録音トラブルにより、29:50から約1分間音声が流れません。ご了承願います。
礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。
For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.
礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇28篇6-9節 |
| さ ん び | Opening Praise | 主イエス神の愛 |
| さ ん び | Praise | その日全世界が |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第1戒 出エジプト記20章3節)
コリント人への手紙第一8章6節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | エペソ人への手紙2章18-19節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌126番
「血しおしたたる」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書10章1-21節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「私は良い牧者です」
マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌303番 「かいぬしわが主よ」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | コリント人への手紙第二9章6-7節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。もし、知らない真っ暗で恐ろしい森の中で迷子になってしまったら、どんなガイドにお願いしたいと思いますか?ニコニコ笑顔で「ガイドさんが必要ですか?俺超いいガイドだよ。美味しいお菓子をあげるからおいで」と優しく近づいてきても怪しいですよね。自分を誘拐する不審者かもしれませんね。では、こんな人はどうでしょう。「迷子になっちゃったの?可哀想に!」と共感してくれる、ものすごく優しいガイドです。でも、恐ろしいオオカミが現れたら、「逃げろー!実は僕も帰り道がわからないんだよー!」と叫んで逃げてしまいます。優しさだけでは、絶対に助かりませんね。私たちが本当に命を預け、信頼できるガイドに必要なのは、「私たちを大切に思ってくれている証拠」と「猛獣をやっつけて、確実に森の外へ救い出してくれる『力』」の二つが揃っていることなのです。
実はこれこそが、今日開いているヨハネの福音書10章で、イエス様が語ろうとされていることです。そのとき、人々を神様へと導くはずだったパリサイ人たちは、羊を騙して食い物にするようないじわるなガイドでした。その深い暗闇の中で、イエス様はご自身を「良い羊飼い」であると宣言されます。しかし、イエス様はただ羊と一緒に泣いてオオカミに食べられてしまうだけの、優しいけど、無力な羊飼いではありません。イエス様は、十字架で命を捨てるほどの深い愛で私たちを守り、私たちの最大の敵である「死」そのものを打ち破ってくださいます。イエス様は、愛と力の両方を持ったまことの「良き羊飼い」なのです。今日のみことばからご一緒に見ていきましょう。
今日の箇所は、聖書の中でも特に有名な場面の一つです。「私は良い羊飼いである」。私は今回、この箇所を読み込む中で、ある「発見」をしました。実は、ヨハネ10章は、単なる例え話ではありません。これは、イエス様がヨハネ9章で起こった出来事を「解説」されている箇所なのです。
前回、私たちは9章を見ましたね。そこで何が起こったでしょうか? 生まれつき目の見えない人が癒され、イエス様を礼拝しました。しかし一方で、宗教的指導者たち――パリサイ人たち――はどうでしたか? 彼らは怒り狂い、癒された人を追放し、自分たちこそが「見える者」だと主張しました。しかしイエス様は、彼らこそが霊的に「盲目」であると宣告されたのです。そして今日の箇所、10章1節は「まことに、まことに、あなたがたに言います」という言葉で始まります。イエス様は誰に向かって話しておられるのでしょうか? それは、目の見えない人を「罪人だ」と見下し、自分たちこそが指導者だと自負していた宗教指導者たちにです。
イエス様はここで、9章のドラマを「羊と羊飼い」という例えを用いて、もう一度語り直しておられるのです。登場人物の「羊」は あの癒された盲人のことです。「盗人」はイスラエルの指導者たち、パリサイ人たちのことです。「良い羊飼い」は、イエス様ご自身です。そして、イエス様は、目の前の指導者たちに向かってこうおっしゃいます。「あなたがたは指導者ではない。あなたがたは羊を食い物にする『盗人』であり『強盗』だ。しかし、わたしは羊のために命を捨てる『良い羊飼い』なのだ。」と宣言されているのです。このイエス様のメッセージは、今の私たちに何を語りかけているのでしょうか?今日は、イエス様のこの「解説」を、3つの質問を通して見ていきたいと思います。
最初の質問はこれです。私たちの人生を導くふりをしながら、実は死へと導いているのは誰でしょうか?
