2026年1月25日礼拝 説教 「あなたは誰の子ですか?」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ローマ人への手紙8章14-17節
さ ん び Opening Praise Yet Not I キリストにあって
さ ん び Praise 主のあわれみは~His Mercy is More~
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第6戒 出エジプト20章13節)

エペソ人への手紙4章31-32節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ヨハネの手紙第一4章8-10節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 319番

「主イエスのみ声は罪ある者を」

聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書8章37-59節
聖書の話 Sermon 「あなたは誰の子ですか?」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌359 番

「私の望みは主イエスだけにある」

主の献金の招き Lord’s Call to Give コリント人への手紙第二9章6-8節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子供たちに質問です。みなさん、「蛙の子は蛙」ということわざを知っていますか?カエルの子どもは、やっぱりカエルになります。急に美しい、カッコいい鳥にはなれませんよね。今日の聖書で、イエス様は「みんなの本当のお父さんは誰?」と聞かれました。不思議なことに、私たちは「優しくすること」は一生懸命習わないとできないのに、「嘘をつくこと」や「お友達に意地悪すること」は、誰にも習わなくても小さい頃から自然とできてしまいます。それは、私たちの心が生まれつき「霊的な親分であるサタン(悪魔)」に似てしまっているからなんです。もしカエルが無理やり羽をつけて「たかのように頑張って美しく空を飛びます!」と言っても、中身はカエルのままなのでただ「ゲロゲロ」とジャンプするだけです。同じように、いくら「良い子になります!」と約束しても、心の中から湧いてくる「悪い気持ち」を自分の力だけで消すことはできないのです。

 

では、どうすればよいのでしょうか?カエルが自分で鷹になれないように、私たちも自分では変われません。でも、聖書には「神様の家族に入れてもらう」という特別な方法が書かれています。本当の神様のひとり子であるイエス様が、「私の言葉を信じるなら、君を僕の家族に入れてあげるよ。今日から『神様』が君のお父さんだよ」と言ってくださっているのです。イエス様を信じるというのは、ただ「良い子になる」ことではなく、「神様の子どもに生まれ変わる」ということです。今日はその事について考えてみたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くと言うことです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

 

今日の聖書箇所ヨハネの8章は、長い論争のクライマックスとも言えます。イエス様は5章から8章までユダヤ人たちと論争し続けて来られ、首都エルサレムで行われていたイスラエル人の間で最も人気があった「仮庵の祭り」では、何日もかけて群衆と対話し、なぜ彼らがイエス様のことばを信じようとしないのかを、愛をもって真実を語られました。エルサレムの右派と左派のリーダーたちは、イエス様を馬鹿にしていましたが、群衆が「この方は、確かにあの預言者だ」、「この方はキリストだ」と言い始めます。この群衆と同じように、「最初はイエス様の話を疑ったけど、イエス様の話を信じられるかもしれない」と思う方々も、今日いらっしゃるかもしれません。

 

そして、イエス様はこの議論の最後の「パンチ」として、このように語ったのです。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 (ヨハネ8:31-32)イエス様は私たちの実態をご存知です。私たちが罪の奴隷になっていること。「欲の世界」に縛られていること。「偽りの世界」に縛られていること。イエス様は、罪の奴隷である私たちに、「本当の自由」を与えようとされているのです。イエス様ご自身が、真理で偽りの鎖から私たちを解き放ち、御父の愛で私たちを罪と欲から自由にしてくださると約束して下さいました。これが前回のお話でした。

 

普通だったら「本当の自由」が差し出されたら、私たちはすぐにもらいたいと思います。しかし、イエス様は群衆と私たちがすぐに拒否すること、そして、その理由もよく知っておられます。ですから、こう説明されます。

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。

「本当の自由」についての話なのに、突然「アブラハムの子孫」や「あなた方の父」、「私の父」の話に切り替わります。それはなぜでしょうか?実は、この繋がりが理解できれば、「本当の自由」の源がどこにあるかが明らかになります。

 

