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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌254番「主イエスの恵みと御栄とを」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト20:16; エペソ4:15,25
聖書の話 「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌40番「父の神の真実」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことばInstitution] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式辞 Fencing][祈り Prayer][分餐 Distribution]
献 金 Offering
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報 告 Announcements
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。もし皆さんが、お腹が痛くてお医者さんに行ったとします。でも、お医者さんが「注射をすると痛くて泣いちゃうから、代わりに甘いキャンディーをあげよう。これで治るよ!」と嘘をついたらどう思いますか?その時は嬉しいかもしれませんが、病気は治らず、後でもっと痛くなってしまいますよね。優しい嘘は、本当の助けにはなりません。私たちの社会でも、「相手を傷つけないため」とか「波風を立てないため」に、真実を隠して、優しい嘘をつくことがよくあります。でも、それが積み重なると、私たちは本当の愛や繋がりを見失ってしまいます。しかし、私たちのまことのお医者さんであるイエス様は違います。イエス様は、私たちに甘い嘘のキャンディーではなく、「真理」という本当の薬を与えてくださいます。それは私たちを罰するためではなく、私たちが罪の病から癒やされ、本当に人生を楽しみ、自由に生きることができるように、愛をもって真理を与えてくださるのです。今日は、第9戒「偽りの証言をしてはならない」を通して、愛に満ちた真理の王であるイエス様を一緒に見ていきたいと思います。
- 御心の地図:私たちはなぜ真理にあって生きるべきか
①真理とは、愛、自由、美、そして私たちが楽しむすべてのものの土台です。
「真理」とは、冷たくて抽象的な概念ではありません。真理は神様ご自身の性質に根ざしているからこそ、愛に満ち、美しく、正しい、良いものなのです。ですから、私たちが真理を追い求めることは、決して、冷たい律法主義からではなく、最高に良いものを求めたいという思いからなのです。
しかし、現代はどうでしょうか。今の時代、「真理」は必ずしも普遍的な美徳とは見なされなくなっています。特に日本の文化における「正論」という言葉が持つネガティブな響きを考えてみてください。多くの人にとって「正論」あるいは「真理」とは、極端で、柔軟性がなく、時には21世紀にはそぐわない、過激な人が振りかざす「武器」のように感じられることがあります。政治やフィクション、あるいは日常の人間関係においても、「真理(正しさ)」と「愛」は、まるで北極と南極のように、正反対のものとして扱われることもよくあります。
また、多くの人が真理を「洋服」のように扱っています。自分のアイデンティティや、その時の心地よさに一番合う「真理」を身にまとい、もし現実と合わなくなったら脱ぎ捨てて、もっと都合の良いものを選ぶ、というような生き方です。でも皆さん、私たちは心の底から本当にそう思っているでしょうか?どこかおかしいと感じているはずです。ここで、私たちがよく知っていて尊敬している、ある日本の哲学者の言葉を借りてみましょう。それは、テレビでもお馴染みの江戸川コナンです!
