2026年3月29日礼拝 説教 「真の王の祈り」 

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇118篇25-29節
さ ん び Opening Praise 詩篇100
さ ん び Praise 死を打ち破り
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第3戒 出エジプト記20章7節)

ローマ人への手紙2章24節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God テモテへの手紙第一1章13-14節
賛   美 Hymn 詩篇歌51B 51篇(8-14節) 1-3番
聖書朗読 Scripture Reading 詩篇21篇
聖書の話 Sermon 「真の王の祈り」

マーク・ボカネグラ 牧師

賛   美 Hymn of Response 詩篇歌100A
主の献金の招き Lord’s Call to Give コリント人への手紙第二9章11-12節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ 牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ 牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。みんなは、王様ってどんな人だと思いますか? たぶん、「一番偉くて、みんなに命令して、自分の欲しいものを何でも手に入れる人」だと思うかもしれませんね。私たちが王様を歓迎するときは、失礼がないように一生懸命働かなきゃいけない、そんなイメージがあるかもしれません。実際、これまでの歴史上の強いリーダーたちは、自分の力を自慢して、人々を自分のために働かせる人ばかりでした。

でも、エルサレムにロバに乗ってやって来られたイエス様は、そのように威張る王様ではありませんでした。周りにいた人たちは、「この人なら悪い敵をやっつけて、お腹いっぱいパンをくれるはずだ!」と自分勝手な期待をして大騒ぎしていましたが、イエス様が見ておられたのは、もっと大きな問題でした。イエス様は、わたしたちを神様から引き離そうとする「サタン」や「罪」という恐ろしい敵を倒して、わたしたちに本当の「いのち」をくださるために来られたのです。今日は、みんなの期待を裏切ってまで、わたしたちを救おうとされたイエス様の本当の姿をお話しします。

 

毎年この時期になると、私たちはイエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されたことを思い出し、受難週を始めます。聖書を開くと、人々は「ホサナ!」と歌い、ナツメヤシの枝を道に敷き詰めてイエス様を歓迎したとあります。当時のユダヤの人々は、心から「王」を求めていたのです。彼らは「この人なら、今の自分たちの状況をすべて変えてくれるに違いない」と強く期待していました。受難週の本来の目的は、この私たちの「王」をお迎えすることです。まずはそのことを、私たちも心に留めておきたいと思います。

しかし、21世紀を生きる私たちにとって「王」という言葉には独裁者や暴君のような危険な響きがあり、どこか抵抗がありますね。とくに現代の日本に生きる私たちからすると「王様が欲しい!」という群衆の熱狂は、自分たちとは関係のない遠い国の話か、とても世間知らずなものに思えるかもしれません。クリスチャンである私たちでさえ、このエルサレムの群衆の姿を聖書で読むと「なんて愚かで、霊的な目が見えていない人たちなんだろう」と、彼らの「王を求める心」をどこか上から目線で見下してしまうことがよくあります。

ですが、今日のメッセージの前半で皆さんと一緒に見ていきたいのは、あの群衆のパレードがいかに「人間としてごく自然な」姿であるか、そして同時に、それがいかに「危険な」ものであるか、ということです。彼らをただの愚かな群衆として片付けるのではなく、その背景にある生々しい人間の姿に迫ってみたいと思います。

 

  1. 独裁者を生み出すレシピ

歴史を振り返ると、独裁者の台頭は決して偶然ではなく、深刻な社会の苦悩という「煮えたぎる鍋」の中で作られる恐ろしいレシピです。二つの材料があります。

第一の材料:権力者による「究極のすり替え」。独裁者となる者は、傷ついた人々が喉から手が出るほど必要としているもの——パン、平和、秩序、国家の誇り、自由、正義——を約束して権力を握ります。しかし、彼らは嘘をついています。自分が実際にどのように権力を振るうのか、その理想郷を築くために人々にどれほどの代償を払わせるのかという本性を隠しているのです。

