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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書40章10-17節 |
| さ ん び | Opening Praise | どうしてそこまで You Are My King |
| さ ん び | Praise | 見上げよう神の御座 Behold Our God |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第2戒 出エジプト記20章4-6節)
ヨハネの手紙第一5章21節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ヘブル人への手紙10章17節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌355番
「私の望みは」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書10章22-42節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「たとえわたしが信じられなくても、
わたしのわざを信じなさい」 マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌188番
「主はわが飼い主」1、2、4、6番 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | コリント人への手紙第二9章10節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。家族旅行の途中で車が突然プシューと煙を出して止まってしまって、二人の修理屋さんが来てくれたとします。一人はピカピカの服を着て「私は世界一の修理屋です!信じてください!」と立派なスピーチはするけれど、車には指一本触りません。もう一人は、作業着を油で真っ黒にしながら黙々と熱いエンジンをいじり、あっという間に車を直して「さあ、エンジンをかけて」と言います。皆さんなら、どちらを「本物の修理屋さん」だと信じて安心しますか?もちろん、立派な言葉だけの人ではなく、実際に車を直すという「わざ(行動)」を見せてくれた二人目の人ですよね!私たちが心から誰かを信じて命を預けられるのは、その人の確かな行動を見た時なのです。
実は、今日のヨハネの福音書10章でイエス様がおっしゃりたかったのも、まさにこのことなのです。当時のリーダーたちはイエス様を取り囲んで、「あなたが救い主なら、はっきりと直接的な言葉で言って安心させてくれ!」と詰め寄りました。しかしイエス様は、「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。」と答えられました。目の見えない人を癒やし、私たちのために十字架にかかって復活するという、誰にもできない ものすごい「わざ」を実際に成し遂げてくださったのです。私たちの本当の信仰は、「神様、何か私に直接、安心できる言葉をください。」と待つことではなく、イエス様が歴史の中で実際に成し遂げてくださったこの確かな「わざ」をしっかりと見つめることから始まります。今日はこの事について見ていきたいと思います。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている書物です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くということです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書に登場する証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。
I.秋の光から冬の寒さへ
私たちが先ほど読んだ箇所は、数章前の状況の結論かもしれません。ヨハネの福音書7章から10章の冒頭にかけて、イエス様は「仮庵の祭り」の真っ只中におられました。この祭りはエルサレムが人で溢れかえる、一年で最も活気のある、非常に人気のあるお祭りの一つです。その祭りのクライマックスで、イエス様は驚くべき宣言をされました。「わたしは世の光である」と言われたのです。それは、人々を暗闇から救い出すために神様から遣わされたメシアを待ち望んでいた会衆に対して、ご自身こそがその「光」であるとはっきりと示すものでした。これを聞いた当時の指導者たちは激怒し、イエス様を捕らえて殺そうとしました。
しかし、イエス様はただ言葉で宣言されただけではありません。その直後、ご自身の言葉を証明するかのように、生まれつき目の見えない人を癒すという奇跡を行われました。本来なら、一人の人間が暗闇から光の中へと導かれたというこの出来事を、誰もが共に祝うはずです。ところが、宗教指導者たちはそれを喜びませんでした。彼らが注目したのは、奇跡そのものではなく、イエス様が、人間が作った安息日のルールを破ったことでした。ユダヤ人は、癒された男性に対して「こんなわけのわからない男に従うとは愚かなやつだ。」とののしり、彼を追い出そうとしました。
この時の盲人の答えが、私は大好きです。彼はこう言ったのです。「31 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。 32 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。 33 あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」 (9:31-33) そして、イエス様は「良い羊飼い」であると名乗られ、癒された盲人を守ろうとされました。そして、神様の羊たちを心から守り、彼らのために命をかける真のイスラエル王であることも宣言されました。それに対して、羊を自分たちの私利私欲のために利用し、太らせるだけの宗教的指導者たちについては、羊を食い物にする「盗人」や「強盗」にすぎないと厳しく批判されたのです。これによってさらに大きな対立が生まれ、イエス様は一旦その場を去らなければなりませんでした。
