2026年4月19日礼拝 説教 「相続のお悩みですか?」

礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。

For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.

 

礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ヨハネの福音書1章9-13節
さ ん び Opening Praise 偉大な神

How Great Is Our God

さ ん び Praise キリストにあって

Yet Not I But Through Christ In Me

開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第5戒 出エジプト記20章12節)

コロサイ人への手紙3章20節-4章1節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ローマ人への手紙8章15-17節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌118番 「丘に立てる荒削りの」1-3番
教会学校 教師任職式 Sunday School Teacher Installation Service
聖書朗読 Scripture Reading ガラテヤ人への手紙3章23-29節
聖書の話 Sermon 「相続のお悩みですか?」

呉載炫教会主事

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌365番

「主イエスの救いを信じる喜び」1、3、5番

主の献金の招き Lord’s Call to Give レビ記27章30節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ 牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ 牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

私は最近、Facebookであるアカウントを見かけました。「ユダヤ系クリスチャン」と自称する方のアカウントでしたが、その方のフィードには如何にユダヤ人が選ばれた優れた民族であるか、近現代のユダヤ人の歴史、文化、教会の中で旧約聖書の祭り事をお祝いする様子などが毎日のように投稿されていました。

いくつか画像や動画も見ましたが、たくさんの日本人がユダヤ宗教の帽子を被ったり、一生懸命にイスラエルの国旗を振ったりしながら歌って踊っていました。まるで、「クリスチャンがどうしてイスラエルを愛さなければならないのか」を宣伝するアカウントのようでした。ご安心ください。私はいま政治的な話をしようとしているわけではありません。

私はすごく奇妙に感じたのですが、この話を聞いた皆さんはいかがですか?驚きましたか?私たちはイスラエルを支持して、自分自身と家族、自分の教会よりイスラエルの祝福を真っ先に祈らなければなりませんか?ユダヤ人のような衣服を着て、礼拝の中で角笛を吹いて、旧約聖書の祭り事を祝わなければなりませんか?

この方々がこのように頑張って、ユダヤを取り入れようとしているのはどうしてでしょう。彼らはそれが祝福に与る道だと思っているのでしょう。では、神様の祝福に与るために、私たちもユダヤ人のようにならなければならないのでしょうか。

この問いについて、ガラテヤ人への手紙は何と言っているのでしょう。パウロははっきりと否定します。今日は先ほどお読みした箇所から、次の三つのことを共に考えたいと思います。

一つ目は「養育係の役目」です。律法は養育係だったと言いますが、その役割について確認します。二つ目は「養育係からの自由」です。キリスト者の存在について考えたいと思います。三つ目は「真の相続人」です。これは誰のことなのかを見てみましょう。

 

まず、一つ目のポイントは「養育係の役目」です。メッセージの本論に入るために、簡単にガラテヤ人への手紙について確認しましょう。ガラテヤ書は、当時のガラテヤの諸教会に宛てたパウロの手紙です。教会には、「律法を行わなければ救われない」という間違った教えが横行し、パウロは教会を正しく指導するために手紙を書きました。

前回は、律法よりもイエス・キリストを信じる信仰、福音の遥かに優れた点を確認しました。私たちは地上の他の仲介者ではなく、神と人の間の唯一の仲介者である主イエスによって直接に愛されています。

そして今日の23節です。「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来るべき信仰が掲示されるまで閉じ込められていました。」

ここでいう信仰が現れたというのは、何を指しますか?旧約の神の民が心待ちにしていたメシアこそ、イエス・キリストである。このキリストであるイエスを信じる信仰によって、人が救われることが新約の私たちに、明らかに示されたことを意味します。

続いて主イエスが来られる前の人々の状況が説明されます。人々はイエス様を知る前は、律法のもとで監視されていたと言います。まるで牢屋の囚人が、看守に見張られるように、人は律法のもとに閉じ込められていました。

律法は人をどのように閉じ込めますか?どれくらい閉じ込められましたか?律法は人を「罪あり」と死に定めるものです。人が律法の下にいると、自分では到底、律法を全うできないことが分かります。人は絶望と罪悪感に苛まれます。

