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礼拝式順
| 招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇36篇5-9節 |
| さ ん び | Opening Praise | 素晴らしい主~Goodness of God~ |
| さ ん び | Praise | 主の十字架に~The Wonderful Cross~ |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第9戒 出エジプト記20章16節)
エペソ人への手紙4章25節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ヨハネの手紙第一1章8-9節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌316番
「御前に立つとき」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書9章8-41節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「目が見えない人を見つけ出すイエス様」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌415番 「目を上げて主のみ顔を」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 詩篇103篇1-2節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたち、想像してみてください。真っ暗な部屋でぐっすり眠っている時、急に電気を「パチッ!」とつけられたらどう思う?きっと「まぶしい!やめて!」って、布団をかぶって隠れたくなりますよね。実は、イエス様も私たちの心に同じことをされます。私たちは罪という「暗闇」に隠れているのが大好きです。自分からは決して光の方へ行こうとしません。だからイエス様は、私たちを救うために、あえて強烈な光を当てて目を覚まさせるのです。それは、まぶしくて少し手荒に見えるかもしれません。でも、そうでもしないと私たちが暗闇から抜け出せないことを、イエス様は知っているからです。私たちが嫌がっても、無理やりにでも光の中へ連れ出してくださるのです。そんなイエス様の「強引だけど温かい愛」を今日も見ていきましょう。
本日の箇所は、イエス様が癒しの奇跡を行った後の話です。5章から続いているユダヤ人指導者たちとの論争があり、イエス様は、ご自分が神様と同等である事を宣言されたのです。それを聞いた群衆は、あまりにも明らかな冒涜罪に驚き、石打ちの刑を下そうとしましたが、イエス様は、神殿にいた群衆から上手く逃げられました。
神殿を出た時、イエス様は、目の見えない人を見かけて、立ち止まって憐れまれました。その時、弟子たちは、イエス様に質問を投げかけました。 「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」弟子たちは「苦しみの原因(過去)」を突き止めようとしましたが、イエス様はその質問を無視されて、苦しみの「解決と目的(未来)」へと焦点を移されました。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 … わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、 7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
今日の聖書箇所では、イエス様がこの奇跡を「安息日」に行われたことにかなり重点を置いています(9:14) 考えてみてください。ユダヤ人の指導者たちがイエス様を殺そうとしていたのは、ヨハネ5章でイエス様がある泉の近くで、歩けない人を安息日に癒し、律法学者が作った安息日の掟を破り、ご自分を神様と等しいものとされたからです。そのことで群衆は憤慨して、石打ちの刑を下そうとしているのです。もし、イエス様の目的が単に「いい人」でいること、あるいは、和を保つことだとしたら、安息日に人を癒やすことは避けたはずです。別の日にするとか、もっと目立たないようにこっそりと癒やすこともできたでしょう。しかし、イエス様はその正反対のことをなさいました。 群衆が激怒し、殺意さえ抱いているその只中で、イエス様はあえて安息日に目の見えない人を癒やされました。しかも、その人をシロアムの池——ヨハネ5章と全く同じような場面で、人の注目が集まるような場所——へと送り出されたのです。
イエス様は、群衆をさらに怒らせる為にされたのでしょうか。そうではありません。それは、イエス様のゴールが「いい人になること」や「和を保つこと」ではなく、私たちを「癒す」ことだったからです。私たちの霊的な目を開かせることが、イエス様の目的なのです。時に、重い病の治療には痛みが伴います。癌を取り除くために体にメスを入れなければならないように、時には「荒療治」とも思える暴力的な介入が必要なこともあるのです。イエス様は、この目の見えない人を、まるで標的を定めたミサイルのように、霊的に盲目な群衆の心臓部へと送り込まれました。シロアムは、そのとき行われた仮庵の祭りの中心地で、大勢の人がいました。多くの人をつまずかせる安息日の癒しをここで行われた理由は、群衆が築き上げた霊的な壁を打ち砕くためだったのです。
