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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌30番「御前にひれ伏し」1-2、4-5番
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」
執事就職式 Deaconess Installation
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト記20章14節、 エペソ人への手紙5章28-33節
聖書の話 「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌229番「キリスト教会の主よ」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報 告 Announcements
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。みなさんは、お家にある「鏡」を見たことがありますか?鏡は、目の前にあるものをそのまま映し出しますよね。もし、その鏡が汚れていたり、ひび割れていたりしたらどうなるでしょう?せっかくの美しい景色や、みなさんの素敵な笑顔も、正しく映らなくなってしまいますね。実は、聖書は「結婚」というものが、イエス様と教会の結婚を映し出す「鏡」のようなものだといっています。今日の第7戒「姦淫してはならない」という言葉は、一見すると「結婚の中であれをやっちゃダメ、結婚する前にこれをやっちゃダメ」という厳しいルールのように聞こえるかもしれません。でも本当は、神様の大切にされている「鏡」が汚されたり壊されたりしないように守るための、神様からの大切な約束なのです。鏡がピカピカであれば、神様が私たちをどれほど深く、一生懸命に愛してくださっているかが、世界中にきれいに伝わります。今日は、一人の男性と一人の女性の「結婚」という鏡が映し出している、イエス様の素晴らしい愛について一緒に学んでいきましょう。
これまで、十戒から私たちは三つの視点を学んできました。十戒は、創造主の御心の地図であり、主の御国の試金石であり、救い主への矢印です。この三つの視点を通して、今回は第7戒を見ていきたいと思います。もし、第7戒が「神の御心の地図」であるなら、それは私たちに何を教えているのでしょうか?第7戒は、結婚の意味を教えています。結婚というのは相手を自分自身のように愛するという約束から始まり、相互のすべてを分かち合う親密な交わりを指しています。この結婚の意味を二つの角度から見たいと思います。
①結婚は、私たちが信じている「福音」を形にする親密な交わりです。
多くのクリスチャンは、結婚が創世記のアダムとエバの結婚から始まると考えがちですが、新約聖書の多くの書物を書いたパウロは、アダムとエバの結婚をこう解釈しました。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
パウロがアダムとエバの創造と彼らの結婚を指す創世記2:24を引用して、これは「イエス様と教会の結婚関係を指している」と言った理由は、一人の男性と一人の女性の関係が、「イエス様と教会」の結婚関係をひな形、あるいは、兆しであると理解していたからです。聖書を読み進めていくと、神様は私たちと、まるで夫婦のような『愛の交わり』を結ぶことを望んでおられたことがわかります。大昔、神様はアブラハムという人に、『たとえご自分の命を捨ててでも、あなたをわたしの家族(花嫁)として一生愛し抜く』という、命がけの結婚の誓いを立ててくださいました。私たち人間は、何度もその誓いを裏切ってしまいましたが、神様はその約束を一度も破られませんでした。この『夫としての慈しみ』が一番はっきりと形になったのが、イエス様の十字架です。ここで、素晴らしい『相互的な交わり』がなされました。私たちは本来、自分勝手な生き方によって、神様に対して『罪』という自分では決して返せない莫大な借金を抱えていました。しかし、最高の花婿であるイエス様が、私たちの身代わりに死んでくださることで、その借金をすべて肩代わりし、夫として完済してくださったのです。それだけでなく、イエス様が持っておられた『完璧な正しさ』という財産を、すべて妻である私たちの空っぽの口座へと移し替えてくださいました。このキリストの深い『結婚の交わり』こそが、地上のあらゆる夫婦が目指すべき理想の姿なのです。
しかし、この「ふたりが一体になる」という結びつきは、ただ抽象的な比喩ではありません。もちろん、結婚生活においては、すべての時間、お金、労力、知力を相手と分かち合いますが、神様はふたりが一体になるほど親しくなることが見える形、見える「しるし」にされました。それは、セックスです。聖書では、セックスは汚いものではありません。セックスはタブーなものでもありませんし、軽いものでもありません。パウロは、アダムとエバが一つになることを、「キリストと教会」の親密な交わりを表している、というのです。神様は、一人の男性と一人の女性が結ばれることも、キリストと教会が結ばれることも、偉大な奥儀であり、美しく、素晴らしい最高のものであると思っておられるのです。