ライバルである「西の高校生探偵」服部平次は、ある事件でコナンの推理は自分より「一歩上だった」と負けを認めます。それに対してコナンは、彼のもっとも有名な言葉でこう返します。「推理に勝ったも負けたも、上も下もねーよ… 真実はいつも… たった一つしかねーんだからな…」「真理」とは、一番見た目が良いものや、一番賢いものではありません。私たちがそれを間違っていると思おうが、醜いと思おうが、馬鹿げていると思おうが、「真理」は一つなのです。私たちみんなが従わなければならない「現実」なのです。
それでも、「もっと楽しいから、美しい嘘の中で生きてもいいじゃないか」と言う人もいます。しかし、気持ちがいいからという理由で嘘を信じるのは、豚に口紅を塗るようなものです。一瞬現実は隠せても、本質は変えられません。C.S.ルイスはこう考えます。「もし真理を求めるなら、最後には本当の慰めを見いだすでしょう。しかし、最初から慰めだけを求めるなら、慰めも真理も得られません。手に入るのは、耳に聞こえのいい綺麗な言葉と、自分に都合のいい甘い考えだけです。そして、最後には、ただ絶望があるのみです。」(『キリスト教の精髄』より、マーク訳)
真理よりも慰めを求めるなら、結局両方を失うことになります。実際、嘘を信じることは、私たちを他のすべての人から孤立させます。ルイスは小説『天国と地獄の離婚』の中で、私たちがそれぞれ自分だけの「真実」の中に引きこもってしまうと、灰色の町(ルイスが描く地獄)の住人のようになってしまうと描いています。他人の「真理」の中では生きられないので、お互いにどんどん離れた場所に家を建てていくのです。共有できる客観的な真理がなければ、繋がりを失い、互いに愛し合うことも出来ません。そういう訳で、「真理」とは、私たちが楽しむすべてのものの土台であると言えます。
②真実を語ることは、単に「その事実が正確かどうか」という問題ではありません。それは、人々が私たちに与えてくれた信頼に対して、誠実に応えるということです。
第9戒「隣人について、偽りの証言をしてはならない。」は、ある特定の状況、つまり「法廷」を背景にしています。たとえば、お互いをごまかす「人狼ゲーム」で遊んでいる時、あるいは演劇の役者として舞台に立っている時、真実を正確に語らなかったからといって罪になるでしょうか?普通は誰もそれを罪だとは責めません。なぜなら、そのような状況の中では誰も真実を期待していないからです。
しかし、法廷での「証人」の立場は違います。証人の責任は、法廷という状況——被告人、裁判官、検察、そして国全体がその証人を信頼しているという事実から来ます。だからこそ、証人はこう誓います。「良心に深く照らし、真実を述べ、何事も隠さず、また、何事も付け加えぬことを誓います。」法廷で嘘をついたり、真実を隠したりすることは、関わっているすべての人々の信頼を裏切ることなのです。
では、法廷でなければ真実を語る責任はないのでしょうか?いいえ。人々はさまざまな形でお互いを信頼しているため、私たちには真実を語る責任があります。見知らぬ他人に、自分の生年月日を正確に教える必要はありませんが、駅のトイレの場所を誰かに聞く時は、その人が正しい場所を教えてくれると「信頼」して聞くと思います。経営者として、従業員として、上司として、親として、教師として、生徒として、子供として、あるいは配偶者として。私たちは、自分に与えられた信頼に誠実に応えるように召されています。不誠実に行動することは、関わっているすべての人の信頼を裏切り、その信頼関係や立場を「悪用する」ことになるのです。
ですから、嘘をついたり、真実を曲げたり、すべてを語らないことは、床に牛乳をこぼすようなちょっとした失敗ではありません。小さな嘘であっても、それは誰かの信頼を「盗む」ことであり、「悪用する」ことなのです。それはまるで、長年の親友だと思っていた人が、気づかないうちに私の財布からお金をくすねるようなことです。だからこそ、サタンは「偽りの父」なのです。エデンの園で、蛇は「味方」であるかのように振る舞いながら、エバの信頼を悪用し、彼女の信頼を裏切ったのです。
③ 「真実を語る」とは、すべての人に100%の事実をぶつけることではありません。言葉によって、常に人を建て上げるということです。
