2026年4月5日礼拝 説教 「どうして死者の復活はないと言う人たちがいるのですか」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌150番「主の復活ハレルヤ」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌158番「子羊をばほめたたえよ」

転入式 Membership Transfer

信仰告白式 Profession of Faith

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          コリント人への手紙Ⅰ15章12-19節

聖書の話          「どうして死者の復活はないと言う人たちがいるのですか」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌335番

「はるかにあおぎ見る」

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

   Doxology  教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。葉っぱの上を這っているイモムシが、大空を飛ぶのがどんな気持ちか想像してみてください。私がそのイモムシだったら、「そんなの怖いよ。この葉っぱの上が、僕の全世界だ!大空には全く興味はない。」と思って、一生懸命葉っぱの上で残りの人生を楽しもうと思います。でも、やがてサナギになり、美しい羽を持った蝶々になったらどうなるでしょう?… 空を自由に飛び回り、「あんな狭い葉っぱの上だけが世界じゃなかったんだ!」と気づくはずです。

 

今日の聖書箇所で、パウロは「もし私たちが、この世の人生だけに希望を置いているなら、一番哀れな者です」と語っています。私たちはイモムシのように、この地上の壊れた世界だけがすべてだと思い込んで、復活して新しい命と新しい世界を想像できずにいます。しかしイエス様は、死を打ち破って三日目によみがえり、私たちにも「よみがえりの新しいからだ」という美しい世界を与えると約束してくださいました。今日は、イエス様の復活がどのように私たちの人生を根本から新しくし、本当の自由な世界へ導いてくれるのか、一緒に学んでいきたいと思います。

今日私たちが読む聖書箇所は、紀元50年頃に、使徒パウロによって書かれた手紙です。イエス・キリストの復活から、だいたい20年から25年しか経っていない頃に書かれました。古代の世界において、20年前というのは、本当に「つい最近」の出来事だったと思います。パウロがこの手紙を書いた相手は、コリントという町にある教会でした。コリントはローマ帝国の中でもトップクラスの巨大都市、メガシティです。いろんな考え方が入り混じる文化の最先端を行くような場所で、ローマやアレクサンドリアに次ぐ規模を誇っていました。今の時代で言うなら、東京やロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、ドバイ、シンガポール、あるいは上海のような町を想像してみてください。非常にモダンで、都会的な場所です。

 

そして、今日の箇所を読むとよくわかりますが、このモダンで都会的なコリントのクリスチャンたちは、あることで悩んでいました。それは、彼らにとっては「からだの蘇り」を信じることはとても難しかった、ということです。彼らは、「復活なんて信じなくても、クリスチャンになれるんじゃないか」と考えていました。

しかし、パウロはこのことにひどく心を痛めました。「どうして死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。」と。そして、こう言いました。「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」これは、かなり強烈な言葉ですよね。キリストの肉体の復活を信じないくらいなら、いっそクリスチャンではない方がましだ、とまでパウロは言っているのです。

また、手紙の後半(1コリント15:32)で、パウロは私たちにこのように訴えかけているのです。「もし、私がイエス・キリストの復活を信じていないなら、どうして自分の命を危険にさらし、殺意に満ちた群衆を説得するために、これほどのエネルギーを使っているのでしょうか? もし復活を信じていないなら、みんなと同じように、『どうせ明日は死ぬのだから、ただ飲んで食べて楽しむ生き方のほうがマシだ』と言うこともできるはずです!」と。要するに、パウロが今日私たちに覚えさせたいのは、私たちがクリスチャンになるために、これまで多くの犠牲を払ってきたのはなぜか、その理由を見失ってはいけないということです。それはキリストの復活があるからなのです。

 

今日は、私たちがイエス・キリストの復活を信じない「二つの理由」と、復活が私たちの命を懸けるほど価値のあるものである事の「二つの理由」について、皆さんと一緒にゆっくり見ていきたいと思います。

復活を信じるのを難しくさせる「二つの理由」、まず一つ目は「復活なんて、古代の神話に過ぎない」という考え方です。

私たちはよく、「昔の人は科学を知らなかったから、死者がよみがえるという話を簡単に信じたのだろう」と思い込みます。しかし、神学者N.T. ライトが書いた『神の御子の復活』で指摘しているように、1世紀の人々も、21世紀の私たちと同じように「死んだ体は死んだままである」という事実をよく知っていました。現代のシリコンバレーの大富豪たちが、不老不死のテクノロジーに投資するような夢物語は当時もありましたが、現代と同じように、「一度死んだ者が、自らよみがえる」だなんて、普通は誰も信じていなかったのです。

 