まず、イエス様が用いられた「良き羊飼いと知らない盗人」のコントラストを見てみたいと思います。 本物の羊飼いが来ると、彼は門を開け、自分の羊たちの名前を呼びます。すると羊たちは、彼の声を聞き分け、彼について行きます。そこには信頼と安心があります。では、そこに「知らない人」が来たらどうなるでしょうか? 想像してみてください。その知らない人が、どんなに大声で叫んでも、どんなに美味しそうなエサをチラつかせても、羊たちは無反応です。彼らはただ草を「モグモグ」と食べ続けるだけで、「誰この人?」と見つめるだけです。 さらに、その知らない人が無理やり近づこうとすれば、羊たちも逃げ出します。なぜなら、羊たちはその声を知らないからです。
実はこれは、前回見たヨハネ9章の光景そのものなのです。 あのパリサイ人たちを思い出してください。彼らは、癒された盲人の男性の「羊飼い」になろうとしたのです。彼らはその男性にとって何がベストかを知っているつもりでした。だからパニックになって叫んだのです。 「おい! お前を癒したあいつは誰だ! 確かに目は見えるようになったかもしれないが、あいつは安息日を破ったんだぞ! あいつは悪人だ! 罪人だ! ついて行っちゃダメだ!」
それに対して、その男性はどう思ったでしょうか? 彼の反応はまさに、知らない人を見る羊と同じ様でした。 「はあ? あなたたち、正気ですか? あの人は、私の生まれつき見えなかった目を開けてくれたんですよ。私の人生を変えてくれたんですよ。その人が『悪人』で、何もしてくれなかったあなたたちが『指導者』だなんて… あの人こそが、私の羊飼いです!」
ここでイエス様は、羊飼いと盗人の決定的な違いを指摘されます(7-10節)。 イエス様は「羊の門」です。その門を通る羊はどこへ行くのでしょうか? 牧草地へ、水辺へ、喜びへ、そして自由へと導かれます。 しかし、盗人はどうでしょうか? 盗人もまた、羊飼いのふりをしてやってきます。「こっちに行けば幸せになれるぞ」という顔をして。しかしイエス様はハッキリと言われます。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためだけです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
パリサイ人たちは、表向きは「宗教的な指導」をしているように見えました。しかし実際には、イエス様を殺そうとし、癒された男性を共同体から追放しようとしていました。彼らは「いのち」を与えるふりをして、人々を永遠の死へと追い込もうとしていたのです。ジャン・カルヴァンは、この箇所についてこうコメントしています。
「この警告は、いつの時代も極めて有益であり、現代においては特に必要である。羊飼いの衣の下に隠れた狼が暴れまわることほど、教会にとって破壊的な疫病はない。」
イエス様が言わんとされているのは、まさにこういうことです。「あなたは今、誰について行っていますか? その『羊飼い』は、優しそうで、安全で、居心地が良いかもしれません。でも、もしかしたらその相手は、あなたをただ太らせて、最後に美味しくいただくために世話をしている『盗人』かもしれないのですよ?」
「お金」や「成功」や「社会」などは分かりやすい盗人かもしれません。しかし、私たちにとって最も危険で、最も見分けにくい「盗人」は、実は、パリサイ人が差し出す「道徳」です。彼らが大事にしていたのは、「自分自身の正しさ」や「常識を守る自分」という道徳的な振舞いなのです。「私は良い人間だ」「道徳を守っている」という思い込みは、1日目から1000日目までは、盗人が与えるエサで、パリサイ人は最高の羊飼いのように見えます。なぜなら、私たちを満足させ、不安を取り除いてくれるからです。しかし、それは偽物の羊飼いです。彼らが与えるその「豊かさ」は、私たちを利用し、最終的な破滅をもたらすプライドへと太らせるための準備に過ぎないことがあるのです。それに対して、イエス様は言われます。「わたしが来たのは、羊がいのちを得るためだ」と。本物の羊飼いは、私たちから何かを奪うのではなく、私たちに豊かにいのちを与えて下さるお方なのです。
そう聞くと、皆さんはきっとこう思うでしょう。「じゃあマークさん、どうすればいいんですか? イエス様がその『盗人』じゃないって、どうして言い切れるんですか? イエス様も私たちを太らせようとしているだけなんじゃないですか?」と。それこそが、次のポイントで見ていくことです。
②私たちは、イエス様という羊飼いの「驚くべき良さ」に出会ったことがあるでしょうか?
