2026年2月15日礼拝 説教 「暗闇を照らす神のわざ」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ書42章1-8節
さ ん び Opening Praise 父の神の真実 Great is Thy faithfulness
さ ん び Praise 偉大な神 How great is our God
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第8戒 出エジプト記20章15節)

エペソ人への手紙4章28節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ルカの福音書19章8-10節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌158番

「子羊をばほめたたえよ」

聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書9章1-7節
聖書の話 Sermon 「暗闇を照らす神のわざ」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌129番 「暗闇に輝く灯」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ピリピ人への手紙4章17-19節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに質問です。皆さんは、パズルをやったことがありますか?それも、簡単なパズルじゃなくて、1000ピースとか5000ピースもあるような、とっても難しいパズルです。数年前、私は友達がパズルをしているのを見て、手伝おうとしたことがありました。でも、そこには同じような緑色のピースが山ほどあって、どこに置けばいいのかさっぱり分からなかったんです。すぐにイライラしてしまって、「なんでこんなことするの?楽しくないし、何の意味もないじゃない。ただの緑のピースの山だよ!」と心の中で思ってしまいました。でも、パズルの箱のフタにある「完成図」をパッと見たら、そこには、美しい森の風景が描かれていたんです。「あ、こんなに綺麗な絵になるんだ…。そっか…」と思ったら、それからは黙々とパズルを続けることができました。難しくて大変なのは変わりませんでしたが、「パズルをすることの意味」が分かったからです。

 

今日の聖書のお話でも、弟子たちが一人の「生まれつき目の見えない人」に出会いました。その人の苦しそうな姿を見て、弟子たちはイエス様にこう聞きました。「イエス様、どうしてこの人は目が見えないんですか?誰のせい(誰の罪)なんですか?」私たちも、自分の人生の中に苦しいことや悲しいことを見つけると、この弟子たちのように「どうしてこんなことが起きるの?誰のせいなの?」と、納得できる理由を探そうとしてしまいます。でもイエス様は、「誰のせいか」という犯人探しはなさいませんでした。代わりにこうおっしゃったのです。「この人の苦しみを通して、神様の素晴らしい絵(わざ)が完成するためなのだ」と。そしてイエス様は、その人の目を奇跡的に治してくださいました。私たちの人生の暗闇も、イエス様という「光」に出会うとき、神様の美しい作品の一部へと変えられていくのです。今日はこのことについて、ご一緒に考えてみましょう。

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている書物です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くということです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書に登場する証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

本日の箇所の前の、8章は、5章から続いてきたユダヤ人指導者たちとの論争が、ついにクライマックスに達したような場面です。イエス様は決定的な三つの自己宣言をされました。

「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。」(8:54参照)。つまり、自分は彼らが信じる神の「独り子」であるとの宣言です。

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを、大いに喜んでいました。」(8:56)。信仰の父祖アブラハムは、未来の救い主(イエス)を仰ぎ見て、信じたということです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある(I AM)』なのです。」(8:58)。これは、旧約の主(ヤハウェ)としての御名をご自身に適用された言葉です。

だからこそ、群衆は逆上しました。彼らにとってこれは明白な冒涜罪に値したので、その場で石打ちの刑に処そうと石を取ったのです。私たちは、この群衆が直面した「信じがたい、しかし絶対的なイエスの宣言」を、彼らと同じような切実さをもって真摯に受け止めなければなりません。

 

本日の9章は、この激しい論争の直後の話です。殺意に満ちた群衆から逃れようとされるイエス様が、その道すがら「生まれつきの目の見えない人」を「ご覧になった」と書いてあります。その時、弟子たちが質問を投げかけます。 「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」これは一見、当時の神学的な好奇心に基づいた質問のように聞こえます。しかし実のところ、これは私たちが言葉を失うほどの悲劇や不条理を前にしたとき、思わず口をついて出てしまう叫びではないでしょうか。「なぜ、こんなことが起こるのか」という、人間の心の叫びなのです。

 

誰でも、そのように感じることがあるのではないでしょうか。「なぜ、こんなにも愛おしい赤ん坊に、これほど過酷な病が与えられるのか。」「なぜ、このタイミングでこのような交通事故が起きるのか。」「なぜ、このような家庭に生まれ、これほどの苦しみを受けなければならないのか。」「なぜ、これほど悲惨な戦争が起こり、無惨にも命を落とさなければならないのか。」「なぜ、3.11の津波で約2万人もの命が無差別に奪われなければならなかったのか。」私たちは、こうした数々の「なぜ」という問いに直面し、悩み、葛藤することがあるかもしれません。

