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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙3章19-22節 |
| さ ん び | Opening Praise | Yet Not I キリストにあって |
| さ ん び | Praise | おどろくばかりの〜罪とがを自由にされて
Amazing Grace (My chains are gone) |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第10戒 出エジプト記20章17節)
コロサイ人への手紙3章5節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | エペソ人への手紙1章5-7節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌21番
「輝く日を仰ぐとき」1,3,5番 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙3章15-22節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「仲介者モーセ?」
呉 載炫 教会主事 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌307番 「イエスの血に洗われ」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 詩篇103篇3-5節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
皆さんは伝言ゲームをご存知ですか?バラエティ番組でよく見るあのゲームです。タレントがヘッドホンをして向こうを向いていると、肩をトントンと叩かれます。振り向いたらお題となる言葉を言われるのですが、ヘッドホンからは大きな音で音楽が流れているので、聞き取りづらいです。必死に相手の口の動きを見て、お題を推測するわけです。
数週間前、ラミークラブでもヘッドホンなしでこのゲームを遊びましたが、本当に楽しかったですね。分かりそうで、でも中々うまく伝わらない。この「もどかしい気持ち」をみんなで楽しみました。
この感覚はゲームとして楽しむ分にはいいのですが、一度、私たちの信仰生活と関わる問題ならどうでしょう?モヤモヤしたものを残したくないとは思いませんか?
例えば、先ほどお読みしました聖書箇所にも「契約」、「約束」、「律法」、「相続」、「恵み」などの単語が出ていました。どれもよく聞くことばですが、その意味をはっきりと整理しておかないと混乱してしまいます。
本日は、ガラテヤ人への手紙から次の3つを考えることで、約束と律法の違いについて、私たちの理解を深めたいと思います。一つ目は「約束を与えた方」です。今日の本文でも用いられていますが、聖書で用いられる約束について考えます。二つ目は「律法の仲介者」です。律法に関する理解は混沌としています。その理由を確認します。三つ目は「律法が指すもの」です。律法の役割について考えます。
まず、一つ目のポイントは「約束を与えた方」です。本日のメッセージに入るために、ガラテヤ人への手紙のこれまでの背景を確認しましょう。ガラテヤ人への手紙は、使徒パウロがガラテヤにある教会たちに宛てた手紙です。当時の教会には、律法を行わなければ救われないと教える者たちがいて、多くの教会員が彼らについていきました。
パウロは彼らの主張は福音ではないとし、律法を行うことによっては、人は義と認められないと教えます。前回のガラテヤ書の説教では、イエス・キリストが十字架の上で私たちのためののろいとなってくださったことを学びました。私たちはのろいから解放され、キリストの祝福に与るものとなりました。
この祝福はどのような祝福でしょうか。今日の聖書箇所は神様がアブラハムにされた「約束」の優れたところを強調します。15節では、人間の間の契約でさえ、一度確定すれば後から付け加えたり無効にしたりできないと言います。ましてや、神様が立てられた約束は揺らぐことはありません。
使徒パウロは16節で、アブラハムに与えられた契約を引用します(創世記12、15、17章)。これを「アブラハムの契約」と言います。主はカルデア人のウルに住むアブラムを旅に召し出しました。そして、彼を祝福すると約束しました。
その祝福として、主は住む地も子どももないアブラムに、カナンの地と子孫を約束しました。この地において、神様はアブラムの子孫たちの神となり、彼らは神の民となります。ここでいう「地」は、究極的には地上のカナンの地を超えた、永遠の天の御国を指します。
パウロは、16節で「子孫」の意味について語ります。アブラハムの子はイサクと彼から生まれた神の民です。しかし、子孫もまた、地と同じようにさらに優れたものを指します。パウロは究極的な子孫は、イエス・キリストだと言います。
アブラハムの契約の中心はアブラハムではありません。約束の成就は、アブラハムの子孫の他の人々の血統や背景、また、彼らの行いによってなされるものでもありません。ただ、究極の子孫であるイエス・キリストのうちに成就されました。
先週までのガラテヤ書の説教で確認したように、イエス・キリストを信じることによってのみ、人は義と認められます。この約束がアブラハムとその子孫に告げられました。
こういうわけで、パウロは17節でこう続けます。「先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません」
この「先に神によって結ばれた契約」はこれまで私たちが確認してきたアブラハムの契約です。神様はキリストにあって私たちを選び、恵みによって信じるものを救われると約束されました。
