2026年1月18日礼拝 説教 「イエスが与える「自由」とは」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇146篇5、7-8節
さ ん び Opening Praise 主の手にこの手を重ね
さ ん び Praise よみがえりの主
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第5戒 – 出エジプト記20章12節)

エペソ人への手紙6章1-4節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God エペソ人への手紙2章13、19節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌45番

「神の子羊」

聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書8章30-36節
聖書の話 Sermon 「イエスが与える「自由」とは」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌391番 「主と主のことばに」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ルカの福音書7章44-47節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。水槽の中で泳いでいるお魚は「自由」だと思いますか?それとも「不自由」だと思いますか?もし、お魚が「水の中は狭くて嫌だ!もっと自由にどこへでも行きたい!」と言って、地面に飛び出したらどうなるでしょう?飛び出した瞬間は自由に見えるかもしれないけれど、すぐにお魚は苦しくなって動けなくなってしまいますね。お魚にとって本当の自由は、地面の上ではなく「水の中」にしかないのです。

 

今日の聖書箇所で、イエス様は私たちにこう言っています。「もし私の言葉にとどまり続けるなら、あなたは本当のことを知ることができ、自由になることができる!」だけど、当時の人たちと私たちは「私たちは最初から自由だ!」と言って、自分が罪という泥沼の中にいることに気づきませんでした。 お魚が水の中にいなければいけないように、私たち人間は、神様の「真理」という水の中にいる時だけ、本当に幸せで自由になれるのです。 イエス様は、私たちが自分勝手な「偽りの自由」で干からびてしまわないように、神様の子どもとしての「本当の自由」「本当の愛」へと招いてくださっています。今日は、イエス様が教えてくれる「真理に生きる自由」について、一緒に学んでいきましょう。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くということです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

 

今までのヨハネの福音書シリーズの説教を聞いている方々にとっては、イエス様は5章から8章までユダヤ人たちと論争し続けているというイメージがあるかもしれませんが、それはその通りです。イエス様は、穏やかでケンカを嫌い、いつもニコニコしている、「丸い」先生ではありません。イエス様もとがったところがあります。それは悪いことでもありませんし、罪でもありません。福音書の中では、ユダヤ人たちはイエス様にケンカを売り続け、イエス様はそのケンカを買い続けてきたのです。イエス様が論争を続けた理由は、自分のプライドを守るためだったり、負けず嫌いだったから、あるいは、愛がなかったからではありません。イエス様は神様の真実とご栄光のために、また、私たちの救いのために、熱い愛をもって戦い続けてこられたのです。

 

ヨハネの8章は、長い論争のクライマックスとも言えます。当時、イスラエル人の間で最も人気があった「仮庵の祭り」が首都エルサレムで行われ、一週間かけて神様の恵みをお祝いしていました。その間イエス様は、何日もかけて、群衆と対話し、なぜ彼らが信じようとしないのか、愛をもって真実を語られました。そして、祭りの終わりに、イエス様は立ち上がり、大きな声でこの二つのことを言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)これを聞いたエルサレムの右派と左派のリーダーたちは、イエス様を馬鹿にし、イエス様を信じる人たちを見下しますが、群衆が「この方は、確かにあの預言者だ」「この方はキリストだ」というふうに言い始めます。それで、今日の聖書箇所はこのように始まります。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」(ヨハネ8:30)この群衆と同じように、「最初はイエス様の話を疑ったけど、イエス様の話を信じれられるかもしれない」と思う方々も、今日いらっしゃるかもしれません。

 

イエス様は、ご自分の言葉を信じ始めた人々に、このように語り続けます。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 32  あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

もちろん、これを聞いたユダヤ人たちには、この言葉は非常に気にいりませんでした。イエス様は、ご自分の言葉を信じない人は「奴隷」であると見なされます。そして、「奴隷」の立場から「自由」になる手段は、イエス様の言葉を信じ、「真理」を知ることなのです。

 

