2026年2月8日礼拝 説教 「イエスのうちにあるビッグチャンス」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ローマ人への手紙4章14-16節
さ ん び Opening Praise 私の願い(I Give You My Heart)
さ ん び Praise 見上げよう神の御座 Behold Our God
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第7戒 出エジプト記20章14節)

エペソ人への手紙5章33節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God コリント人への手紙第一6章9、11節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌12番

「聖なる主の御前に伏し」

聖書朗読 Scripture Reading ガラテヤ人への手紙3章8-14節
聖書の話 Sermon 「イエスのうちにあるビッグチャンス」

呉 載炫 教会主事

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌121番 「ああ主は誰がため」
主の献金の招き Lord’s Call to Give 箴言3章9-10節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer 呉 載炫 教会主事
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction 武井悠馬 宣教師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

皆さんはテレビを見る時、CMを見る派ですか?最近のテレビの録画機能やネット動画は、広告を飛ばすことができるようになっていますね。私も飛ばす派なのですが、年末年始の間、不意に見たテレビCMが脳裏にずっと残っています。

宝くじのCMなんですけど、歩行器の高齢女性が歩道橋の高い階段の前で困っていました。そこに満面の笑みの男性が現れ、自分の背中を差し出して「お困りですか?よろしかったらお乗りください」と言います。

そうしたらもう一人、男性が現れておんぶの姿勢になって、競うかのように言います。「私にどうぞ」そして、男性二人は互いに顔を見合わせて「もしかしてあれですか?」と言います。字幕テロップにはこう表示されます「12億のために、日々、徳を積んでいます。」

私はこのCMを見て、思わず少し笑ってしまいましたが、実はこのテレビCMはとてもよくできていて、人間の真理や期待を巧く表していると思います。「人の善行には、力がある」「徳を積むと、報われる」、「努力した者のみが、幸運を手に入れられる」

このような人間生来の習性について、聖書は何と言いますか。本日はこの点について、先ほどお読みしましたガラテヤ人への手紙から、次の三つのことを共に考えましょう。

一つ目は「信仰による祝福」です。宝くじのような幸運を聖書的にいうと祝福と言えるかもしれません。この祝福に与るのはどんな人なのか見てみます。二つ目は「律法によるのろい」です。人の行いの値打ちについて考えます。三つ目は「十字架のキリスト」です。イエス様が十字架にかけられて、なしてくださったわざについて学びます。

 

まず、一つ目のポイントは「信仰による祝福」です。今日のメッセージの本題に入るために、ガラテヤ人への手紙とこれまでの内容を短く振り返りましょう。ガラテヤ人への手紙は、使徒パウロがガラテヤにある諸教会に送ったものです。

当時のガラテヤ地方の教会には、律法を行うことによって救われるという律法主義の異端的な教えが横行していました。パウロは、これは福音ではない「ほかの福音」であると批判しました。前回のガラテヤ書の説教では、人が義とされ救われるのは信仰によるものだと学びました。

この続きとして、8節と9節はアブラハムの祝福=イエス・キリストを信じることによって義と認められ、永遠のいのちを得ることについて、次のように教えてくれます。

8節です。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので」とあります。少し見慣れない表現ですね。まるで聖書という書物が、まるで意思を持つ人格であるかのように、未来を見通していたと記されています。

これは、神様と神様のことばである聖書を同一視する表現のように思われます。つまり、神様は真実なお方で、この方のことばもまた真実です。聖書の著者である神様は前から、人を異邦人でも異邦人でなくても、信仰によって救うことを計画し、聖書を通してそう仰っていたという意味です。

このことから私たちは、何を読み取ることができますか?神様は行き当たりばったりの方ではありません。神様の全知全能は、色々な可能性があって何が起きてもそれに対処できるといった後手に回るような全能ではありません。

神様はこの世界で起こるあらゆることを、ご自身のもっとも賢くきよい計画において、自由かつ不変的に定められました(ウェストミンスター信仰告白3:1)。主は人間の救いの道も同じように、予め計画してくださいました。

