2026年3月1日礼拝 説教 「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」

礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。

For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.

 

礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌1番「聖なる聖なる聖なるかな」1-3番

開会の祈り Opening Prayer 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 聖歌273番「命の泉に」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          出エジプト記20章15節、エペソ人への手紙4章28節

聖書の話          「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

   Doxology  教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。第8戒は何ですか? はい、そのとおり。「盗んではならない」ですね。皆さんは、自分が毎日何かを盗んでいる泥棒だと思いますか? きっと「自分は泥棒じゃないよ!」と誰もが、そう思うのではないでしょうか。ある有名な先生(ダン・アリエリー)が、大学の寮で面白い実験を行いました。彼は、みんなが使う冷蔵庫の中に、6本のコーラを入れました。コーラ1本は1ドルぐらいですね。そして、そのすぐ横に、1ドル札が6枚入ったお皿も置いたのです。数日後、どうなったと思いますか?なんと、現金は1ドルも盗まれませんでした。しかし、コーラはすべてなくなっていたのです。面白いですね。1ドルのコーラと1ドル札はほぼ同じ価値なのに、なぜか人は「コーラなら、ちょっとぐらいもらっちゃっていいよね」と言い訳をして、盗んでしまうのです。そして、あらゆる他の実験で先生が証明したのは、私たちはモノや時間やお金を盗んでしまうとき、「自分は何も盗んでいないよ」と自分をごまかすのがとても上手だということです。

私たちも同じです。もし、お母さんのお財布から1000円札を抜き取ったら、誰でも「自分は泥棒だ!悪いことをした!」とドキドキしますよね。でも、お友達から借りた1000円くらいのマンガを、ずっと返さないままにしているのはどうでしょうか? あるいは、学校の掃除の時間をサボって遊んでいるのはどうでしょう? もしそれが仕事だったら、時給1000円分の時間を盗んでいるのと同じことになります。私たちはつい、「お金を盗んだわけじゃないから大丈夫」「みんなもやってるし」と、自分に言い訳をしてしまいます。ですから、一番大きな問題は、「盗んではならない」という意味を理解していないことではなく、「自分は盗んでいない」と思い込んでしまうその心なのです。

 

今日は、この第8戒について3つのポイントを見ていきたいです。まず、第8戒は神様の御心の地図だという事です。 エペソ4:28から、盗みの反対は単なる「正直さ」ではなく、一生懸命に働き、分け与えることだと学びます。次に、第8戒は私たちの試金石であるという事です。 最初の人アダムが、どのように楽をして神様のものを取ろうとし、私たち全員を堕落させてしまったのかを見ます。最後に、第8戒は救い主への矢印だという事です。 最後に、イエス様へと目を向けます。アダムとは違い、イエス様はご自分の命さえも惜しまずに与えるお方です。

 

  1. 御心の地図:私たちはどう生きるべきか(エペソ4:28)

今日の聖書箇所であるエペソ4:28をもう一度見てみましょう。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」このたった一つの節が、第8戒の本当の意味を総合的に説明しています。クリスチャンの人生における完全な「地図」のようなものです。それと同時に、この地図はとてもシンプルです。3つの要素しかありません。「盗みをやめる」、「正しく働く」、そして「分け与える」。

 

まずは最初の行き先、「盗みをやめる」という命令から見ていきましょう。「盗むのをやめなさい」と聞くと、皆さんはきっとこう思うでしょう。「先生、私は大丈夫です。銀行強盗なんてしたこともないし、車を盗んだこともありません。私は善良な市民です」と。しかし、聖書が語る「盗み」は、私たちが思っているよりもずっと広い意味を持っています。もしあなたが会社で8時間分の給料をもらっているのに、上司が見ていない隙にこっそり2時間スマホでインスタグラムを見たり、YouTubeを見ていたとしたら、それはどういうことでしょうか? 自分の時間を会社に売ったはずなのに、それをこっそり取り返している事になります。もしグループ発表で友達が全部準備をしてくれたのに、自分の名前だけ書いて「A評価」をもらうなら、それは友達が受けるべき栄誉を盗むことになります。仕事で手抜きをして材料費をごまかすのは、お客さんの安全(いのち)とお金を盗むのと同じです。残業代を払うと約束しながら払わないことは、従業員から時間と労力を盗むことです。確定申告で一部の収入を隠すことは、政府と他の市民から盗むことなのです。また使徒の働き5章のアナニアとサッピラのように、実際よりも自分を寛大に見せようとすることは、神様を欺き、神様に返すべき栄光を盗むことだと教えられています。要するに「盗むこと」は様々なことを意味しています。100円玉と1本100円のコーラが同じであることを忘れてはいけませんし、「泥棒」の姿は色々あるのです。