しかし、21世紀にいる私たちでも、そのような話を聞くと、聖書の中の群衆と同じように、拒否反応が生じます。「え?!私は奴隷なんかじゃありません。むしろ、自由に自分の運命を選んでますけど!」と思うかもしれません。私たちは、「現代主義の神様」と言えるぐらいに、「自由」を最も謳歌していると思います。この時代の「自由」の定義は、自分の選択を妨げるものをすべて取り払えることですね。自由に投票できること。自由にあらゆるものを学べること。自由に自分が好きなキャリアを選び、夢を追いかけること。自由に自分の好きな人や好きなものを楽しむこと。自由に、制限なしでお金や時間を使うこと。現代では、すべての自由を制覇することは、社会の頂点に立つという意味かもしれませんし、世界史を振り返ると、現代は、政治的に、経済的に、社会的に、最も「自由な」時代とも言えます。

 

そうだとしても、私たちはいろんな選択肢から自由に選択できる中で、「本当の自由」を味わっているでしょうか?例えば、世界的に認められている億万長者が社会に最高の貢献をしていたとしても、何回も離婚を繰り返して自分の子供たちに嫌われていたり、傲慢で、仕事、アルコール、セックス、ギャンブルに思うがままに没頭し「俺は最高に自由な人間だ」とその人が言ったとしても、皆さんはそう思いますか?または、あなたの10代の子供ーまたは、自分かもしれませんーが、いろんな責任やプレッシャーを負っていて「自由になりたい!」と叫んで自分の部屋に閉じこもって、何時間もネトフリ、TikTok、インスタ、ゲームに没頭していたとすれば、その子は「自由」だと思いますか?クリスチャンでも、ノンクリスチャンでも、単に自分の選択を妨げるものをすべて取っ払うことが自由ではないことは誰でもわかります。

 

しかし、残念ながら、このような話を聞くと、私たちの心からもっと激しい反応が出て来ます。ですから、群衆はこのように感情的に答えました。

「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

ユダヤ人の群衆は、政治的、社会的、経済的な自由について考えていませんでした。彼らは、自分たちは霊的に自由であると信じていたのです。群衆は、自分たちが「選民」であること、神様に特別に愛されていること、「御国の子」(マタイ8:12)であることを信じていました。自分たちは、霊的な病人でもないし、医者の助けも必要ないと思っていて、自分たちが神様の愛にふさわしいものだと思っていたのです(ヨハネ9:40-41参照)。皆さんも「私はそこまで悪いのかな…」と思っているかもしれません。

 

イエス様はこのように説明されます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(8:34) 英語でも日本語でも、「罪」という言葉にいろんなイメージがありますが、この聖書箇所のあとの文脈を見ると、罪というのは、二つの「自由」を選び続けることだとわかります(8:44参照)。その二つとは、「欲からくる自由」、「偽りからくる自由」を選ぶことです。罪人を何らかの中毒者に例えると分かりやすいかもしれません。中毒者は自由に選択できます。中毒性のあるものを楽しむか、楽しまないか。しかし、10回中10回は中毒性のあるものを選びます。なぜなら、はかない一瞬だとしても、欲を満たす快感からくる「自由」が恋しいからです。それだけではありません。中毒者は自分に嘘をつくことによって、さらに「自由」を楽しみます。「私はいつでもこれをやめられる。」「もう一回楽しめれば、また最高な快感を味わえる。」「これを選んでも、誰にも迷惑をかけない。」「悪い物でも私は頑張ってるから、ご褒美みたいな物だ。」「自分は大丈夫だ。これを楽しんでも何の害もない」このように偽りの世界を造り出すのです。「偽り」の世界は最高に自由です。しかし、周りの正常な人からすると、中毒者が「欲」と「偽り」に縛られているのは明らかです。

 

イエス様が見ておられる「奴隷制度」とは、政治的、社会的、経済的な奴隷制度ではありません。罪における奴隷制度です。イエス様には私たちの魂を支配している「罪」が見えています。すべての罪は、中毒のようなものです。神様よりも、他人よりも、自分を愛する中毒のようなものです。アルコールとポルノ中毒の中年の日雇い労働者、インスタと見栄え中毒の女子校生、賞賛と仕事中毒のサラリーマン、子供の成功と幸せ中毒の母親、権力とステータス中毒の政治家。もちろん、熱心に教会に通っているクリスチャンにも心に秘めた中毒があります。ですから、イエス様からご覧になると、すべての人はー最も敬虔なユダヤ人でも、誠実なクリスチャンでも、当時のローマ帝王さえもー罪の奴隷なのです。そして、罪の奴隷は、神様の愛と恵みにふさわしくありません。ですから、イエス様はすべての人々を罪から自由にされたいのです。

