2026年1月11日礼拝 説教 「『もっと頑張ります』『いえ、頑張らなくていいですよ』」

音声トラブルにより、説教者の冒頭の音声の一部が無音になっております。ご了承願います。

 

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ヘブル人への手紙11章1-2節
さ ん び Opening Praise キリストがすべて~All I Have Is Christ
さ ん び Praise 素晴らしい主~Goodness of God~
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第4戒 出エジプト記20章8節 )

へブル人への手紙10章23-25節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God へブル人への手紙10章19-22節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌25番

「聖なる主は栄えに満ち」

聖書朗読 Scripture Reading ガラテヤ人への手紙3章1-7節
聖書の話 Sermon 「『もっと頑張ります』『いえ、頑張らなくていいですよ』」

呉 載炫 教会主事

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌313番 「弱き者よ」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ローマ人への手紙15章25〜27節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

皆さんは、ネット動画をよくご覧になりますか?ほんの数年前までは、YouTubeやTikTokのようなサービスは、過小評価されていました。エンタメ業界にいた私も同じく「そのうち廃れるだろう」と思っていました。

しかし、今やこういった個人メディアの影響力は凄まじく、空前の大ヒットですね。人々の生活に完全に溶け込んでいます。数えきれないほどの人がアカウントを運営して、「自分のものを見てほしい」とアピールしています。また、別に動画をアップロードしなくても、FacebookやX、InstagramのようなSNSのアカウントはみんなが持っていますね。

なぜこれほどまでに多くの人が、個人メディアに熱中するのでしょうか。それは、私たちの中にある承認欲求に関係があるように思います。人には「私はこんなに価値のある人だよ」と証明したい強烈な思いがあると言われます。こないだ食べた美味しいご飯、休暇の時に訪れた素敵な宿など、写真一枚で簡単に全世界に対して自己証明できる時代です。

「認められたい」という強烈な欲求は、クリスチャンの信仰生活の中でも顔を出します。先ほど読んだガラテヤ人への手紙では、律法を行うことによって認められたいと思う問題がありました。使徒パウロはこれを「無駄」、「愚か」、「惑わし」と批判します。

本日は、次の三つのことを共に考えましょう。一つ目は「信仰の始まり」です。クリスチャンの信仰生活は何によって始まったかを確認します。二つ目は「承認欲求」です。人はなぜ頑張ろうとするのでしょうか。その理由を考えます。三つ目は「アブラハムの子」です。信仰の父アブラハムは、なぜ神様に受け入れられたかを学びます。

 

まず、一つ目のポイントは「信仰の始まり」です。ガラテヤ人への手紙3章のメッセージに入るために、これまでの手紙の内容について簡単におさらいをしたいと思います。ガラテヤ人への手紙は使徒パウロが約2千年前、当時のローマ帝国のガラテヤ地方にある教会たちに送った手紙です。

教会には「本当に救われるためには律法をすべて守らなければならない」と主張する人々が起こり、たくさんの教会員がこの教えについて行きました。しかし、パウロはこの教えを「ほかの福音」と言い、イエス様の教え、福音とは異なるものだと指摘しました。

またパウロは、エルサレムで行われた教会の会議でも、律法を行うことによってではなく、信仰によって救われるのだと公に確認されたことを明らかにしました。そして、今日の本文に入ります。1節です。

「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」

パウロはガラテヤ教会の中で、ほかの福音についていった人たちのことを愚かだと言っています。ここまで強い口調なのは、単に「ちょっと分からなかったんだね」、「騙されただけなんだよね」と言っているわけではありません。その理由が後に続きます。

「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出され」ているからです。当時の使徒たち、教会の指導者たちの中には十字架にかけられたイエス様をその目で見た人たちもいました。復活の主に会った人たちも大勢いました。

この「描き出される」という言葉の中には「明るく」、「明確に」という意味合いもあります。クリスチャンは主イエスを信じる時、自分の罪を代わりに背負い十字架にかけられた主イエスに出会います。まるで目の前で、描き出されるように主に出会います。