 

昔から、人類は苦しみに直面すると、いくつかのアプローチで苦しみと向き合います。ヒンドゥー教の考え方では、苦しみは過去の悪い行いに対する「後払い」や「ツケ」、「罪の精算」のようなものだと言います。また仏教では、痛みはただのこの世の現実であり、「苦しみ」は自分の心が「こうあるべきだ」というこだわりに縛られているから生まれる感情だと教えます。つまり、仏教では苦しみは心理的なものなのです。イスラム教では、苦しみは神様が自分の信仰を強くするために与えた厳しい「テスト」「修行」だと受け止めます。無神論者は、苦しみには何の意味もなく、ただ運が悪かっただけだと考えます。「なぜ?」という質問を問うことが間違いなのです。苦しみから目をそらす人もいますし、苦しみを麻痺させる人もいますし、逆パターンとして、苦しみの原因の100%を誰かー他人か自分ーのせいにすることもあります。どのような考え方でも、そこには、苦しみの原因を無理やり綺麗に整理しようとする人間の願望があると言えます。

 

しかし、旧約聖書はどのように「人間の苦しみ」を捉えているのでしょうか。一言で言うと、それは「葛藤をもたらす奥儀」です。なぜ葛藤をもたらすのでしょうか?一方で、苦しみは罪の結果であるという側面があります。

申命記 28:15 — 「もしあなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、今日、私が命じる主のすべての命令としきたりを守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに下り、あなたを捕らえる。」

箴言 22:8 — 「不正を蒔く者は、わざわいを刈り取る。」

律法の中には、神様への不従順に対する呪いとして「盲目」にさせられることが具体的に記されています(申命記 28:28-29)。これが律法の原理です。

 

その一方で、聖書(ヨブ記や詩篇)には、明らかに正しい人(義人)が苦しみを経験する場面も数多く出てきます。しかし、この葛藤を無理やり論理的に整理しようとする人たちがいます。彼らは、苦しんでいる義人に向かって「あなたが苦しいのは、何らかの罪を犯したからではないか。」と説明しやすい原因を突き止めようとし、義人を追い詰めるのです。しかし、神様はこのような「単純すぎる正義感」に対し叱責されました(ヨブ42:7)。

 

私たちが経験する苦しみには、私たちの罪に原因があるときがあります。しかし、罪に全く関係ない時もあります。つまり、旧約聖書の中では、苦しみの原因は「奥儀」なのです。仕組みがわからない「奥儀」であるからこそ、私たちの心の中に「葛藤」をもたらすのです。弟子たちの質問は、単なる聖書理解の間違いだとはいえないと思います。聖書の教えと、目の前の苦しい現実には「奥義」というギャップがあるのです。そして、弟子たちは私たちも感じている「葛藤」と「戸惑い」を言語化してくれているのだと思います。

 

ナルニア物語の著者C.S.ルイスは、長年無神論者でした。9歳の時に母親が突然亡くなり、深い悲しみに暮れる父親はルイスと弟の面倒を見ることができず、彼らをキリスト教系の全寮制学校へと送りました。母の急逝と父に「見捨てられた」という経験、そして形だけの信仰しか持たない学校教育を目の当たりにしたルイスは、キリスト教に失望します。その結果、彼は無神論者となり、信仰や宗教を見下すようになりました。しかし、後に10代の自分を振り返り、ルイスはこう語っています。「私は神の存在を完全に否定していた。全く信じていなかった。しかし、『なぜ神は存在しないのか』と激しく神に怒っていた。」と。クリスチャンであろうとなかろうと、私たちは底なしのブラックホールのような「苦しみ」に直面する時、それが無意味だと分かっていても、「なぜこんなことになるのか」と叫ばざるを得ません。皆さんもそのような経験があるでしょうか。なぜ私たちは、そのように叫んでしまうのでしょうか。

 

人々が抱くこの「葛藤」に対し、イエス様はどう答えられたでしょうか。 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」イエス様の回答は非常に示唆に富んでいます。まずイエス様は、『罰を受けたから目が見えないんだ』というような、犯人探しをするような考えをはっきりと否定なさいましたが、具体的な原因もはっきりおっしゃいませんでした。つまり、イエス様は、私たちが納得するような、すべての苦しみの原因を綺麗に整理された理論で教えられたのでもありません。イエス様は、あえて苦しみの奥義を解こうとなさらなかったのです。