また、パリサイ人や律法学者たちはどうでしたか。彼らは律法を守ることによって救いを獲得しようとしました。律法はただ努力することによっては、完全に守れるものではありません。そのため彼らは、逃げ道を作ったり律法の意味を曲げたりするために、解釈と伝統を創作し、人々をルールのがんじがらめにしました。

神の民はここで失敗しました。律法を完全に守り行うことのできない自分を発見しました。しかし、彼らは更なる律法の行い、自分自身の努力に頼りました。先祖アブラハムのように、来られるメシアには頼りませんでした。

私たちはどうでしたか。また、当時のユダヤ教徒ではない異邦人はどうでしたか。律法は知らなかったかもしれません。しかし、異教によって救いを獲得しようとする、自分自身に頼る、良い行いをすることによって自分の心の平安を得ようとしていました。行いや努力を頼りにしていた点では、ユダヤ人とまったく同じでした。

私たちがここまで愚かで頑なな罪人であるがために、神様はイエス・キリストを明々白々に啓示してくださいました。救いは他にあるのではない。創世記から約束されたように、女の子孫として来られたイエス・キリストにある。

天国の福音を宣言し、預言通りに十字架にかけられ三日目によみがえり、弟子たちと大勢の人々に見られ天に上られ、神の右の座におられ、父とご自分から御霊を送られた方を信じることによって救われるのだと、確かに、そして明らかに教えてくださいました。

ですから、24節は「律法は私たちをキリストに導く養育係」だと言います。養育係とは、古代において、貴族の子弟を教える怖くて厳しい家庭教師のことです。ギリシャ・ローマ社会では、身分にふさわしい知恵や名誉がとても重視されていました。身分にそぐう人として育てるため、子ども教育も中々過酷なものだったと言われます。

子どもたちからしたらどうですか?早く大きなって、この厳しい養育係のもとにいる期間が終わること、養育係から自由になることを心待ちにしますね。子どもが成人すると、養育係はそこまでです。自由の日が来たら、子どもに対する養育係の監視の役目はそこで終了します。

人がキリストを信じて義と認められたら、律法養育係の役目はそれまでです。つまり律法は、自分の立場を信仰に譲るのです。私たちは信仰によって義と認められます(24節後半)。ここに養育係の役目はありません。ここで、二つ目のポイントに移ります。

 

二つ目のポイントは「養育係からの自由」です。25節です。「しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」この中に、ご自分が卒業した小学校や中学校に今でも毎日通われている方はおられますか?いませんね。

学生が学校を卒業したら、学校との関係は在学中のそれとは違ってきます。以前とは異なる局面に入ります。私たちと養育係の関係も同じです。以前のようなものではありません。言うことを聞かなければ怒られ、打たれるところに再び入る必要はありません。

しかし、ガラテヤ諸教会の律法主義者たちは、教会員たちをこの養育係の教室に押し込みました。あなたの居場所はここだよと。いいえ、信仰者の居場所は養育係の下ではありません。

26節です。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」26節は、キリスト者はどんな存在だと言いますか?三つのことを教えます。まず一つは「キリスト・イエスにあって」です。信仰が現れたので、信じる私たちはキリストのうちにあります。

もう一つは「神の子ども」です。キリストにある信仰者は、もはや未熟で養育係が必要な存在ではありません。キリストにあって、神の子どもと呼ばれるにふさわしいとみなされました。

また、「信仰により」です。私たちをキリストのものとし、神の子としたのは、主から与えられた信仰であって、養育係ではありません。信仰によって、イエス・キリストのうちにいることです。同じことを、27節ではさらにこういった角度から説明します。

「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」キリストにつく。以前はキリストにくっついていなかった者が、キリストにつくために必要なのは何ですか。割礼ですか?食物規程を守ることですか?それとも数字に見える結果(例えば聖書通読を何回したか、何人伝道したかなど)が求められますか?

いいえ、そうではありません。バプテスマを受けることです。バプテスマを受けるということは、何を意味しますか?水によってバプテスマを受けなければ、救われないという意味ではありません。その逆です。

主は行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい、伝道しなさいと言われました。そして彼らに、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさいと言われました。教会はイエス様のご命令に従って、弟子となった人、福音を受け入れて主イエスを信じた人に、彼も主の契約にあるという印として洗礼を授けます。

つまり、人は信仰によってキリストにつきます。キリストにある人は、キリストを着ました。キリストを服のように羽織っている、服の中に埋もれるように着ています。私たちはそのようにしてイエス様の中にいるということです。皆さん、実感していますか?

