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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書9章6-7節 |
| さ ん び | Opening Praise | 主の民久しく(62番)~Come Thou Long Expected Jesus~日1、英1、日2 |
| さ ん び | Praise | あら野の果てに(87番) ~Angels We Have Heard on High~日1、英1、日3 |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第1戒)マルコの福音書12章29-30節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ローマ人への手紙5章9-11節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌90番 「天なる神には」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | マタイの福音書11章1〜12節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「クリスマスの期待」
呉載炫 教会主事 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌70番 「もろびと声あげ」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | マルコの福音書12章41〜44節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
アドベントの3週目、クリスマスが来週となりました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。古い歌に「街はにぎやかお祭り騒ぎ」なんて歌詞もありましたね。一年があっという間に過ぎ、毎年このようにクリスマス目前のこの時期になると、世間は浮かれ気分になります。
たくさんの人がまだイエス様に出会ったことのないこの日本ですが、どうしてクリスマスはこうも盛り上がれるのでしょう。そこに期待があるからではないでしょうか。みんなそれぞれ、クリスマスに期待しているものがあるのだと思います。
では、期待って何ですか?「期待」という言葉の意味を辞書で調べると、「実現をあてにして、心待ちにすること」、「望みながら待ち受けること」のようなことが書いてありました。人々はクリスマスに、何かを待ち望んでいるようです。
本日は、先ほどお読みしたマタイの福音書から、この「期待」について次の三つのことを考えたいと願います。一つ目は「人々のキリスト」です。クリスマスはイエス様の誕生日ですが、人々は何をイエス様に期待しているか考えましょう。二つ目は「ヨハネのキリスト」です。バプテスマのヨハネは、キリストの何を期待していたか見てみます。三つ目は「イエス・キリスト」です。こんなに皆の期待を一身に背負うイエス様は、ご自分について何と言ったか、イエス様のことばから学びます。
まず、一つ目のポイントは「人々のキリスト」です。人々はクリスマスに何らかの期待を寄せています。ここではしばしの間、この世はキリストについてどのように考え、何を期待しているか考えたいと思います。
世間はイエス様を、どういう人だと思いますか?人々はイエスを誰だと言いますか?学校では教科書に載っている偉人の一人として教えますね。他人を愛することに長けた人、または、自分自身を自慢したり贅沢したりしなかった謙遜な指導者だったと教えます。自分を侮辱する人たちのために祈る、許しの模範とも言われます。
また、道徳的な師と見る見方もあります。指導者たちを批判する革命家でありながら、優しい人だった。周りの人々、特に貧しい人や病人といった社会的な弱者の味方だったと考える人も少なくないでしょう。
イエス・キリストに対するこの世の理解は、これくらいのものかもしれません。概ね、間違いではないでしょう。まとめると、「イエスはとても倫理的な偉人の一人であった。」
人々のクリスマスに対する期待はどうでしょうか。クリスマスは何の日だと思いますか?一つは休日ですね。日本ではクリスマスは平日ですが、年末年始の休みのシーズンの突入を知らせる、冬の風物詩的な感じですね。子どもたちの学校では、もう冬休みに入っています。
また、家族と過ごす時間とも思われています。家族や恋人、近しい関係の人たちと一緒に時間を過ごし、絆を深める時とされます。プレゼントを贈ったりもするので、クリスマスプレゼントの期待も高まります。