第二の材料:群衆による「悪魔との取引」。群衆は決して、ただの可哀想な被害者などではありません。彼らは自ら進んで独裁者を生み出した「共犯者」でもあるのです。強いリーダーを求める彼らの願いは、愚かな衝動ではなく、生き残るための切実で痛切な叫びです。しかし、この苦しい状況を一変させてくれる「救世主」を絶望的に求めるあまり、人々は明らかな危険信号から目を背けます。「私たちの憎い敵を打ち砕いてくれるのなら」と、自らの道徳や良心を喜んで売り渡してしまうのです。どの時代、どの大陸を見渡しても、そこには全く同じ人間のパターンがあります。耐え難い苦難が正義への絶望的な渇望を生み、その絶望が「取引できる救世主」を求めてしまうのです。

フランス革命の血と混乱の街で、民衆は「秩序」を渇望し、ナポレオンの明らかな帝国の野心から目を背けました。第一次世界大戦後のドイツでは、ハイパーインフレと屈辱に打ちのめされた市民が、「国家の誇り」を取り戻すためにナチスの初期の暴力に目をつぶり、ヒトラーを後押ししました。ロシアや中国では、人間としての「尊厳」を求めた農民たちが、絶対的な独裁者を熱狂的に受け入れ、結果として何百万人もが餓死する共産主義を生み出しました。キューバ、ベネズエラ、イラン、そして北朝鮮——深く傷ついた人々が「解放」と「保護」を約束する指導者を支持し、結果として「古い抑圧者を新しい抑圧者にすり替える」という巨大な騙し討ちを許してしまったのです。

紀元1世紀の世界も、まさにこの取引の上に成り立っていました。血みどろの内戦で崩壊したローマ共和国では、恐怖に押しつぶされた民衆がアウグストゥスにすべてを委ねました。彼は「共和制の回復」を約束しながら民主的な制度を奪い取るという、歴史的な「すり替え」を実行したのです。

そして、イエス様が歩まれたユダヤの地は、まさに次の独裁者を待つ「火薬庫」でした。ヘロデ大王の残酷な重税によって人々の生活は完全に破綻し、冷酷な総督ポンテオ・ピラトのもと、ローマの残虐な軍事占領下で苦しんでいました。彼らは「時間をかけた官僚的な改革」など求めていません。今すぐ武力で救い出してくれる「軍事的な救世主」を切に求めていたのです。過激派の「熱心党」はすでに山に身を潜め、ローマの残虐さに暴力で対抗できる、冷酷で強いリーダーを待っていました。

この背景を踏まえ、イエス様のエルサレム入城をもう一度見てみましょう。これは平和的な歓迎パレードではなく、絶望した群衆が新たな独裁者を自分たちの手で立てようとする、緊迫した生々しい現場なのです。群衆が振るナツメヤシの枝——それはかつてマカバイの反乱で外国の占領軍を虐殺した際に使われた、軍事的な勝利と解放のシンボルでした。彼らが叫ぶ「ホサナ(今すぐ救え)!」は、信仰の祈りではなく取引の要求です。自分たちの政治的な欲望を、目の前のイエス様に丸投げしているのです。

考えてみてください。イエス様はこの3年間、一貫して「敵を愛しなさい」「私の国はこの世のものではない」と教えてこられました。しかし群衆は、それを意図的に無視しているのです。彼らが欲しかったのは、ローマを打ち倒す「武器」——それだけです。暴力を使ってでも敵を滅ぼしてくれる暴君を、彼らは自ら作り出そうとしていたのです。今、絶望の中で熱狂している群衆は、完全にイエス様の手のひらの上にあります。首都エルサレム全体が、革命の熱気で揺れています。イエス様は恐るべき力を持っておられます。数千人の軍隊の食料を増殖させ、天候すら操る力。抑圧された人々にとって、彼はローマに対する「究極の兵器」であり、独裁者を生み出す最高の環境でした。

