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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | ルカの福音書2章8-14節 |
| さ ん び | Opening Praise | インマヌエル麗しい御名 |
| さ ん び | Praise | さやかに星はきらめき/O Holy Night |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第2戒)ローマ人への手紙1章22-24節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | コリント人への手紙第一6章9,11節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌83番 「マリヤに抱かれて」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | マタイの福音書1章18-21節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「マリアの胎と、十字架の釘」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌89番
「栄光とわに王なる御子に」1-3番 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | マタイの福音書2章10〜11節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きますね。毎週唱える使徒信条の「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」という言葉を覚えているかな?これは、イエス様が、お父さん(ヨセフ)の力ではなく、神様の特別なスーパーパワーによってお母さんマリアのお腹に宿って、奇跡的に生まれたという意味です。正直に言うと、牧師である私も、前は不思議に思っていました。「なんでこんなに大げさなことをしたんだろう?そこまでする必要があったのかな?」と。でも、これを忘れないでください。このような誕生がなかったら、イエス様は私たちの罪のために十字架で死ぬことができないのです。なぜでしょう?
聖書は、私たちが神様に負っている罪を、ものすごい借金に例えています。その額は、計算するとだいたい4,800億円ぐらいの借金です。これは、皆さんがスーパーで買っているポテトチップスを作っている『カルビー』という会社一つを丸ごと買っても、800億円のお釣りがくるほどの巨額の負債です。これが私たちの罪です。もし、この膨大な借金を見て、「あなたの代わりに償いますよ!」と言ってくれる人がいたとします。その人に「あなたは借金がない人ですか?」と聞いたら、「あ、私もあなたと同じぐらい借金がありますよ」と言われたら、助けになりますか?何の助けにもなりませんね。当然のことですが、借金のない人しか、私たちの借金を償うことができないのです。ですから、神様は、罪(借金)のない人間として、イエス様をこの世に送られました。そのように処女降誕という奇跡で生まれなかったら、イエス様はそもそも私たちの罪のために死んで、償うことができないからです。これが、私たちがクリスマスをお祝いする、最も大きな理由なのです。皆さんの中には、教会は初めてという方も、聖書に慣れ親しんでいるという方もいらっしゃると思いますが、クリスマスはクリスチャンにとっても信じ堅いことでもあります。ご安心ください。クリスマスの意味を確認しながら、三つのポイントを見ていきましょう。
① クリスマスは処女降誕についての話なのです。これは、クリスチャンが信じる真理の中でも、スキャンダラスで、都合の悪い、超自然的な歴史的事実なのです。
21世紀の日本では、クリスマスについていろんなイメージがありますね。しかし、スキャンダラスなイメージはありませんし、受け入れがたかったり、信じがたいというようなイメージは薄いと思います。むしろ、クリスチャンではない人にとっては、「クリスマス」は教会のイベントの中でも一番参加しやすくて、子供達も連れて行けるような行事だと思いますよね。しかし、聖書の記述を読んでみると、この箇所は、かなりインパクトのある場面だと思います。
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。 19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