さらにライトは、当時の文化には復活を受け入れる土壌はなく、乗り越えるべき三つの「壁」があったと論じています。 一つ目は「ギリシャ・ローマ文化の壁」。彼らにとって、死は黄泉の国への一方通行であり、使徒の働き17章でアテネの学者たちがパウロをあざ笑ったように、復活などばかばかしい話でした。 二つ目は「ユダヤ教の壁」。将来の復活を信じていた人々でさえ、それは「世の終わりに全員一斉に」起こるものであり、歴史の途中で一人だけポツンとよみがえるという概念はありませんでした。 三つ目は「幽霊の壁」。もし弟子たちがイエス様の「幽霊」を見ただけなら、現代の日本人と同じようにおののき、霊を供養したはずです。「死が打ち破られた!」などと世界中に主張し始めるなんて絶対にあり得ません。聖書を偏見なく読むと、1世紀の人々も現代人のように、最初はイエス様たちのことを冷笑していたことがわかります。

ここで私たちは、「後から生まれた現代の私たちの方が賢い」という「年代的優越感」に気をつける必要があります。実は、1世紀の人々も10世紀の人々も、「自分たちはモダンで新しい」と思っていました。現代の私たちは、ちょっと違う服を着てかっこいいスマートフォンを持っているだけで、人間の考え方自体は昔から驚くほど変わっていないのです。

復活が信じられないもう一つの理由、それは「科学的に不可能だから」というものです。多くの人が科学を理由に復活を否定しますが、もし「科学的確率」を理由に復活を排除するなら、「生命の誕生」や「この宇宙の存在」にも同じ厳しい基準を当てはめなければフェアではありません。

たとえば「地球に生命が誕生する確率」。無神論者の物理学者フレッド・ホイルは、細胞に必要な酵素が偶然集まる確率を「10の4万乗分の1」と計算しました。それは、0.のあとに0を4万回書き続けて、ようやく最後に1がひとつ現れるという、人間の想像を絶するほど小さな、奇跡のような確率なのです。ホイルは、これを「竜巻がガラクタ置き場を吹き抜けた後、偶然、飛行機のボーイング747が組み上がっている確率と同じだ」と表現しました。しかし、いろんな生物学者がホイルの計算と例えが間違っていると長年批判しましたが、2011年に生物学者ユージーン・クーニンが「10の1018乗分の1」と計算を修正しました。つまり、0.のあとに0を4万回ではなく、1018回なのです。ホイルは大きく間違ってかもしれませんが、物理学において「実質不可能(ゼロ)」とされる基準は、「10の150乗分の1」です。つまり、0.のあとに0が150回あれば、実質「0」なのです。つまり、再計算しても、偶然地球で生命が生まれる可能性は、実質ゼロです。

 

次に、「この宇宙が創られる確率」についても見てみましょう。無神論者のノーベル賞物理学者ロジャー・ペンローズは、私たちの宇宙がビッグバンを通して、生命が存在できるほどの絶妙な秩序を持ってスタートする確率を、「10の10の123乗分の1」と計算しました。これは「0.」のあとに、宇宙にあるすべての原子一つ一つに「0」を書いていったとしても、書ききれないほどの途方もない数字です。想像するのは難しいですが、「ペンローズ宝くじ」に例えてみましょう。宇宙全体にはおよそ10の80乗個の原子がありますが、その中から、あらかじめ「赤」に塗られたたった一つの原子をピタリと引き当てるとします。しかも1回当てるだけではダメです。1秒間に1兆回という猛スピードで、宇宙の寿命である138億年間、休まず連続で「赤の原子」を引き当て続けなければなりません。それでも、ペンローズの数字には全く届かないのです。宇宙の寿命の何兆倍、さらに何兆倍の時間をかけて引き続けて、ようやく並ぶほどの数字です。これほど想像を絶する確率を乗り越えて存在しているのが、私たちが今生きている、この宇宙なのです。

これほどの「不可能」を前に、科学者は創造主なる神様を信じるでしょうか? ほとんどの科学者は信じません。簡単に例えて、彼らはこう言います。 誰かがサイコロを振って1000回連続で「6のゾロ目」を出したとします。普通なら「サイコロに仕掛けがある」と思いますが、科学者は「無限の宇宙があるので、どこかで偶然ゾロ目が出続けるのは、運がいいというよりも必然なのです。私たちはたまたまその宇宙にいるだけなんです。」と主張するのです。皆さんならどう答えますか?私だったら「あなたは物理学の天才か、サイコロに仕掛けがあることを頑固に信じたくない人なんですね。」と答えると思います。

結局のところ、生命の起源も宇宙の起源も「実質的にゼロ」の限界を超えているのです。だからこそ、無神論の科学者もクリスチャンも、誰もが「どこかに自分の信仰を置く」のです。すべては「無限の宇宙が偶然生み出した」と信じるか、それとも「無限の神様が意図的に創造された」と信じるかの違いです。