ですから、もしキリストと教会の結びつきと愛の関係が、もっとも美しく、素晴らしく、尊いものであるならば、一人の男性と一人の女性の結婚関係の中のすべてーセックスやロマンス、親密な交わりと信頼関係、一生続く人生のパートナーシップーもすべて美しく、素晴らしく、尊いものなのです。聖書には「雅歌」という書物がありますが、それは、夫婦のロマンスについて堂々と記されている書物です。普通に読むと、ちょっと恥ずかしくなるような内容です。しかし、何千年にもわたる教会史においては、これはただ夫婦のロマンスを表しているだけというのではなく、イエス様と教会の親密な交わりを表す比喩とよく言われます。
この「地図」が示しているのは、結婚が単なる人間同士の法的な契約や、自分の幸せのための道具ではないということです。パウロはここで、結婚の究極の目的を明らかにしています。それは、キリストと教会の愛の関係をこの地上で目に見える形で表現することです。ですから、第7戒が「姦淫してはならない」と命じるとき、それは単に不道徳を禁じているのではありません。神様が永遠の愛をもって私たちを愛してくださっている、その「誠実さ」という美しい絵を壊さないようにと命じているのです。結婚がこの「キリストの愛」という青写真に基づいているからこそ、私たちはそこに深い意味と喜びを見出すことができるのです。
② 結婚は「福音」を形にする親密な交わりであるからこそ、その福音のみで満足できるのです。
世の中の考え方は、結婚を『何よりも一番大事なもの』にするか、あるいは逆に『自分を縛る邪魔なもの』にするかのどちらかに偏りがちです。例えば、ユダヤ教やイスラム教や一般的な日本文化では、結婚して子供を持つことが『当たり前』で、結婚しないのは一人前ではないという雰囲気があります。逆に、仏教やヒンドゥー教の昔からの教えでは、家族を捨てて一人で修行することこそが立派なことで、結婚は心の平和を邪魔するものだとする考え方もあります。また今の社会では、結婚をまるで『商品』のように扱い、『自分にメリットがあるか、自分を満足させてくれるか』だけで価値を決めて、多くの発展国では結婚、あるいは、子育てを選ばない人が多くなっています。
しかし、キリスト教の教えはそのどちらの極端にも当てはまりません。聖書は、結婚している状態も、独身でいる状態も、どちらも同じように『神様の栄光を表すもの』として高く評価しています。なぜなら、結婚がイエス様と教会の愛を映し出す『鏡』であるならば、独身もまた、『結婚という形がなくても、イエス様さえいれば心は完全に満たされる』という福音の十分さを証明する、尊い生き方だからです。キリストという究極の花婿がいてくださるからこそ、私たちはどのような歩みをしていても、決して不完全な存在ではないのです。
実際、イエス様はこのような質問を受けました。「では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」 イエス様はこのように答えられました。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。 」(マタイ22:28-30)。要するに、イエス様にとって、地上の結婚は「一時的な」もので、地上の結婚を天国で期待することは、「聖書も神の力も知らない」ことの証拠であるとお考えでした。なぜなら、天国の新しい時代において、神様はすべての人間関係を造り変えられるのです。肉体的な生殖に基づいた地上の結婚関係から、聖霊に基づいた霊的な結婚関係へと移ることを意味しています。ある神学者(ゲールハルダス・ボス)が指摘したように、独身のクリスチャンが家族を持たずに生きることは、将来の神の国で経験するイエス様との結婚関係を今楽しむことができるとおっしゃいました。地上での結婚は、天におけるキリストと教会の永遠の結婚関係(黙示録19章)を指し示す影に過ぎません。
ですから、独身の方、配偶者を亡くされた方、離婚を経験された方に、はっきりとお伝えしたいことがあります。もしイエス様にあるなら、あなたは決して「不完全」ではありません。新約には、イエス様ご自身をはじめ、バプテスマのヨハネ、マルタ、マリア、ラザロ、パウロ、テモテ、リディアなど、旧約でも、ラハブ、エリヤ、エリヤに食べ物を与えたサレプタのやもめ、エレミヤ、ダニエルなど独身や未亡人として神の国に大きく仕えた人々が数多く登場します。そして、この十分過ぎる恵みを経験したパウロは、自分の願いを教会に、命令としてではなく、分かち合いました。「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。」 (1コリント7:7-8) クリスチャンである私たちは花婿であるイエス様との結びつきにおいて、すでに究極の愛を得ているのです。
第7戒の意味を理解した上で、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし、第7戒が「主の試金石」であるなら、それは私たちに何を教えているのでしょうか?