普通に考えれば、これを今の日本の小学生に説明するのは、非常に難しいですね。しかし、一人の男性(ヨセフ)と一人の女性(マリア)がまだ結婚もしていなくて、一つにもなっていないときに、神様の聖霊によって、処女マリアが、奇跡的に身ごもるという出来事がクリスマスなのです。そして、クリスチャンは、クリスマスを単なる「神話」や「たとえ話」として信じていません。クリスチャンは、「徳川家康は1534年に愛知県で生まれた」という歴史的事実と同じように、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれた」と信じているのです。長年、クリスチャンとして歩んでいる方は、これは当然の事として信じているのですが、これが、どれほど信じがたいことなのかをもう一度確認しないといけません。
まず、旧約聖書を信じているユダヤ人は、この事実を全面的に否定します。マリアの婚約者であるヨセフは、マリアを心から愛していましたがマリアの言い分を聞きませんでした。それゆえ、「マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」のです。イエス様が大人になっても、イエス様に反対していた律法学者は、「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」 と言い、イエス様が姦淫の下で生まれた者だと示唆したのです。
イエス様が預言者として故郷に戻り、聖書について教えられたとき、「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」普通なら、「ヨセフの子」というべきですが、ここでも、イエス様が不自然な方法で生まれたことを示唆しています。5世紀から7世紀に書かれたユダヤ教のタルムードにも、マリアが淫らな女であること、そして、イエス様が父親を知らないということがほのめかされています。ですから、当時のユダヤ人にとっては、「処女降誕」はとんでもないスキャンダルだったのです。
それでは、イスラム教徒はどうだったでしょうか。実は、イスラム教徒は、処女降誕を信じています。しかし、彼らにとっては、イエス様はただの預言者なのです(コーラン 19:35)。なぜかというと、もしイエス様が「神の子」として生まれたとするなら、神様が人間と性交渉したというとんでもない冒涜になると、イスラム教徒は考えるからです。
(コーラン 19:88-92) 彼ら【クリスチャンら】は言った。「慈悲あまねき*お方(アッラー*)は、御子をもうけられた」。89 あなた方は確かに、とんでもない悪事をしでかしたものだ。90 諸天は、それゆえにばらばらに割れんばかり、また地面は裂けんばかり、そして山々は崩れ落ちんばかりである。91 彼らが慈悲あまねき*お方(アッラー*)に、御子があるなどとしたために。92 慈悲あまねき*お方(アッラー*)が御子をもうけるなどということは、ありえないことなのだ。
このように考えれば、本当にそのとおりだと思います。神の子が処女マリアから産まれたと言うことは、イスラム教徒にとって、とんでもない冒涜です。それゆえ、コーランによると、正統なクリスチャンは天国へ入ることができません(コーラン 5:72)。
しかし、一神教のユダヤ人とイスラム教徒だけではありません。科学の発展や聖書の批評学の発展によって、19世紀から20世紀のクリスチャンにとって、処女降誕は信じづらくなりました。1920年代にアメリカのクリスチャンの間で、「根本主義」(ファンダメンタリズム)と「近代主義」(モダニズム)の論争がありました。「根本主義」(ファンダメンタリズム)のクリスチャンは、そのまま聖書を信じる人たちでしたが、「近代主義」(モダニズム)のクリスチャンは、聖書の一部を文字通りに読めないクリスチャンでした。聖書の中で信じられない教理の代表としてよく引用されているのが、クリスマスの処女降誕でした。近代主義の長老派の牧師(Harry Emerson Fosdick)の1922年の有名な説教がこの考え方を代表しています。彼の訴えを、このようにまとめてみました。
『主イエス・キリストの処女降誕という、議論の尽きない厄介な問題から始めましょう。 ここに、この生物学的奇跡を歴史的事実として受け入れるべきだと主張し、「主のようなお方がこの世に来るには、他に方法はなかった」と論じるファンダメンタリストたちがいます。しかし、福音派教会の中にも、彼らと並んで、同じように忠実で敬虔な人々がいます。彼らは、処女降誕は歴史的事実としては受け入れられないと言います。なぜなら、古代世界は、ブッダからプラトンに至るまで、偉大な創始者たちの優れた特質を崇拝する際、奇跡的な誕生という言葉で信仰を表現するのが一般的だったからです。このように考えているクリスチャンたちは、最初の弟子たちが抱いた確信が、現代の私たちの知性では受け入れがたい「生物学的な奇跡」という言葉で表現されたと信じています。特に、キリストの神的な意味について教会の考え方に最も貢献したパウロとヨハネの二人が、処女降誕について微塵も言及していないことを踏まえればなおさらです。』
これがFosdick牧師の考えですが、21世紀に至っても、文字通りには「処女降誕」を信じていないクリスチャンは多いと思います。なぜなら、「処女降誕」は科学的に、非常に都合の悪い事実だからです。