神様は救いの道をどのように備えられましたか?主はアブラハムにこう言われました。8節の後半です。「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」。血筋や国籍ではありません。

私たちはしばしば、神様の救いのご計画に今のイスラエルやユダヤ人に特別な役割や地位があるかのように言う主張を耳にすることがあります。しかし、8節は何と言っていますか?特に違いがあるとは一切言われていません。さらに9節はこう言います。

「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」。ただ信仰のみによって、アブラハムと同じ祝福=神様に義と認められると言います。他の条件は記されていません。

イスラエル人であれば信仰がなくても救われるとか、終わりの日に特別に優遇される何かが待っているとは書かれていません。また、律法を一生懸命に守った人がその功績によって救われるとも言っていません。

新約聖書の時代を生きる私たちもアブラハムと同じように、信仰のみによって救われると言います。旧約時代のアブラハムも来たるキリスト、主イエスを信じることによって祝福され、私たちも同じようにイエス・キリストを信じる信仰によって祝福されます。8節の後半が言うように、これが福音です。

福音が私たちに教えてくれるのは、信仰者を義としてくださる方は、いつの時代にもイエス・キリストお一人だということです。ここで、次のポイントに移ります。

 

二つ目のポイントは「律法によるのろい」です。私たちは9節まで、人を義とするイエス・キリストの福音について確認してきました。パウロは、この福音に反抗する律法主義者たちと彼らの教えに対して、次のように語ります。

10節です。「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。」これはどういう意味ですか?律法自体が邪悪なもの、または新約時代においては無用なものという意味ではありません。10節の後半はこのように続きます。

「『律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる』と書いてあるからです」。パウロはここで申命記27章26節を引用しています。出エジプトしたイスラエルの民はこれから入るカナンの地において、シナイ山で与えられた契約=律法を守れば祝福され、守らなければのろわれるという箇所です。

このモーセの契約=律法を受けた当時のイスラエルは、律法をよく守って祝福に与ることができましたか?私たちはイスラエルの王国の結末を知っています。彼らは律法を守ることに失敗し、王様から民までバビロンに捕虜として連れていかれました。

まさに今日の本文10節の申命記の引用の通りです。律法の「すべて」を守り行わない者はみんなのろわれます。テストの成績でいうと、100点を取らなければなりません。60点でも80点でも90点でも、99点でもダメです。

しかし、人は律法のすべてを守ることはできません。100点を取ることはできません。11節が言う通りです。「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。」

今しばし私たちの心を振り返ってみましょう。人が信仰によって救われるということは分かりました。しかし、自分自身を振り返ってみると、「信仰が足りない」ように感じる時があります。自分の信仰は、救われるのに足りているのかな?と思う時があります。どうも私の信仰は、救いを保証してくれそうな感じがしません。

だからある一部の人は、行いに走ります。聖書に書かれてあるあれこれも行いますし、ボランティア活動をしたり寄付をしたりします。周りの人にも優しくします。車や自転車に乗っていると、「お先にどうぞ」ができたりします。

信仰生活でも同じ傾向が見られるようになります。聖書通読や祈った回数、時間を気にします。目に見える数字に心も奪われてしまい、これをやったら安心、やらないと不安になったりします。

いま例として挙げた行いには良いものもあるように見えますが、その根底に働く心理はどうですか?その動機は、主への愛から来ていますか?それとも、信仰者として立派な行いをしないと罰せられるかもしれないという恐怖から来ていますか?

