2026年4月12日礼拝 説教 「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ペテロの手紙第一1章3-5節
さ ん び Opening Praise 新しい命
さ ん び Praise 希望の歌
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第4戒 出エジプト20:8-10a)

イザヤ書58章13-14節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ローマ人への手紙4章5-8節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌130番 「ひとりの御子さえ」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書11章1-27節
聖書の話 Sermon 「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌353番 「あなたこそ我がのぞみ」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ピリピ人への手紙4章17-19節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ 牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ 牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。小さな種を土に埋めたことはありますか?種を真っ暗な土の中に埋めると、何も見えなくなり、まるで死んでしまったように見えます。「もうおしまいだ」と思って、何日待っても何も起こりません。でも、私たちが寝ている間も土の下では命の準備が進んでいて、やがて美しい芽を出します。今日の箇所で、マルタたちは愛する兄弟の死という「真っ暗な土の中」で絶望し、神様は何もしてくれないように感じていました。自分の人生の中で、失敗、挫折、死と向き合うときに、私たちも同じように感じることがあります。しかしイエス様は、その暗闇の中でこそ「わたしは復活であり、いのちである」と宣言されます。私たちの人生に新しく永遠のいのちを与えてくださる方です。そして、それを信じることができれば、自分が暗闇にいたとしても、活き活きと生きる事ができます。今日は、イエス様が私たちの悲しみや絶望の暗闇を、どのようにして「復活の希望」へと変えてくださるのかを一緒に見ていきたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている書物です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くということです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。私たちは今から、前半の「しるし(奇跡)の書」と、後半の十字架へ向かう「栄光の書(受難の書)」をつなぐ11章に入ります。ここに記録されているのは、最後にして最大のクライマックスとなる7番目の「しるし」です。ヨハネの福音書に登場する証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。

 

  • 予期せぬ知らせ

この箇所は、イエス様がエルサレムから離れ、ヨルダン川の向こう岸におられた時のことです。ベタニヤにいる友人たちから、ラザロが重い病気にかかったという知らせが届きます。ベタニヤは、エルサレムから歩いて3キロほどのところにある小さな村です。ここで、マルタとマリアの使いの者はこう言いました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエス様がラザロや二人の姉妹と特別な友情で結ばれていたことは明らかです。

しかし皆さん、少し前の10章でイエス様がおっしゃったことを思い出してみてください。イエス様はご自分の羊について、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネ10:28)と言われました。もしイエス様が有言実行の方、約束を守る方であるなら、このラザロが滅びるようなことがあってはならないはずです。ですから、ここは当然、イエス様がすぐに行動を起こすはずの場面です。走ってラザロのもとへ駆けつける瞬間です。

ところが、イエス様はどうされたでしょうか?「この病気は死で終わるものではない」と言われました。それはまるで、ステージ4のすい臓がんで余命1ヶ月と宣告された人に、「ああ、この病気では死なないよ」と言うようなものです。そして、イエス様はその後に、とても謎めいた言葉を付け加えます。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」もちろん、結末を知っている私たちは、これがラザロの復活と、イエス様ご自身の復活を指していると分かっています。しかし、その場でこの言葉を聞いた人たちにとっては、愛する人を亡くして悲しみのどん底にいる人に向かって、「すべてのことは益となるんですよ」と、まるで、空気を読まずに言ってしまう牧師の言葉のように聞こえたことでしょう。きっとその場にいた誰もが、ギョッとして戸惑ったはずです。そして、その後イエス様はどうされたでしょうか?二日間そこにとどまり、何もされませんでした。「え!オオカミやクマと戦ってくれる「良い羊飼い」はどこに行ってしまったのでしょうか?羊のために自分の命を投げ出す「良い羊飼い」はどこにいるのでしょうか?」と驚くのは当然です。

私たちも、人生の深い試練の中を通らされている時、すぐに助けが来ないと、まさにこのように感じます。詩篇77篇7節から9節にあるように、「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう二度と、恵みを示してくださらないのだろうか」と、暗闇の中で思わず叫びたくなるような瞬間が、私たちの人生にもあります。

 

