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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書25章6-9節 |
| さ ん び | Opening Praise | 主よ愛します ~Be Exalted, O God~ |
| さ ん び | Praise | 死を打ち破り |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第6戒 出エジプト記20章13節)
ヨハネの手紙第一3章15-18節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ローマ人への手紙5章6-10節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌45番 「神の子羊」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書11章28-44節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「死を打ち破る羊飼いの御声」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌46番
「初めにおられた神のみことば」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 箴言3章9-10節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。真っ暗な部屋の中で、太いロープでぐるぐる巻きに縛られているところを想像してみてください。どんなにもがいても、自分では絶対に抜け出せません。どうしたらいいかも分かりません。でもその時、聞き慣れた力強い声があなたの名前を呼びます。あなたのお父さんです。ドアがバン!と開き、お父さんがそのロープを断ち切って、「もう自由だ!家に帰りなさい!」と言ってくれたら、どんなに嬉しいでしょうか。
今日の聖書の箇所に登場するラザロも、まさにそのような状態でした。彼は死の布でぐるぐる巻きにされ、真っ暗な墓の中に閉じ込められていたのです。でも、これはただの大昔の奇跡の話ではなく、今の私たち自身の姿を表す「しるし」でもあります。私たちも生まれながらにして、「死」と「罪」、そして神様を信じきれない「不信仰」という見えないロープに固く縛られ、人生の本当の喜びから切り離されています。兄弟が死んでしまい、自分たちも死ぬほど悲しんでいたラザロの姉妹たち、マルタとマリアも同じ状態でした。自分自身の力や、どんなに立派な行いによっても、この苦しいロープをほどくことは絶対にできませんでした。ですから、イエス様に助けを求めたのです。私たちがもがいているその絶望の暗闇に、死を打ち破るイエス様の大声が響き渡ります。いのちを与えて下さる主の御言葉だけが、私たちを縛る頑固なロープを完全に断ち切り、「ほどいてやってから、帰りなさい。」と宣言できるのです。今日は、イエス様の力強い御声がどのようにして死んだ魂に命を与え、私たちを孤独から解放し、神様と家族との温かい交わりへと導き入れてくださるのかを、一緒に見ていきましょう。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が記されている書物です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、すべての人がイエス様に驚くということです。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書に登場する証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。今日のマルタとマリアも同じです。私たちも、同じようにその三つの選択肢から選ばなければなりません。
前回は、ヨハネの福音書10章に登場する「良い羊飼い」であられるイエス様が、愛する羊であるマルタ、マリア、そしてラザロを守り、導いておられることを見ました。イエス様はユダヤ人たちの殺意を避けてヨルダン川の向こう岸におられましたが、そこで愛するラザロの病気の知らせを受けられます。しかし、主はすぐに助けに行くのではなく、あえて二日間待たれました。言葉を選ばずに言うと、ラザロが死ぬのを待っておられたのです。それは、「神の子がそれによって栄光を受けるため」(4節)であり、また、弟子たちや私たちが「信じるようになるため」(15節)でした。ベタニヤに到着され、まず失望と混乱の中にいるマルタと会われたイエス様は、彼女に「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と語りかけました。今日はその続きの、マリアとの対話から見ていきましょう。
Ⅰ. 羊飼いのもとへ走る羊