私たちのように現代の日本に住む人間にとって、「疑う」ということは自然なことです。世の中にはあまりにも多くの「うまい話」や「詐欺」があるからです。「イエス様は良い方だ」と言われても、「どうしてそんなに確信が持てるの? 証拠はあるの?」と聞きたくなるでしょう。
しかし、もしあのヨハネ9章の、癒されたばかりの元盲人の男性にインタビューしたら、彼は即座にこう答えるはずです。 「私は神学的なことはよく分かりませんが一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。あの方が私を救ってくれたんです!」(ヨハネ9:25参照)イエス様はここで、ご自分がなぜ「良い羊飼い」なのか、その理由を2つの決定的な特徴を通して説明してくださいます。
- 良い羊飼いは、羊を「守る」ために命をかけます。
まず11節を見てください。ここでイエス様は「雇い人(アルバイト)」と「羊飼い」を対比されています。 雇い人は、給料のために働いています。だから、狼(危険)が来たらどうしますか? 雇人は逃げるでしょう。なぜなら、羊よりも自分の命の方が大事だからです。彼にとって、羊はあくまで「仕事」であって「愛する存在」ではないからです。
これをヨハネ9章の文脈で考えてみると、胸が痛くなるような皮肉が見えてきます。 あの物語の中では、誰がこの「逃げ出した雇い人」だったでしょうか? パリサイ人かもしれませんが、盲人の「両親」も当てはまるかもしれません。普通、息子が長年の苦しみから癒されたなら、親は一番に喜んで、彼を守るために立ち上がるはずでしょう? しかし、パリサイ人たちが「誰が癒したんだ!」と尋問したとき、この両親はどうしましたか? 「息子に聞いてください。あの子は大人ですから」と言って、彼らは逃げました。なぜなら、彼らは会堂から追放されるのを恐れたからです。 自分の社会的地位という「安全」を守るために、息子を狼の群れの中に置き去りにしたのです。これこそが「雇い人」の姿です。
しかし、イエス様はどうされたでしょうか? イエス様は、パリサイ人たちが殺意を持って石を投げようとしているその真っ只中に、わざわざ戻ってこられました。 そして今、この10章の説教を通して、イエス様はご自分を「門」だと言われました。これは、羊の囲いの入り口に立ちはだかり、「ここから先は通さない。私の羊には指一本触れさせない。」と宣言しておられるのです。 イエス様は、ご自分の命を盾にして、あの癒された男性を、そして私たちを、守ろうとしておられるのです。
- 良い羊飼いは、羊をよく「知って」います。
次に14節です。「わたしはわたしのものを知っている」。 私は以前、説教でこの表現を使ったことがあります。良い羊飼いとは、「羊臭い」羊飼いである、といいました。 なぜなら、彼は常に羊と一緒にいるからです。彼は羊の傷を知っています。どの羊が足を引きずっているか、どの羊が怖がりか、どの羊が頑固か、そのすべてを知り尽くしているのです。
しかし皆さん、ここで15節を見てください。イエス様の「知っている」という言葉の意味は、単に「クセを知っている」というレベルの話ではありません。ここでイエス様は、耳を疑うような、とんでもないことを言われています。「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じように…」(ヨハネ10:15)これは、本当に恐るべき発言です。ヨハネ5章で、 イエス様は父なる神と御子イエスの関係について語られました。 御子は、父がなさることをすべて見ておられます。父は、御子を愛して、ご自分のすることをすべて御子にお示しになります(ヨハネ5:20)。そこには隠し事が一切ありません。永遠の昔から続く、完全な愛と、完全な知識の交わりがそこにあるのです。
イエス様は今、なんと仰っているのでしょうか? 「父なる神様との間にある、隠し事の全くない完全な愛と知識の交わり。それと全く同じ深さと親密さで、わたしは『あなたのこと』を知っているのだ」と宣言されているのです。私たちの魂の最も深い部分、あなた自身さえ気づいていない心の叫びを、イエス様は完全に見通しておられます。一方、パリサイ人たちはどうでしたか? 彼らは盲人の男性のことなど何も知りませんでした。知ろうともしませんでした。彼らにとって、癒された男性は「人間」ではなく、処理すべき「問題」に過ぎなかったのです。しかしイエス様は違いました。誰もが彼を捨て、誰もが彼を「罪人」のレッテルを貼って見捨てたとき、イエス様だけは彼を「見つけ出し」に行かれました。誰も気にかけなかった彼の痛みを、イエス様だけは知っておられたのです。
では、どうしてイエス様が「盗人」ではなく「良い羊飼い」だと断言できるのでしょうか?その答えはシンプルです。「イエス様はあなたのすべてを知り尽くした上で、命を捨てて守ってくださったから。」です。これは簡単なことのようで、実はあり得ないことです。考えてみてください。イエス様は、私たちのすべてを誰よりも深く知っておられます。あなたの「盲目さ」も、「頑固さ」も、「自己中心性」も、「尽きない欲望」も、「恥」も、「誰にも見せられない闇」や「ドロドロした欲望」もすべて知っています。あなたが隠したい、臭い、汚い部分を、イエス様は誰よりも深く知っておられます。その悪臭がご自分に移るほどに、近くにおられます。人々なら「うわっ」と言って逃げ出すようなその現実を見て、イエス様は何と言われるでしょうか?「わたしは、その部分をよく知っている。それでも、わたしはあなたを愛している。あなたのために、わたしは命を捨てる。」とおっしゃるのです。そして、十字架の犠牲はこの愛の証拠なのです。