  1. 良い羊飼いが出動する

それでもイエス様は間違いなく「良い羊飼い」です。しかし、私たちが望むスケジュールや、私たちの計画通りに動いてくださるわけではありません。イエス様は突然、「もう一度ユダヤに行こう」と言われます。ユダヤとは、ベタニヤがあるエルサレムの周辺地域のことです。これを聞いた弟子たちは慌ててこう言います。「先生、ユダヤ人たちがついこの間、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこへ行かれるのですか。」忘れてはならないのは、そもそもイエス様がヨルダン川の向こう岸に避難しなければならなかった理由です。それは、人々が石を投げてイエス様を処刑しようと殺意を持って待ち構えていたからです。ここでわかるのは、弟子たちは確かにラザロのことを気にかけてはいましたが、自分の命を危険にさらしてまで助けに行こうとは思っていなかったということです。彼らもまた、羊のために命をかけない「雇い人」のような状態だったのです。

では、弟子たちの言葉に対してイエス様はどう答えられたでしょうか。ここでイエス様は「昼の光」について少し謎めいたことを言われます。色々な解釈ができますが、イエス様が言いたかった最も確かなメッセージはこうです。イエス様の頭の中で昼の光である「世の光」とは誰のことでしょうか?ご自分のことです。つまりイエス様は弟子たちにこう言っておられるのです。「世の光である私が一緒にいる限り、あなたがたは暗闇でつまずくことはない。私と一緒なら安全だ。あの殺意に満ちた群衆の中に入って行っても、私が良い羊飼いとしてあなたたちを必ず守るから。」10章で癒された盲人を命を懸けて守られたように、イエス様はまた命を懸けて良き羊飼いとして出動し、ご自分の羊を守ろうとされます。

この時のトマスの反応は非常に印象に残りますね。彼はこう言いました。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」私は 何年もの間、トマスがここで不信仰によって、投げやりで臆病な態度をとっているのだと思っていました。しかし、ヨハネの福音書をゆっくりと読み進め、イエス様に向けられた人々のあの怒りや恨み、悪意について深く考えてみると、トマスの気持ちが痛いほどよくわかります。イエス様にとって三度目の石打ちをしようと待ち構えている群衆の前に、のこのこ出かけていくなんて、誰も絶対に行きたくないはずです。しかし、彼らは怖かったにもかかわらず、イエス様について行きました。そうです、彼らは心底怖かったのです。それでも、迷い出た一匹の羊を救うために歩みを進める自分たちの「良い羊飼い」を、彼らは信頼してついて行ったのです。

 

III. マルタの苦しみ

イエス様がベタニヤに到着された時、ラザロが死んでいることは誰の目にも明らかでした。彼はすでに四日間も墓の中にいました。完全に死んでいたのです。さらに、彼の死には大勢の目撃者がいました。マルタとマリアを慰めるために、たくさんのユダヤ人たちがエルサレムから集まって来るという非常に公の出来事でした。そして、イエス様がベタニヤに近づいて来られた時、マルタは自分からイエス様を迎えに行きます。

マルタは、イエス様にお会いして最初に何と言ったでしょうか。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」彼女は何を言おうとしているのでしょうか。本心では、イエス様にもっと早く来てほしかったのです。「もし、あなたがいてくれたら…」彼女の言葉はとても丁寧で礼儀正しいです。しかし、マルタの心の中は、深い悲しみで「ぐちゃぐちゃ」になっているのが痛いほど伝わってきます。その悲しみは、単に弟が死んだことだけから来ているのではありません。主が助けてくださるという希望を持っていたからこそ、それが叶わなかった時、イエス様に裏切られ、見捨てられたように感じて ショックを受けていたのです。しかし、彼女は、イエス様があえて待たれたことを知りませんでした。イエス様がそうされたのは、弟子たち、そしてマルタ、マリア、ラザロを含めたみんなが、キリストの復活をより深く信じるためだったのですが、彼女にはそれが分かりませんでした。私たちも、自分の苦しみの本当の意味が分からないという、同じような状況によく置かれます。

 

それでも、彼女の二つ目の言葉はさらに力強いものです。これほどの悲しみと失望の中にありながら、彼女は信じられないようなことを口にします。こんな最悪の状況でも、イエス様の祈りは父なる神様に届くのだと。イエス様が願えば、神様は与えてくださると言ったのです。この後の会話からもわかる通り、彼女はこの時、まさかイエス様がその場でラザロを生き返らせてくださるとは全く思っていませんでした。それでも、イエス様が祈れば何でもおできになると知っていて、神様への「信仰の扉」を少しだけ開けたままにしておいたのです。イエス様は、そんなマルタの言葉を信仰が足りないと叱ったりはされません。むしろ、彼女の信仰をさらに深めるような形で、あえて、完璧に曖昧な答え方をされるのです。