 

次に、地図の2つ目の行き先、「正直に働くこと」を見てみましょう。パウロは「自分の手で正当な仕事をしなさい」と言います。なぜ私たちは盗んだり、ズルをしたりしたくなるのでしょうか? それは、私たちが「働くこと」を呪いのように感じて嫌っているからです。私たちは苦労せずに報酬だけが欲しいのです。「近道」を探し、汗をかかずに儲かることに憧れます。これはわかりやすい「怠惰」の形ですね。しかし、泥棒の反対は、ただソファーに座って何もしない「正直な人」ではありません。泥棒の反対は、正直に、一生懸命働く人です。聖書が言う「怠惰」は、実は「忙しさ」の中にも隠れていることがあるのです。2テサロニケ3:11で、パウロは「何もしないで、おせっかいばかり焼いている者たち」について警告しています。これはどういうことでしょうか? 一見、すごく忙しそうに動き回っているようですが、実は、本当にやるべき重要な仕事を避けている状態を言っているのです。例えば、テスト勉強をしなければならないのに、机の整理整頓だけを一生懸命やって「勉強した気分」になっている学生さんとか。あるいは、牧師の仕事で言うと、本当に重要な説教準備と神様との祈りの時間を優先するべきなのに、御言葉と祈りの働きに関係しないメールの返信や、面白い信仰書の研究ばかりして「今日は忙しかった」と満足している牧師もいます。(はい、自分のことです。) 神様が求めておられるのは、ただの「忙しさ」ではなく、「働くこと」です。忙しく動き回っていても、本来やるべき責任を果たしていないなら、それは「働き」とは言えません。

 

最後に、第8戒の地図のゴールは、「分け与える」という部分にたどり着きます。ここが、クリスチャンの生き方が世の中と全く違うところです。ここで、働くことの「目的(ゴール)」について整理してみましょう。実は、世界には大きく分けて3つの「働く理由」があります。1つ目は「自分のため」です。これは現代の日本の常識でもあります(資本主義 、快楽主義)。「自分の人生のお城を築くために働く」。お金は自分の身を守るための壁であり、あるいは人生を楽しむためのチケットです。そして、「施し」は「余裕があったらするオマケ」に過ぎません。2つ目は「義務のため」です。これは熱心な宗教の考え方です(イスラム教、ユダヤ教、仏教)。「神様への奉仕として稼いで、その中から決まりとして寄付しなさい」。そこにあるのは、神様や社会に対してやらなければならないという「義務」です。しかし、3つ目の聖書の考え方は全く違います。「愛するために」働くのです。聖書は「自分の生活費を確保するために働け」とは言っていません。「困っている人のために分け与えるため」に働きなさい、と言っているのです。これは革命的です。クリスチャンにとって、働くことのゴールは「貯めること」ではなく、「流すこと」なのです。私たちは富を貯め込む「バケツ」ではなく、神様の恵みを隣人に届ける「パイプ」として、明日も職場に向かうのです。これが、福音による労働の革命です。ですから、もっと言いますと、神様から見ると、盗みをしないで働いても、施しをしない者は、第8戒を破っている「泥棒」と同じなのです(箴言3:27; 申命24:19-21, ヤコブ5:1-4、マラキ3:8参照)。