ボランティアや寄付など、良いことをする時期ともみなされます。平和を願うシーズンでもあります。理由はさておき、クリスマスだから争いはやめて、仲良くしようという声もよく聞こえてきます。
「クリスマス」と聞いたら、何を一番に思い浮かべますか?窓の外は雪が降り、暖炉のついたお部屋、綺麗なクリスマスの飾り、クリスマスっぽい音楽、特別なご馳走など、暖かい雰囲気の情景が浮かぶかもしれません。ウキウキしてきましたね。この世がクリスマスに期待するのは、こういうものです。
しかし、クリスマスに対する世間のこういった期待には大事なものが抜けています。クリスマスの主人公であるイエス・キリストです。イエス様がご自分の降誕について何と言ったかは、眼中にありません。イエス様がこの世で関心を持たれたものとは、かけ離れています。主イエスがこの世に来られた目的とはまったく別の祭り事と化しています。
私たちの理解と期待は、どうですか?この世のものと違いますか?年末の雰囲気、年に一度のイベントとして捉えてはいませんか?今日のみことばを通して、主イエスのご降誕について、学びたいと願わされます。ここで二つ目のポイントに移ります。
二つ目のポイントは「ヨハネのキリスト」です。ここでは、今日お読みしたマタイの福音書11章に登場するヨハネ、新改訳聖書では「バプテスマのヨハネ」と言われるヨハネについて考えます。
今日の本文で、バプテスマのヨハネは弟子を遣わして、イエス様にこう質問しました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」。ヨハネは「あなたはメシア(=キリスト、聖書で約束されている救い主)ですか?それともメシアはあなたではない他の方ですか?」と聞いたわけです。
私たちは、バプテスマのヨハネと聞くと、信仰的な人というイメージを浮かべますが、この質問はとても衝撃的です。失礼極まりない質問ですね。ヨハネはイエス様を信じていなかったのでしょうか。
この質問について考えるために、バプテスマのヨハネとはどんな人物なのかを確認しましょう。イエス様の弟子で、聖書記者の一人であるヨハネとは違う人です。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストが地上で公に宣教の働きを始める前に、メシアのために道を用意する人でした(イザヤ40:3、マタイ11:10など)。
ヨハネは当時の人々の罪を指摘しました。人々は彼のメッセージを聞くために、荒野に集まりました。罪を告白して悔い改める人に、ヨハネは洗礼(=バプテスマ)を授けました。これがヨハネの名前に「バプテスマ」と付く理由です。ヨハネの役目は、神の民に、もうすぐキリストと呼ばれるメシアが来られることを知らせることでした。
このヨハネが、マタイの福音書11章では牢屋に入れられています。ヨハネは民の罪に留まらず、時の権力者である王様ヘロデ・アンティパスの姦淫の罪をストレートに指摘しました。このことに腹を立てたヘロデ王は、ヨハネを捕まえて投獄し、後に処刑します。
もしかしたらこの時、ヨハネは自分の死が近づいていることを感じたのかもしれません。自分の弟子を遣わして「イエス様、あなたはキリストで合っていますか?」と質問したのは、なるべく早く確認したかったためでしょう。
ヨハネは、本当にイエス様がキリストかどうか知らなかったのでしょうか。そんなことはあり得ないように思えます。バプテスマのヨハネにとってイエス様は、母方の親戚です。ヨハネの母エリサベツは、イエス様の母マリアが救い主を身ごもったという知らせを聞くと、聖霊に満たされた賛美したとあります(ルカ1:26-45)。
ならば、ヨハネは、救い主の道を用意する自らの使命(ルカ1:5-25)と向き合うと共に、救い主として来られたイエス様について、親から聞いていると考えるのが自然です。
これだけではありません。ヨハネ自身の証言が、イエス様をキリストとして認識していたことを表します。ヨハネはイエス様のことを「神の子羊」と言いました。神様のところから来られた方だという意味です。
また、イエス様がヨハネのところに洗礼を受けに来られた時のことです。ヨハネはイエス様に、私こそあなたに洗礼を受けなければならないと言いました(マタイ3:13-14)。ヨハネは、自分が道備えをしている方が、イエス様であると認識しているように見えます。
何よりも、今日の本文2節によると、ヨハネは「牢獄でキリストのみわざについて聞いた」とあります。ただの人間の教師には語れない教えが語られ、様々な奇跡が起こりました。ヨハネは主イエスがキリストであることを知るだけの、充分な証拠を持っています。
では、ヨハネはどうして迷っていますか?どうして、イエス様がキリストではないかもしれないと、疑うようになりましたか。
