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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | テモテへの手紙第二2章11-13節 |
| さ ん び | Opening Praise | 今こそキリストの愛に応えて |
| さ ん び | Praise | いざ立ち上がり |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第3戒)レビ記19章12節、詩篇29篇1-2節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ピリピ人への手紙2章9-11節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌359番
「私の望みは主イエスだけにある」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | マタイの福音書7章24-29節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「聖書のみ」によって生きるとは
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌355番 「私の望みは」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 申命記12章10〜12節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。皆さんがお父さんとお母さんの言うことを聞かないとき、なぜお父さんとお母さんは怒ってしまうと思いますか?実は、私の子供たちにもよく話すのですが、怒っている本当の理由は、「とてつもなく悲しいから」なのです。「あなたが守られるように、すぐにこうしてほしい」と、何回も何回も必死に伝えているのに、「はーい……」と返事だけして無視したり、後回しにしたり、あるいは適当に済ませたりすると、親はすごく悲しいのです。なぜなら、その態度はこう言っているのと同じだからです。「パパの言うことはわかってるけど、パパは大げさだし、そこまでやる必要はないよ」。正直に言いますと、それはパパの言葉を「全く信用していない」のと同じことなのです。親を少し馬鹿にしているようにも感じてしまいます。だから、悲しくて、怒ってしまうのです。
実は、私たちと「神様」の関係も、これによく似ています。神様は、私たちが持っているこの聖書が「間違いのない、神様の言葉」だとおっしゃっています。そして、「この言葉だけに従って歩んでほしい」と、何度も何度も語りかけてくださっています。でも、私たちは心の中で「わかったよ、面倒くさいな…」と思いながら、適当に聖書に従ってしまうことはないでしょうか?見た目は神様を大切にしている「いい子」に見えます。でも、その心の奥には、神様の言葉を全く信用していない「疑う心」があるのです。今日、皆さんにどうしても覚えて帰ってほしいことがあります。それは、「イエス様は誠実で、愛に満ちた、間違いのないお方だ」ということです。ですから、自分の考えではなく、このイエス様の言葉だけを頼りにして生きることが、一番の喜びに繋がる生き方なのです。今日はこのことを、三つの質問にそって一緒に考えていきましょう。
①誤りのない聖書のみを信じることは、自分の日常生活にどのような影響があるのでしょうか?
まず、私(マーク)が「誤りのない聖書のみを信じることが重要だ」と言っているからという理由で、皆さんに信じてほしくないです。イエス様がそうおっしゃっているので、そのように信じていただきたいのです。イエス様が聖書を「完全に間違いのない書物」として全面的に信頼し、それを「人生の唯一の基準」としておられたことは、3つの聖書箇所から明らかです。まずイエス様は、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません」(マタイ5:18)と述べられました。聖書は細部に至るまで正確であり、決して無視できないものであるとイエス様が主張されました。次に、議論の決定打として「聖書が廃棄されることはあり得ないのだから」(ヨハネ10:35)と語り、聖書が人間には覆すことのできない絶対的な権威を持っていることを示されました。そして、最後に、ご自身の人生の危機の時に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と宣言し、人間が生きるための根本的な力は、物質的な糧ではなく聖書の言葉にあると教えられました。死から蘇られたイエス様、神の子であるイエス様ご自身が「誤りのない聖書のみを信じることが重要だ」と教えてくださったのです。
しかし、ある人は、「うーん。それはわかるけど、そんなこと信じていなくても、楽しい良い人生を送れるんじゃないの?『誤りのない聖書のみ』を信じると言うことが、どのように自分の日常に影響するんですか?」と思われるかもしれません。いろんな観点を理解したり、いろんなことを経験したりして、一つのものに頼らず、すべてを受け入れるほうがいいかもしれないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。イエス様にとって、「誤りのない聖書のみを信じる」ということは、ただの正論、ただの理想論、ただの宗教的な狭い考え方ではありません。非常に実用的で、的確で現実的なアドバイスなのです。
先ほどの例え話を使って、イエス様は、誤りのない聖書があるからこそ、クリスチャンは、この世の苦しみ、不条理、不確実さ、そして悪に、耐え抜くことできる、と教えられました。イエス様は、私たちの人生を「家」に例えられました。イエス様のことばの上に自分の人生を建てるなら、どれほど「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて【その人】を襲っても」、その人の人生は倒れません。しかし、「砂の上に」自分の人生を建ててしまうと、 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその人生に打ちつけると、倒れてしまいます。「しかもその倒れ方はひどいものです。」
このたとえ話は非常に分かりやすいので、「砂の上に建てる人はいないよ」と皆さんは思うでしょうが、実際に、砂の上に建てる人はいます。なぜかというと、ビーチ沿いの家はめちゃくちゃ楽しいからです。普段、私たちは「家の土台」についてあまり考えません。むしろ、その家の見た目や、家の中にある日々使う家具や電気製品などに目がいくと思います。なぜなら、土台は、直接的には、私たちの日常に影響を与えないからです。しかし、家の土台は、自分の人生の楽しさを最大限にするために存在してはいません。自分の家と人生を守るため、耐久性を伸ばすために据えられます。家具や電気製品を選び間違えるなら、ちょっと不便にはなりますが、土台を選び間違えることは致命的です。何十年も投資を続けてきた著名な投資家ウォーレン・バフェット氏は、最初に丸儲けし、その後倒産する投資家を見て、次のような名言を残しています。「平均水深1.5メートルに騙されるな。 身長2メートルの者でも溺死する。」人生も同じです。全ての家、全ての人生に土台があります。皆さんは、平均的な物事に耐える土台ではなく、稀ではありますが、確実にくる非常に激しい「人生の嵐」を耐え抜く土台を選んでいるでしょうか?