 

  1. イエス様の復活

「あなたの兄弟はよみがえります。」そう言われたイエス様に対して、マルタは「はい、終わりの日のよみがえりは信じています」と答えました。実際のところ、マルタはとても優秀な弟子でした。イエス様はこれまで何度も「終わりの日のよみがえり」について語ってこられ、「私こそが、その終わりの日に死者をよみがえらせるのだ」と繰り返し主張してこられました。マルタは、イエス様がこれまで教えてこられたその真理を信じ切っていたのです。しかし、イエス様がその場でラザロを蘇らせて下さるなんて考えもしなかったと思います。ユダヤ教には、そのような教えは全くありませんでした。

イエス様がここでマルタに語られた言葉は、彼女の想像をはるかに超えるものでした。イエス様の言葉は、マルタへの一つの「答え」であると同時に、それ以上のとてつもない真理を宣言するものでした。イエス様はこう言われました。「わたしは復活であり、いのちです。」 皆さん、イエス様は「いつか復活の日が来る」とも「私は復活になる(I will)」とも言われませんでした。「今、目の前にいる私が復活である(I am)」と告げておられるのです。つまり、復活とは遠い未来の出来事ではなく、今ここで私たちがすでにあずかることのできる「現実」なのです。

では、「わたしは復活であり、いのちである」とは、具体的にどういう意味でしょうか。イエス様は続く二つの言葉で、とてもシンプルに、かつ非常に深く説明しておられます。まず一つ目です。「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」 神学者のリデルボスが指摘しているように、イエス様を信じたからといって、人間がスーパーマンのように不老不死になるわけではありません。イエス様を信じても、肉体の死、そのものがこの世から消え去るわけではありません。そうではなく、信じたその瞬間から、私たちは「死の力」の支配下から抜け出すということです。つまり、信じる者は、死が持っているあの絶望的な「棘」に怯えることなく、生きることができるようになるのです。

 

そして、イエス様は続けてこう言われます。「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」 ここで言われている「いのち」や「復活のいのち」は、マルタが信じていたように「世の終わりの日」になってようやく始まるものではありません。それは、マルタとラザローそして、私たちーがイエス様を信じた「その瞬間」からすでに始まっているのです。

イエス様はこれより前のヨハネの福音書5章(24-25節)で、このように語っておられました。 「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持っています【『将来持つ』のではなく、今すでに持っているのです!】。さばきにあうことがなく、死からいのちへと移っています。【いつ移ったのでしょうか?信じたその瞬間です!】 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。【世の終わりの再臨の時ではなく、今です】そして、聞く者【信仰をもって聞く者】は生きるのです。」

ジャン・カルヴァンはこの真理を力強く語っています。神様から離れた私たちは、たとえ息をして活動していても「魂が死んだ」状態であり、そのままでは滅びに向かって歩いているに過ぎません。しかし、キリストを信じる時、私たちの内に圧倒的な「霊的な復活」が起こります。信仰とは、単なる考え方の変化ではありません。死んでいた魂に聖霊が命を吹き込み、再び神様のために生きる者へと生まれ変わらせる、まさに「死人が歩き出す」ような奇跡なのです。

また、もう一人の神学者(リデルボス)が表現しているように、「イエス様はここで、復活とそれに伴うすべての希望を、ご自身という人格と、信じるという信仰に集約された」のです。私たちが、将来やってくる永遠の死、そして今この現実の生活の中で経験している霊的な死から逃れる方法は、他にはありません。ただ、イエス・キリストというお方を信じること以外にはないのです。 イエス様は、これらすべてのとてつもない真理を、たった二つの短い文章に込めてマルタに語られました。

この壮大な話を、マルタはすべて理解できたのでしょうか? 彼女はこう答えます。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」正直なところ、彼女がすべてを理解できていなかったことは明らかです。でも皆さん、ここが「信仰」の素晴らしいところなのです。信仰とは、与えられるものを「完全に理解する」ことではありません。イエス様が誰であるかを「隅々まで把握する」ことでもありません。また、これから何が起こるかという「絶対的な確信」を持つことでもないのです。

