たちも、実際の荒野に、また霊的な荒野に導かれました(モーセ、出エジプト後の民、ヨブ、エリヤ、バプテスマのヨハネ、パウロなど)。

自分が荒野に置かれているかどうかは、何をもって判断することができるでしょう。一概には言えませんが、人生が行き詰まっていると感じる時かもしれません。大きな試練や予期せぬ困難かもしれません。聖書通読や祈りの習慣が中々続かない時も、霊的な荒野にいると言えます。

キリスト者の信仰生活における荒野には色々な意味があると考えられます。荒野は霊的な訓練の時(モーセ、イスラエルの民)、神様との交わりに集中するため(バプテスマのヨハネ、パウロ)とも考えられます。

また、罪に陥ったことの結果である場合もあります。ダビデの場合はどうですか?ダビデ自身の罪と関わりがあるとも言えます。ダビデはアブサロムから逃げているわけですが、アブサロムとの関係にも罪が潜んでいたと思えます。

ダビデは、アブサロムがアムノンを殺害した時(Ⅱサム13:29)、適切な処罰を下しませんでした。アブサロムが殺人罪を犯すきっかけとなった事件(Ⅱサム13:1-22)に関しても、怒るだけで処罰はしませんでした。

ダビデはその後もアブサロムに法による裁きを下したり、親子関係を改善したりすることなく、政治的な理由でアブサロムを呼び戻しました。ある意味、アブサロムを政治的に利用したとも言えます。ダビデは正しい裁判を行う王としての職務と、家長として子どもを治める責任、神の代理として、愛をもってアブサロムを戒める責任を蔑ろにしました。

後にアブサロムは父ダビデ王に謀反を起こし、ダビデは荒野に逃げなければならなくなりました。神様はアブサロムの反逆を見過ごされたので、ダビデは荒野に逃れることになったということです。

こういう意味で、詩篇63篇において、ダビデにとっての荒野は神様の懲戒と考えることもできます。同時に、荒野は恵みと捉えることもできます。ダビデは荒野で命を保全することができました。また、神様との関係を振り返り、信仰を回復する機会ともなりました。

愛する会衆の皆さん。皆さんは今、どこにおられますか?ご自分が霊的な荒野にいると感じる場合、その時どうすればいいでしょうか。どのように祈ればいいのでしょうか。

まず、私たちの荒野の原因が罪である場合はどうでしょう。9節と10節で確認しましたが、私たちの究極の敵は自分自身の罪です。聖書は、罪は神様に対するものだと教えます(詩篇51:4、ルカ15:18、ロマ3:23など)。ですから、神様に立ち返り、神様との個人的な交わりを回復する機会としましょう。

罪のない、罪を知らない神様の前に、罪を持ったまま進み出ることはできません。主は悪人を退け、正しい人の祈りを聞いてくださるからです(箴言15:29)。神様はクリスチャンに聖であることを求められます。神様が聖だからです(レビ19:2)。

荒野にいる間、今日の本文1節でダビデが「神よ あなたは私の神」と呼んだ、私たちの神様に立ち返ることができますように。私たちは既に、十字架の上で私たちの罪を背負い、父なる神様を呼び求めたイエス様の贖いの犠牲によって赦されています。ですから、赦されない罪はありません。

悔い改める人には霊的な成熟が与えられます。ダビデはアブサロムを責めていません。アブサロムの反逆を乗り越えて、神様との個人的な交わりを求めるようになったからです。荒野は信仰者の成熟と訓練の場になります。

また、自分の霊的な渇きを満たしてくださるように祈ることができます。ダビデは荒野で、神様に渇き、神様をあえぎ求める(1節後半)と言います。私たちの心には、自分では埋めることができない渇き、例えば大きな穴のようなものがあると言えます。

ある人はこの渇きを自分の身を喜ばせることによって満たそうとします。美食や趣味、自己啓発に没頭しますが、中々満たされません。ある人は自分が置かれているこの世界を改善しようとします。ボランティアや政治活動に積極的に参加します。しかし、こういったムーブメントでは、この世を変えられても、自分の内面の渇きは満たせません。

この時、いのちにもまさる主の恵み(3節)を覚えたいと思います。この主の恵みは、元の言葉だと変わることのないいつくしみ、愛です。私たちは、以前はイエス様ではないもので、自分の肉を満足させようとする者でした。

しかし、イエス様は私たちの渇きをよくご存知です。体を喜ばせるものでは、私たちの渇きを潤すことはできません。主は変わらない愛をもって、私たちには想像もできない十字架の贖いのわざによって、主は私たちを満たしてくださいます。

主を求める者には、決して渇くことのないいのちの水(ヨハネ4:14)が与えられます。今日の本文の1節で主を求めていたダビデは、5節では、既に脂肪と髄が振る舞われたかのように満たされました。主を求める者は、荒野にあっても、ダビデのように渇きが満たされることを覚えたいと思います。

さらに、荒野の日の守りを祈ることができます。私たちは、神様が私たちを守ってくださること、助けてくださることを当然のことだと思う節があります。神様が私たちを守ってくださるのは当たり前のことなのでしょうか。

いいえ、そうではありません。イエス様のゆえに、私たちは守られています。神であるイエス様は地上におられる間、熱心に父なる神様の助けを祈りました。イエス様は贖いの働きを遂行するための助けをみ父に求め、み父はその必要をすべて満たされました。

主イエスを信じる者には、主イエスの義が与えられました。神様はご自分のひとり子の義を通して私たちを見てくださいます。ですから、私たちが神様に助けを求めると必ず与えてくださいます。

私たちを死と罪という敵から、危険から、人生の様々な問題から、大きな翼を広げて守ってくださるイエス様を覚えて祈りましょう。主は力強い右の手で私たちを支えてくださいます。

 

メッセージをまとめます。イエス様も地上におられる間、荒野で祈られました。父なる神様の助けを求められました。神様は、イエス様が十字架の働きを成し遂げられるよう守り、必要を満たされました。

私たちの王であるイエス様は、十字架の上で死に勝利しました。それで、神にあって喜びました。私たちはそれぞれ、どのような荒野にいるかは分かりません。願いますことは、荒野の日に、この詩篇を祈られたキリストを覚え祈ることができますように。お祈りを致します。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church