人生の土台を選ぶとき、一番新しいものを選ぶ必要はありません。私は小学生の時、よくVHSテープで子供の番組を見ていました。もう一度見たいときには、数分かけてVHSテープを巻き戻さなければなりませんでした。そして、今でも覚えています。父が最新のDVDプレーヤーを買ったとき、「もうテープを巻き戻す必要がない!」と感動しました。それは90年代の最新の技術です。しかし、2025年には、DVDを見たことのない子どもが大半です。歴史を見ると、最新の技術が発明されると、「これは永久に世界を変えるものだ!」と多くの人が思います。でも、最新の技術によって世界は変わりますが、長続きはしないのです。最新のものだとしても、永久性はありません。
しかし、家を建てるときは、私たちは何千年も存在する、丈夫で耐久性のある、しっかりした岩を土台として選びます。旧約聖書と新約聖書は、最新技術ではありませんが、古くても、耐久性のある、頑丈なものです。約4000年の時代の変化の中で試され、世界中のすべての国で読まれ、人類のあらゆる悲劇と悪に耐えてきたのです。今でも、キリスト教は世界中で最も信用されている人生の土台です。皆さんは、どのような土台の上に人生を建てたいですか?その当時の最新技術だったDVDのような新しい「砂」のような考え方ですか。あるいは、人類の4000年のあらゆる嵐を耐え抜いた古い「岩」のような考え方ですか。どちらでしょうか?
最近、私の知り合いースミスさんと呼びましょうーがクリスチャンになりました。スミスさんは長年、最高の教育、最大の年収、最速のキャリアパスを求めていて、社会のトップに立ちたいと思っていました。キリスト教を信じることにあまり意味を感じていませんでした。しかし、スミスさんは、二人の友人の生き方を見て、クリスチャンになりました。その一人は医者でした。その医者は、社会のトップに立つ人で、スミスさんの憧れでした。アメリカの一番有名でエリートな大学と大学院を出た、ものすごく頭のいい医者でした。彼はアメリカの最新技術を研究している病院で働いていて、脳のがんの治療を発見したいと思っていました。しかし、彼は宗教を疑っていましたし、そこから何の価値も見い出してはいませんでした。けれども、面白いことに、その医者には長老派のクリスチャンの親友がいました。その友人も頭のいい人でしたが、医者の友人と比べたら「普通」の人でした。
スミスさんはこのように証を書きました。
医者のお母様が膠芽腫(こうがしゅ)と診断された時、彼の人生の全てが一変しました。私は、彼が拠り所となる信仰も持たずに、打ちのめされるような深い悲しみの中を歩むのを見つめ、私もその傍らで共に歩みました。医者の友人が自分の母の苦しみに深く苦しめられる姿は、私の人生において最も悲痛で、心をえぐられるような出来事の一つでした。同じ頃、私は、彼の親友で信仰深い長老派のクリスチャンとの親交を深めました。彼の寛容さ、揺るがない落ち着き、そしてアガペーの愛は、私に深い感銘を与えました。特にクリスチャンの友人が医者の家族を気遣う様子は印象的でした。キリスト教の信仰という支えを持って苦難を通った親友の姿と、何の霊的な拠り所もなく歩んだ医者の姿はとても対照的で、極めて鮮明でした。
社会のトップに立つ人が岩の上に人生を建てないと、イエス様がおっしゃるように、嵐が襲いかかって来ると、人生はすぐに倒れます。「しかもその倒れ方はひどいものです。」医者の人生が倒れたとき、スミスさんは初めて自分が立っている土台について真剣に考えました。スミスさんは、聖書の上に立った人生のほうがよっぽどいいと結論づけたのです。誤りのない聖書を土台にする事によって、この世の苦しみ、不確実さ、不条理、そして悪に耐えぬく事が出来るからこそ、イエス様はクリスチャンたちに「聖書のみによって生きる」ことを教えてくださったのです。これはただの理想論ではありません。ものすごく実践的です。
しかし、「『誤りのない聖書のみを信じる』ってどういうことなのか?」「本当に誤りがないの?」「聖書だけ読んでるだけで生きられる訳がない」と疑う人もいらっしゃると思います。ですから、みなさんと次のことを考えたいです。
②「誤りのない聖書のみを信じる」ことは具体的にどういう事なのか?短く四つの点にまとめてみました。
1 「誤りのない聖書のみを信じる」とは、聖書が100%神の息吹でありながら、同時に理解できる人間の言葉で書かれている、と信じることです。