信仰とは、信頼、理解、確信の「始まり」です。マルタの心の声はおそらくこうだったでしょう。「主よ、あなたがご自身のことを『復活であり、いのちだ』とおっしゃった意味は正直よくわかりません。それが、死んでしまった弟とどう関係するのかもわかりません。でも、私は、あなたがこれから来られる方、神の子、メシアであることだけは信じています。」

すべてを決定するのは、このイエス様への「信仰」なのです。マルタにとって、イエス様がラザロの死を防いでくれなかったというその悲しい事実でさえも、この信仰を奪い去ることはできませんでした。この福音書を読んだ人々にとって、マルタの姿は、「イエス様の『わたしはある(I am)』という言葉の本当の意味をまだすべて理解していなくても、それでも主を信じ抜いた人々」を間違いなく代表するものだったのです。

 

この箇所から私たちが日々の歩みの中で覚えていただきたい三つのポイントを確認して終わりたいと思います。

はじめに、良い羊飼いの「遅れ」は、私たちの信仰を確かなものにするための神様のご計画であるということです。人生の最も暗い谷を歩み、神様が沈黙しておられるように感じる時でも、私たちは決して見捨てられたわけではありません。むしろ、備えられているのです。イエス様はご自身が「世の光」であり、従って歩む者はつまずくことがないと弟子たちに教えられました。これは、私たちがこの世の苦しみや肉体の死から免除されるという意味ではありませんし、良い羊飼いが私たちのパニックに合わせたスケジュールで動かれるという意味でもありません。主は、私たちの目先の快適さよりも、私たちの霊的な命を最優先にして物事を動かしておられるのです。危篤だったラザロ、パニックに陥った弟子たち、そして失望したマルタを思い出してください。彼らは皆、羊飼いに忘れられたように感じていました。しかし、イエス様が遅れて来られたのは、愛が足りなかったからではなく、ご自身の力をさらに偉大な形で現すための余白を作っておられたからです。私たちが苦しみの中で痛ましい神様の沈黙を感じる時、そのタイミングは決して「無関心」のしるしではなく、私たちの最高の益のために、神様の栄光が意図的に展開されている過程なのだということを覚えていてください。

次に、真の信仰とは、完璧に理解することではなく、救い主を信頼し始めるということにあると理解してください。将来の肉体の復活を経験する前に、私たちはまず「霊的な復活」という奇跡を経験しなければなりません。それは、死んで罪の中にあった心が、新しく生かされるという奇跡です。この霊的な新生こそが、羊飼いにとっての最優先事項です。なぜなら、主への信仰こそが永遠のいのちの唯一の源だからです。そのために、主はあらゆる状況を用いて——たとえそれが私たちの最も深い悲しみであったとしても——私たちの信頼を主ご自身だけに向けるようにされるのです。しかし、これを「一点の曇りもない完璧な確信を持たなければならない」と誤解しないでください。救いに至る信仰とは、神学的な完璧さの中にあるのではなく、未知の状況の中にあってもキリストを信頼しようとする、その勇敢な心の姿勢にあります。恐れを抱きながらベタニヤへついて行ったトマスや、閉じられた墓の前で涙を流しながらも復活を告白したマルタを考えてみてください。彼らは混乱の中にあっても信じました。彼らと同じように、私たちも今、歩んでいる道のその先がどうなっているのか見えないかもしれません。しかし、私たちと一緒にその道を歩んでくださるお方がどなたであるかを知っており、その方に信頼することができるのです。

 

最後に、イエス様にある「復活」は、私たちにとって今ここにある現実であり、約束された絶対的な勝利であるという真理に生きることです。キリストは、ご自分の羊に「死から逃れること」を約束されたわけではありません。しかし、死に対する「絶対的な勝利」を保証しておられます。私たちは確かにこの世で痛みを経験し、死に直面します。しかし、もはや死の恐怖に奴隷のように縛られて苦しむことはありません。私たちはすでに物語の結末を知っている者として苦難を通るのです。復活とは、未来のカレンダーにある遠い出来事ではありません。私たちは信仰によってキリストと結び合わされている故に、今この瞬間にも、現実として、すでに、永遠のいのちを持っているのです。恐れおののきながらではなく、決して揺らぐことのない真理に立った希望を持って、死の支配から解放された者として、今ある暗闇と向き合うことができるのです。今週のそれぞれにある暗闇と向き合う前に、もう一度イエス様のお言葉を聞きましょう。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」お祈りします。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church