ここで、息を呑むほどの緊迫した問いが突きつけられます。イエス様は、この暴徒たちの要求を受け入れるのでしょうか? 群衆の「正当な怒り」を利用して総督の宮殿に突き進み、王冠を力ずくで奪い取るという、歴史上の権力者がやってきたあの「究極の騙し討ち」を実行するのでしょうか?これは、絶望した民衆が新たな独裁者を生み出すという、あの悲劇的なサイクルの繰り返しに過ぎないのでしょうか?イエス様もまた、過去のすべての暴君と同じように、彼らの弱さにつけ込むのでしょうか?人類の歴史を知れば知るほど、このような疑問を抱くのは自然なことだと思います。

 

  1. 真の王の祈り

しかし、人類の歴史のすべての独裁的な指導者たちと、イエス様を決定的に分けるもの——それは巧妙な戦略でも、正しい革命思想でもありません。その決定的な違いは「イエス様の祈り」の内容にあります。エルサレム入城の真の意味を知るには、王の祈りを見る必要があります。神学者ロバート・ゴドフリー博士は、詩篇22篇が「十字架」、23篇が「復活」の詩篇なら、21篇は「エルサレム入城の詩篇」だと指摘します。群衆の熱狂の中、ロバに揺られながらイエス様が心で祈っておられたのがこの詩篇21篇です。この祈りこそ、イエス様が「嘘つきの独裁者」でも「罪の共犯者」でもない決定的な証拠です。ここで三つの点を比較しましょう。

まず、独裁者の喜びと、真の王の喜びを比較してみてください。歴史上の独裁者たちは、何に「喜び」を感じていたでしょうか? 彼らは自分自身の姿にうっとりし、秘密警察や軍事パレードを見下ろし、民衆の意志を自分の思い通りにねじ曲げることに快感を覚えます。彼らの喜びは「自分がいかに権力をかき集めたか」にあります。ですから、権力に酔いしれ、世界や群衆を騙し、どのような手段を使ってでも、権力をかき集めるのです。

 

しかし、真の王の喜びは全く違います。詩篇21:1『主よ、王はあなたの御力を喜びます。あなたの与えられる勝利を、どんなに喜ぶことでしょう。』イエス様はこうおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。」(ヨハネ5:19)イエス様は、徹底して天の父により頼まれ、ご自分よりも高い権威をはっきりと認められました。それがイエス様の喜びです。ですから、イエス様はそもそも群衆を騙す理由が全くないのです。

人類の独裁者にとって、前の権力者から力ずくで王冠を「奪い取り」、敗北者から奪うのは最高の快感です。しかしイエス様は逆です。誰かから奪い取るのではなく、願っておられることをまず神様に祈り求められます(2節)。イエス様にとっては、主である神様が祈りの通りに「幸いに至る祝福」と「純金の王冠」(3節)を与えてくださることが最高の喜びなのです。独裁者の喜びは、他の人の上に立つことですが、真の王様の喜びは神様に従う事なのです。

 

次に、独裁者の約束と、真の王様の約束を比較してみます。ナポレオンやスターリンは、目に見える「表面的な解決」——土地、パン、憎い敵の首——を約束して群衆の心を掴みました。つまり、独裁者は権力を握るために、群衆の願いをそのまま約束するのです。

しかし、エルサレムの群衆は真の王の約束に何を求めたでしょうか。彼らが求めていたのは、ローマ帝国の滅亡です。神様が素晴らしい約束をしてくださったのに、絶望した群衆は安っぽく現実的な「政治的革命」で妥協しようとしました。しかし、王は決して絶望せず、群衆の突きつける「取引」をきっぱりと拒否されます。イエス様が求められたのは「いのち」です(4節)。単なる政治的な命や寿命ではなく、「とこしえまでの長い日々」——すなわち「死者の復活」です。群衆の目は地上の「宮殿」にしか向いていませんでしたが、真の王の目は、その先の「墓(死の打破)」に真っ直ぐ向けられていました。群衆のちっぽけな欲望を満たし、ご自分が彼らの罪の「共犯者」になることを、イエス様は決して許されませんでした。

 