もう一つ考えられるのは、祝福を獲得するため、または自分の救いを確かなものとするため、心の平安を得るために、徳を積んでいるのではないですか。「これだけやっておくと安心だ」、「こんなにやったんだから、きっと祝福してくださるはずだ」、「私これをやりますから、私の祈りに応えてください」。

こう思っているのなら、私たちの動機は、私たちを愛してくださった神様への愛ではないかもしれません。私たちの動機とその動機からの行動は、少しの自己犠牲を投じて、多くの祝福を神様から得ようとする良い儲け話のように感じられます。

私たちが自分を犠牲したとしても、努力したとしても、それは大きなものですか?代償は永遠のいのちです。地上のものとは比べられないものです。行いによって貯めたポイントで、神様の祝福を交換できるのなら、この上ないローリスク・ハイリターンな投資です。

まるで、日々徳を積むことによって、宝くじの高額当選を期待する人のようです。日本の宝くじ当選金の支払い上限は12億円です。マタイの福音書18章の、主君に借金をした家来の話(マタイ18:21-35)で確認した、神様に対する私たちの負債はいくらでしたか?6000億円ですね。金額を単純計算するだけでもこんな儲かる話、ありますか?

しかし残念ながら、聖書はそうは言っていません。12節です。「律法は『信仰による』のではありません」。言い換えると、律法には信仰がありません。ガラテヤ人への手紙3章で続けて言われているのは何ですか?「信仰によって義と認められる」ということです。

したがって、律法には信仰がありません。信仰がないので、律法を行うことによって義と認められることもありません。律法の行いは、私たちを救いへと導いてくれません。天国行きの切符ではありません。

律法について、イエス様はこう言われました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです」(マタイ22:37-38)

モーセの契約としての律法が定められた時のことを考えてみましょう。神様によってエジプトでの奴隷生活から贖われた、エジプトを脱出することができたイスラエルに、律法が授けられました。

イスラエルの民はカナンの地において、律法を守ると祝福され、律法を守ることができなければのろわれます。やがて彼らは気づきました。律法を完全に従うこと=律法の成績表の100点を取ることは不可能だと。

神様は第一に神様を全身全霊をあげて愛することを、そして、第二に隣人を自分自身のように愛することを、律法を通して求めます。これが律法の役目の一つです。私たちも神様を愛することを、律法を通して学びます。

しかし、人は律法をまっとうすることはできません。説教の冒頭に話しましたテレビCM風に言うと、どれだけ徳を積んでも、100点を取ることはできません。信仰者が行いに執着する理由が恐怖からであったとしても、または、自分の救いをより確かなものにすることで平安を得たいのだとしても、100点満点の平安を手に入れることはできません。

12節の後半が言う通りです。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。行いによっては、平安を得ることができません。なぜですか?私たちは自分で分かっているからです。自分の行いは、100点ではありません。

もしある人が、聖書をたくさん読んで、長く祈ることに頼って平安を得るとします。でも、また明日が来ます。明日もし長時間祈ることができなければ、また不安になります。そして頑張って行いをまっとうして、良いクリスチャンになろうとしますが、できない時は必ず来ます。

この人は旧約聖書の箇所としての律法を守ろうとしているわけではありませんが、行いによって自分を義とするという意味において、本質は同じです。行いによって生きようとする人は、行いによって生きます。信仰者が行いによって自分を義としようとする道を選ぶなら、それは苦しい堂々巡りのうちに生き続けようとすることになってしまいます。

 

最後、三つ目のポイントは「十字架のキリスト」です。ここまで、神様が救いの道を異邦人にもそうでない人にも備えてくださっていることと、律法の行いを守ることによって義と認められることはできないと確認しました。行いによって義と認められようとする時の混乱も確認しました。

11節の後半はこう言います。「義人は信仰によって生きる」。クリスチャンは信仰によって生きます。私たちの目が自分に向いた時、そこに希望はありません。良い行いをしても、徳を積んでも、律法が教えてくれるのろい=不従順による死の罰ののろいは追いかけてきます。

律法の役目の一つは、私たちの無能力を気付かせることです。自分には律法を100%守る希望がない。神様を心から愛することも、隣人を自分自身のように愛する力もない。ですから、私たちはメシアであるイエス・キリストに目を向けさせられます。13節です。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」

私たちは皆、律法の下に生まれ、元々、律法ののろいを受けるべき者です。本質的に、私たちは律法と無縁な存在ではありません。律法は私たちを罪に断罪するものです。私たちはその罪のさばきに処されなければなりませんでした。