聖書を全体的に読むと、イエス様と教会の結婚の形の栄光を表さない、あるいは、汚すような行為を神様は忌み嫌われるということが分かります。
結婚の栄光を汚す最も深刻な行為は、「姦淫」です。もちろん、これはどの時代、どの国でも見られる行為ですが、悲しいことに、教会の中でも決して珍しくない罪です。著名な牧師やクリスチャンが姦淫に陥ったというニュースを、私たちは度々耳にします。しかし、それほどありふれた罪であるにもかかわらず、なぜ神様はそれをこれほどまでに忌み嫌われるのでしょうか。それは、「姦淫」が単なるルールの違反ではなく、他と比較することのできないほどの深い裏切りであり、結婚相手の尊厳そのものを否定するような行為だからです。
前のポイントで説明したように、結婚は「相手を自分自身のように愛するという約束から始まり、互いのすべてを分かち合う親密な交わり」です。そこでは、何があっても最期まで愛し抜くという誓いを前提として、裸になるまで自分をさらけ出し、互いのすべてを共有します。肉体的な意味だけでなく、精神的、霊的にも「無防備」になるということです。私たちは、自分の体、魂、そして存在のすべてを結婚相手の手に委ねます。そこには、「この人は、私のすべて(弱さも醜さも)を知った上でも、決して見捨てず愛し続けてくれる。」という絶対的な信頼があるからです。
しかし、姦淫という行為は、その神聖な信頼を根底から踏みにじります。それは実質的に、相手に対してこのように告げているのと同じです。「私はあなたの裸、あなたのすべてを見た。けれど、正直に言って、あなたは…まあまあかな。私は別のものを求めている。あなたのすべてを知ってしまった今、最初に誓ったほどには、あなたを愛したくなくなった。」と。これは単なる「契約違反」ではありません。一人の人間が、他の人間に対して行い得る、最も残酷で魂を切り裂くような裏切りです。これほどまでに相手の尊厳を傷つけ、心を打ち砕く行為は他にないかもしれません。
このように「姦淫」を理解するならば、それは単なる一つの肉体的な行為だけに限定されるものではありません。イエス様はこうおっしゃいました。「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです(マタイ5:27-28)。」そして、イエス様は心の中で姦淫するものは、「ゲヘナ」(地獄)へ行かなければならないとその後おっしゃったのです。
ですから、たとえ直接的な性的行為に至らなくても、結婚相手以外の人に「情緒的な親密さ」——例えば、ロマンスや恋愛感情、あるいは心をときめかせるような親密な会話など——を求めることは、結婚の神聖な形を汚す行為です。また、たとえ感情が伴っていなくても、結婚相手以外の人との肉体的なつながりや、水商売、ポルノなどを通じて性的満足を得ようとすることも、結婚の誓約を著しく汚す行為です。さらに、たとえ離婚という形は取っていなくても、結婚相手との親密な交わりを積極的に求めないこと——例えば別居や家庭内別居、あるいは理由のないセックスレスなど——も、結婚が本来映し出すべき「福音の栄光」を表していない状態だと言えるかもしれません。
この話を聞いて、独身の方は「自分はまだ結婚していないから関係ない」と思い、未婚のパートナーと自由に(性的な交わりも含め)結婚の恵みを楽しんでも良いと考えるかもしれません。あるいは、キリスト教の結婚の定義そのものを受け入れず、同性婚や一夫多妻、ポリアモリー(複数愛)、実質婚など、自分の価値観に沿って自由にパートナーシップを築こうとする方もいらっしゃるでしょう。日本の教会の中でも、信仰を同じくしない者との結婚(未信者との結婚)を許容する考え方もあります。これらの各トピックについては、それぞれ一冊の本が書けるほど深い議論が必要ですが、クリスチャンである私たちが「性」や「結婚」について考える際に立ち返るべき基準は一つです。それは、「その関係や行為は、イエス様と教会との聖なる結婚関係と照らし合わせたときに、その栄光を正しく映し出しているだろうか。」という問いです。
結婚前の性と恋愛について考えてみてください。イエス様が教会との永遠の親密な交わりに入られる際、まず「お試し」として、何の誓約もなしにその交わりを楽しみ、後からコミットメント(誓約)するかどうかを決められるようなことがあったでしょうか。それとも、まず揺るぎない契約の約束を立てられて、私たちにすべてを分かち合われて、その後に親密な交わりに入られたのでしょうか。