イエス様との会話の後、マルタは妹のマリアを呼びに行きます。マリアはイエス様が来られたと聞くと、すぐに立ち上がり、急いで彼女の「偉大な羊飼い」のもとへ駆け出します。しかし、その場にいたお客さんたちにとっては、これはとても奇妙な光景だったに違いありません。お葬式の最中に、泣き崩れていた遺族が突然外へ向かって全力で走り出す姿を想像してみてください。パニックです。人々は彼女が感情を抑えきれずに墓へ泣きに行くのだと思い込み、慌てて後を追いました。
しかし、マリアが向かったのは死の象徴であるお墓ではありませんでした。彼女は命の主であるイエス様のもとへ真っ直ぐに向かって行ったのです。そしてどうしたでしょうか。彼女はイエス様の足元にひれ伏し、切羽詰まった声でこう言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
これこそが、クリスチャンの「嘆きの祈り」の究極の姿勢です。私たちは、自分の痛み、怒り、失望、そして深い悲しみを、一切ためらうことなく主に向かって全身全霊で叫び求めます。しかし、その行為は同時に、溢れ出る全ての感情を深い敬意を持ってイエス様の足元に注ぎ出すことにもなるのです。
Ⅱ. 悲しみと激しい憤り
続く33節を見てください。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。」イエス様は何を見ておられたのでしょうか。泣き崩れているマリアと、一緒に声を上げて泣いているユダヤ人たちです。
もちろん、イエス様はご自分が数分後に何をなさるかは知っておられました。しかしイエス様は、泣いている子どもに向かって「泣くのをやめなさい。今すぐ壊れたおもちゃを直してあげるから。」と冷たく言い放つような、ストイックな父親ではありません。感情を造られたのは、創造主であるイエス様ご自身です。イエス様は、感情が私たちの信仰の邪魔になったり、人間性を堕落させたりするものだとは考えておられません。感情は、私たちが人間であるための非常に奥深く重要な一部なのです。イエス様が見ておられたのは、友人のマリアだけではありませんでした。ラザロの死によって傷ついたすべての人を見ておられました。私たちがどう感じているかというその感情は、イエス様にとって非常に重要だったからです。
では、泣いている彼らを見て、イエス様はどうされたでしょうか。主はまず、激しい憤りを覚え、深く心を痛められました。この言葉は、一部の英語の翻訳が示すような単なる「悲しみ」を意味するものではありません。『新改訳2017』が「霊に憤りを覚え」と明確に訳しているように、イエス様は激怒しておられたのです。元々この言葉は、馬が鼻息を荒くする様子を指し、深い憤りや、はらわたが煮えくり返るような激しい怒りを表現する言葉です。また、「心を騒がせて」とあります。これは直訳すると「ご自身を動揺させられた」となります。面白い表現です。つまり、イエス様はご自身を激しい内面的な動揺や肉体的な震えの中に投げ込まれたのです。これは、人間の苦しみという感情的で強烈な打撃に対して、イエス様が自ら進んで心を開かれたことを示しています。これが同情してくださるイエス様なのです。
イエス様は一体何に対して怒り、動揺しておられたのでしょうか。ある人たちは、人々の罪や不信仰に対してだと言いますが、文脈からすると少し違うように思います。神学者ヘルマン・リデルボスはこのように言っています。「この感情は、死の力に対する、イエス様の内にあふれる強い嫌悪感である。」また、カルヴァンも38節に於ける素晴らしい解説の中でこう語っています。「キリストはただの傍観者として墓に近づかれたのではない。これから試合に臨むレスラーのように来られたのだ。だからこそ、主が再びうめかれたのも不思議ではない。なぜなら、彼が打ち倒さなければならない死の暴力的な支配が、目の前に立ちはだかっていたからだ。」
想像してみてください。打ちのめされてボロボロに傷ついている弟を助けに来たお兄さんの姿を。この兄は、「死」という敵が弟を痛めつけて楽しんでいるのを見ます。弟がいずれ癒やされて元気を取り戻すことを、兄は知っていますが、同時に、愛する弟をこんな目に遭わせた「死」に対して激しい怒りを覚え、弟の痛ましい姿を見て胸を痛めるのです。イエス様の怒りは、感情が抑えきれずに爆発したというようなものではありません。友であるラザロに対する深い愛と思いから出たものなのです。この怒りこそが、イエス様を「死」と戦うリングへと突き動かし、死を打ち負かす原動力となるのです。
III. イエスは涙を流された
こうしてイエス様は、ご自分の羊を食い殺そうとする「狼」を狩るために、ラザロを探されます。群衆は「主よ、来てご覧ください。」と言いました。しかしここで再び、私たちが全く予想しないことが起こります。「イエスは涙を流された。」
イエス様が涙を流されたのは、無力だからではありません。希望がないからでもありません。ご自分がこれからラザロをよみがえらせることを完全に知っておられます。それでも、愛する人を亡くした人々への深い共感から涙を流されたのです。主は人々の悲しみの心の中に完全に入り込まれて、ラザロの死を悼む人々の列に加わっておられました。だからこそ、人々は「ご覧なさい。主はどんなにラザロを愛しておられたことか。」と言ったのです。イエス様はまさに、私たちの悲しみをご自分の事として深く知っておられる「悲しみの人」(イザヤ53:3)なのです。たとえ「究極の復活」が保証されているとしても、今ここにある死の痛みが涙を流すに値するほど深く、現実のものであることを、イエス様ご自身が肯定してくださっているのです。