1世紀の世界では、子供の人生は親によって決まりました。農家の子は農家になり、大工の子は大工になります。職業だけでなく、価値観、道徳観、宗教観に至るまで、すべてを「親」から受け継いでいたのです。現代の私たちも、職業こそ違うかもしれませんが、根底にある価値観や振る舞いを見れば、いい意味でも悪い意味でも、私たちが誰の影響を受けて育ったか、つまり「誰の子」であるかは隠せません。21世紀にいる私たちも、親と違う仕事をしていたとしても、自分の親からどれほど離れようとしても、私たちの価値観、道徳観、政治観、家族観、宗教観、文化、伝統などは親から吸収しているのです。

 

ですから、イエス様は、群衆にこうおっしゃいます。「あなた方が、『本当の自由』を選ばない理由は、あなた方の『自分の父親』の言う通りにしているからです。」つまり、自分たちが育った環境、教わってきた価値観、周りの人の影響をたくさん受けて来たので、私が提示する「自由」「いのち」「真理」を拒否しているのだ、とイエス様は結論付けられます。もちろん、イエス様が普通の人間だとすると、これはかなり無礼で上から目線の発言と言えます。ですから、ユダヤ人の群衆は、またこのように言います。「私たちの父はアブラハムです。」(8:39)と。彼らは「私たちはアブラハムからいい育ち、いい教え、いい模範を受けているから、そんなことはない」とイエス様に答えるのです。皆さんも同じように考えるかもしれません。

 

ここでイエス様は、単刀直入に私たちのプライドに切り込まれます。

「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」(8:39-41)

つまり、「もしそんな立派な父祖がいるなら、なぜアブラハムらしく歩まないのですか?」とイエス様は質問しておられるのです。言い換えると、「軍人の子なら、剣の使い方を知っているはず。剣の使い方を知らない軍人の子は存在しないから、あなたが剣を使えない理由は、あなたの父が軍人ではなく、農夫だからだ。」という事です。アブラハムは、神様のことばを信じる民の父祖であり、真実を信じるものです。そして、アブラハムの子も同じようにするのです。神の真理を語る預言者を殺そうとする者の父は、明らかにアブラハムではない、父がアブラハムでは無いことは明白だとイエス様はおっしゃっているのです。普通に考えれば、これはかなり失礼なことですよね。イエス様が「あなたのお父さんは本当にアブラハムなの?」と疑っておられるということは、アブラハムの子孫を霊的な「婚外子」あるいは「隠し子」と言っているようなものです。(これは、イエス様が意地悪で罪深い表現をされたのではなく、神様が偶像礼拝をしていたイスラエルに対して用いられた表現(ホセア2:4参照)です。

 

そして、アブラハムの子孫である群衆はこう主張し続けます。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」(8:41)つまり、もし自分の父親がアブラハムではなかったら、アブラハムよりも立派な父親の名前を出した事でしょう。「すみません、私が剣を使えない理由は、私が軍人の子ではなく王様の子だからです。」というような反論とも読めます。しかし、イエス様はこの反論に全く動じることはありませんでした。イエス様はついに、勝利を決定づける『詰みの一手』を放たれたのです。

神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。(8:42-44)

エルサレムの群衆は、何日間もイエス様の話を聞いてきたので、イエス様が神様が遣わされた預言者であることを誰も否定しませんでした。むしろ、イエス様を究極の「あの預言者」か、エルサレムを救う王「キリスト」かもしれないと思っていたのです。ですから、イエス様が神様の下から来られる方であることを否定する者はいませんでした。しかし、誰もイエス様のことばに聞き従おうとする者はいなかったのです。

 

ですから、イエス様は、前と同じロジックを使って、こうおっしゃいます。「もしあなたが王様の子なら、王様のことば、王様の価値観、王様の掟、王様の計画、王様の心をよく知っているはずです。そして、王様が遣わされた者を信じて、王様のことばに聞き従うはずです。そうしない王様の子はいません。ましてや、王様の子が、王様が遣わした者を殺すなどとはありえないことです。ですから、あなた方が私に聞き従わない理由、私を殺したい理由は、あなた方がそもそも、王様の子ではないからです。あなた方の価値観、考え方、行動は、反逆者がすることです。大工のことは大工の父親からしか学べないように、反逆者の振る舞いは反逆者の父親からしか学ぶことができません。ですから、あなたたちは反逆者の子なのです!」と。聖書に書いてある神様の反逆者の象徴は、サタンです。ですから、イエス様は、「あなたがたは、悪魔である父親から出た者であって、その父親の欲望を成し遂げたいと思っているのです。」とおっしゃっているのです。誰も「あなたはサタンの子だ!」と言われたくありませんね。ですから、ユダヤ人たちが「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」と言い返すのも自然な事だと思います。