- 再びの対立:モヤモヤするユダヤ人
先ほどの秋の仮庵の祭りから数ヶ月が経ちました。季節は冬になり、エルサレムでは「宮きよめの祭り(ハヌカ)」が行われています。冷たい冬の風を避けるように、イエス様は神殿のソロモンの回廊を歩いておられました。すると、そこにユダヤ人の指導者たちが集まってきて、イエス様を取り囲み、こう問い詰めます。
「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしキリストなら、はっきりそう言ってください。」(24節)「気をもませる」と訳されているギリシャ語を訳すのは難しいですが、「命を奪うような緊張感を与える」といった意味があります。指導者たちはモヤモヤしていて、イライラしているのです。「あなたがはっきり『私はキリストだ』と言わないから、私たちは混乱しているんだ。」と、自分の不信仰の責任をイエス様に押し付けているわけです。
しかし、ヨハネの福音書をここまで一緒に読んできた皆さんなら、彼らのこの言葉を聞いて思わず「やれやれ」とため息をつきたくなると思います。確かに、イエス様は公の場で「私がキリストです」という直接的なフレーズを使ったことはありません(4章のサマリアの女性に個人的に語られた時などを除いては)。しかし、イエス様はそれよりもはるかに重要で、核心を突くようなことを、誰もが聞いている公の場で堂々と語ってこられたのです。少し前の「仮庵の祭り」でのイエス様の宣言を振り返ってみてください。永遠のいのちへと潤す「生ける水」を私たちに与えてくださるお方であること。アブラハムが待ち望んだ存在であり、アブラハムが生まれる前から存在しておられた「大いなる『わたしはある(I AM)』」であること。人々を暗闇から解放する「世の光」である主のしもべであること。ご自身が、エゼキエル書34章で約束された、イスラエルの民を一つに集める「ダビデのような良い羊飼いである王」であること。英語にはこんなことわざがあります。「もしそれがアヒルのように歩き、アヒルのように鳴き、アヒルのように見えるなら、それはアヒルである(If it walks like a duck…)」。イエス様のこれまでの言葉と奇跡という行動は、ご自身が神様の送られたメシアであることを、これ以上ないほどはっきりと証明していました。証拠はすでに山のように示されていたのです。
なぜ彼らはそれでも信じなかったのでしょうか?これはヨハネの福音書全体に流れる大きなテーマでもありますが、イエス様は続く25節と26節で、その理由をはっきりと答えておられます。
「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、 あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。
彼らは「あなたがはっきり言わないからだ。」とイエス様を非難しましたが、イエス様は「いや、言葉も奇跡もすべて見せている。問題は私の語り方ではなく、あなたがたが私の羊ではないことだ。」と、根本的な事実を突きつけられたのです。
そしてイエス様は、ご自身の「羊」に対する素晴らしい約束を繰り返されます。
28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。 30 わたしと父とは一つです。
ここで私たちは、私たちの救いの土台となる非常に重要な真理に直面します。羊は、自分自身の意志や決断で「今日から羊になろう」と選ぶのではありません。父なる神様が、誰が羊であるかを選び、御子であるイエス様に委ねてくださるのです。そして、父なる神と御子イエス様は完全に一つであり、御子はご自分に与えられた羊を一匹たりとも失うことはありません。誰も、イエス様の手から、そして父なる神様の手から、私たちを奪い去ることはできないのです。
III. 羊ではない者たちの反応:石を取り上げる理由
もし、あの生まれつき目の見えなかった人が、今のイエス様の約束を聞いていたなら、間違いなくその場にひれ伏して礼拝したでしょう。しかし、神殿にいたユダヤ人はどうしたでしょうか? 彼らは再び、イエス様を打ち殺そうとして石を取り上げました。数ヶ月前の秋の祭りの時と全く同じ行動です。彼らが「羊ではない」ことはもはや明白です。しかし、この箇所で本当に驚くべきなのは、彼らが石を取り上げたこと自体ではなく、その「理由」なのです。
イエス様は、その理由を彼らの心の内を引き出すように問いかけられます。「わたしは、父から出た多くの良いわざ【奇跡】を、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」。すると彼らは、自分たちの本当の姿を現すような答えを返します。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」
一見、理にかなっているような回答です。ここで、ヨハネの福音書の中でイエス様がこれまで公の場所で行われた奇跡を思い返してみてください。遠く離れた場所から言葉一つで王の役人の息子を癒やし、足の不自由な人を歩かせ、5千人の空腹を満たし、生まれつきの盲人の目を開かれました。イエス様に最も強く反対していて、彼を殺そうとしている敵対者たちでさえ、イエス様がこれらの奇跡を実際に行ったという事実は認めていました。そこには何の疑いもありませんでした。
しかし彼らは、「あなたが神の子であるという主張に対しては、その奇跡は何の重みも持たない。」と事実上言っているのです。彼らの言い分はこうです。「いくら良いわざを行おうが、自分が「神の子」だと言っている時点で、お前は神に逆らう人間であり、サタンのように神の御名を冒涜している。」と。彼らの矛盾、頑なさ、あるいは、考え方の狭さを感じませんか?