第二テモテ3:16に「聖書はすべて神の霊感によるもの」とありますが、これは神様の「息吹」と訳せます。旧約も新約も、あなたが大好きな箇所も、信じがたい箇所も、すべて100%神様ご自身の言葉なのです。しかし、神様はご自分の考えを、私たちに分からない「天国語」のまま伝えたりはされませんでした。私たちが理解できるように、選ばれた人を通し、人間の言葉を用いて御心を書き残されたのです。聖書は「神の息吹」であり、かつ「理解できる人の言葉」だからこそ、揺るぎない永遠の土台となり得るのです。
「100%神の言葉だとしても、人間の言葉で書かれている以上、解釈が分かれて御心など絶対に理解できない」や「聖書には、誤りのない神の言葉と、誤りのある人間の言葉が混ざっている」という考え方もあります。もしそうなら、神様がわざわざ人間の言葉で聖書を与えた意味がなくなります。それは、神様が人間の言葉ではご自分の意志を伝えられない「分かりにくい著者」か「中途半端な編集者」だと言っているのと同じようです。ですから、聖書を読む前に、著者である神様のご性質を仰ぎ見る必要があります。誠実で、論理的で、正しい完璧な神様なら、誤りも矛盾もない、真実な聖書を用意されるはずです。それ以外の手段はありません。聖書は、神の息吹であり、理解できる人間の言葉であるからこそ、私たちの人生の良い土台となるのです。
2 「誤りのない聖書のみを信じる」とは、聖書を人生の目的を示す「完全な土台」として信じることであり、万物の知識が詰まっている「百科事典」として信じることではありません。
聖書には、高層ビルの建て方、がんの治療法、ブラックホールの仕組み、水漏れの修理あるいは最高のすき焼きのレシピなどは、一切書いてありません。そのために書かれた本ではないからです。聖書が書かれた主な理由は、人間が作られた主な目的――すなわち、神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶこと――をどう果たせばいいかを明記するためです(小教理問答問2)。神様について何を信じ、神様が人にどんな義務を求めておられるか(問3)。神様のご性質、人間の目的、世界の歴史、救いの手段、倫理観。これらを教える上で、聖書は完全であり、誤りがありません。
しかし、ここによくある誤解があります。一つは、「信仰以外に聖書は関係ないから、右手に聖書、左手に〇〇を持って歩もう」という「使い分け」です。しかし、信仰が影響しない人生の分野などあるでしょうか? 例えば、聖書は家計簿のつけ方は教えませんが、何を大切にし、何を手放すべきか、経済的不安の中でどう平安を保つかという「土台と方針」は提供しています。「50%は岩、50%は砂の土台で行きます」と言い始めれば、それは結局、砂の上に家を建てるのと変わりません。
もう一つの誤解は、「聖書だけを読めばいい」という考え方です。ここで「土台」と「家」を分けて考えてみましょう。聖書は「土台」です。でも、土台だけを据えて、家を建てないのは、変ですよね。私たちが日々住むところは、土台の上に立っている「家」です。クリスチャンは全員同じ土台に立っていますが、家の形や模様はそれぞれ違います。礼拝や祈り、聖書の学びはもちろん、神様を喜ぶ行為です。しかし同時に、朝早く起きて出勤すること、自分の庭にお花を植えること、1歳児のオムツを替えること、サッカーボールを蹴ること、子どもの送迎、バッハを聴くこと…信仰をもって過ごす日常のすべてが、「聖書の土台の上に立って生きる」ことなのです。神様は、すべての正当な職業や営みを「よし」とされ、それを信仰の現れと見なされます。
3 「誤りのない聖書のみを信じる」とは、聖書の原典が完全であるだけでなく、神様の摂理によって、その言葉が21世紀の私たちにも確実に届いていると信じることです。
私たちは、オリジナルの聖書(原典)には誤りがないと信じていますが、残念ながら原典そのものは現在この世に存在しません。ですから「今の聖書に誤りがあるか」という問いは、正確には「今の聖書と原典に相違があるか」という問いになります。実際に、最新の研究によって「原典には含まれていなかった可能性が高い」とされる箇所(マルコの結びやヨハネの8章など)が特定されていますが、以前の翻訳に聖書のことばとして入ってしまいました。そう聞いても「じゃあ、今読んでいる聖書は信用できないの?」と不安になる必要はありません。