ここでイエス様はご自分のこと、つまり、ご自分の父について説明されます。

わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。

一見、イエス様が自己弁護されているか、「あなたは悪魔の子。私は神の子だ」とさばいているように聞こえるかもしれません。しかし、イエス様は強調したいことを最後におっしゃいます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」イエス様は、「悪魔の子」である群衆に「永遠のいのち」を与えようとしているのです。しかし、なぜご自分や、ご自分の父について説明されることが、永遠のいのちに繋がるのでしょうか?それは、「悪魔の子」である私たちが「神の子」になることによって救われるからです。

 

「悪魔の子」という言葉は、私たちが悪魔のような角を持っているとか、ヒトラーのような虐殺者になったという意味ではありません。それは、私たちがサタンと同じように、神様に反逆している状態にあることを指しています。神様に反逆すると言うことは、単に剣を持って宣戦布告するということだけを意味するのではありません。神様のみことばに聞き従うよりも、自分の欲に従うこと。真理に立つよりも、偽りの世界の「自由(放縦)」を楽しむこと。また、そういう事を選ぶこと。そして、他者のいのちを尊ぶよりも、それをないがしろにすること――それこそ悪魔が本質的にしたことであり、罪の本質なのです。

 

イエス様は、群衆を含め、この世のすべての人は本質的に悪魔と変わらない性質を持っているとおっしゃいました。新約聖書もまた、そのような私たちの姿を赤裸々に描き出しています(エペソ2:2-3; 1ヨハネ3:10)。反逆者であるサタンのように振る舞う者は「反逆者の子」であり、最後には反逆者と同じように裁かれてしまいます。イエス様は、この反逆者への罰が「永遠の死」であることを、この箇所で示唆されているのです。

 

しかし、イエス様がこの厳しい真実を私たちに語られたのは、私たちを霊的な反逆の父であるサタンから救い出すためでした。福音書の著者ヨハネはこのように説明しています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)つまり、イエス様のことばを受け入れることによって、私たちは「裁かれるべき反逆者の家系」から「神の家族」へと移されるのです。それによって永遠の死の罰から守られ、永遠のいのちが与えられます。だからこそ、イエス様ははっきりとおっしゃるのです。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」すべての人の永遠のいのちが、イエス・キリストというお方にかかっているのです。

 

これを聞いた群衆は、当然の事ながら戸惑い、反発しました。「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」群衆は、イエス様の話の内容を(皮肉にも)正しく理解していました。信仰の父アブラハムや偉大な預言者たちでさえ死を免れることはありませんでしたが、「彼らも私を信じる必要があるのだ」と主張するイエス様に対し、「なんと高慢な男だ」と憤ったのです。

 

しかし、イエス様は全く動じることなく、さらに驚くべき答えを返されました。ここで主は二つのことを強調されます。まず、「あなたがたが『神』と呼んでいるお方は、あなたがたの父ではなく、わたしの父である。これが真理だ。」ということです。イエス様は、ご自身が「神の御子」であることを明言し、アブラハムや旧約聖書の権威の上に立つ存在であることを一切の妥協なく主張されました。次に、イエス様はこう畳みかけられました。「あなたがたの父アブラハムは、すでにわたしのことを信じていた。あなたがたと違って、彼はわたしを見て大いに喜んだのだ!」つまり、アブラハムはすでにキリストを信じる信仰によって永遠のいのちを頂いていたのであり、群衆こそが「アブラハムの子孫」だと自称していながら、アブラハムのような信仰を持っていないことを戒められたのです。

 