私たちのことを「よく知っているけれど、命までは捨てられない人」はいるかもしれません。私たちのことを「知らないけれど、命をかけてくれる人」もいるかもしれません。しかし、「あなたの最悪な部分まで完全に知り尽くした上で、なおあなたを愛し、あなたのために死んでくださったお方。」は、全宇宙でイエス・キリストただお一人です。イエス様に出会ったとき、私たちは初めて心の底から言えるのです。「ああ、この方にならついて行ける。この方は私を太らせて食べるためじゃない。私を生かすために、良い羊飼いとして狼に食べられたのだ。」と。これが良き羊飼いの「羊の信仰」なのです。
三つ目の質問はこれです。イエス様が「単なる」良い羊飼いではないということを、私たちは認識しているでしょうか。
まず、イエス様のこの言葉に対して、群衆の多くがどのように反応したかに注目していただきたいと思います。彼らはこう言いました。 「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」(ヨハネの福音書 10:20)もし、イエス様が「ご自身を犠牲にする良い羊飼いである」と語られたことを、ただ私たちの心を温かく、心地よくしてくれるだけの感動的な話だと捉えているなら、その理解は不十分です群衆はイエス様の言葉をそのようには受け取りませんでしたし、イエス様ご自身も単なる自己犠牲を語ろうとされたのではありません。ここで私たちが聞き取るべき、非常に重要な二つのポイントがあります。
第一に、イエス様は16節でこう語っておられます。
「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれらも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の羊飼いとなるのです。」(ヨハネ10:16)
旧約聖書に読み慣れている方なら、この言葉の背景にあるエゼキエル書34章を思い浮かべるでしょう。エゼキエル書34章で、神様はイスラエルの指導者たち、特に王たちを厳しく告発しておられます。そしてその箇所で、神様ご自身が「自ら羊飼いとなる」と宣言されました(エゼキエル34:11、15)。失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づけ、肥え太った強いものを戒める、と(エゼキエル34:16)。そしてその終わりに、主はご自身の民を一つにまとめる「一人の羊飼い」、すなわち「王」を立てると約束されました(エゼキエル34:23)。
ここでの第一の宣言はこうです。私たちがイエス様を「良い羊飼い」として受け入れることは、イエス様を「私たちの羊飼いなる王(Shepherd King)」として受け入れることなのです。父なる神様こそが大牧者であり、イエス様は私たちを牧するために遣わされた良き大牧者として信じることです。ですから、私たちは、イエス様が私たちを牧してくださる「良き王」としてついていきますか?
第二に、イエス様は17節と18節でこう語られます。
「わたしが自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。わたしは再びいのちを得るために、自分のいのちを捨てるのです。だれも、わたしからいのちを取る者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを再び得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)
旧約聖書において、いのちを与え、また取り上げる権威を持っているのはただ一人、神様ご自身だけです(申命記32:39、1サムエル2:6)。イエス様はここで、ご自身が父なる神様の自己犠牲的な愛の使命を完全に実行しているからこそ、父はご自分を愛してくださっているのだと語っておられます。そして父なる神様は、いのちを自ら手放し、再びそれを取り戻すという、神様の究極的で神聖な権威をイエス様に与えたと宣言されました。これは明らかに、イエス様ご自身が神様であるという宣言に他なりません。 ですから、「良い羊飼い」の話を聞いた後、群衆がこれほどまでに激怒した理由は、まさにイエス様がご自身の神性を主張されたためでした(ヨハネ10:33)。
しかし、このように考えてみてください。羊飼いが「良い」と呼ばれるのは、自分の羊を守ることができるからです。死んでしまった羊飼いは、羊を守ることも、いのちを与えることもできません。だからこそ、イエス様はご自身が神聖な「羊飼いなる王」として信頼に足るもう一つの理由をここで提示しておられるのです。イエス様はこう言っておられるのです。「わたしには、神様の羊を奪い去ろうとする究極の盗人である『死』を打ち破る力がある(第1コリント15:26、54-55)。だれも主の羊をわたしの手から奪い去ることはできない(ヨハネ10:28)。わたしは羊の門であり、一人残らず彼らを守り抜くのだ(ヨハネ10:7-9)」と。
イエス様は十字架で死なれることによって、ご自身の羊への計り知れない愛を証明されました。しかしそれだけではなく、死から復活されることによって、ご自身が私たちを現実に、そして永遠に守り抜くことができるお方であることを証明されたのです。十字架と空の墓から呼びかける、良き羊飼いの声が、私たちには聞こえるでしょうか。もし聞こえるなら、あの盲目だった人のように(ヨハネ9:35-38)、まことの羊飼いの御声を聞き分け、「良い羊」としてイエス様に従っていきましょう。イエス様こそが、死を打ち破り、私たちを永遠に守り導いてくださる、まことの「良い羊飼い」であり、私たちの偉大な王なのですから。お祈りします。