一方で、律法は神様のこの恵み深い約束よりも数百年も後に定められたものです。律法が先で、福音が後ですか?そうではありません。先に約束が与えられました。律法を行うものではなく、イエス・キリストを信じるものが救われると、先に定められました。
もし人が律法を守ることによって救われるというなら、神様がアブラハムに与えられた約束を破棄したということになりかねません。救い主による御救いの計画ではなく、律法を行うことによる救いへと、神様のご計画が変更されたことになります。
しかし、神様はそうはなさいません。人が立てた計画はいつも不完全で、うまくいかないとしょっちゅうテコ入れをしたり変わったりします。一方、全知全能の神様は変わることも、嘘をつくこともなさいません。私たちが15節で確認したように、先に約束が与えられたのですから、後から来た律法によって人が救うようにはなさいません。
18節によると、ガラテヤの人々は選ばなければなりません。天国を相続財産として受けるために約束を信じる方を取るか、律法を行う方を取るか。約束には相続財産がありますが、律法にはありません。救いは行いによって獲得するようにではなく、キリストを信じるものに与えられるという約束を信じることで得られます。
次に、二つ目のポイントは「律法の仲介者」です。ここまでパウロの手紙を読みますと、自然と疑問が浮かびます。では、神様はどうしてシナイ山で律法をお与えになりましたか?人を救うものでもないのに。律法は一体何の役に立つのでしょうか。
19節です。「それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」
19節は律法について三つのことを教えてくれます。まず、律法の時です。律法の時はキリストが来られるまでです。約束の本体である主イエスが来られた以上、律法が以前のように猛威を振るうことはありません。イエス様が律法をすべて守り行い成就されたので、私たちには律法の行いが求められません。
次に、違反を示すために付け加えられたものです。律法は人を救うために与えられたわけではありません。人が罪を犯すので、「それは罪だよ。死罪ですよ」と指摘するために後から与えられました。律法は救いではなく、死ののろいをもたらします。
また、律法には仲介者がいるということです。「御使いたちを通して」という言い回しは、当時の神様の働き方の理解が表れているように思います。聖書の他の箇所にも同じような描写があります(申命記33:2、使徒7:53)。
この点、20節と合わせて考えると分かりやすいかもしれません。20節は解釈がとても難解な箇所ですが、次のように理解することができます。「律法(=モーセの契約)には仲介者が必要です。しかし、約束(=アブラハムの契約)には仲介者は必要ありません。約束のためには神様お一人が働かれましたから。」
クリスチャンは聖書で仲介者と聞いたら、真っ先に「イエス様のことなのでは?」と思うかもしれません。ただ、今日の20節の仲介者はイエス様ではありません。出エジプトしたイスラエルに律法を授与する時、御子の単独の働きは見られないからです(出エジプト19-24章)。
ですから、20節の仲介者は主から石の板を受け取ったモーセ(出31:18)と考えるのが妥当です。すなわち、神様が神の民に律法を与えた時に、御使いやモーセが仲介役として用いられたということです。
では、律法にはどうして仲介者が立てられましたか?シナイ山で与えられたモーセの契約、律法の契約当事者は主なる神と、神の民です。神様はカナンの地において民を祝福されますが、そこには条件がありました。民は神様に従わなければなりません。律法を完璧に守らなければなりませんでした。守れなければ祝福どころか、のろいが下されます。この民と神様の間に、仲介者としてモーセが置かれました(出32章を参照)。
一方で、アブラハムの契約はどうですか?約束において、天の相続財産の恵みを与える方は、唯一、神様お一人です。主が主導的に、アブラハムに約束をお与えになりました。仲介者はいません。約束は人間側の従順や都合に左右されませんでした。ただ、神様の誠実なご計画通りに、ひとり子イエスの完全な従順によって成就されました。
律法と約束、どちらの方が優れているかはもうお分かりだと思います。律法と約束、律法と福音の鮮明で圧倒的な違いに目を向けていただきたいです。
しかし、私たちの住むこの世界には仲介者がいっぱいいます。残念ながら、良い仲介者ではありません。伝言ゲームで不正解を連発する、悪い仲介者たちが大勢いるように感じます。彼らは自分たちの腹を満たすために、福音について、また、義認について、今日読まれ語られた聖書箇所とは異なることを言います。
あるものは、旧約時代のイスラエルは律法を守ることで救われる宗教で、新約の教会はキリストを信じることで救われる宗教だと言います。いいえ、違います。旧新約を通して、天の下でキリストのほかに、救われるべき名は人間に与えられていません。
またあるものは、「イエスを信じた後も律法を一生懸命に守らなければならない。救いを維持して、最後のさばきの時に義と認められるためだ」と言います。しかし、これも違います。キリストによる救いは、後から行いによって完成されるものではありません(ガラテヤ3:3-6)。
これら人たちの教えは、キリストの贖いのわざを無駄なものとします。律法を守らないと救いが取り消されるかもしれないと人々を脅して、一生不安に陥れる偽兄弟たち(ガラテヤ2:4)です。救いの確かさは、私たちの歩みではなく、ただキリストが私たちのためになされた完全な従順によるのです。
いつまで、私たちは彼らが私たちの周りで語ることを容認しますか。いつまで、彼らが連発する伝言ゲームの不正解を参考にしたり、受け入れたりしますか。私が言っているのは、日本でも活動する律法主義の異端宗派、YouTubeで有名な先生、最近流行りの信仰書籍のことです。これらのふさわしくない仲介者たちは、私たちを混乱させます。