証人としての言葉には、計り知れない力があります。法廷で犯罪行為についての真実を語らなければ国全体を危険にさらすことになりますし、無実の人について嘘をつけば、その人を傷つけることになります。嘘をついたり真実を隠したりすることは、誰かにとって「有害」です。聖書は、言葉は剣のようなものだと教えています。「軽率に話して人を剣で刺す者がいる。しかし知恵のある者の舌は人をいやす。 」(箴言12:18)。言葉は人を守り助けることもできれば、人を傷つけ殺すこともできます。ですから、第九戒には、口と言葉に関するすべての罪が含まれているのです。ここで、私たちが少し分かりにくくて、陥りやすい「言葉の罪」の例をいくつか挙げてみたいと思います。
第一に、「白い嘘」(White Lie)という、一見悪意のない嘘です。特にお世辞や事実の誇張がこれに当たります。相手が聞きたいことを言ったり、場を盛り上げるために少し話を盛ることは、一見害のないことのように思えます。しかし、聖書はこれをはっきりと罪として警告しています。「偽りの舌は自分が打ち砕いた者を憎み、へつらう口は滅びを招く。」(箴言26:28)。「裸の王様」を思い出してください。王様は、配下の者たちの「白い嘘」のせいで、結果的にどうなってしまったでしょうか。
第二に、「黒い真実」(Black Truth)という、悪意をもって真実を語ることです。つまり、厳しい言い方で容赦なく語られる真実は、人を深く傷つけます。相手の欠点を掘り返し、どれほどダメかを思い出させること。厳密にいえば、それは嘘や半端な真実ではないかもしれませんが、人を傷つけることを意図した真実です。聖書は、事実であれば何を言ってもいいとは教えていません。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)とあるように、「人の成長に役立たない」言葉は愛のない行動です。だからこそ、親や教師など権威を持つ人々、そして神様ご自身でさえも、常に真実の100%すべてをありのままぶつけるわけではありません。それは、成長の妨げにもなってしまいます。最も良く、最も助けになる言い方、順序、タイミングで真理を伝えるのです。私たちには「愛をもって真理を語る」(エペソ4:15)ことが求められています。
第三に、「不当な沈黙」です。日本では「空気を読む」ことや「波風を立てないこと」が美徳とされますが、語るべき時に口を閉ざしてしまうことがあります。誰かが不当に非難されている時や、明らかに間違ったことが起きている時に、自分の身を守るために黙っていることは、偽りの証言に加担しているのと同じなのです。真実を知っていながら語らないことは、罪であると聖書(レビ記5:1)は言っています。むしろ聖書は、「声を上げよ。口のきけない者のために。すべて滅びゆく者の訴えのために。」(箴言31:8)と命じています。愛をもって真理を語るべき時、沈黙は決して「金」ではないのです。
第四に、不注意な言葉により人の名誉を傷つけてしまうことです。聖書は「名誉は多くの富にまさって選ばれるべきもの」(箴言22:1)と教えています。「ねじれ者は争いを巻き起こし、 陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」(箴言16:28)とある通り、噂話や中傷によって隣人の名誉を傷つけることは非常に有害です。また、同時に第九戒は「自分自身の名誉」を守ることも求めています。日本において「謙遜」は美しいとされますが、神様があなたに与えてくださった賜物や価値を殊更に卑下し、自分を貶めることがあります。神様は私たちを「くすしく造られている」(詩篇139:14)と宣言しておられます。自分自身を「ダメな人間だ」と言うことは、創造主である神様の最高傑作をけなす「偽証」になるということを忘れないでください。
最後に、これは罪ではありませんが、真実をぼかしたり隠したりする言葉が、結果として人を建て上げ、命を救った例も聖書にはあります。聖書の中には、信仰者たちの欺くような戦術を非難していない箇所がいくつかあります。一見、これは第9戒を破っているように見えますが、これらの行動は、隣人を守るための深い勇気と神様への誠実さの現れとして描かれていて、ある意味、真実を守るための素晴らしき行動でした(出エジプト1:17-21、ヨシュア2:4-6、2サムエル17:7-14、1サムエル21:10-15、1サムエル20:28-29など参照)。