 

イエス様は、原因について言いませんでしたが、この人の苦しみの目的を宣言されます。「この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(9:3-5)「神のわざ」を現すために、この人は目が見えないのだとイエス様はおっしゃいます。ここで「わざ」が複数形なのは重要です。まるで花火のように、一つの苦しみから神の恵みが次々と打ち上がり、広がっていくことを示唆しています。そして、本来、暗い夜には何もできませんが、光があれば業を始めることができます。ですから、イエス様は「わたしという光が来た。だから、神様のわざという花火大会が今始まるのだ」と告げられたのです。弟子たちは「苦しみの原因(過去)」を突き止めようとしましたが、イエス様はその質問を無視して、苦しみの「解決と目的(未来)」へと焦点を移されたのです。

 

そして、御言葉はこう続きます。

「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」(9:6-7)

忘れていけないのは、この前の章のヨハネ8章は、「仮庵の祭り」の場面です。「仮庵の祭り」は、イザヤ9:2の光を待ち望んでいる祭りとも言えます。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。 」(イザヤ9:2)「仮庵の祭り」は7日間の祭りで、神殿の庭の周りには四つの大きな燭台(メノラー)が設置され、毎晩、夜通し燃やし続けられました。その神殿は高い山の上にあり、当時、電気はもちろんありません。ですから、多くのイスラエル人がエルサレムの仮庵で泊まっている7日の間、暗闇の中で山の上の神殿を仰ぎ見ながら大きな光を見ていたのです。神様は聖書の中で、ご自分が遣わされる救い主である【メシヤ】の事をこのように語られました。

「 わたし、主は、義をもってあなた【メシヤ】を召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。 7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、 闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。」(イザヤ42:6-7)

つまり、この7日間を通して、神の民は息苦しい暗闇の中で、荒れ果てた霊的な地をさまよっていることを思い巡らしながら、神殿の光を現わす【メシヤ】を待ち望むのです。

 

そして、仮庵の祭りの最後の日に、イエス様は「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とおっしゃいます。そして、そのあとに、今日の9章の箇所で「わたしが世の光です。」とおっしゃられ、目の見えない人を奇跡的に癒されました。イエス様ご自身が旧約聖書が約束しているメシヤであり、癒しのしるしによって自分が「国々の光」、「見えない目を開き、囚人を牢獄から、 闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す」救い主であることを証明されているのです。しかも、癒しを受けた池は「遣わされた者」と名づけられていて、目の見えない人が「遣わされた」イエス様に癒された事を意味しています。

 

イエス様が「世の光」であるメシヤだとおっしゃったのは、暗闇の下で苦しんでいて「何でこうなっているんですか?」と叫んでいる人たちへの力強い回答なのです。この盲人の癒やしは、単なる一度きりの奇跡ではありません。それは、やがて神の国で完成される「壮大な御業」の始まりを告げる号砲であり、終わりの日に私たちが経験する究極の回復の保証なのです。聖書の最後、ヨハネの黙示録7:14-17には、この「業」が完成した時の光景が描かれています。そこでは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もいかなる熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座におられる小羊イエス様が、彼らの牧者となって「いのちの水の泉」へと導いてくださるからです。そこでは「神が彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる」のです。

この盲人の目を開けられたイエス様は、今、私たちの人生を覆う「苦しみ」という暗闇をも「光」によって貫かれます。この奇跡が示す「神の業」とは、私たちが直面するあらゆる痛みや悲しみが、最終的にはイエス様によって拭い去られ、完全に癒やされるという約束に他なりません。イエス様は、単に一時的な視力を与えられたのではなく、私たちがいつか、暗闇の一切ない神の栄光の光の中で、主と顔と顔を合わせてまみえるその輝かしい朝へと、私たちを招いておられるのです。

来週、この奇跡がどのような対話をもたらしたのかを見ますが、皆さんに覚えていただきたいことが三つあります。

① イエス様は「なぜ」という叫びを退ける事なく、すべての嘆きを聞いてくださるお方です。キリスト教は、私たちの苦しみに対して、すべてを理路整然と説明したり、あるいはその苦しみを「大したことではない」と否定したりするものではありません。聖書は苦しみの原因を無理やり理屈で片付けようとはしません。むしろ、私たちが直面する耐え難い苦しみや、そこから湧き上がる「主よ、いつまでなのですか(詩篇13:1)」という叫びを、神様は一切否定せずにそのまま受け止めてくださいます。苦しみの中で感じる内面的な葛藤や矛盾は、信仰の欠如を意味するのではなく、私たちがこの壊れた世界で誠実に生きているという、尊い祈りの姿なのです。