 

ですから、私はこう言いたいです。科学者たちがこれほどの途方もない「奇跡」を信じているのなら、私たちクリスチャンが「キリストの復活」という奇跡を信じることを、恥ずかしく思う必要は全くありません。「現代的じゃない」「科学的じゃない」という、2000年も続く古い嘲笑を恐れないでください。

しかし、「復活」を否定する理由がなくても、命を懸けて信じることは全く別のことです。例えば、私は、徳川家康が日本を統一させて、江戸幕府を始めたという事や、全ての物事がビッグバンから始まったという事などすごい真実を信じていますが、命をかけるほどの真実ではないですよね。パウロは「からだの蘇り」が、私たちが人生を懸けるほどの真実だと、主張しています。今日の聖書箇所から、二つの理由がわかります。

イエス様は、この世のいのちではなく、真のいのちのために復活されたのです。

まず、1コリント15章19節を見てください。ここには、パウロが伝えたい「私たちが復活を信じる第一の理由」が、実に鋭い言葉で凝縮されています。 「もし私たちが、この世のいのちにおいてのみキリストに望みを置いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」

 

パウロがここで言おうとしているのは、こういうことです。もし「からだのよみがえり」を信じないで、イエス様を信じたのなら、あなたにとって、神の御子であり、全知全能であるイエス様が、わざわざこの地上に来られ、あの残酷な十字架で死に、三日目によみがえって天に昇られた理由は、「この世のいのち」をちょっとマシにするためだけに来られたということを信じていることです。しかし、イエス様が私たちのために蘇ってくださった理由は、「素敵な結婚相手に出会うため」とか、「理想の家庭を築くため」ではありません。あるいは「子供がいい大学に合格するため」でも、「夫婦のちょっとしたイザコザを解決するため」でも、「安心できる老後の蓄えのため」でも、「心の平安をもてるため」でもないのです。もしそうだったら、それは復活の圧倒的なパワーの無駄遣いです。例えるなら、世界一の天才数学者を最低賃金で雇って、幼稚園児の「くもん」の足し算の丸付けをさせるようなものです。パウロは、復活されたイエス様をそんな風に「この世の人生の便利屋」としてしか見ていない人は、世界で一番かわいそうな人だと言っているのです。

でも皆さん、ここで正直になりましょう。私たちも、ついそんな風にイエス様を見てしまうときがないでしょうか。なぜなら、私たちはこの「今の人生」が大好きですし、これ以上の喜びなんて、正直なところ想像もできないからです。しかし、キリスト教の前提は、全く違います。どれほど社会が進歩し、豊かになったように見えても、この地上の人生「だけ」に希望を置く事は、自分が持っている全財産をはたいて、すぐになくなってしまったり、すぐに腐ってしまう超高級メロンのためにすべてを注ぐようなものだと知っているからです。そして、この世の人生はただ「はかない」だけではありません。それは根本的に壊れており、腐敗しています。今の世界を見渡してみてください。絶え間ない戦争、政治の汚職、終わらない貧困、そして不条理な不正義があふれています。そして、私たちの身近な日常はどうでしょうか。自分の心の奥底でフツフツと煮えくり返る怒りや苦々しさ。他者の冷たい無関心や容赦ない批判、残酷な噂話。深く傷つけられた暴力的な言葉や振る舞い。弱肉強食な社会にいる孤独感。冷酷に自分の愛する人を苦しめる病気……。皆さんも感じていると思いますが、正直に言って、この世界はかなりひどい場所です。どちらかというと、この世界は天国よりも、地獄に近いのではないかと、思える程酷い場所です。

 

CSルイスは、『天国と地獄の離婚』という著書の前書きでこう書きました。

計算の誤りは正すことができます。しかしそれには、間違いの箇所まで遡り、そこからもう一度やり直すしかありません。ただ闇雲に先へ進めても、決して正されることはないのです。悪は元に戻すことはできても、善へと「発展」することはありません。時間が解決してくれるわけでもないのです。 究極的には、やはり「二者択一」なのです。

地獄を(あるいはこの地上であっても)手放すことができないと 固執するなら、天国を見ることはできないでしょう。逆に、天国を受け入れるのであれば、地獄のどんなに小さな、どんなに愛着のある「思い出の品」であっても、手元に残しておくことは許されません。では、この地上はどうなるのか、とあなたは問うかもしれません。もし天国を差し置いてこの地上を選ぶなら、そこは初めから地獄の一画にすぎなかったことが判明するでしょう。