そこでイエス様は、彼らに自分自身の矛盾に気づかせるために、少しブレーキをかけられます。イエス様は詩篇82:6を引用して、彼らの「冒涜だ」という非難に反論されました。「聖書は、神の言葉を受けたにすぎない人間の裁判官たちでさえ「神々(エロヒム)」と呼んでいるではないか。」と指摘されるのです。ここでのイエス様の論理はこうです。もし律法が、神の言葉を伝える器にすぎない堕落した人間たちを「神々」と呼ぶことを許しているなら、父なる神ご自身が聖別してこの世に遣わされた方が「わたしは神の子である。」と言ったからといって、どうしてそれを冒涜だと言えるのか?ということです。イエス様は聖書が許している言葉を使われただけなのに、イエス様を殺そうとするとは、一体どちらがおかしいのでしょうか?
そしてその直後、イエス様は核心を突く、強烈な一撃を与えられます。ヨハネ10章37節から38節で、こう言われます。「もし、わたしが父のわざを行っていないのなら、わたしを信じてはいけません。しかし、行っているなら、たとえわたしの言うことが信じられなくても、そのわざを信じなさい。」彼らがイエス様を信じない本当の理由は、どれほど素晴らしいみわざを目の当たりにしても、そのわざを通して「父がイエス様の内におられ、イエス様が父の内におられる」という真理を理解しようとしなかったからです。
- 羊の反応:ヨルダン川のほとりでの信仰
イエス様は、エルサレムの冷たい敵意から逃れ、都市部から離れてヨルダン川の向こう岸へと退かれました。そこは、バプテスマのヨハネが最初に宣教していた田舎の地域です。バプテスマのヨハネは、イエス様の道を備え、イエス様のためにレッドカーペットを敷いた先駆者でしたね。
この場所で、私たちはエルサレムでの出来事とは全く対照的な光景を目にします。そこにいた多くの人々が、イエス様を信じたのです。なぜでしょうか?人々はこう言いました。「ヨハネは一つのしるし(奇跡)も行わなかったが、彼がこの方について語ったことはすべて本当だった。」と。この言葉には、「イエス様は数え切れないほど多くの奇跡を行われた。」という事実が示唆されています。ここに集まっていた人々は、バプテスマのヨハネを、神に忠実で力強い預言者として深く尊敬していました。しかし彼らは、より多くの奇跡と神のみわざを実際に行われたイエス様こそ、ヨハネよりも上位におられる方であるという、結論に達したのです。
この場面について、カルヴァンは非常に鋭い洞察を与えてくれています。神様は、あえてバプテスマのヨハネには一つの奇跡も行わせませんでした。それはヨハネが劣っていたからではありません。神様の教えと結びついた奇跡には、計り知れない重みがあるからです。神様は、ヨハネが奇跡を行わなかったことと、イエス様が数々の奇跡を行われたことを対比させることで、人々の目がはっきりとイエス様に向けられ、イエス様のことばが計り知れない事実であると証明されるように計画されたのです。エルサレムのプライドの高い指導者たちが必死に無視しようとしたその「イエス様のわざの重み」を、このヨルダン川のほとりにいた名もなき羊たちは、しっかりと受け止め、信じました。彼らはまさに、良い羊飼いの声を聞き分ける「羊」だったのです。
今日の聖書箇所から、私たちは生活の中でどのように応答すべきでしょうか。3つの適用を皆さんと分かち合いたいと思います。
まず一つ目に、イエス様の言葉だけでなく、イエス様の「わざ(行動)」をも見て信じるということです。 イエス様はここで、ご自身の言葉だけでなく、父の御名によって行われたその「わざ」を見て信じるようにと求めておられます。時々、私たちは神様に、自分に対して一語一句、具体的な言葉を直接かけてほしいと願うことがあります。「マーク、この道に進みなさい。」「マーク、私はあなたを愛している。」というように。自分の今の状況にぴったりと合う、安心できる直接的な言葉をつい求めてしまい、モヤモヤすることがあります。