「イエス様は信じてるけど、良いこともしないと救われないと思う」、「聖書にはこう書いているけど、あの先生は有名なんだから、どっちも正しいんじゃないの?」、「よく分からないから、分からないままにしておこう」と思っていますか?ガラテヤ人たちも、同じように考えていたかもしれません。
聖霊様は今日、使徒パウロの言葉を通して「兄弟たちよ(3:15)」と優しく語りかけておられます。その道は間違っています。伝言ゲームの不正解です。聖書ははっきりと言われます。相続財産を受けるために一生懸命に頑張る人はいません。
神様の約束を信頼し、キリストがなしてくださった揺るぎない贖いのわざを受け入れましょう。
最後、三つ目のポイントは「律法が指すもの」です。ここまで神様の恵みによる契約を通して、約束と律法について見てきました。パウロは、福音と律法は違うものであり、福音の方が遥かに優れていると言います。相続は律法の行いではなく約束によるものですから、約束の方が律法より優れています。
ここまで聞いたら、パウロの反対者たちはこういうかもしれません。「あなたは、律法は要らないと言うのですか。律法を定めたのは神なのに、あなたは律法が悪だと言うのですか」と。
パウロは律法主義者たちの声を予想したかのように、21節で次のように語ります。「それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったのでしょう。」
21節は、律法は悪いものでも、神様に敵対するものでもないと教えます。また、ガラテヤ諸教会の律法主義者たちのように、律法が永遠のいのちを約束するもの、すなわち、律法遵守が罪人を救う手段だと考えてはならないとも言います。約束と律法には、それぞれ異なる目的があります。
続く22節は、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めたと言います。ここでいう聖書とは律法によって代表される旧約聖書のことです。ですから、律法がすべてのものを罪の下に閉じ込めたと読めます。
神様は律法を用いられますが、その使途は衝撃的です。私たちに死刑を宣告するために用いられます。律法は人を生かすものではありません。義と認めたり、生まれ変わらせたりすることはできません。ただ、人を罪に定めることはできます。
この世に生まれた人が誰も逃れることができないように、すべての人を律法によって罪ありとされます。これが律法の役割です。人に罪を罪と教え、罪を犯した私は死ななければならない存在であると教えます。
しかし、この八方塞がりにも一筋の光があります。22節後半です。「それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。」
その光とは、神様がアブラハムに施されたこの約束=人に自分自身のものではない義を認め、罪を赦し、やがて天の相続財産を受け継がせてくださるという約束のことです。イエス・キリストを信じる信仰によって、信仰者に与えられた約束です。
律法ではありません。律法の行いによるのではありません。人の何か宗教的な行いを通して、得られるものではありません。つまり、クリスチャンになっても信仰的な境地に入らなければ、または、善行をしなければ救われないというものではありません。
どうしてですか。行いは、イエス様が地上におられる間にすべて為し終わりました。神様の約束を信じるということは、このキリストのなされた行為が、すべて私に適用済みだということを信じることです。
「イエス様が律法に従ったことで、私が従ったことになるということですか?」はい、そうです。
「でも、実感もないし不安です。良い行いをしなければならないんじゃないですか?」いいえ、その必要はありません。
律法は私たちの無力、私たちの行いの値打ちの無さをあらわにします。律法はまず、私たち自身を指さします。善を行うのにまったく無能力で、罪を犯したがる私を指します。この罪の罰として死ぬしかない私を指し示します。
律法は完膚なきまで私たちを断罪し、自分自身には救いがないことを気付かせます。こうすることで、私の代わりに律法を完成し、私の代わりに契約不履行による死の刑罰を十字架で受け、死んでよみがえったイエス・キリストに頼り、キリストの救いを求めるようにすることが、律法の目的だからです。
神様はどうして、このようにされましたか?人が律法を行うこと、熱心を出すことによって救われないようにするためです。行いでは誰も救われず、むしろその人生は一生の間、恐怖と不安に苛まれます。ただ、選ばれたものが、約束を信じることで救われます(ルカ8:9-15、マタイ13:10-23を参照)。
メッセージをまとめます。主イエスは、律法を行うことではなく、選びの民が福音を聞いて、聖霊の働きを通して、この祝福の約束を信じるようにされました。
この中に、まだイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れていない方がおられますか。信じたいとは思う、信じたいけど踏ん切りがつかないというところでしょうか。大丈夫です。自然な反応です。信じようと努力して信じられるものではありません。
行動によるのではありません。世の中にはたくさんの仲介者を自称する人々がいますが、彼らには他人を救うことはできません。しかし、イエスは違います。イエスはご自分が救おうとする人に、今日の聖書の約束を信じる信仰を必ずお与えになります。もう少し、イエスの話を聞き続けられますように。ぜひ、イエスの助けを求めてください。
いま主にある皆さん。私たちに信仰が与えられ、祝福に与っていることが如何に驚くべき恵みなのでしょう。信仰のない人は、決して手に入れることのできない尊いものです。皆に信仰が与えられるわけではありません。
ただ神様の限りのない愛によって、聖霊が私たちに働き、数千年前に与えられた変わることのない約束が、イエス・キリストを信じる信仰を通して与えられました。この福音を信じる皆さんは、本当に、神様から特別に愛されています。この世の間違った仲介者からではなく、主イエスからの愛を受けているからです。お祈りを致します。