 

それでは、「本当の自由」とは何でしょうか。それは、ある「自由」を犠牲にして、より良い「自由」を得ることです。例えば、深夜にポテチを食べる自由を犠牲にして、健康にいい自由な生活を選ぶこと。今日、遊ぶ自由を犠牲にしてバイオリンを練習し、自由にバイオリンを弾ける将来を選ぶこと。花婿が自由に女性と恋することを犠牲にし、一人の花嫁を深く自由に愛すること。親が自分の自由を犠牲にし、子供に愛を自由に注ぐこと。「本当の自由」とは、ある自由を犠牲にして、より良い自由を得ることなのです。もしそうなら、イエス様は、どのような自由を私たちに与えようとしておられるのでしょうか?

 

イエス様は、私たちがイエス様のことばを信じることによって、二つの最高の自由を私たちに与えようとしておられるのです。まず、「真理にある自由」が与えられます。もう一度、イエス様の約束を読みます。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

イエス様の御言葉のみにとどまることは、他のことばにとどまる自由を犠牲にすることです。しかし、イエス様のことばを神様からの言葉として受け止めることができれば、それは神様の「真理」を知ることになります。そして、真理を知れば、今までなかった自由を体験することができるのです。

 

例を挙げましょう。1+1は何でしょうか?偽りの世界はものすごく自由です。1+1は5になれます。1+1は11にもなれます。1+1は田んぼの「田」になれます。なんでもありの世界はものすごく自由です。しかし、なんでもありの偽りの世界では、算数をすることはできません。そして、算数ができないと、皮肉なことに、小さな、狭い世界に縛られることになってしまいます。しかし、「1+1は2」という事実を、変えることのできない真理として受け入れて、それ以外の真理はないと結論づけることができれば、「1+1+1は3」という二つ目の真理が生まれます。そして、「足し算」という無限の世界が生まれます。そのあとに、「引き算」というもう一つの無限の世界が広がります。「1+1は2」という一つの真理を受け入れることによって、数学の世界は、全ての方向に無限に広がります。そして、真理であり、秩序のある数学の世界は、偽りで、秩序のない世界よりも最高に自由であり、美しいのです。

 

イエス様のことばを「神様の真理」として受け入れるなら、同じようになります。一見、自分の考えが狭くなると思うかもしれませんが、イエス様のことばを変わることのない「真理」として受け入れることによって、偽りの世界の小さな、狭い空間から解放され、自分の世界がすべての方向に無限に広がります。ですから、イエス様は言われます。「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。…また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。」(マタイ7:24,26)

 

イエス様の言葉を信じることによって、もう一つの最高の自由が与えられます。それは、「神の家族にある自由」です。イエス様はこのように説明されます。

「奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」

ユダヤ人である群衆は、自分たちは「神様の子」であると思っていました。そして、「神の家族」の特別の愛にふさわしい者たちだと思っていたのです。しかし、先ほど説明したように、すべての人は罪の奴隷です。ですから、イエス様はこう結論付けられます。「奴隷はいつまでも家にいるわけではありません」つまり、私たちが罪の奴隷である限り、私たちが神様の御前から追い出される可能性はいつもあります。常に不安と恐れに縛られるような状態です。

 

感謝なことに、神の子であられるイエス様は、私たちに神様の御前にいつまでもいられる権限をお与えになることができます。なぜなら、イエス様は、神様のひとり子だからです。それだけではなく、イエス様を「受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)のです。イエス様を信じることによって、私たちは「神の子ども」として、神様に永遠に愛され、奴隷としての不安と恐れから解放されるということです。

 

想像してみてください。もし貧しい孤児が世界一愛に満ちた億万長者に養子にされ、無条件に愛されると約束されたら、その孤児はどうなりますか?不安や恐れからもたらされる「欲」から解放されます。人に認められるために必死に見栄えを良くし、成功を追いかける必要もなくなります。安定と安心を得るために、過度に仕事する必要もなくなり、常に人の顔色を伺いながら生きる必要もなくなります。一つの真理を受け入れることによって無限に世界が広がるように、神様が御子に注がれる愛だけに満たされると、無限に自由になるのです。これがイエス様が約束される自由なのです。ヨハネは別の箇所でこのように説明します。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:18-19)