例えば『源氏物語』を考えてみてください。オリジナルは一枚もありませんし、現存する最古の写本は成立から約200年後のもので、数も100ほどです。それでも、その信憑性は高いとされています。それに対して新約聖書は、書かれてから100年以内の写本が存在し、その数はギリシャ語だけでも5,800点以上、翻訳を含めれば2万点を超えます。これは他のどんな古代文書よりも圧倒的に多く、信頼に値する証拠です。多くの写本があるからこそ、逆に比較検証ができ、原典の言葉を正確に特定できるのです。たとえ異読(バリエーション)があったとしても、信仰の核心に関わるような違いは一つもありません。神様はご自分の教会を守られたように、聖書の純粋さをも力強い摂理によって守ってくださいました。これほど耐久性のある土台は、他にはありません。
4 「誤りのない聖書のみを信じる」とは、神様が書かれた「自然」と「聖書」という二つの本には矛盾がなく、あるのは私たちの「解釈の誤り」だけだと認めることです。
神様はこの自然界を創り、「良し」とされました。これが第一の「誤りのない本」です。そして第二の「誤りのない本」として聖書を与えられました。この二つは著者が同じですから、矛盾するはずがありません。
過去に、クリスチャンが聖書を根拠に「地球は平らだ」「太陽が回っている」と主張したことがありました。しかし、歴史的な科学者たちーコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、マックウェルなどーは、聖書の「無誤性」を信じつつ、科学発見を通して、聖書の詩的表現を物理学と混同すべきではないと示唆し、聖書解釈者の間違った解釈を正しました。逆もまた然りです。科学や経済、哲学が発展する中で、人間の価値観や倫理観が歪んでしまうことがあります。そのような時、私たちは聖書をもって、自然界や社会に対する解釈を正さなければなりません。英国のウィリアム・ウィルバーフォースや米国のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師、インドのマザー・テレサは、聖書の教えを根拠に、奴隷や黒人や貧しい人々への偏見を正し、奴隷制度や人種差別的な法律を正しました。も、聖書に基づいて。聖書の解釈を正すこと、そして自然界の解釈を正すこと。この両方が揃ってこそ、「誤りのない聖書のみを信じる」生き方だと言えるのです。
この四つの点を聞いて、「うーん、なんだか難しいな」と感じたかもしれません。ですから、今日の盛りだくさんの内容を一つのシンプルな質問にしてみましょう。
③なぜ、誤りのない聖書のみによって生きることは、私たちクリスチャンの信仰の核心なのでしょうか?
イエス様のたとえ話を聞いた群衆は、最終的にこのように反応しました。 「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(7:28-29)聖書のみを信じることは、その内容に同意することではなく、語っておられるお方(イエス・キリスト)の権威を認めることに他なりません。
聖書を誤りのない神の御言葉として受け入れないとき。人間の罪と失敗によって、聖書に誤りが入ってしまったと信じる時。御言葉を自分の人生の唯一の礎として据えないとき。聖書をあらゆる考え方の中の一つの考え方としてとらえる時。そのようなとき、私たちはイエス様ご自身を、自分の王、自分の救い主、自分の花婿、自分の神様として、完全に信用できないと見なしていることになります。例えるなら、「田中さんのことはすごく好きだし、応援したい。だけど、田中さんが書いたものにはミスが多いよね(笑)。まあ、大半は受け入れますよ」と言うようなものです。これは、田中さんを見下し、完全に信頼できていないということではないでしょうか。
しかし、イエス様はこのたとえ話を紹介されたとき、何とおっしゃいましたか?「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」聖書は、イエス様ご自身のことばです。 イエス様のことばを聞いて、それを行うことは、イエス様のことば、人柄、権威、イエス様ご自身を完全に信頼することです。聖書を誤りのない神の御言葉として読むことは、イエス様は絶対にミスをしない、約束を破らない、有言実行のお方であると信じることなのです。私たちはイエス様を真実なる方であると信じますか?
そして、忘れてはいけないことがあります。イエス様は、なぜこのたとえ話を私たちに語っておられるのでしょうか。それは、私たちを救うためです。私たちが砂の上に人生を建ててしまい、酷く、激しく、人生が永遠の死へと倒れてしまわないためです。誤りのないイエス様はこう私たちに約束されます。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)
ぜひこのイエス様の御言葉をすべて受け入れ、イエス様の誤りのない御言葉の上に、私たちの人生を建て直しましょう。お祈りします。