ですから、一神教のユダヤ教とイスラム教の信者、そして、近代的なクリスチャンが「処女降誕」を信じるのは難しいと思うなら、無神論者の21世紀の生物学者のリチャード・ドーキンス博士が「処女降誕」を馬鹿にすることはなおさらのことです。元イスラム教徒でもあり、長年無神論者として活動していたソマリア生まれの著名な評論家、アヤーン・ヒルシ・アリ氏が突然クリスチャンになったとき、ドーキンス博士は感情的にこう訴えました。
「あなたは、キリスト教の教義、例えば、イエスの神性や復活、そして彼が処女から生まれたことを本当に信じているのか?…クリスチャンはこう信じているんだろう。原罪は精液を通って伝わる。イエスは精液によって宿ったわけではない。だから彼は罪がない。彼の母マリアもまた罪から解放されている必要があった。だから彼女も無原罪の宿り(Immaculate Conception)を経たわけだ。これは全て、明白なナンセンスだ。全てくだらない神学的なデタラメ(〇〇ッタレ)だ)。」
生誕劇を毎年見て、クリスマスキャロルを歌って、長年クリスマスを祝っている者として、クリスマスのショックを忘れていけません。クリスマスは処女降誕についてなのです。これは、クリスチャンが信じる真理の中でも、スキャンダラスで、都合の悪い、超自然的な歴史的事実なのです。しかし、大変皮肉なことに、クリスマスの出来事がどの宗教においても、どの哲学においても、非常に都合の悪い事実であるからこそ、この話は人間が作った伝説、あるいは神話ではないと、確実に言えるのです。ですから、クリスマスの処女降誕には、2択しかないのです。ドーキンス博士が言うように、神学的なデタラメなのか。聖書が言っている歴史的事実なのか。
私は、ドーキンス博士の感情的な訴えに対する、クリスチャンになり立てのアリ氏のシンプルな回答が大好きです。
「私は信じることを選んでいます。もしあなたが、私たちよりも遥かに強力な何か、他の全てを引き起こした何かが存在するかもしれないという考えに至ったのなら、イエスの死からの復活のようなものや、これら他の奇跡、すなわちイエスが処女から生まれたことなどは、そのより偉大な存在にとって、大した問題ではありません。」
ですから、クリスマス礼拝を行って、「処女降誕」を信じていることを確認することは、私たちが人間と宇宙の力よりもはるかに強力な存在を信じていることを確認しているということなのです。
② クリスマスの処女降誕は、罪という深刻かつ致命的な問題に値する、壮大で、決定的な解決策なのです。
クリスマスの「処女降誕」の意味に入る前に、何のために「処女降誕」があるかをやはり確認しないといけません。例えば、一見、「心臓切開手術」は、かなり大がかりな手術だと思います。手術の詳細を聞くと、皆さんは絶対に「なぜ、そんなに大がかりな手術が必要なんですか?」と思います。もしお医者さんが「これほど大がかりな手術が必要なのは、この方の心臓の機能を取り戻し、この方の命を繋ぐための唯一の手段だからです。」と答えたら、家族も納得すると思います。
イエス様が処女によってお生まれになった理由、あるいは目的は、この聖書箇所に書いてあります。
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
「イエス」という名前は、「彼は救う」という語源から来ています。ですから、この赤ん坊のイエスが、神の民を「罪」からお救いになるために、このような形でお生まれになったと、神様の使い(天使)が説明しています。つまり、クリスマスの処女降誕は、「罪」という深刻かつ致命的な問題から私たちを救い出すためなのです。
「罪」という言葉には、いろんなイメージがありますが、聖書から見る罪の定義を紹介したいと思います。まず聖書では、罪というのは、私たちの心(魂)がちゃんと機能しておらず、死にいたる病気であるというふうに描かれています。私たちの心は神様を愛するため、人を愛するために与えられているのですが、罪という心の病気によって、私たちは常に自己中心になってしまい、真の神様に敵対し、隣人を傷つけてしまうように振る舞います。これは、ある一定の人だけの話しではありません。「【神様】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」(6:5; 8:21参照)と聖書に書いてあります。
人類の歴史、また、私たちの人生や周りの人々の振る舞いを見れば、それが本当に確認できますよね。ある人たちは、科学と技術の発展、経済的な発展、民主主義と人権主義の拡散によって、人間はより良くなっており、世界平和が手に届くほどであると信じていました。1989年、共産主義を象徴するベルリンの壁が崩れ落ちました。世界中が、これで人類の大きな進化、イデオロギーの戦いは終わりだと感じたのです。その希望を具現化したのが、1992年にベストセラーとなったフランシス・フクヤマの著書『歴史の終わり』でした。多くの人々が、この勝利によって、「もはや対立のないユートピア(理想郷)」が訪れると確信して、宗教から卒業した、グローバル化、民主主義、経済発展が急激に発展する大いなる時代と期待していたのです。しかし、私たちは、この希望を、今、どう捉えるべきでしょうか。21世紀に入って25年が経過しましたが、その希望は幻想だったことが分かります。人類がどれほど科学的に、経済的に、社会的に、政治的に、知識的に発展したとしても、人間は「心の暗闇」をなかなか脱ぎ去ることができないという真実に痛いほど直面しています。何千年もの人類の歴史を見て、確実に言えるのは、人間は常に衝突し、破壊し合い、傷つけあうということです。人類は、「罪」という病気に捕らわれているのです。