この「霊的な壁」「霊的な盲目」を打ち砕く必要性を、誰よりも鋭く描いたのがアメリカ南部の作家、フラナリー・オコナーです。彼女の小説の舞台は、いわゆる「バイブル・ベルト」と呼ばれるキリスト教文化が根付いていた南部ですが、そこに登場するのは、表向きは非常に宗教的、道徳的でありながら、内側は頑固なプライドと偽善で凝り固まった人々です。代表作『善人はなかなかいない』がそうであるように、オコナ―はあえて殺人や事故といった、目を覆いたくなるような「暴力」や「悲劇」を取り上げました。なぜなら、それほどの強い衝撃を与えて、南部の人たちのプライドを打ち砕かない限り、彼らは自分の霊的な盲目さに気づかず、神の恵みを受け入れることもできないからです。オコナーは、このように語っています。
「私は、暴力(Violence)というものが、登場人物を現実へと引き戻し、彼らが『恵みの時』を受け入れる備えをさせる不思議な力を持つことに気づきました。彼らはあまりにも頭が固く、もはや他の方法ではどうにもならないほどなのです。」
まさにその通りではないでしょうか。 神様が、十字架という最も暴力的な処刑方法を用いられたのも、私たちの霊的な盲目さを覚醒させるためだったと言えます。私たち自身の人生を振り返っても、同じことが言えるかもしれません。突然の悲劇、プライドが砕かれるような経験、完全な失敗、あるいは、死と直面するとき……。そうした「衝撃的な出来事」を通して、私たちは初めてイエス様へと引き寄せられたのではないでしょうか。これは「優しい」イエス様ではありません。「癒し主」としてのイエス様です。「世の光」であるイエス様が、激しく、力強く、私たちの闇を癒しておられるのです。
しかし、霊的に盲目な群衆は反撃に出ます。恵みと癒しを目の当たりにした時、彼らは激しい拒絶反応を示しました。最初は困惑です。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」 「おまえの目はどのようにして開いたのか。」 と。ここで興味深い対比があります。ヨハネ5章に出てきた足のなえた人は、癒やされた後もイエス様の名を知りませんでしたし、イエス様にあまり興味がなかったようです。そして、癒された足の萎えたその人がイエス様の正体を知った時、群衆と同じようにイエス様を殺そうとしました。しかし、今回、癒された盲人は違います。彼はただ事実を報告します。「イエスという方が泥を作って……」と、事実を全くゆがめることなく、イエス様が素晴らしい奇跡を起こされたと宣言します。癒された盲人は、イエス様の正体がはっきり見えていて、イエス様の力を単純に信じたのです。
けれども、群衆はこの盲人が癒されたことに気づいてはいましたが、癒しの事実などどうでもよかったのです。彼らはイエス様に対する怒りに燃え、憎むべきイエスのことしか頭にありません。群衆は、イエス様の名前を言うこともなく「その人はどこにいるのか?」と、癒やされたばかりのこの男を引っ立てて、宗教的指導者たちの前に連れていき、尋問します。考えてみてください。生まれて初めて目が開かれ、癒しの喜びを味わっている最中に、最初に見た世界が、自分を癒やしてくれた方への憎しみに満ちた群衆の顔だったのです。かわいそうなことに、この男性は何が起きているのかさっぱり分かりませんでした。
癒された盲人は、パリサイ人に再び状況を尋ねられましたが、逃げる事なく淡々と起こったことを話します。「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです。」そして、パリサイ人と群衆はまた興奮します。癒されたことに興奮したのではありません。「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない。」「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか。」生まれたときから目の見えない人が癒された事よりも、群衆はイエス様の正体について議論しているのです。なぜ群衆はこれほどまでに盲目なのでしょうか? それは、彼らが「イエスは罪人である」という自分たちの考えに固執していたからです。 ここに「怒り」の正体があります。怒りは人を盲目にします。「あいつは敵だ」という、自分にとっての「絶対的な真理」に固執するあまり、目の前の奇跡が見えなくなるのです。指導者たちは、自分たちの怒り、憎しみ、そして破壊へと、周りの人々を巻き込んでいきます。
私はこの癒された盲人の反応が大好きです。 周りの人たちが殺気立っている中で、彼はこう言い放ちます。 「あの方は預言者です」。周りの空気など一切読んでいません! 彼はまさに「空気の読めないクリスチャン」ですね。 しかし、この正直さ、この単純な信仰の告白こそが、霊的な目が開かれた者の姿なのです。キリスト教の信仰は、空気や、雰囲気や、考え方や、感じることなどではありません。客観的に体験したことをただ報告しているだけなのです。「あの方は、私の目を癒された。神様から遣わされた預言者以外の選択肢はない。」という結論です。