最後に、独裁者たちが作り上げる見せかけの「揺るがないイメージ」と、私たちの真の王が持っておられる「揺るがない心」を比べてみたいと思います

外から見れば、独裁者たちは無敵の存在に見えます。しかし、彼らの本当の姿は、いつ身内に裏切られるか分からないという極度の猜疑心と恐怖に満ちています。バルコニーから民衆を見下ろし堂々と振る舞う彼らも、実は地下シェルターの中で震え上がっているのです。

たとえば、現代の最も強大な国の指導者—アメリカのトランプ大統領、中国の習国家主席、ロシアのプーチン大統領―のような人物を思い浮かべてみてください。無敵のような存在です。しかし、彼らは、ほんのわずかでも裏切りの疑いがあれば、それがかつての仲間や側近であっても容赦なく切り捨てることで知られています。彼らが見せるあの残酷さは、一見『強さ』のように見えます。しかしそれは、裏切りを許せばすべてが崩壊するという、権力の頂点に立つ者が逃れられない『孤独な恐怖』の裏返しでもあるのです。

 

では、私たちの真の王はどうでしょうか。詩篇21篇7節にはこうあります。『王は 主に信頼しているので いと高き方の恵みにあって揺るぎません。』歴史上、本当の意味で「揺るがない」リーダーはイエス様ただお一人です。そして、これは作られた見せかけの「イメージ」の話ではありません。本当の意味での「心の強さ」のことなのです。

イエス様の揺るがない心は、側近である弟子たちの「忠誠心」や、群衆の「支持率」といった、もろくて移り変わるものの上には立っていません。先ほど、世界の独裁者たちは、裏切りの「疑い」があるだけで容赦なく人を切り捨てるとお話ししました。しかし、イエス様はどうされたでしょうか。ご自分を裏切る者が誰なのかをはっきりと知っておられ、しかもその人物が今、同じテーブルで一緒にパンを食べているというその瞬間にあっても、彼を殺したり、切り捨てたりはなさいませんでした。それどころか、完全な平安の中で、その裏切り者ユダの前にひざまずき、彼の足を洗われたのです。総督ピラトが十字架を突きつけて脅してきても、群衆の「ホサナ!」という歓声が「十字架につけろ!」という怒号に変わっても、イエス様は少しも後ずさりすることなく、まっすぐに激しい戦いへと進んでいかれます。なぜならイエス様は、人間のどんな政治的な駆け引きも及ばない、天の父の「揺るぎない愛」にしっかりと支えられているからです。

ですから、この詩篇の祈りを通して見えてくるイエス様の「喜び」、その「約束」、そして「揺るがない心」は、私たちがこれまで歴史の中で一度も出会ったことのない、全く新しい真の王様の姿をはっきりと示しているのです。

 

III. 激しく戦われる真の王様

では、イエス様はただロバに乗って平和の歌を歌っているだけの、非暴力的な優しい王様だったのでしょうか? いいえ、そうではありません。詩篇21篇の続きを読んでいくと、イエス様が敵に対する容赦のない、激しい裁きを祈り求めておられることがわかります。王の敵を隅々まで探し出してほしいと祈り(詩篇21:8)、彼らが主の怒りに飲み込まれ、燃える炉の中で焼かれるようにと祈られます(詩篇21:9)。さらには、主の放つ弓によって、敵とその子孫までもが完全に地上から消し去られるようにと祈っておられるのです(詩篇21:10, 12)。

 

しかしここで、イエス様が「何に対して」祈っておられるのかを、決して忘れてはいけません。イエス様は、憎きローマ帝国の滅亡を祈られたのではありません。世界を武力で統一するような新しい秩序を求められたのでもありません。イエス様が何よりもまず求めておられたのは、ご自分の民に与える「復活のいのち」でした(詩篇21:4)。そのいのちを阻む本当の敵とは、血肉を持った人間ではなく(エペソ6:12)、ある人が「悪の三位一体」と呼んだもの――つまり、「罪」と「死」、そして「サタン」そのものなのです。詩篇21篇でイエス様が『完全に消し去ってください』と祈られた敵とは、ローマ兵ではなく、この悪の三位一体のことなのです。