イエス様に出会う前の私たちの生き方はどうでしたか。自分勝手な生き方をして、自分の考えがいつも正しかったのではありませんか。自分のことだけを考え、一生懸命に利己的な生き方をしました。私は自分の欲のために、自分の腹のために努力して生きていました。

これが神の栄光を侮辱し、積極的に神の敵として生きる生き方だとも知らずに。生まれながらの人間は、皆このように生きています。しかし、このような生き方はうまくいきますか?満たされますか?いいえ、うまくいきません。

そんな中、私たちにイエス・キリストの福音が聞こえてきました。失敗した私の人生に、どれだけ努力しても希望が見えず、絶望と失敗、不安定や苦しみだけが待っているような暗い私の人生に、イエスという希望が聞こえてきました。

この方が、私の生きるべき人生をすべて生きられました。この方が、私が神に敵対したことで受けなければならなかった罰をすべて背負われました。あなたがすることは、この方を信じ、新しいいのちを得なさい。

私たちは皆、この福音の招きに「イエス様、主よ。私がここにおります。イエス様、私を助けてください」と、御霊の助けによって、信仰の告白に導かれたのではありませんか。皆さんは、その時にもう、イエス様を着せていただきました。皆さんのいのちは復活の新しいいのちとなり、今も主は皆さんを導いておられます。

目に見えないし、感情的な実感が湧かないから自信がありませんか?自分自身を見たら、皆そうです。もはや、神様は私の裸のような人生、努力、行いを見ておられません。私たちが着ている主イエス・キリストを通して、私たちを見ておられます。このイエス様のゆえに、私たちは神様に受け入れられています。心配することはありません。

 

最後、三つ目のポイントは「真の相続人」です。ここまで私たちは、律法主義の行い、自分の努力に頼って生きてきた私たちが、どうして救われたかを振り返ってきました。ガラテヤ書は、ただイエス・キリストを信じる信仰のみによると言います。

続く28節で使徒パウロは、ガラテヤ諸教会の人々に次のように語ります。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

ガラテヤ中会、ガラテヤ地方の教会たちはこの時、大きな分裂の中にありました。律法を行うことによって救われると主張する人たち。また、そうではない人たちで分かれていました。この状況の中で、パウロはあえて当時一般的に正反対または対立する概念と思われていたものを引き合いに出しました。

信仰者のうちには、ユダヤ人もギリシア人もありません。日本人も中国人もフィリピン人もありません。私たちの教会もそうですね?奴隷も自由人も、社会的な立場の差も、職業や年収を比較するような優劣もありません。男性も女性も、子どもも大人もキリストを信じる信仰において、私たちはみな一つです。

何が一つですか?教会に牧師や長老、秩序が必要ないということではありません。私たちの生まれ育った背景を否定するわけでもありません。職場や家庭、学校での役割もそれぞれ違います。男性か女性か、主は永遠の前からキリストにあって私たちのことを定めておられます。

では、何が一つですか。キリストであるイエスの中で、そのいのちが同等ということです。ガラテヤ書で私たちは救いについて話してきました。救いにおいては、人の性別、人種、国籍、興味、関心、性格、支持政党、職業、出身校これら何にも関わりなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰のみによって、私たちは同じ尊い価値のある存在です。

説教の冒頭に言及したユダヤ系クリスチャンはどうですか?28節はユダヤ人について何と言っていましたか。クリスチャンの中には、現在のユダヤ・イスラエルに特別な地位や祝福があると主張する人たちがいます。神の民に優劣があって、ユダヤ人が1軍、クリスチャンはユダヤ人ではないので2軍という風にです。

彼らはキリストを信じる信仰を持っていると言いながら、「律法の儀式を重んじないといけない」、「ユダヤを理解しないと生きた信仰ではない」、「歴史はイスラエルを中心に動いている」と主張します。ある人は積極的に、またある人は暗にこのようなことをほのめかします。