これを聞いた群衆は再び衝撃を受け、「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」と詰め寄ります。そこで、イエス様は決定的な宣言をなさいました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」この「わたしはある」という表現は、旧約聖書において神様がご自身の名として示された言葉です(出エジ3:14)。イエス様はここで、ご自身が永遠の昔から存在し、旧約の神様と等しい存在であることを宣言されたのです。もしイエス様がただの人間であれば、これは救いようのない冒涜です。だからこそ、群衆は逆上し、石打ちの刑に処そうとして石を取ったのでした。これがイエス様と群衆の間で、何日間も交わされた対話のクライマックスです。この終わり方から何が学べるでしょうか?

 

罪の根源は「何をしたか」ではなく、「誰の子であるか」にある。

私たちはしばしば、罪を単なる「悪い行い」や「ちょっとした失敗」だと考えがちです。前回のメッセージで、私たちは「罪の奴隷」であるとお話ししましたが、今日の箇所で、イエス様は私たちにさらに衝撃的な事実を突きつけられました。それは、私たちが罪を犯してしまう根本的な原因は、私たちの「霊的な家系」にあるということです。リンゴの木がリンゴの実を結ぶように、私たちは「反逆の父」である悪魔の性質を受け継いでいるからこそ、神様に反逆し、自分中心の道を歩んでしまうのです。これは、私たちの努力や選択でどうにかできるレベルの話ではありません。

 

この事実は、私たちのプライドを打ち砕きます。私たちは「自分はそこまで悪くない」「普通の家庭で育った善良な市民だ」と思いたいのです。しかし、イエス様は私たちの心の奥底にある「神への無関心」や「自己中心性」をご覧になり、「あなたの霊的な父親は誰ですか?」と問われます。私たちが自分の力で善人になろうとすることは、DNAを変えようとするようなものです。まず必要なのは、私たちが生まれながらにして抱えている、この絶望的な「罪の根の深さ」を正直に認めることなのです。

 

本当の救いは「自己改善」ではなく、神の家族への「養子縁組」にある。

もし問題が単なる「行い」であるなら、努力して自分を改めれば解決します。しかし、問題が「家系」にあるなら、どれほど立派な行いを積み重ねても、解決にはなりません。反逆者の子どもが、どれほど礼儀正しく振る舞っても、王の子どもにはなれないのと同じです。私たちに必要なのは、道徳的な「自己改善」ではなく、身分そのものを変える「法的な解決」、つまり神の家族への「養子縁組」なのです。

 

ここに福音の素晴らしさがあります。イエス様は私たちに「もっと頑張れ」「もっとアブラハムのようになれ」とは言われませんでした。むしろ、ご自分の命を代価として、私たちを悪魔の支配下から買い戻し、神の愛する子供として迎え入れる道を用意してくださったのです。救いとは、あなたが「良い人」に変わることではありません。神様があなたの「父」となってくださることです。私たちは自分の努力で神に近づくのではなく、ただキリストのゆえに、神の食卓に招かれる特権が与えられるのです。では、どうすればその「家系の移動」ができるのでしょうか。

 

「わたしはある」と言われる方だけが、私たちを「父の家」へと移すことができる。

それは、アブラハムが仰ぎ見、信仰の父たちが待ち望んでいたお方、イエス・キリストを信じる以外にありません。イエス様は今日、命がけで宣言されました。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」と。このお方は、単なる教師でも預言者でもありません。永遠の昔から存在し、父なる神と一つであられる「神の子」ご自身です。この方だけが、罪の奴隷である私たちを解放し、永遠の神の家族へと招き入れる権威を持っておられます。

 

今日、イエス様は私たちを招いておられます。私たちがこれまでどのような家系に生まれ、どのような罪の性質に悩まされていたとしても、関係ありません。永遠の「神の子」であるイエス様の言葉を信じ、受け入れるなら、私たちはその瞬間、死からいのちへ、反逆者の子から神の愛する子へと移されます。群衆のように石を取り上げてイエス様を拒絶するのではなく、アブラハムのように、この救い主を見て大いに喜び、イエス様の御言葉にとどまろうではありませんか。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church