福音を聞いて信じるということは、このように明確な形で、公に提示されるものです。十字架にかけられたキリストに出会い、霊が動かされ、この方を信じた時に救いが起こります。

パウロは、「なのに誰があなたたちを惑わしたのか」と言います。一つは教会の中に忍び込んだ律法主義者たちです。彼らは、このキリストを信じた人たちに対し、「ユダヤ人のようにならなければならない(つまり、律法を守らなければならない)」と言って、惑わしました。もう一つは、律法主義者たちについて行った、ガラテヤ教会の人々、自分自身です。

2節でパウロは言います。「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」

御霊を受けたというのはどういうことですか?主イエスを信じて救われたことを言います。イエス・キリストを自分の贖い主として信じ、罪赦された罪人のうちには御霊なる神が住まわれます。聖霊がある人のうちにおられるというのは、その人は救われたということを意味します。

ですから、2節は次のように言い換えることができます。「あなたは律法を行った結果として、救われましたか。そうではないですね?福音を聞いて、主イエスを信じたから救われたんですよね。」

パウロはここで、信仰と救いの大事な原理を二つ教えてくれます。一つは、信仰は福音を聞くことから始まるということです(ローマ10:17を参照)。何もしないで、自然発生的に信仰が始まるのではありません。福音を伝える人がいて、不信仰者がそれを自分の耳で聞くことから始まります。

もう一つの原理は、人の救いはイエス・キリストを信じることによって起こるということです。主イエスを信じてから、善い行いや何らかの条件をクリアすることによって、事後的に与えられるものではないということです。聖霊は聖なる神の霊です。罪赦された罪人の中に、すぐに住まわれます。

3節です。「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」ここでパウロは、2つのことを対比して意味を強調しています。一つは「始まる」ことと「完成」、もう一つは「御霊」と「肉」です。

御霊がおられることは何を意味しますか。聖霊は福音を通して働き、福音を聞いた人がそれを信じることができるように助けてくださいます。主イエスを信じ赦された罪人は、そのまま放っておかれるわけではありません。ここから成長が始まります。

救いと成長(聖化とも言います)は分けて考えられるものではありません。聖霊がみことばを聞く人の心を明るく照らしてくださるので、みことばが分かるようになります。また、キリストにある自由、救いの確信、喜び、祈りの応答も聖霊様のわざです。

では、肉はどうですか。食べるお肉のことではないですね。人間の体を指します。聖霊様の働きなしでは、例えばキリストを信じない人は、イエス様のくださる恵みに与ることはできません。キリストにある救いも、成長も、自由も、平和も、喜びもありません。

ガラテヤ教会の人々は、この聖霊のわざよりも、律法主義者たちの教えに頼りました。肉による手段=割礼を行うことや食物規定を厳格に守ることなどに信頼を置くようになりました。彼らは、行いによって完成されようとしました。キリストを信じてもなお、不信仰者のように振る舞っているのです。

パウロは「これは愚かなことです」と言っています。私たちも覚えたいと思います。私たちの信仰はどこから始まりましたか?キリスト者の救いは、福音を聞いて信じることによってなされました。行いではありません。神のあわれみによる恵みです。

クリスチャンとしての成長も同じです。私たちに福音を通して働いてくださった聖霊が、福音を通して私たちを成長へと導いてくださるのです。福音ではない、他の何かによって成長しようとすることは、自分の希望を肉に置くことに他なりません。

ここで、二つ目のポイントに移ります。

 

二つ目のポイントは「承認欲求」です。ここでは、信仰者の中にある承認欲求について考えたいと思います。承認欲求とは、何かをすることによって「他者から認められたい」、「自分は価値ある存在だ」と思いたい、心理的な欲求のことです。

人間は皆この承認欲求を持っていると言われます。この欲求のポジティブな表れ方は、例えば、子どもが家庭の中で親から愛され、自分自身を肯定的に受け入れられるように育つことです。このように育った子は、他人も価値ある存在として認めることができます。