聖書はなぜここまで言うのでしょうか。人は、盗みをせず、正直に、懸命に働いていたとしても、驚くほど自己中心的になり得ます。第8戒は、究極的には『すべてを尽くして神様を愛せよ』『自分を愛するように隣人を愛せよ』という愛の戒めです。だからこそ、この戒めは私たちに神様と隣人へ分け与える寛大さを求めるのです。もし私たちに寛大さがないのなら、自分のお金や持ち物以上に神様と隣人を愛しているとは言えないと神様はおっしゃるのです。

  1. 私たちの試金石:エデンの園

それでは、私たちは第8戒をどれほど破っているのでしょうか?私は特定の国や特定の民族だけを「罪深い」と、取り上げて批判するのは、決して好きではありません。すべての人が神様の前に罪人であることは、聖書の明快な教えだからです。しかし、どうしても皆さんに分かち合わなければならない、あまりにも衝撃的な統計を見つけました。私たちの住む日本という国は、世界でも有数の経済大国(GDP世界第4位)です。それだけでなく、世界で最も「教育水準が高い」国でもあります。成人のうち、半分以上(約65%)が高等教育を修了しており、これはOECD諸国で世界第1位の数字です。さらに、若者の学力テスト(PISA)でも数学的リテラシーは世界のトップを誇ります。加えて、日本は世界に約200ある国々の中で、汚職や不正が最も少ない国の上位10%(16位)に入っています。日本は、嘘をつかない、ごまかさない、正直で透明な社会を築き上げてきた、世界でも稀に見る『正直な国』なのです。

 

しかし、最新の「世界寄付指数(World Giving Report 2025)」は、私たちに突き刺さるような事実を示しています。これほど豊かで、教育を受け、正直な私たちが、実は世界で最も「寛大ではない」国民であるという結果が出たのです。世界中の人々が年収から寄付している割合を見てみると、ナイジェリアは2.83%(世界1位)、中国は2.19%(世界3位)、アメリカは0.97%(世界46位)であり、世界平均は1.04%です。それに対して、日本はわずか0.16%(世界101位)で、調査された101カ国の中で最下位でした。日本にいる私たちは「誰のモノも盗んでいないし、正直に働いている」と胸を張るかもしれません。しかし、神様が第8戒のゴールとして示された「分け与えること」において、私たちは世界で最も「貧しい心」を持っているのかもしれないのです。

 

それを聞いた日本に住む人(私も含め)は、「恥ずかしいけど、、、人を殺していないから、泥棒をしていないから、自分はそこまで悪くない」。そう思うかもしれません。しかし、聖書の最初の数ページを開いてみてください。人類の歴史における最初の「事件現場」はどこでしたか? それはエデンの園です。そして、そこで行われた最初の犯罪は、殺人でも姦淫でもありませんでした。それは「盗み(第8戒の違反)」でした。

アダムとエバが禁断の果実を食べたとき、彼らは単にお腹が空いていたわけではありません。園には他に美味しい木の実がたくさんありました。彼らが犯した罪の本質は、ウェストミンスター大教理問答が「神聖なものを盗むこと(Sacrilege)」と呼ぶものです。あの木は神様のものでした。それを取るということは、神様の権利を侵害し、神様の王座を盗み取ろうとするクーデターだったのです。アダムは神様のようになりたかった、つまり、自分で善悪を決め、誰にも指図されない「自律」を盗もうとしたのです。

さらに、この盗みの裏には「労働の拒否」がありました。神様はアダムに、園を耕し、守るという尊い仕事を与えておられました。もしアダムがその試みの期間、忠実に働き、蛇の誘惑から園を守り抜いたなら、神様は彼にご褒美として「いのちの木」の実を自由に与えてくださったでしょう。しかし、サタンはこう囁きました。「働かなくていいよ。近道があるよ。今すぐ取って食べれば、苦労せずに神のようになれるよ。」と。アダムはこの「近道」を選びました。彼は汗を流して報酬を得る道ではなく、盗みによって栄光を手に入れる道を選んだのです。