それはヨハネの持つ、ヨハネなりのナザレ人イエス理解と、ヨハネなりのメシア像があったからです。ヨハネが思うメシアのあるべき姿と、ヨハネが知っているイエスという人は一致しないように思えてきました。
ヨハネが期待していたキリストはどんなキリストでしたか?福音書でヨハネはこう言っています。「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。』」(マタイ3:7)
「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:10、マラキ4:1を参照)
ヨハネの教えるメシアはどんな方でしたか?この世のさばき主として来られる方です。ヨハネのキリストはこの世を火によって滅ぼす(Ⅱペテロ3:7-12を参照)お方です。罪人をさばき、抑圧するもの=目に見える敵を破壊し、解放を与える方だと教えました。
ヨハネはイエス様が来て、こういう働きをすると思っていました。天国の福音を伝え、病人を癒し、罪人の友となるイエス様のいつくしみに満ちた働きは、どうもヨハネが期待していた救い主のお姿ではありませんでした。
確かに、ヨハネは神様によって立てられた、イエス様の来られる道を備えるための人です。彼の語ることばはいずれも真実です。しかし、ヨハネが知らなかったことがあります。ヨハネが伝えたキリストの働きは、みどりごとして来られたイエス様の働きではありませんでした。
どういうことですか?ヨハネが伝えたイエス様の働きが成就するのは、後に天の雲のうちに偉大な力と栄光とともに来られる再臨の時のキリスト、さばき主として来られる時です(マタイ24:30、Ⅱテサ1:7-8、黙示録1:7、22:12)。
ヨハネの質問、ヨハネの疑いは、このようにイエス様の「時」を誤解したことから出たのでした。
最後、三つ目のポイントは「イエス・キリスト」です。ここまで私たちは、人々が期待するキリストとヨハネが期待していたキリストについて見てきました。ここからは、今日の本文がイエス様をどう紹介しているか確認します。また、イエス様ご自身のことばからも聞きます。
今日のマタイの福音書11章1節は、先行する10章からのストーリーの続きです。10章で主は弟子たちを集めました。十二人を任命し、彼らに天の御国の福音を教え、短い宣教の旅に遣わしました。そして、11章1節によると、イエス様ご自身も町々で教え、宣教するために元いた場所から移動したとあります。
ここで、イエス様の視線が留まるところが分かります。社会の改革やボランティア精神、家族と過ごす暖かい時間ではありませんでした。主イエスの関心はどこにありましたか?イエス様の関心は、近づいてきた神の国と、御国の福音を教えることにありました。人々が福音を聞いて、神様に立ち返ることです。
人は今の自分を癒してほしい、私の欲望を満足させてほしい、自己実現を助けてほしいと願います。しかし、イエス様の関心はそこにはありません。人々が自分の自己中心性を捨て、神様に立ち返ることを望んでおられます。イエス様の関心は、福音を伝えることにあります。
次に、ヨハネの質問に対する主イエスの回答はどうでしたか?イエス様はヨハネの弟子たちに、自分たちが見聞きしたことをヨハネに伝えなさいと言いました。イエス様のことばによると、彼らが見聞きしたのは次の通りです。
5節です。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」
一見、イエス様のことばはイエス様の行われたことを羅列しているように聞こえます。群衆はイエス様の奇跡を見ましたし、イエス様の話すことばを聞きました。ヨハネの弟子たちだけでなく、ヨハネ自身も既に知っています。それでもなお、ヨハネはイエス様への疑惑を払拭できずにいました。
実は、5節のイエス様のことばは、単なるイエス様の働きの羅列ではありません。主はここで、旧約聖書を引用しておられます。ご自分について預言された、イザヤ書のことばです。
「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」(イザヤ書35:5-6)
「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」(イザヤ書61:1)
イエス様は、ヨハネに分かるように言われました。ヨハネは聖書に詳しい人です。イエス様の回答を聞いたヨハネは分かったはずです。ヨハネが期待したヨハネなりのキリストではなく、ヨハネが忘れていた聖書に約束されたキリスト、本当のキリストはイエス様だということです。
イザヤが預言したキリストのみわざが、イエス様によってすべて実現されました。預言の成就はそれだけで意味があるのではありません。約束された方=神様は真実な方です。預言の成就が意味するのは、イエス様も真実な方であり、この方のことばは信頼すべきものだということです。