少し想像してみてください。この「悪の三位一体」は、一体どのようにして私たちの「復活のいのち」を邪魔しているのでしょうか。「悪の三位一体」が私たちを「絶望の牢獄」に閉じ込められていたようなものです。「サタン」は、私たちの耳元で『お前にはもう価値がない』、『神に愛される資格なんてない』と、ささやき続ける残酷な看守です(黙示録12:10)。そして「罪」は、命の源である神様から私たちを引き離し、自力では絶対に断ち切ることのできない重い鎖となって、私たちを縛りつけています(ヨハネ8:34)。最後に待ち受けているのが、聖書で「最後の敵」と呼ばれている「死」、冷酷に斧を振り下ろす、究極の死刑執行人です(Iコリント15:26)。ですから、私たちは自分の力で、この牢獄から「復活のいのち」をつかみ取ることなど絶対にできないのです。

つまり、イエス様がエルサレムに入城されるということは、まさにこの絶望の牢獄を打ち破るための「戦いへの行進」という意味でした。イエス様は詩篇21篇で激しく祈られた通りに、この受難週を通して、自ら敵を討ち果たされます。十字架に至るまで、罪と死とサタンを激しく追い詰め、戦われました。人間の目には、イエス様が十字架の上で残酷に傷つけられ、無惨に敗北したかのように見えます。しかし、霊的な現実は全くの逆だということを忘れてはいけません。あの十字架こそが、真の王であるダビデが、あの巨大な敵ゴリアテの首を切り落とした瞬間だったのです。

例えば、想像してみてください。愛する我が子が凶悪な誘拐犯に捕らえられ、まさに命を奪われそうな時、その扉を蹴破って、犯人を激しく打ち倒す父親の姿は、単なる暴力でしょうか?いいえ、それは深く燃えるような「愛」そのものです。同じように、イエス様がサタンを打ち砕き、罪を滅ぼし、死という最後の執行人の息の根を完全に止めたあの十字架の激しい戦いは、愛するあなたを何がなんでも取り戻すという、王様の最も純粋で、最も力強い「愛の証」だったのです(ヨハネ15:13)。これが、私たちの王様がエルサレムへ入城された目的なのです。

 

  1. 神の民の賛美と礼拝

真の王イエス様のこの祈り、そして私たちを救うための激しい戦いの行動を見たとき、これから始まる受難週を歩むにあたって、私たちが取るべき応答はただ一つしかありません。私は「さあ教会を出て、イエス様のように立派に生きましょう」という道徳的な教訓を語るつもりはありません。「ただ、イエス様の真似をして頑張る」というような道徳主義によってでは、絶望の牢獄から私たちを救い出すことは絶対にできないからです。受難週は、私たちが自分の行いを反省して「もっと良い人間になる」ための期間ではありません。私たちのために激しい戦いに勝利してくださった王様を、ただ見上げ、礼拝し、賛美するための期間なのです。ですから、「自分もイエス様のように頑張ろう」と肩に力を入れるのではなく、かつてこの王の祈りを聞いた人々と同じことをしましょう。この王の宣言の最後、詩篇21篇13節にはこう書かれています。『主よ、あなたの御力によって、あがめられますように。私たちは、あなたの大能の力を歌い、ほめ歌います。』

 

王なるイエス様は、この狂騒に満ちた世界から、私たちをご自分の民の中に招き入れたいと願っておられます。私たちの心の中に、あの嘘にまみれた独裁者のような自己愛や支配欲が潜んでいるとしても、あるいは、手っ取り早い解決を求めて魂を売ろうとする、あの絶望した群衆と同じような弱さがあるとしても、関係ありません。私たちは、イエス様が打ち砕くために来られた「敵」ではありません。私たちは、イエス様が命懸けで、その血を流してまで救い出しに来られた大切な「民」なのです。この受難週、ただ、この方を私たちの真の王として認め、私たちのために戦ってくださったイエス様を、共に心から礼拝し、ほめたたえようではありませんか。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church