一方で、この欲求が強すぎると、過度に他者の評価に依存するようになります。常に他人から認められたいという不安に突き動かされて、自己肯定感を得るためには、他の人のことを考えない身勝手な行動に走ったりすることがあります。この根底には、自己中心性があると考えられます。

この自己中心性と、私たちの信仰生活にはどんな関わりがあるでしょうか。4節です。「あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。」

4節は一見、先行する1〜3節とのつながりが弱いようにも見えます。3節までは、信仰と律法の行いについての対比が語られていたからです。4節の経験という単語は、律法の行いにも近い気がしますが、ここでいう経験とは何でしょうか。

これは文脈を考えると、信仰生活における霊的な体験、経験を意味するものと考えられます。私たちは信仰生活をする上で、人生の様々な場面を通り、考えさせられ、主によって助けられ、祈りに応えられたり、待たされたりすることがあります。主はこれらの経験を通して、霊的な有益を備えてくださいます。

一方で、霊的な経験を自分自身のために用いる人がいます。聖書の中では、バラム預言者がいますね。イスラエルを祝福する神様のみこころを確かに聞いておきながら、金銭を愛しモアブ人に雇われ、何度もイスラエルをのろうために神に向かい立ちました(民数記22〜23章)。

他にもカイン、エサウ、ゲハシ、ユダ、アナニアとサッピラなどの人々がいます。これらの人たちは、神様の御力を経験しながらも、自己中心的な動機(肉のための有益や利益)によって行動しました。

彼らの信仰から始まったにも関わらず、肉によってそれを完成させようとしました。その結果、主の恐ろしいさばきにあうこととなりました。まさに、神様から与えられた霊的な経験を無駄なものとしてしまいました。

この自己中心性を、ガラテヤの人々に適用するとどうですか?ガラテヤ教会の人々がイエス様を信じ、4節でパウロが言うように「あれほどの経験」をしながらも、律法の行いに執着するのはどうしてですか?

行いを通して、何かを得ようとしているからです。律法を一生懸命に行うことによって、救いにおいて、自分の持ち分を獲得しようとしているように思えます。「ここからここまでは、イエス様がしてくださったけど、残りは自分で頑張りました」と言うようなものです。自分の義を立てて、イエス・キリストの義に頼ろうとしない思いです。

このような思いは、私たちの間にはありませんか?主イエス・キリストを信じ、主の恵みを経験した後、こう言います。「これから私、頑張ります。もうよく分かりました。」、「教えられた通りに頑張ってみますから、イエス様はいつも私を見守っててください」

もし同じように祈っているのであれば、それはイエス様に対して、まるで「イエス様、もうあなたの助けは要りません」、「ここまで良いご指導をありがとうございました」、「私にだってできるんだから、そこを見て評価してくださいよ」「ここからは自分で頑張って、私の救いを獲得します」と言っているようなものです。

私たちの中には、自己中心的な承認欲求があります。ですから、イエス様に対しても如何に自分が救いに相応しい人間なのかを証明して、認められたいという思いがあります。常に福音の恵みに立ち返らなければ、私たちはこのように迷い出てしまいます。

この点、5節に耳を傾けたいと思います。「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。」

5節は何と言っていますか?私たちが良い行いをしたから、私たちは義とされましたか?いいえ、信仰をもって聞いたからだと言います。

「あなたがたの間で力あるわざ」は何を指しますか?これは、当時の教会、まだ聖書の66巻が完成するまでの間にだけ、教会の中で行われていた癒し、預言、異言と通訳などの見える形の賜物と、信仰と希望と愛のようにいつまでも続く霊的な事柄をすべて含みます。

これらはどれも、律法を行ったから与えられたものではありません。すべて、主の恵みによるのです。キリスト者はイエス様に自分の価値を証明しようとして、主の恵みを拒否してはなりません。

たとえ失敗したとしても、「イエス様。私はこのような罪に陥ってしまうものです。お赦しください。それでも私を受け入れてくださって、ありがとうございます。私はイエス様の義に頼ります」と祈れる私たちになりたいと願います。