また、一夫一婦という男女の結婚の形はどうでしょう。イエス様が「唯一の花嫁」である教会を選ばれたのは、単なる気まぐれな選択だったのでしょうか。イエス様が結婚の比喩を用いられたとき、「花婿」や「花嫁」の性別やあり方に無関心だったでしょうか。花嫁を「数百万の個々の花嫁」としてではなく、「一人の花嫁」として愛されたのは、特に意図のないことだったのでしょうか(エペソ5:31-32)。
結婚相手の信仰はどうでしょう。夫として教会のために死なれた時、イエス様は、ご自分を信じる者も信じない者も区別せず、ただ漠然とした愛のゆえにみんなのために死なれたのでしょうか。それとも、私たちへの愛のプロポーズを受け入れる「ご自身の花嫁」のために、特定的にご自分の命を愛する教会に捧げられたのでしょうか(エペソ5:25-27)。
離婚はどうでしょう。イエス様が、私たちの絶え間ない罪や失敗、そして目を覆いたくなるような身勝手な振る舞いをご覧になった時、「これはあまりに不公平だ。もう離婚したい。」などとおっしゃるでしょうか。それともイエス様は、たとえご自分の命を犠牲にしてでも、一度立てた結婚の誓いを最後まで守り抜かれるお方なのでしょうか(創世記15:17-18、ローマ5:8)。
もちろん、非常に困難で複雑なケースもありますし、例外的な状況があることも事実です。しかし、私たちは常に自分自身に問いかけなければなりません。——『この選択やあり方は、キリストと教会の結びつきを正しく映し出しているだろうか』と。このように考えると、私たちは、様々な罪深い形によってイエス様と教会の「結婚の栄光」を表していないことを自覚し始めるのです。
ここで、十戒は私たちを裁くためだけのものではなく、「救い主を指し示す矢印」へと変わるのです。第7戒を完全に全うされたイエス様は、福音の形であるはずの結婚を汚してしまった教会を、それでも最後まで愛し抜いてくださいました。
私のことをまだよくご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、私は皆さんの抱える葛藤や痛みに深く共感します。なぜなら、私自身も第7戒に触れるような罪を犯してきましたし、皆さんと同じように、罪悪感、絶望感、挫折感、恥、後悔、悲しみ、痛み、孤独、そして恐れを感じてきたからです。人間として、そして教会として、私たちは様々な罪深い形で、結婚や性、そして家族の意味を汚し、ねじ曲げてきました。
一夫多妻、同性愛、性的虐待、水商売や風俗、姦淫、離婚、婚前交渉、中絶、ポルノ中毒、不品行な情欲——。これらはノンクリスチャンの世界だけの話ではありません。クリスチャン同士の結婚、未信者との結婚、そして独身の方であっても、私たちは同じような罪を犯し、今もあらゆる罪と戦っています。私たちは言葉にできないほどの恥を抱え、「誰にも話したくない」と心を閉ざしてしまうこともあります。ところが、私たちがどれほど重い罪を犯しても、イエス様は私たちを「花嫁」として迎えてくださるのです。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:25-27)
イエス様は、私たちのような汚れた罪人を、ご自分の血によってきよめ、ご自身と結ばれることを切に望んでおられます。どのような性的な罪、どのような恥ずかしい過去があったとしても、イエス様は私たちを結婚の誓約を交わした者のように最後の最後まで愛し続けてくださいます。ですから、イエス様を指し示すこの「矢印」は、私たちが主に向かってただのんびりと歩いていったり、ためらったりすることを求めているのではありません。この矢印は、今すぐ主のもとへと「走りなさい」、そして「主をあなたの「花婿」として愛しなさい」と、私たちを促しているのです。
ルカの福音書7章に、一人の「罪深い女」が登場します。彼女は、第7戒を犯し、赤面するほどの不品行の中にいた、おそらく体を売っている女性でした。しかし、彼女はこの「福音」という素晴らしい知らせを聞いた時、宗教指導者たちが集まる場に、なりふり構わず押し入りました。そして、かつて「商売の道具」として使っていたものをすべて、主への愛のために捧げたのです。彼女は高価な香油を注ぎ、自分の誇りであった美しい髪で主の足を拭い、その足に口づけしました。
その場にいた人々は、彼女の姿を見て嫌悪感を抱きました。しかし、イエス様はどうされたでしょうか。イエス様は彼女を責めるどころか、冷淡な宗教指導者たちの前で彼女を守られ、彼女を「キリストの愛を受けるにふさわしい、尊い花嫁」として、この世のどの指導者よりも高く引き上げてくださったのです(ルカ7:47-50)。イエス様の願いは、私たちがこの罪深い女のようにイエス様のもとへと走ることです。イエス様は、私たちの過去も、私たちの負債も、私たちの恥もすべてご存知の上で、私たちを迎えてくださいます。お祈りします。