神様は、私たちが暗闇の中で声を上げて泣くことを禁じるどころか、その言葉にならない呻きに深く耳を傾けてくださいます。パウロが語ったように、御霊ご自身が「言葉に尽くせないほどの深い呻き(ローマ8:26)」をもって、私たちのために執り成してくださっているからです。キリスト教が提示するのは、冷たい理論ではなく、私たちの痛みへの深い共感と、その叫びを神様の御前に持ち出すための安全な「場」です。信仰とは、苦しみがすぐに消えることではなく、その暗闇の中に留まりながらも、私たちの手を決して離さない神様との対話を止めないことなのです。

② イエス様は、私たちの苦しみの暗闇に意味を与える「世の光」です。

イエス様は、苦しみという深い霧に覆われたこの世界に差し込む「まことの光(ヨハネ1:9)」です。これは単に、暗闇を無理やり消し去るということではありません。むしろ、主は私たちの苦しみのただ中に臨在し、そこに癒しをもたらし、その痛みの中に新しい意味を吹き込んでくださるのです。「わたしは世の光です(ヨハネ9:5)」と宣言されたイエス様が私たちの歩みを照らすとき、これまでただの絶望でしかなく、何の意味もないと思えた苦しみが、神様の恵みの「わざ」を表す舞台へと変えられていくのです。

 

かつて、自らの苦しみの中で神に対して激しい怒りを抱いたC.S.ルイスは、のちに信仰の光を見出し、このように記しました。「私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じ理由からだ。それは、私が太陽を見ているからだけでなく、太陽によって他のすべてのものが見えるからである。」 これは、こういうことです。パズルをするとき、ピースがバラバラでまとまりがないと、「これはただのガラクタの山だ」と投げ出したくなるかもしれません。しかし、箱の蓋に描かれた完成図——素晴らしい絵——を見るならば、「最後はこうなるんだ」と確信し、安心して、一つひとつのピースを繋ぎ合わせることができます。私たちがイエス様という光を通して人生を見る時、たとえ今はそのピースがどこに位置づけられるのか分からなくても、イエス様にあって最後には素晴らしい神様の御業が完成することを、私たちは信頼し、忍耐し始めることができるのです。

 

③ 十字架の暗闇を通して、私たちの光となられたイエス様を信じますか?

しかし、こう思う方がいらっしゃるかもしれません。「神様が私の苦しみを使って素晴らしい絵を作る?そんなの勝手だ。私はこの苦しみ自体が嫌なんだ!」と。その正直な叫びを、神様は決して突き放されません。なぜなら、私たちが信じる神は、天の上から安全に私たちのパズルを眺めているような「冷徹な芸術家」ではないからです。

 

私たちが決して忘れてはならない最も重要なことは、イエス様が「世の光」となられたのは、苦しみを避けて通ったからではなく、自らその「暗闇」のどん底へと入っていかれたからだという点です。キリストの光は、十字架という、この世で最も暗く、最も悲惨な場所で放たれました。あの日、全地が三時間の暗闇に覆われた時(マタイ27:45)、主は私たちの罪、孤独、そして「なぜこんな苦しみがあるのか」という叫びそのものをその身に背負い、父なる神から見捨てられるという究極の暗闇を引き受けられました。私たちの救い主は、苦しみを外側から説明する方ではなく、自ら「悲しみの人(イザヤ53:3)」となり、私たちの代わりに暗闇を通り抜けることで、命への道を開いてくださったのです。

 

これこそが福音の核心です。私たちの苦しみは、もはや出口のない行き止まりではありません。なぜなら、最も深い暗闇である「死」を打ち破って復活されたイエス様が、今、私たちの隣でその痛みを知り、共に歩んでくださっているからです。やがて来る新しい天と新しい地で、イエス様が「彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる(黙示録21:4)」その日まで、イエス様は私たちの苦しみさえも、恵みという光で照らしてくださいます。今はまだパズルの全体像は見えないかもしれません。しかし、十字架でその命を捨ててまで私たちを愛されたイエス様の光の中にこそ、今、苦しみの中にある私たちの本当の安らぎと、揺らぐことのない希望があるのです。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church