そして、ここに「寛大さの欠如」という悲劇の根源があります。アダムは全人類の代表でした。もし彼が忠実に働き、神様に従っていれば、彼は私たち全員に「永遠のいのち」という遺産を分け与えることができたはずです。彼は私たち全員を富ませることができたのです。しかし、彼は究極の自己中心的な「けちん坊」でした。彼は自分の子孫である私たちのことなど考えず、目の前の快楽と、自分自身のプライドを選びました。彼は寛大さではなく、利己主義を選んだのです。その結果、彼は全人類を、罪と死という莫大な「負債」の中に突き落としました。

数字をごまかし、いろんな言い訳をする「盗み」も、楽をして結果だけを得ようとする「ずるい近道」も、そして自分のためだけに蓄えて隣人に分け与えない「けちん坊」な心も、すべて根っこは同じです。それは、アダムがエデンの園で犯した失敗を、私たちが今も繰り返していることに他なりません。私たちが神様の王座と権限を盗み、汗を流すことを嫌がり、そして寛大になれない理由、それは、私たちのDNAの中に、あの悲劇的な「最初の泥棒」の血が、今も脈々と流れているからなのです。

III. 救い主への矢印:盗みをされない、勤勉で、寛大なイエス様

第8戒を見て、私たちは絶望したかもしれません。「私の中には、あの最初のアダムの血、泥棒の血が流れている。」と。私たちは自分の力でこのDNAを書き換えることはできません。私たちには、新しい代表者が必要です。私たちの代わりに働き、私たちの代わりに罰を受け、私たちを新しく作り変えてくれる「矢印」が必要なのです。それが、イエス・キリストです。イエス様は三つの角度から第8戒を全うされました。

 

一つ目の角度は、 強盗の身代わりに負債を完済して下さったイエス様です。まず、聖書の律法における「盗みの規定」を思い出してください。泥棒が罪を許されるためには、単に「ごめんなさい」と謝るだけでは足りません。盗んだものを返さなければなりません。しかも、ただ返すだけでなく、そこに「利子」や「罰金」を上乗せして、時には2倍、4倍にして償わなければならないのです(出エジプト22章、レビ6章)。泥棒が刑罰から逃れる唯一の道は、この「利子付きの完済」しかありません。

 

そこで、十字架の場面を見てください。あの日、真ん中の十字架にかかるはずだったのは誰でしたか。それはバラバでした。マルコ15章を見ると、彼は暴動を起こし、人殺しをした「強盗」だったと書かれています。彼は力ずくでローマから支配権を盗み取ろうとした、まさに「力の泥棒」でした。しかし、実際に何が起きたでしょうか? 「大いなる交換(The Great Exchange)」です。無実のイエス様が、有罪の強盗バラバの身代わりとなりました。イエス様は、二人の強盗の間で、まるで「強盗の親玉」でもあるかのように十字架につけられたのです。

 

それはなぜでしょうか?イエス様はそこで、私たちが人生を通して盗み続けてきたすべての「借金」を、私たちの代わりに返済しておられたのです。私たちが神様から盗んだ時間、盗んだお金、盗んだ栄光、そして盗んだ愛。これらのすべては、元本だけでなく、長年にわたって膨れ上がった莫大な「利子」をつけて、神様に返済しなければなりませんでした。私たちが生まれてから今日まで積み重ねてきたその負債は、あまりにも巨額です。だからこそ、その支払いを完了させるために、神の御子の「死」という、宇宙で最も高い代価が必要だったのです。イエス様は、強盗である私たちが架かるべきであったその場所で、私たちが払うべき「利子付きの負債」を、すべて完済してくださったのです。

 

二つ目の角度は、喜びにあふれた勤勉なしもべであられるイエス様です。アダムは「労働」を嫌がり、盗みによって神のようになろうとする「ずるい近道」を選びました。しかし、イエス様はどうされたでしょうか? ピリピ2章を思い出してください。イエス様は神の御姿であられるのに、ご自分を空しくして、しもべの姿をとられました。アダムは王座を盗もうとしましたが、イエス様は王座を捨てて、しもべとして汗を流す現場へと降りて来られたのです。