まるで「クリスチャンですか?じゃあ、養育係のもとに下ってください。これが正しい道です」と言うようではありませんか。でも、聖霊はパウロを通して何と言われますか?まず、ユダヤ人のようになってから、信仰をもって救われなさいと言われましたか?まったく違いますね。

ただキリストを信じる信仰のみによって救われたクリスチャンは、キリストにあって一つです。私たちの間に優劣はありません。一流クリスチャン、二流クリスチャンはありません。

しかし、これはガラテヤ人やユダヤ大好きさんたちに限った話ですか?残念ながら、そうではありません。私たちの頭の中にも、教会を、また信仰者のコミュニティーをヒエラルキーのように捉える見方はありませんか。

例えば、ある祈祷課題のことでとりなしの祈りをお願いすることは良いことです。恵みです。しかし、牧師や宣教師に祈ってもらった方が、「より聞かれる」気がする時はありませんか?

確かに牧会者は皆さんのために祈ります。定期的な祈りの習慣があります。神学的に正しい祈りの言葉をたくさん持っています。しかし、祈りに応えてくださるお方は主なる神様です。祈る私たちと、祈る牧会者は、主の前では同じです。

また、もし自分に何か不幸なことが起きたら「今朝祈ってないからだ」、「最近、聖書読んでなかったからその罰かも?」と思うことはありませんか。よく祈る誰かは守られて、自分は守られない。私たちの中に、一流や二流のような階級意識は、このように実は根深いところに潜んでいます。

願いますことは、私たちが福音を生きることができますように。キリストにあって私たちは互いに一つです。優劣も1軍2軍もありません。どうして自信をもってこう言えますか。

29節が教える通りです。「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」クリスチャンは養育係の軍門の下にはいません。私たちはキリストのものです。

主イエスを信じてキリストについた人、キリストの中に埋もれている人は、キリストのものです。信仰者はイエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子=神の民に加えられました。神様がアブラハムに契約を通して約束された国、天の御国を相続しました。

いま私が「相続した」と既に起こったこととして申し上げたのはどうしてでしょう。もし、この相続が私たちの努力、行いによるのであれば、相続できるかどうかはこれからの頑張り次第で将来的に決まることです。確かに、私たちが天国に入ることは将来のことですが、パウロは将来のことだけを話しているようではありません。

パウロは相続人となった私たちの身分の変化を話しています。私たちが将来的に相続人になるかもしれないと言っているわけではありません。イエス様のなされた贖いのわざによって、私たちはこの地上にいながら、相続人として生きています。

そこには養育係の役目はありません。養育係は相続をもたらしません。養育係を信じて、養育係に従うことは、私たちが天国を受け継ぐためには無益です。すべて主イエス・キリストが成し遂げてくださいました。

天国の相続人としてふさわしいお方は、本来、神のひとり子である主イエスおひとりです。イエス様はご自分を信じる私たちを、ご自分の父である神様の子としてくださいました。クリスチャン皆の長兄であるイエス様は、ご自分の長子としての権利、相続の権利を末子である私たち皆に惜しみなく分け与えてくださいました。

私たちの努力や行いによって格差や差別があるわけではありません。キリストの100点満点の義をいただいた私たちは、みな同じだけの祝福=キリストが受けるべき相続を受け継ぐものとされました。だから、私たちはキリストにあって一つです。

 

メッセージをまとめます。私たちを救ったのは、自分の努力の度合い、点数ではありません。国籍、人種、学歴、年収、一生懸命に祈って、奉仕しているかどうかではありません。ただ、私の代わりに神に従い、私の代わりに十字架にかけられた主イエスを信じる信仰です。

この一週間を過ごす中で「もっと頑張らなきゃいけないんじゃないの?不安でしょ?」、「祝福はただじゃないよ。それに見合う努力が必要だよ」と言う偽りの声が聞こえるかも、浮かぶかもしれません。

その声に対して、「いいや、私の努力ではない。私はキリストを着ている。イエス様によって私は赦され、天国のあらゆる祝福に既に与っているのだ」と福音を宣言し続けることができる私と皆さんになりますよう願います。お祈りを致します。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church