さらに主イエスは、イザヤの預言したこと以上のこともなさいました。死人が生き返る奇跡(マタイ11:5、マルコ5:42、ルカ7:15、ヨハネ11:43-44)がイエス様を通して起きました。全ての預言がキリストであるご自分を通して成就され、預言よりも優れたことが起こっていると言われました。これ以上の確かな証言、的確な回答はありません。
冷たい牢屋の中、この世での人生の終わりを待っているヨハネにとって、弟子たちから伝え聞いたイエス様の回答は、こう聞こえたでしょう。「ヨハネ、心配するな。あなたが聞いた通り、わたしが来るはずの者、あなたが待っていた者。神の子キリストである。」ヨハネは、一方ならぬ平安を得たに違いありません。牢屋の中にあって、大きな慰めと喜びに満たされたはずです。
イエス様はさらに続けられます。6節です。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」まず、この「つまずく」の意味は何でしょう。新約聖書が書かれたもとの言葉であるギリシア語の単語の意味は、「道で出会ったものにぶつけて転ぶ」、「引っかかってふらふらする」という意味です。
「つまずく」のもう一つの意味は、「腹を立てる」ことです。この世の人々は、イエス様に対して腹を立てます。どうして怒りますか?自分たちの期待とイエス様が違うからです。人はそこはかとなく優しいキリストを望みますが、イエス様はそうではありません。イエス様は剣をもたらすために来られました(マタイ10:34)。福音が伝えられるところには、反対者との戦いが起こります。
また、人は分け隔てなく公平にすべての人を助ける神を求めますが、イエス様はそのようにはなさいません。義なる神のキリストは、ご自分の羊をやぎからより分け、羊に御国受けつがせてくださいます(マタイ25:32-34)。
さらに、人はありのままの自分が素晴らしくて、受け入れられるべきと主張します。しかし、聖なる神の御子は「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」(マタイ7:23)と言われます。
人は本当のイエスについて聞くと、腹を立てます。イエス様が正しいが故に、自分たちの行いの悪さが明るみに出るからです。だから世の人々はイエス・キリストを憎み、神を憎みます(ヨハネ3:19-20、15:24-25参照)。 彼らは主イエスにつまずきます。
イエス様は、バプテスマのヨハネと私たちに「わたしにつまずかない者は幸いです」と言っておられます。イエス様のおっしゃる幸いとは何ですか。神の子、メシアがくださる幸いは何ですか。それは永遠のいのちに他なりません。
まさに12節で主が言われる通りです。12節の文章は文字通りに読むと、理解しづらいのですが、こういう意味です。「主イエスが来られ、御国は到来しました。ある者は激しく御国に抵抗しますが、御国を欲する者はそれを手に入れることができます。」
御国に入る者=永遠のいのちを得るものは、何によって得ることができますか?信仰です。皆がイエスに腹を立ててつまずく時に、つまずかない人がいます。
つまずかない人はどんな人ですか?キリストであるイエスが、私の代わりに神に全く従い、私の罪を代わりに背負って十字架に死んで蘇ってくださったことを信じる人です。この人たちは、つまずくことなく、幸いを手に入れることができます。
主イエスはクリスマスの日にこの地上に来られました。神様への完全なる従順、贖いのわざのために来られました。このイエス・キリストを信じる人は幸いです。この信仰が与えられた人は、もっとも大きな幸い=天国の永遠のいのちを受け取ったからです。
メッセージをまとめます。私たちはどのようにクリスマスを待ち望んでいますか。私たちの期待は、このイエス・キリストにありますか?それとも、クリスマスの周りの副産物にありますか。
私たちが何を期待しているとしても、イエス様はそれ以上のものをクリスマスの日にくださいました。天国ですか?永遠のいのちですか?もちろん、それらも素晴らしい幸いではあります。キリスト者は永遠のいのちを得て、天国を住まう者とされました。
クリスマスを前に、覚えていただきたいです。私たちへのもっとも大きな幸い、もっとも大きな喜び、もっとも大きなプレゼントは、人となってこの世に降ってこられた主イエス・キリストです。
疑うヨハネを、イエス様はなじったり、叱って恥をかかせたりしませんでした。イエス様はヨハネに、ご自分の確かな証しをされました。そしてイエス様は、話を聞いている人たちにヨハネを褒めました(マタイ11:7-11)。
イエス様は私たちに言われます。「わたしにつまずかない者は幸いです。」私たちは、このクリスマスを通して待望の神の子を受けました。この方が来てくださったこと、これが私たちのクリスマスの期待です。
このイエス様の降誕の喜びを、豊かに満喫する一週間となりますように、願います。お祈りを致します。