イエス様が復活された本当の理由は、この世の罪や悪、悲しみや痛みを「少しずつ改善して、だんだんと天国に近づけていくため」ではありません。あるいは、今のこの世界の生活が「ただ永遠に続く」ということでもないのです。そうではなく、イエス様はご自身の十字架と復活を通して、すべてを根本から新しく造り変えてくださいます。この世界をまるで「地獄」のように暗く、苦しいものにしてしまっている要素――聖書の言葉で言えば「罪の腐敗」ですね――それを完全に取り除き、私たちに全く新しい「よみがえりのからだ」を与えてくださるのです。

 

ですから、今の「この世の命」を懸けて、「からだの蘇り」を待ち望むことは、長年すがりついていた、色あせて破れかけた「愛する人の写真」を捨てて、生きて呼吸している「愛する人ご本人」へと走り始めるようなことです。これは「命を懸ける」ようなリスクではないのです。「喪失」も一つもありません。これは真のいのちを選ぶことです。イエス様は、この世のいのちのためにではなく、その真のいのちのために、蘇ってくださったのです。これが命を懸けて、「からだの蘇り」を信じる一つ目の理由です。

 

イエス様は、私たちにご自分と全く同じ「からだのよみがえり」を与えてくださるのです。パウロは1コリント15:13で「私たちが復活を信じる第2の理由」をこう語ります。「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」

 

もし私が「自分のからだの蘇りは必要としていません」と答えたら、パウロ先生はため息をついてこう言うと思います。 「マーク。イエス様はご自分のために十字架にかかって、蘇えられたのだと思いますか? 神の子であるイエス様に『からだの蘇り』は必要ありません。イエス様の蘇りは『あなたのための蘇り』なのです。だから、自分の蘇りを否定することは、イエス様ご自身の蘇りを否定することになるんですよ!」と。

イエス様のご生涯について私たちが心に留めておくべきことは、それが単なる「彼自身の人生」ではなく、「私たちのための人生」であったということです。イエス様がこの地上に下ってこられたのは、腐敗し、悪に満ちた私たちのはかない世界を、完全に体験して私たちの代表となり、深く理解してくださるためでした。十字架で死なれたのは、私たちの罪のためであり、私たちが負っていたすべての負債を完全に支払い終えるためでした。そして三日目によみがえられたのは、私たちが栄光のからだを受け取れるように、ご自身が私たちのすべての義務を、従順に、そして完璧に果たしてくださったからです。さらに、人間として天に昇り、神の右の座に着かれたのは、私たちもまた人間として、神の子として、神の御座に座るためなのです。イエス様が受け取られたすべてのもの――その復活も、昇天も、報いも、王座も、栄光も、そして父なる神様との親密な関係も――すべては、そのまま私たちのものなのです。

私たちが使徒信条で「からだのよみがえりと、とこしえのいのちを信じます」と告白するとき、それは「イエス様と全く同じ『からだのよみがえり』と『永遠のいのち』を、自分も味わうのだ」と宣言していることになります。例えるなら、素晴らしいコンサートの「一番後ろの安いチケット」の話ではありません。私たちは、まるでそのホールの「オーナー」のように天国を味わうのです。最高の特等席に座り、主役であるアーティスト――神様ご自身――の元へいつでも行けるVIPアクセスも与えられています。私たちはただ「天国に入れてもらえる」だけではありません。イエス・キリストが天国を楽しんでおられるのと全く同じように、私たちも天国を心から楽しむ特権が与えられているのです。

このように考え始めると、私たちの見ている世界は根本から変わってきます。C.S.ルイスが表現したように、私たちが現在の人生で経験できる「すべての喜び」を宇宙ごと集めてきたとしても、それは天国でイエス様が味わっておられる圧倒的な喜びの「ほんの小さなひび割れ」の中に収まってしまうのです。だからこそ、この復活の真理は、私たちの命を懸けるだけの絶対的な価値があるのです。

 

最後に皆さんにお聞きします。あなたはこの真理に、自分の命を懸けているでしょうか。 親として、子どもとして、夫や妻として、あるいは友人として、あなたの毎日の優先順位や行動は、「からだのよみがえりと、とこしえのいのち」に命を懸ける価値があることを表しているでしょうか。パウロと一緒に、「もし私たちが、この世のいのちにおいてのみキリストに望みを置いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」と、心から言えるでしょうか。 もちろん、簡単なことではありません。難しいです。だからこそ私たちは、毎週日曜日にこうして教会に集まり、キリストの復活を一緒にお祝いし、確信を新たにするのです。もし、あなたがまだイエス様を信じていないのなら、イエス様のこの「よみがえりのいのち」が、自分のすべてを懸けるに値するかどうか、ぜひ来週も一緒に考えてみてはどうでしょうか。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church