ですから、真理を語るということは、ただ「正確なデータ」を羅列することではないのです。神様の真実を最大限まで求め、隣人に与えられた信頼に誠実に応え、愛のことばで隣人を建て上げることなのです。
- 私たちの試金石:弟子たちの偽り
それでは、私たちは第9戒をどれほど破っているのでしょうか?私にとって、この第9戒について説教するのは本当に難しいです。なぜなら、子どもの頃から日本の「曖昧さ」にどっぷり育ってきたからです。私はいつも「お茶を濁して」生きてきました。真実をぼかし、自分の本当の気持ちを隠し、ただ周りの人が言うことに合わせてしまう。それが私が吸ってきた空気であり、この社会で生きていくための当たり前の術だと思ってきました。だからこそ、心のどこかで「少し真実を曲げることくらい、それほど大きな罪ではない」と感じてしまいます。
以前紹介した行動経済学者ダン・アリエリーの「人はなぜ嘘をつくのか」という研究は、私たちの心を鋭くえぐります。 第一に、人は自分が「正直で良い人間だ」という自己イメージを保てる範囲で、心の中で真実を都合よく書き換え、嘘を正当化します。第二に、「誰かのためになる」と思い込むと、さらにためらいなく嘘をつきます。優しい嘘という言い訳が罪悪感を麻痺させるからです。第三に、最も恐ろしいのは、「雪だるま効果」です。一度「正直な自分」の基準を破るとタガが外れ、「少しお茶を濁すだけ」という小さな妥協が良心の防波堤を破壊し、心全体を偽りで覆い尽くしてしまうのです。私はこの本を読み、そこに描かれた「私自身」の姿に怖くなりました。皆さんも同じように感じないでしょうか。嘘の最も恐ろしいことは、事実を曲げること以上に「自己欺瞞」に陥ることです。自分は正しい良い人間だと思い込むために「お茶を濁し」、自分自身に一番大きな嘘をついているのです。
そして、この自己欺瞞の姿を最も鮮明に表しているのが、イエス様の弟子たちです。その中でも一番の代表は、ペテロですね。皆さんもよくご存知の通り、ペテロには少し真実を「大げさに」言ってしまう癖がありました。彼はいつも空気を読んで、イエス様に気に入られようとしていたのです。あの最後の晩餐でのやり取りを思い出してください(ヨハネ13:6-9)。イエス様が「あなたの足を洗おう」と言われると、ペテロは「主よ、私の足になんて、一滴の水も触れさせません!」と答えます。しかしイエス様から「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もなくなります」と言われると、ペテロは慌てて「わかりました、それなら全身を洗ってください!」と極端なことを言い出すのです。
イエス様が「あなたがたのうちの一人が私を裏切る。」と言われたとき、弟子たちは皆ショックを受け、「主よ、まさか私ではないでしょう?」(マタイ26:21-22)と言いました。しかし、イエス様は彼らの心を知り尽くしておられました。イエス様がご自身の十字架での死について語られたとき、彼らはそれを真剣に受け止めず、ペテロに至っては、そんなことを言うイエス様をいさめたほどです(マタイ16:21-22)。彼らはエルサレムへ向かう道中も、そして、あろうことか最後の晩餐の席でさえ、「誰が一番偉くなるか、誰が政治的な権力を握るか」と議論していました(マルコ9:33-34、ルカ22:24)。「正直で良い人間だ」という自己イメージをギリギリまで保とうとし、自分たちの欲望に完全に目がくらんでいたのです。
だからこそ、イエス様は「私が打たれると、羊たちは散らされてしまう。」(マタイ26:31)と言われました。しかしペテロは胸を張ってこう言い切ります。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)。それに対してイエス様は「いや、ペテロよ。あなたは鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うでしょう。」と告げられます。ムッとしたペテロは言い返しました。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)。そして、他のすべての弟子たちも同じように言ったのです。