指導者たちは、この男の証言を受け入れることができません。そこで彼らは、彼を嘘つきに仕立て上げようとします。「本当に目が見えなかったのか? 実は最初から見えていたのではないか?」と。 指導者たちは男の両親を呼び出して問いただす程、イエス様を信じたくなかったのです。ちょっと、想像してみてください。両親が法廷に呼ばれて行ってみると、生まれたときから障害を持っている息子が奇跡的に癒されていることを知ります。普通だったら、両親にとって人生で最も喜ばしい瞬間であるはずです。飛び上がって喜び、神を賛美すべき時です。しかし、彼らの口から出た言葉はあまりにも冷淡でした。
「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。 しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」
彼らは息子が癒された事実は認めましたが、それ以上は一切関わろうとしません。なぜでしょうか?癒しの喜びよりも「恐れ」に支配されていたからです。イエス様を認めれば、会堂から追放されることを知っていたからです。彼らは、神の御子である「癒し主」を認めるよりも、自分たちの社会的地位や、群衆の中に留まることの方を選んだのです。
場面は再び、癒された男と宗教指導者たちの対決に戻ります。私はこのやり取りが大好きです。何回も男の話を聞いたのに、そして、親の証言も聞いたのに、指導者たちはまた「どうやって目が開いたのか」と尋ね続けます。そして、癒された男は皮肉たっぷりにこう返します。 「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」これを聞いて、指導者たちは激怒し、彼をののしります。「ふざけるな! お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ!」
ここから、驚くべき逆転現象が起きます。正規の神学教育を受けたことのない、路上で物乞いをしていた男が、当時の最高峰の神学者たちを相手に「聖書講義(説教)」を始めるのです。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。 31 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。 32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。 33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
一見、「癒し」という奇跡は不条理に聞こえるかもしれません。「泥を目に塗って洗ったら見えるようになった」なんて、非科学的で不合理だと。 しかし、耳を傾ければ傾けるほど、本当に不合理で、不条理なことを言っているのは誰でしょうか? それは、目の前にある明白な証拠——「今まで見えなかった男が、今、見ている」という事実——を、頑なに否定し続ける宗教的指導者たちの方なのです。
この不条理な光景は、C.S.ルイスの小説『顔を持つまで(Till We Have Faces)』の有名な場面を思い起こさせます。この本の中で、美しい妹プシュケは「山の神(怪物)」への生贄として捧げられ、山頂に置き去りにされます。 姉のオルアルは、妹はもう死んだものと思い、せめて遺体を埋葬しようと、悲しみの中で山へ登ります。ところが、山の上で彼女が見たものは、死体ではありませんでした。 そこにいたのは、生きて動き回る妹のプシュケでした。しかも、ただ生きているだけではありません。かつては弱々しかった妹が、今は見たこともないほど健康的で、力強く、輝くような喜びに満ちあふれていたのです。
ここから、姉のオルアルにとって理解不能な事態が始まります。 妹のプシュケは、自分を救ってくれた「夫」について、目を輝かせてこう説明するのです。「お姉さん、あの方は神様なの。私にこの素晴らしい宮殿と、美しい着物をくださったの。……でも、私はあの方の顔を見たことがないの。あの方を見ることは許されていないの。」姉のオルアルは愕然とします。彼女の目には、宮殿も着物も見えません。妹はボロ布をまとい、荒野に立っているだけです。 「顔も見えない夫だって? 姿も見せない、どこの誰とも分からない相手と結婚したというの? あなたは山賊に騙されているか、気が狂っている!」と思ったわけです。
姉のオルアルにとって、妹の話は完全に狂っています。正気の沙汰ではありません。信じたくもありません。 しかし、彼女はどうしても否定しきれない「何か」に直面します。それは、目の前にいるプシュケの「圧倒的な生命力」です。 妹の肌は雨に洗われたように美しく、その立ち振る舞いは自由で、表情には揺るがない平安があります。 姉のオルアルは心の中で認めざるを得ません。「あの子は狂っているはずだ。それなのに、なぜこれほど強く、これほど確かな存在感を放っているのか?」と。彼女はプシュケの語る「見えない神」という説明は信じたくありません。 しかし、目の前にある「癒し」と「回復」という事実だけは、どうしても否定できないのです。