 

最後、三つ目のポイントは「アブラハムの子」です。6節は創世記15章6節の引用です。アブラハムが信仰によって義とされたことを教えてくれる有名な箇所です。

一方で、ユダヤ教の人々は自分たちがアブラハムの子であることを誇りに思います。血統的な純粋さに加え、律法の文字通りの遵守や様々な伝統を足しました。これらによって、義を獲得しなければならないのだと信じます。

このように信じていると、神様との関係性はどうなると思いますか?神様が血筋的にユダヤ人を愛することが当然だと思うようになります。それでは神様がユダヤ教徒に対して、彼らを救う義務でもあるかのように考えるようになりませんか?まるで神様が弱みを握られているか、借金をしているかのようですね。

ガラテヤの諸教会に潜んでいる律法主義者たちの教えも、ユダヤ教と変わりません。律法の行いをすることによって、神様に受け入れられ、祝福されるというのであれば、キリストの福音は人を救うのに完全ではありません。人が律法によって義を積まなければ、イエス様はその人を救うことができないからです。

しかし、真に義と認められるのは、信仰によるのです。創世記15章においてアブラムは、自分の救いのために、律法の行いは何もしていません。アブラムはただ、神様のことばが真実であると信じました。アブラムは行いや努力によって救われたのではありません。

アブラムが義と認められたのは、神様の恵みです。神様を信じるアブラムに、神様はアブラムのものではない義を認められました(義が転嫁されたとも言います)。律法の行いではありません。アブラムは割礼を受ける(創世記17:23-27)よりも前に、義と認められました。

ここで私たちは一つの疑問に当たります。アブラムは創世記15章で義と認められたわけですが、彼はイエス・キリストを信じたのでしょうか。答えは、はい。そうです。この点についてはガラテヤ人への手紙3章16節の説教でも、詳しく確認することができればと思いますが、簡単に説明すると次の通りです。

聖書はすべての部分においてイエス・キリストを指します。神のことばである主キリストは、ご自分を現したいと思うあらゆる人たちに、ご自分を明らかにされるお方です。旧約聖書の時代の神の民は、このようにこられるメシアを信じて救われました。誰一人、律法の行いによって救われた人はいません。

イエス様はアブラハムについて、このように言われました。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56)

そして、ヘブル人への手紙の記者も、旧約時代の神の民の救いについて、次のように語ります。「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え」(ヘブル11:13)と。

旧約時代の神の民は、神様にあって明確に、後に来られるキリストを待ち望みました。アブラハムもキリストへの信仰を通して、義とされました。7節が教える通りです。人は誰でも、信仰によって義と認められます。神の恵みによって与えられる信仰です。血筋による遺伝や、律法の行いではありません。

私たちの時代、新約聖書の時代においては、イエス・キリストの御名が明確に証しされます。旧約の民がみな心待ちにしていた時代です。人は聖書を通して、福音の宣教によってイエス・キリストについて聞き、このお方を信じることによって救われます。

私たちは、自分を救うことができるかどうか分からないものに希望を置くことは止めましょう。私たちの頑張りは曖昧で、霧のように先が見通せず、保証のないものだからです。

 

メッセージをまとめます。旧約聖書の時代の神の民も、新約聖書の時代を生きる私たちも、同じキリストを信じる信仰によって義と認められます。

私たちのうちにおられる聖霊は、私たちが自らキリストの福音を信じることができるように働かれます。そして、人がキリストを信じると、その人のうちに住まわれ、キリストに向かってキリストに似た者へと、成長させてくださいます。

私たちの信仰はイエス・キリストを信じることです。主イエスは、この世の基が据えられるより前に、私たちを選んでくださったお方です。私を愛し、私の代わりに神にまったく従い、私の代わりに十字架にかけられたお方です。

私たちは、福音を通して明確に描き出されるイエス・キリストにのみ頼りたいと思います。主は、行いによって認められようとする承認欲求のプレッシャー、自己中心性の罪から、私たちを自由にしてくださいます。お祈りを致します。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church