個人的にも、なかなか脱ぎ捨てることができない、自分の「心の暗闇」、そして、愛する人の「心の暗闇」もあります。自分にとって不健全な事ですが、自分を傷つけたり破壊したり、自分の首を絞めるようなことをしてしまいます。自分がどれほど相手を愛したとしても、自分のことに無我夢中になって相手を傷つけてしまうこと。何回注意されても、なかなかやめられない愛のない言葉や行動。周りの人に「助けて!」「苦しい!」と言っても、愛する人や信頼している人が寄り添ってくれないとき。悪気はないとしても、自分にとって、それがどれほど痛い事なのかがわかって貰えず、周りの人がよくするある行動、ある言葉、ある態度によって、私たちは深く裏切られたと感じます。日々の生活の中で、私たち人間の「罪」によって自分自身も、周りの人も傷つけたり傷ついたりする事は多々あるかと思います。
そして、聖書では、罪とはただの「病気」ではなく、私たちの意図的な行いでもあるとされています。私たちに責任があるのです。ですから、神様に敵対することと隣人に害を与えることに対して、裁きがあるのです。例えば、私たちが膨大な借金を背負ったとしたなら、自分がどのような状況にいるとしても、また、どのようにその状況を理解しているとしても、返さないといけない借金額は変えられませんし、その義務を回避することは出来ません。そして、残念ながら、神様と隣人に対する「借金」や「負い目」は、私たちにはもはや返す事が出来ない額なので、罪は絶望的かつ致命的な問題なのです。
ですから、クリスマスの「処女降誕」という信じがたい奇跡は、私たちの罪という問題の深刻さを表しているのです。私たちの罪の深刻さ、根深さがよく理解できれば、私たちの「負い目」に対する裁きに対して、「奇跡」のような解決策が必要だとわかります。罪という致命的な「心の病気」について理解できたならば、処女降誕の奇跡を馬鹿にするより、壮大で決定的な解決策がここにあることを喜ぶと思います。
③ クリスマスの処女降誕は、私たちの罪の償いのために、聖霊様が罪のない第二のアダムをマリアの胎に身ごもらせたという意味です。
まず、はっきりさせたいのは、男と女が一つになり、身ごもるという行為が「罪」の継承ではないということです。私たちがこの世の人間である限り、どのような手段で身ごもったとしても、私たちは罪を持ち続けます。身ごもる手段が問題なのではなく、人間の本質を変えなければ罪も変わらないという意味なのです。ですから、聖書はこう書いています。
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」(マタイ1:20)
ルカの福音書には、「御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)とも書いてあります。
聖書では、聖霊様は神様のご意思を形にされる存在です。ですから、創世記1章の創造で、聖霊様は茫漠として何もない水の上を動かれ、すべてを造り出されたように、何もなかったマリアの胎の上に臨み、いと高き方の力によって、神の子を宿らせたのです。ですから、クリスマスの処女降誕は、聖霊様によって、罪のない聖別された、新しい「アダム」が生まれた瞬間だと言えます。
要するに、処女降誕によって、負い目もなく、罪もない新しい人間(アダム)が現れ、エデンの園の堕落以来、信じる者の罪を償える人が現れたのです。それは、「罪」に捕らわれた人を救う事が出来る人が初めて現れたという意味です。神様が用意された「唯一無二の救いの手段」です。イエス様は、地上での三十数年間の生涯において、律法を完全に守り通し、私たちに代わる義(良い行い)を蓄(たくわ)えてくださいました。そして、イエス様が十字架の上で、ご自身の命を捧げてくださったゆえに、神様と隣人に対する私たちの「借金」または「負い目」は完済されたのです。聖書にはこう書かれています。
(コロサイ2:13-14)13 …私たちのすべての背きを赦し、 14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
クリスマスの処女降誕は、クリスチャンが信じる真理の中でも、スキャンダラスで、都合の悪い、超自然的な歴史的事実です。しかし、クリスマスの処女降誕という信じがたい奇跡は、私たちの罪という問題の深刻さを表しています。感謝なことに、新しいアダムが宿られたことによって、深刻かつ致命的な問題に値する、壮大で、決定的な解決策が与えられました。神様が救いようのない私たちに、救いの手段を与えてくださったことを感謝しましょう。お祈りします。