ガラテヤ諸教会の律法主義者たちは言います。だから、救われるために律法の行いをしなければならない。割礼を受けて、あれこれを食べて、または食べないで、律法を遵守しないといけない。でなければ、律法ののろいが下るのだと。

でも、良い話があります。私たちみんなにとって、とても良い話、「ビッグチャンス」です。徳を積む話よりも断然良い話すぎで、大勢の人が信じられないような話です。私たちの6000億円分の罪の請求書はもう完済されました。イエス様の身代わりののろい、身代わりとしての死によってです。

神であるイエス様は私たちと同じからだをもって、私たちと同じように、律法の下に生まれました。それは私たちにはできなかった律法の要求を、私たちの代わりに行うためです。

そして、イエス様は木にかけられました。木にかけられたから、のろわれたわけではありません。旧約聖書の時代は、死刑に処された人はその遺体を木にかけました。この人は神にのろわれたのだと、大々的に周りに知らしめるためです。

主イエスは生きたまま、木にかけられました。イエス様は十字架の上で、時間をかけてゆっくりと、苦しみと羞恥の中で死んでいきました。キリスト・イエスを信じるよう予め定められた人皆の罪とのろいを背負って、父なる神との断絶のうちに、死んでいきました。

どうして、イエス様が十字架の上で死なれる必要があったのですか。それは私のためです。当時の主イエスを信じていなかった人々は、イエスは自分の罪のために罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと思いました。いいえ、そうではありません。

イエス様は十字架という木の上で、のろいとなられました。主イエスは、私たちのために、私たちの罪をすべて背負って十字架の上で死にました。本来、律法によってのろわれ、神様から捨てられて死んで、木の上に晒されるべき私の代わりに死なれました。

私たちの心は鈍いです。まだ、のろいを恐れて、行いにしがみついていますか?まだ、しっかりと行いを整えないと祝福されないかもしれないと思って、御霊によって始まった私たちが、肉によって完成されようとしておられますか?(ガラテヤ3:3)

その必要はありません。信仰の目を上げて、木にかけられた私たちのキリストを見ましょう。イエス・キリストが十字架の上でのろいとなられたことが、私たちのためのしるしです。イエス様が十字架にかけられたので、私たちは律法ののろいから贖い出されました。解放されました。

良い知らせはもう少し続きます。14節です。「それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」

イエス様は、私たちの代わりに十字架につけられました。罪のない聖なる神の御子に、私たちの罪が移されました。私の罪はイエス様の罪となり、イエス様はのろいとなられました。

その時、私たちには何が起こりましたか?私たちには、イエス様の義が移されました。本来、罪人ではないイエス様が、私たちの罪を背負われたことでのろわれた罪人となられたように、本来、義人ではない私たちが、イエス様の義が転嫁されたことによって、神様は私たちを義人として見てくださいます。私たちも、信仰の人アブラハムと同じ祝福に与り、そのしるしとして、御霊なる神が伴ってくださいます。

 

メッセージをまとめます。神様は、このように私たちの救いを予め計画してくださいました。どのようにですか?キリストを信じる信仰のみによって、義と認められることです。血筋や肉の努力によるのではありません。

イエス・キリストの福音は単なる過去の罪が赦されたことを意味するものではありません。もちろん、主イエスがのろいとなられたことによって、私たちの罪はすべて赦されました。同時に、信仰者はイエス・キリストの義が分け与えられました。

神様は、私たちに転嫁されたイエス様の義を通して、私たちを見てくださいます。イエス様のように、罪も欠けもない存在として、私たち一人ひとりを見てくださいます。御霊によって始まった私たちが、神様に認めてもらおうと、神様から祝福を獲得するために、また、神様ののろいから逃れるために、肉の行いに頼る必要は一切ありません。

イエス様が私のためののろいとなってくださったからです。ビッグチャンスはもう既に、皆さんのものです。この福音のうちに歩んで参りましょう。お祈りを致します。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church