これこそまさに、ヨハネ9章で指導者たちが直面しているジレンマです。彼らにとって、癒された盲人の話は「狂気」です。 「罪人が神の業を行う?安息日を破る者が救い主?そんな馬鹿げた神学があるものか!」彼らはこの男の証言を認めたくありません。全力で否定したいのです。 しかし、彼らの目の前には、決定的な「事実」が立っています。 この圧倒的な「事実」ー癒された人の変えられた人生ーを前にして、彼らの理屈は崩れ去りそうになります。 だからこそ、彼らは最後に暴力に訴えるしかありませんでした。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」と叫んで彼を追い出します。それが、事実を認められない彼らにできる唯一の抵抗だったのです。
しかし、この物語の真のクライマックスは、最後にイエス様がなさったことにあります。イエス様は、ユダヤ人たちから追い出された彼を、わざわざ捜し出しに行かれたのです。そして、肉体の目だけでなく、霊的な目も開かれようとしている彼に、「あなたは人の子を信じますか」と問いかけられました。興味深いことに、彼はその神学的な意味を完全には理解していなくても、「人の子」という言葉に救いの光を感じ取ったようです。「主よ、信じたいのです。その方はどなたですか」と。するとイエス様は言われました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」。その瞬間、彼は「主よ、信じます」と告白し、その場にひれ伏してイエス様を礼拝しました。彼は最初、イエス様をただの「人」(11節)と呼び、やがて「預言者」(17節)、「神から出た方」(33節)と呼びました。しかし、イエス様が彼を捜し出し、ご自身の正体を現してくださった瞬間、ついにイエス様を「神」として「礼拝」したのです。これこそ、ヨハネの福音書において信仰が明確な「礼拝」へと実を結んだ、決定的な瞬間です。つまり、イエス様という光が現れるとき、二つのことが起こります。光を受け入れた盲人の目は開かれ、逆に、自分は見えると言い張るパリサイ人は盲目となってしまうのです。ヨハネ9章は、この鮮やかな対比をもって幕を閉じます。
今日の箇所から三つのことを覚えていただきたいです。
①私たちも歴史的事実に立つ「空気の読めない」信仰を持っているのです。
信仰とは、ライフスタイルや神秘体験、道徳的な成果ではありません。「立派な指導者についていく」という決心でもなければ、「どれだけ善い行いをしたか」という道徳の成果でもないのです。毎週告白する使徒信条を思い出してください。「イエス様は生まれ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ……」。あれは宗教的なスローガンではなく、実際に起きた「歴史的出来事」の羅列です。あの盲人も同じでした。「イエスが泥を塗って、私を癒した。私は今、見えている」。これは否定しようのない事実でした。彼を論破するには「お前は見えていない」と証明するしかありません。 同じように、私たちの信仰を覆す唯一の方法は、十字架と復活がなかったと歴史的に証明するしかないのです。「イエスは生きている」という事実は、周りの冷ややかな視線や空気(バイブス)では変わりません。だからこそ、事実に立つクリスチャンは「最強に空気が読めない人」になるのです。私たちの信仰はそのようにシンプルな信仰でしょうか?
②私たちが感じている「衝撃」は、イエス様の恵みによる荒療治かもしれません。
もしあなたの周りに、イエス様によって劇的に変えられた人がいるなら、なぜイエス様の主張を疑うのでしょうか?イエス様がその人を癒し、変えられてきた事実を疑うからでしょうか? それとも単に、自分の人生の主導権を渡したくないからでしょうか?もし、今日語られたこと——イエス様があなたの「見えない目」を開こうとしていること——が、あなたにとって不快であったり、腹立たしかったり、心をえぐられるように感じるなら、それは良い知らせかもしれません。 なぜなら、イエス様はあなたの心のドアを優しく「ノック」しているのではないからです。クリスチャン、ノンクリスチャンにかかわらず、イエス様は、私たちの霊的な盲目を癒すために、私たちの人生に「介入」しようとされているのです。 安息日をあえて破られたあの時のように、イエス様は私たちの築き上げた世界観やプライドを、激しく揺さぶり、壊そうとされています。しかしそれは、癌を取り除く手術のように、私たちを救うためにどうしても必要な「衝撃(Violence)」なのです。 その不快感こそが、イエス様のメスが入っている証拠なのかもしれません。
③ 目の見えない者を探し出す救い主は、イエス様しかおられません。
この物語の真の主人公は、目の見えない人ではなく、彼を「見つけ出した」イエス様です。彼のために立ち止まり、彼を癒し、世間から追い出された彼を再び探し当て、「信じるか」と問われたのは、すべてイエス様でした。恵みとは、私たちがイエス様を見つけることではなく、イエス様が私たちを見つけてくださり、信仰の目を与えてくださるのです。そのような救い主をご存じでしょうか。今、私たちの目の前におられるイエス様に対し、プライドにしがみつき「自分たちも盲目か?」と居直るのか、それとも自分の闇を認め「主よ、もっとあなたが見えるように助けてください」と叫ぶのか。前は、「自分たちが、盲目だって?」と言っていたけれど、今は、自分の盲目さに気が付いたかも知れません。それも、私たちを捜し出そうとして下さるイエス様の御力なのです。今日も私たちは「見えている」という高慢を捨て、世の光であられるイエス様を目の見えない物乞いのように追い求めつつ、ひれ伏して礼拝を捧げ続けようではありませんか。お祈りします。