しかし、その場にはイエス様の愛を疑う者たちもいました。「盲人の目を開けたこの人が、ラザロを死なせないようにはできなかったのか。」これは要するに、「そんなに彼を愛していたのなら、なぜ救ってくれなかったのか?」という疑問です。これは、神様の存在についての永遠の疑問ではないでしょうか。私たちは世界を見渡し、ひどい苦しみや死を目の当たりにしたとき、「もしあなたが愛の神なら、来るのが少し遅すぎませんか!」と言いたくなります。これはおそらく、神様の存在に対する最も一般的な反論だと思います。
私たちが人生の暗闇の中でこの痛切な疑問を訴えかけるとき、イエス様は遠くから正論を振りかざすようなことはされません。主は私たちのただ中に降りてこられ、共に涙を流し、そして私たちを縛り付ける死の力に向かって激しい怒りをもって立ち向かってくださるのです。
Ⅳ. 墓の前での激しい怒りと不条理な要求
イエス様はついに墓の前に立たれます。そしてここで、イエス様はもう一度激しい憤りを覚えられます。この怒りは何に対してでしょうか?人々の不信仰に対してではありません。「死」そのものに対してです。それは、愛する汚れなき子供の体に襲いかかるガンや、愛する家族との素晴らしい思い出や人格を奪い去るアルツハイマー病を目の当たりにした時に私たちが感じる、あの激しい憎しみや怒りと同じです。絶対に許せないし、今すぐ取り除いてあげたいという強い思いです。
しかし、私たちの怒りとイエス様の怒りには決定的な違いがあります。私たちはどれほど怒り悲しんでも、死の力の前では無力です。しかし、イエス様は違います。ある神学者(リデルボス)が言うように、イエス様は遠くから見ている「無関心な傍観者」としてではなく、私たちの血肉をまとわれた「守護者」として、私たちの墓まで、大股で歩み寄って来てくださいます。だからこそ、友の墓を永遠に閉ざそうとする大きな石を見て、主の御口から出たのは、単なるお願いではなく、厳格で力強い命令でした。「その石を取り除きなさい。」
この言葉を聞いた時、マルタは確実にパニックに陥ったはずです。私だったら、心の中でこう叫んだと思います。「主よ、助けて下さいとは言いましたが、こんな助け方をお願いした訳ではありません!」死後四日目の腐敗臭を漂わせている愛する弟の無惨な姿を人々の前にさらして、家族に恥をかかせないでください。これ以上、私たちの日常をかき乱し、傷口に塩を塗るようなことはやめてください、と。
イエス様は、ご自身で石を動かせなかったので手伝ってほしかったわけではありません。マルタが心の奥底に抱えていた「不信仰」に直面させ、この奇跡の「完全な不条理さ」に向き合わせるためでした。私たちの人生でも同じことが起こります。私たちが神様に「助けてください」と祈った時、状況が良くなるどころか、さらに複雑で痛みを伴う最悪の事態になることがあります。C.S.ルイスはこれを歯医者の治療に例えました。「軽い虫歯の痛みを取ってほしくて歯医者に行ったら、いきなり歯を抜かれ、大手術が始まってショックを受けるようなものだ」と。神様はただ表面の痛みを和らげるのではなく、根本的な原因を取り除くために、時に私たちが望まないような「大手術」をされるのです。
しかし、イエス様はマルタの隠れた不信仰を引き出され、こう言われます。「もし、信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言わなかったでしょうか。」石を取り除くという行為は、イエス様がマルタを導かれた信仰による行動のチャンスでした。それは、「主よ、分かりました。たとえこれが全く狂気の沙汰のように思えても、私はあなたを信じます。」というマルタの決断でした。大勢のユダヤ人たちの前で、もし何も起こらなかったら、みんなの笑いものです。それでもマルタは、自分のプライドや恐れを捨てて石を取り除きました。なんと素晴らしい信仰の証しでしょうか。
Ⅴ. 父なる神への祈りと、死を打ち破る声
そしてここで、イエス様は他のどの奇跡でもされないような、特別な行動をとられます。奇跡を起こす前に、わざと大きな声で祈られたのです。「わたしがこう言ったのは、周りにいる群衆のためです。」これは意図的な祈りでした。スポットライトを、奇跡そのものではなく、マルタやマリアでもなく、ラザロの墓にすら当てていません。スポットライトはご自身と神様との関係に当てられたのです。
イエス様は、ご自分が父なる神に完全に頼っていることを公に示されました。先ほどまでの激しい感情の揺れ動きから一転して、ここでは「父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝します。」と、神様との決して揺らぐことのない深い交わりを示されました。なぜ、ご自身の権威と父なる神様との関係にあえてスポットライトを当てられたのでしょうか?それは、弟子たちや、マルタ、マリア、そしてラザロを単なる悲しみや肉体の死から救われるためではなく、「不信仰」から救われるためでした。肉体が生き返ることよりも、霊的な復活のいのちを得ることの方が、はるかに重要だからです。その直後、イエス様の大声が響き渡ります。「ラザロよ、出て来なさい。」この言葉が、死んだ肉体に命を吹き込みました。そしてイエス様は「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言われます。まるでイエス様が死の足かせを解き放ち、彼を家に帰らせてくださったかのようです。