 

次回のメッセージで、私たちがどのように縛られているのかをもう少し詳しくお話しますが、今日の短い聖書箇所から3つの大事な点を覚えていただきたいです。

「奴隷は真の自由を見ると、激しく、暴力的に反抗します。」

もっとも効果的な奴隷制度は、自分たちの自由に満足している奴隷たちに、その浅はかな自由を失うことを恐れさせることです。アルコール中毒者からお酒を取りあげようとすると、パニックになって暴力的になるように。イエス様が「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」とおっしゃるとき、「今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたは自由になる』と言われるのですか。」と激しく、感情的にイエス様に言い返す人もいるかもしれません。しかし、イエス様を無視する前に、ぜひ考えてみてください。なぜそこまで感情的にイエス様の自由を拒否するのでしょうか?何を守ろうとしているのですか?自分は本当に自由だと思っているのでしょうか?

 

イエス様は私たちの実態を御覧になっています。自由な「欲の世界」に縛られていること。自由な「偽りの世界」に縛られていること。私たちが罪の奴隷になっていること。イエス様はすべてご存じです。罪の奴隷制度から解放される第一歩は、激しく、暴力的に反抗することをやめて、「私は罪の奴隷だ」と認めることです。イエス様を信じていなくても、長年クリスチャンとして歩んでいても、今日、自分が罪に縛られていることを認めてみませんか?

 

イエス様ご自身が、真理で私たちを偽りの鎖から解き放ち、御父の愛で私たちの罪と欲から自由にしてくださいます。

私たちは自分の力で、この「罪の鎖」を断ち切ることはできません。どれだけ意志を強く持っても、どれだけ反省しても、私たちはまた「偽りの自由」に戻ってしまうような弱い存在です。奴隷は、そもそも自分で自分に自由を与えることは出来ません。だからこそ、イエス様が必要なのです。しかし、イエス様は、単に「自由になるための真理」を教える教師として来られたのではありません。イエス様ご自身が、私たちを縛る「偽り」を打ち砕く「真理」そのものなのです。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

 

そして何よりも、イエス様がこの世に来られ、十字架にかかってくださった理由は、私たちを「奴隷」の身分から「神の子」へと引き上げてくださるためです。もし私たちを「神の子」とするために、御父がご自分のひとり子のいのちを犠牲にされたのであれば、私たちがまた簡単に「奴隷」の身分に逆戻りできると思いますか?もし罪と欲が、あなたを再び支配しようとしたとしても、命を懸けて私たちを神の子にしてくださったイエス様が、みすみす私たちを罪の奴隷に渡されるでしょうか。イエス様ご自身が私たちを解放してくださったのですから、イエス様が生きておられる限り、私たちの自由は守られているのです。

 

本当の弟子は、イエス様のことばにとどまり続け、イエス様にある自由を楽しみ続けます。

では、私たちは今日からどう生きるべきでしょうか。イエス様は「わたしのことばにとどまるなら」と言われました。本当の信仰とは、一瞬の感情的な盛り上がりではありません。毎日、イエス様の約束にしがみつき、とどまり続けることです。世の中はこれからも「神から離れて、自分の好きなように生きるのが自由だ」と叫び続けるでしょう。しかし、それは水から飛び出した魚が、地面の上で「私は自由だ!」と叫びながら干からびていくようなものです。本当の自由とは、世の「偽りの自由」を捨てて、自分の人生をイエス様の言葉という「真理」の中にとどまらせることです。

 

イエス様はこう約束されています。「わたしにとどまっていなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。…人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。…あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:4-7)たとえ世の流れに逆らうことになっても、自分の罪を認め、イエス様の言葉にとどまり続けてください。その「とどまる」歩みの中にこそ、決して尽きることのない喜び、永遠のいのち、そして誰にも奪うことのできない、無限の「本当の自由」があるのです。今週もイエス様のことばにとどまりましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church