しかし、ここで少し弟子たちの立場に立って考えてみましょう。彼らは3年間もの間、イエス様の素晴らしい言葉を誰よりも近くで、毎日直接聞き続けていました。それでも、状況が厳しくなった時、彼らはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。しかし、彼らがイエス様の真の「わざ」を見たとき――反逆する民の罪のために最も苦痛に満ちた屈辱的な死を遂げられたこと、三日目に死から文字通り肉体をもってよみがえられたこと、そして神の右の座に着くために天に昇られたことを見たとき――彼らの信仰の姿勢が変わりました。彼らは困難から逃げるのをやめ、むしろその困難に立ち向かい、イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えたのです。その「わざ」こそが、言葉に重みと権威を与えています。
もし私たちが、その同じキリストの死と復活、そして昇天が、歴史の中で実際に起こった事実であると信じるなら、各々が今直面している人生の障害や困難に対する見方が、どのように変わるでしょうか。私たちがクリスチャンであることは、イエス様が単にカリスマ的な人物だからでも、素晴らしい教えを語ったからでも、あるいは「雰囲気が良かった」からでもありません。キリストの力強い「わざ」という客観的な事実があるから、私たちは信仰に立つことができるのです。
二つ目に覚えていただきたいことは、イエス様の言葉につまずく前に「わざ」を正しく評価するということです。 私たちがイエス様の言葉をそのまま受け入れられないのは、イエス様の「わざ」を過小評価しているからかもしれません。これは、クリスチャンであっても、そうでない人であっても同じです。
もし、あなたがまだクリスチャンではなかったり、信仰に疑いを持っていたりするなら、聖書の言葉を聞いて腹を立て、石を取り上げてそれを消し去りたいと思うことがあるかもしれません。その前に、言葉だけでなく、神様が「何をされたか」に目を向けてほしいのです。たとえば、聖書は神様が無から天地を創造されたと言いますが、ある人はそれをばかげていると思うかもしれません。あのアインシュタインも最初はそう思っていました。彼は、宇宙は永遠に不変の状態で存在し続けていると考えていましたが、自身の一般相対性理論の方程式が「宇宙には始まりがある」ことを示唆したとき、当時の科学的常識と自分の理論を調和させるために、あえて理論を修正しました。しかしその後、宇宙が実際に膨張しているという科学的な発見に直面し、彼は冷酷な事実としてそれを受け入れました。彼にそれを受け入れさせたのは、紙面上の理論ではなく、証拠でした。私たちにも同じことをお勧めします。クリスチャンもユダヤ人もローマ人も、イエス様の墓が空であったことは歴史的に認められています。みな、イエス様がご自身の復活を予告されていたことにも同意しています。その「わざ」を調べ、それが実際に起こったことかどうかを確かめてみてください。宗教指導者のような頑なで、狭い考え方からまず離れてみるのはどうでしょうか。
一方、あなたがクリスチャンであっても、「イエス様は冷たすぎる」「厳しすぎる」と、みことばに不満を抱くことがあるかもしれません。石を取り上げそうになっているあなたに、イエス様は、「わたしがあなたのためにしたこと(わざ)が見えないのか? わたしは地上で生き、あなたに共感できる。あなたが死を味わうことがないように、わたしは十字架で死に、あなたが復活できるようにわたしは復活したのだ」と語っておられます。私たちの怒りや疑問は、イエス様がこの世でされた「わざ」のためでしょうか? それとも、イエス様のことばを誤解したことによるものでしょうか?
最後に覚えていただきたいことは、イエス様の確かな永遠の保証の中で安らぐということです。 もしあなたが、あのヨルダン川のほとりにいた人々のように、イエス様の「わざ」のゆえにイエス様を信じているなら、どうか安心してください。イエス様は決して、誰にもあなたを奪い去ることを許しません。彼のみわざがそれを完全に保証しています。これらすべての圧倒的なわざと奇跡を踏まえた上で、もう一度、イエス様のこの言葉を聞いてください。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」
ですから、この世の「死の陰の谷」を歩んだとしても、盗人やオオカミが私たちのいのちを狙ったとしても、十字架と空の墓というキリストの最大の「わざ」に目を向けてください。あなたを決して手放すことのない、良い羊飼いのその釘跡のある御手の中で、今日も安心して歩んでいきましょう。お祈りします。