しかし、考えてみてください。死から解放されたラザロは、何のために、どこへ帰るのでしょうか?それは、愛するマルタとマリアの待つ家へ帰り、お互いの関係の喜びを味わうためです。皆さんに覚えていただきたいのは、私たちが永遠のいのちを与えられたのは、天国で一人だけで永遠に自分の個人的な趣味を楽しむためではありません。私たちは、三位一体の神様と、天の家族である兄弟姉妹との喜びに満ちた交わりの中に「帰る」ために、死から解放されるのです。私たちの教会での交わりや家庭での関係は、まさにその天の喜びの予行演習なのです。
この箇所から私たちが日々の歩みの中で覚えていただきたい三つのポイントを確認して終わりたいと思います。
- 自分の「ぐちゃぐちゃ」な感情を、あなたのために涙を流しながら死と戦われるキリストのもとへ持っていきましょう。
私たちは、信仰とは悲しみを綺麗に片付け、「霊的でストイックな仮面」の下に痛みを抑え込むことだと思ってしまいます。霊的なストイックさには、いつも真面目な顔や、無理に作った笑顔など、色々な仮面があります。しかし、それがどんな悲しみや痛みであれ、感情を押し殺すことは真の信仰ではありません。イエス様は、私たちが苦しんでいるとき、遠くから「歯を食いしばって笑顔を作りなさい。」と要求されるようなお方ではないからです。
マリアが家を飛び出し、自分の中のどうしようもない失望をイエス様の足元に投げ出したとき、彼女は、「真の信仰」を表しました。皆さんも、自分の痛みを隠す必要はありません。主は悲しむ人々の列に加わり、私たちの悲しみを深く知る者として、共に涙を流してくださいます。主は罪と死の暴力的な支配に対して深く憤り、立ち向かってくださるのです。今週、あなたの加工されていない生の嘆きを、直接「良い羊飼い」にぶつけてください。イエス様は私たちの心の痛みに寄り添いながら、私たちのために死に対して激しい戦いを挑んでくださるお方なのですから。
- 痛みを伴う居心地の悪い「恵みの大手術」を信じましょう。
私たちが「助けてください!」と叫ぶとき、たいていは、今すぐこの目の前の不快感を取り除いてほしいと願います。しかし、キリストの恵みはいつも、より深く、私たちが予想もしない形でもたらされます。なぜなら、イエス様は一時的な痛みを和らげるだけでなく、私たちの根本的な「不信仰」を治療しようとされるからです。イエス様が「石を取り除きなさい」と命じられたこと、それは死の悪臭と、その状況の恐ろしいほどの不条理さをむき出しにするものでした。神様が私たちの祈りに対して、全く予想外の、痛みと恥を伴う方法で答えられるとき、私たちはよくこう言います。「神様、こんなことは頼んでいません!」
しかし、その痛みと恥を伴う公の場で、イエス様はマルタにご自分の言葉にすがるように呼びかけられました。「もし信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言わなかったでしょうか。」パニックの中で、マルタはイエス様の復活と命の約束を信じることを選びました。私たちも同じように信じなければなりません。偉大な「魂の医者」の治療が、あまりにも乱暴で、私たちに恥をかかせるようなものに感じられるとき、それは私たちが神の栄光を目撃し、不信仰から解放されるために、主ご自身が「石を取り除いて」下さっているのです。
- 死者を呼び覚ます主の御声によって、束縛から解き放たれます。
ラザロの復活は、驚くべき力の現れでした。しかし、それは究極的には、はるかに偉大な現実を指し示す「しるし」に過ぎません。イエス様の御言葉は、不信仰という死んだ魂を、信仰の命へと引き入れます。物理的な復活は簡単なことですが、霊的な復活ははるかに困難です。ラザロが生き返った後でさえ、多くの人々がイエス様を信じなかったことからもそれは明らかです。なぜなら、私たちは霊的に死んでいて、信じることができないからです。私たちの頑固な霊的な死を打ち破るには、イエス様の命を与える「御言葉」が必要です。本日の聖書箇所を通しても、イエス様は、改めて私たちを命へと招いてくださっているのです。
そして、イエス様が「彼をほどいて、帰らせてやりなさい」と命じられるとき、それは、私たちが罪と墓の束縛から完全に解放されたことを宣言しています。イエス様は、私たちがついに「本当の家」へ帰ることができるように、「死」という暴君から私たちを解放してくださったのです。イエス様は、今、あなたを死の束縛から解き放ち、三位一体の神様と、神の家族との妨げられることのない完全な交わりの喜びへと導こうとされています。だからこそ、私たちも暗い墓の牢獄から一歩を踏み出し、いのちを与えて下さるイエス様へと向かっていきましょう。お祈りします。