しかし、皆さんご存知の通り、ペテロの嘘、半端な真実、誇張された真実はすべて、砂のお城のようにあっけなく崩れ去ります。イエス様が逮捕されたとき、あの胸を叩いて強がっていたペテロはどこにもいませんでした。残っていたのは、臆病なペテロです。そして人々に「あなたもあの人の弟子でしょう?」と聞かれるたびに、まさにあの「雪だるま効果」のように、彼の嘘はどんどん声が大きくなり、最後は呪いの言葉を口にするほど激しくなっていきました(マタイ26:69-74)。そして鶏が鳴いたとき(マタイ26:75)、彼はついに、直視したくなかった現実を突きつけられます。自分が「嘘つき」であるという真実です。イエス様は弟子として彼を信頼してくださったのに、彼はその信頼を裏切りました。ペテロの言葉は愛の言葉などではなく、自己愛に満ちた空っぽの言葉だったのです。
III. 救い主の矢印:真理の王、イエス・キリスト
第9戒を思い巡らす時、自分もペテロと同じだと感じませんか?第9戒は、私たちの必要性をはっきりとあらわします。第9戒はイエス様への矢印へと変わります。イエス様がご自身の十字架に直面し、「反逆を企てる王だ」という数々の偽りの告発を受けていたときのことです。総督ピラトはこう尋ねました。「それでは、あなたは王なのか。」それに対して、イエス様はどうされたでしょうか?こう答えられました。「わたしが王であることは、あなたが言っているとおりです。わたしは真理の証しをするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)。それを聞いたピラトは肩をすくめ。冷笑しながら「真理とは何か」(ヨハネ18:38)と言いました。
「真理の王」とはこういうことです。イエス様は、真理が「最高の善」であることを知っておられるため、ご自身もその真理に従われました。ご自身に向けられた嘘、半端な真実、そして中傷の嵐のただ中にあっても、決して人の名誉を傷つけてやり返すことはなさいませんでした。不当な非難に対しては沈黙をもって耐え(イザヤ53:7、マタイ27:12-14)、必要な時には謙遜に真理を正されました。ご自分を陥れる者たちの罪を、その気になれば100%「すべての事実」として暴露し、彼らを打ち負かすことさえできたはずです。しかしイエス様はそうはされず、ただ神様の栄光を現し、人々を最も生かし助ける「真理の言葉」だけを語られたのです。
また、主は誠実な「真実の王」でもあります。主は、ご自分を信頼する者に対して、たとえ私たちが約束を破ったとしても、ご自身の約束を誠実に守り抜かれる方です(2テモテ2:13)。ペテロが約束を破って裏切ることを最初から知っていたにもかかわらず、イエス様は弟子たちを罪と死とサタンから守り抜くと約束されました(ルカ22:31-32)。嘘つきで裏切り者の弟子たちとの約束など、無効にして破り捨てる正当な理由はいくらでもありました。しかし、主はご自分の弟子たちとの約束を果たすために、ご自身のいのちを十字架で投げ出されました。だからこそ、私たちのような嘘つきにも、永遠のいのちと罪の赦しが与えられているのです。
さらに主は、「愛に満ちた真理の王」です。復活の後、嘘つきのペテロを再び迎え入れたとき、イエス様は彼を打ち砕くような厳しい事実を突きつけたでしょうか?それとも、彼を建て上げる言葉を語られたでしょうか?主が語られたのは、「ペテロ、あなたはわたしを愛していますか」という問いかけでした。それも、三度です(ヨハネ21:15-17)。イエス様は、ペテロが罪を犯さなかったかのように振る舞い、「お茶を濁す」ことはなさいませんでした。三度問うことで、ペテロに自分の罪の真実をはっきりと直視させたのです。しかし、真理の王は彼を責めるためではなく、彼を回復させ、力づけるための「真理」にスポットライトを当てました。「わたしはあなたを赦している。だからペテロよ、わたしの羊を飼いなさい」と。
聖書を読んだことのある人なら誰でも、ペテロがどれほどの嘘つきであったかを知っていると思います。しかし、その恥ずかしい「真実」はペテロを悲しませたのでしょうか?彼を絶望へと追いやったでしょうか?いいえ、違います。ペテロは、自分の「罪の現実」と、キリストにある「完全な赦しの現実」の両方の中を生きるようになったからです。その結果、彼の嘘でできたもろい「砂のお城」のような人生は、愛と勇気、美しさと喜びを生み出す、真理の「堅固な岩の城」へと変えられました(マタイ16:18)。ペテロと同じように、嘘つきで自己欺瞞に陥りやすい私たちも、この愛に満ちた真理の王に従って歩みましょう。キリストにある自由、喜び、そして平安の中へと、共に入っていこうではありませんか。お祈りします。