 

そして、その働きぶりはどのようなものだったでしょうか?イエス様にとって、父なる神の戒めを守り、働くことは「苦役」ではありませんでした。ヨハネ4章で、弟子たちが食べ物を勧めたとき、イエス様はこう言われました。「私の食べ物とは、私を遣わされた方のみこころを行い、その御業を成し遂げることだ。」イエス様にとって、神様のために働くことは、魂を満たす最高の「食事」であり、「喜び」だったのです。だからこそ、イエス様は決して近道を選びませんでした。荒野で「石をパンに変える」という「ずるい近道」を拒否され、十字架の苦しみの中でも「御使いを呼ぶ」という「裏技」も選ばれませんでした。

 

ヨハネ5章にあるように、「父が働いておられるから、私も働く」と、最後の最後まで誠実に、情熱的に走り抜かれました。そして十字架にかかる前の晩、主は高らかに報告されたのです。「わたしは、あなたがわたしに行わせようとして与えられた業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハネ17:4)と。 イエス様は、アダムが放り出した仕事を、喜びをもって完全に成し遂げ、私たちに代わって「永遠のいのち」という報酬を勝ち取ってくださったのです。

 

最後に、三つ目の角度は、過激なほど寛大なイエス様です。イエス様は、単に泥棒である私たちの罪を赦して、「もう盗んではいけないよ」と言って釈放して下さっただけではありません。それだけでも十分すぎる恵みなのに、イエス様はさらに驚くべき「施し」をしてくださいます。

 

イエス様は私たちのような「泥棒」をどうされたでしょうか? ローマ8章を見てください。イエス様は私たちに向かって、「あなたは今や、私と同じ『共同相続人』だ」と宣言されました。「父がわたしに与えてくださったすべてのもの、全宇宙の富は、いまやあなたのものでもある。」と言われるのです。考えてみてください。もしあなたが、すべてのものの「持ち主」になったのなら、どうしてまだコソコソと盗む必要があるでしょうか? すべてを持っている者が、どうして小さなものを盗む必要があるでしょうか。満たされた相続人には、もう盗む理由が存在しないのです。

 

イエス様は私たちのような「謀反人」をどうされたでしょうか?アダムの子として私たちはかつて、天の門を力ずくでこじあけ、神の栄光と王座を盗み取ろうとしました。しかし、エペソ2章と黙示録5章を見てください。イエス様はご自分の血によって私たちをご自身と一つとし、こう言われます。「王座を盗まなくてもよい。ここに来て、私と一緒に私が勝ち取った王座に座りなさい。」と。私たちは神の右の座を奪い取る必要はありません。イエス様が、御国を受け継ぐ王として、ご自分の王座を私たちに委ねてくださったのです。

イエス様は、たくさん受け取っているのに、失うのが怖くて手放せない「けちん坊」な私たちに、どうされたでしょう? 2コリント9章やピリピ4章にあるように、イエス様は私たちに「恵みの上にさらに恵み」を注いでくださいました。それは、私たちが義務感からではなく、天に富を積むことの本当の「喜び」を知るためです。イエス様は私たちの小さな器があふれて流れ出るまで、恵みを注ぎ続けてくださるのです。

 

ですから、愛する兄弟姉妹の皆さん。なぜ、私たちはもう盗まなくても良いのでしょうか?なぜ、私たちは明日も誠実に働くのでしょうか?なぜ、惜しみなく分け与えるために働くのでしょうか?天国への入場券を買うためではありません。神様に借金を返すためでもありません。「すべてはあなたのものです」と言われているのに、どうして他人のものを欲しがる必要があるでしょうか。「王座に座りなさい」と言われているのに、どうして自分の栄光を得るために必死になる必要があるでしょうか?私たちが寛大になれるのは、私たちの主が、ご自分の命さえも惜しまずに私たちを富ませてくださった、あの「寛大なイエス様」だからです。このあふれる恵みに動かされて、私たちもまた、この世に対して手を開いて、惜しげもなく与えるために働く者として歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church