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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙8章13-17節 |
| さ ん び | Opening Praise | 素晴らしい主〜Goodness of God |
| さ ん び | Praise | キリストが全て All I Have Is Christ |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第7戒 出エジプト記20章14節)
エペソ人への手紙5章28-29節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | エペソ人への手紙5章25-27節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌127番 「主イエスは尊き」1-3番 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙4章1-11節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「ある少年の話」
呉載炫 教会主事 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌52番 「主われを愛す」1-3番 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | ルカの福音書7章44-47節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
皆さんは、ビデオゲーム「ポケットモンスター」をご存知ですか?このゲームが発売されてから、今年で30周年になるみたいです。アニメや漫画、キャラクター商品まで大ヒットを記録して、ゲームだけでも全世界で5億枚以上売り上げているそうです。
ゲームの内容はシンプルです。動物のような「ポケモン」を仲間にして、強くなるように育てて、他のプレイヤーと競うというものです。ポケモンの中には、ある程度成長したら「進化」して、見た目が変わり力も強くなるものがあります。名前も変わります。
おたまじゃくしは大きくなったら蛙になります。シラスが大きくなったらイワシになります。誰も蛙のことをおたまじゃくしと呼ばないですね。シラスをイワシとして売るスーパーはありません。大きな変化を経て、もう以前のようではないからです。
変化といえば、キリスト者も変化しましたね。主キリストに出会った人は人生が変わりました。ある人は劇的に、またある人は自分の言葉ではうまく表現できないけど、聖書のことばを借りると「死ぬべきものが、死なないもの」(Ⅰコリ15:53)になる変化が起こりました。
先ほどお読みしました聖書箇所では、使徒パウロはある「相続人」なる人物を例に挙げました。この人物も大きな変化を経験しました。本日はこの相続人の例話から、三つのことを共に考えましょう。
一つ目は「幼少期」です。子どもであるうちの相続人の扱いと、この相続人を取り巻く環境について確認します。二つ目は「身分の変化」です。この相続人に訪れたある変化と、その内面の葛藤について考えます。三つ目は「実感」です。相続人はどのようにして、自分の変化を実感し満喫することができるか聞きましょう。
まず、一つ目のポイントは「幼少期」です。今日の相続人なる人物の話に入るために、これまでのガラテヤ人への手紙の背景をおさらいしましょう。この手紙は、教会のリーダーの一人である使徒パウロが、ガラテヤにある教会たちの問題を治めるために送ったものです。
当時のガラテヤ諸教会にはイエス・キリストを信じることの外に、「律法を守ることによって救われる」と主張する者たちがいました。前回は「律法はイエスの福音が明確に示されるまでの養育係であり、天国を相続すること(救い)はイエスを信じることによって与えられる」ことを学びました。
パウロは今日の本文も同じテーマについて教えますが、3章後半とは異なる例えを用います。これは1節によると、ある相続人である少年の話だと言います。これはあくまで、天の相続財産について説明するために、パウロが設定した例え話と受け取っていただきたいです(細かい設定や歴史的な背景は本旨ではありません)。
この少年は父の全財産の相続人です。何らかの理由で相続が発生すれば、父の財産はすべて彼のものになります。しかし、彼はまだ年少者です。父の財産が自分のものではないことは子である相続人の少年と、お家の使用人と何も変わりません。
いつまでですか?相続人の少年のお父さんはある日を決めていました。それは父が生きているうちかどうか、少年が成年を迎える日なのかは分かりません。ただその日まで、相続人の少年と父の財産は後見人や管理人の下にあります。
日本でも未成年者が相続人になった場合の、未成年後見人制度や特別代理人制度のように似たものがありますね。ここでパウロが言いたいのは、父が定めたその日まで、相続人は財産の所有者ではあるけれども、財産権を行使することはできず、権利行使においては奴隷と同じように無力だということです。
3節でパウロはこの話の読者である私たちも、同じような状況にあったと言います。まだ子どもであった時=主イエスに出会う前の私たちは、「この世のもろもろの霊の下に奴隷となって」いました。
この世のもろもろの霊とは何ですか?この手紙が書かれた元の言葉(ギリシア語)だと、アルファベット最初のABCないしは、ギリシア的な世界観において世界を構成する基本要素(水、火、土など)を指す言葉です。ですから、昔の日本語の聖書の翻訳では「この世の幼稚な教え」と書かれていました(この訳でも構いません)。
新改訳聖書の訳はこういう意味でしょう。「あなたがたはこのような世界観にあって、異教の偶像と教え、宗教儀式に奴隷同様に仕えていました。それは霊的に邪悪なものですよ」
しかし、ガラテヤ書は律法主義者たちを論駁するものではありませんか?どうして異教のもろもろの霊の話(幼稚な教え、価値観、世界観)になりますか?それは、これまでのガラテヤ書説教のシリーズで何回かお話しした通りです。
「律法を行うことによって救われようとする」律法主義者たちの行いと、「この世の幼稚な教えによって自分自身を救おうとする」試みは、行動の原理として同じものです。
私たちは主イエスを自分の救い主と信じるより前、日本の社会、文化の中にいて、モーセまたは律法について聞いたことはなかったかもしれません。しかし、人は何らかの仕方で自分を義とする方法を探し求めます。自分の心を満足させる、不安を解消する道を探しています。
あるものはこの世の偽りの宗教、あるものはボランティアや寄付を通して、またあるものは無神論を信仰して神から逃れようとします。お金や快楽を追い求めるものもいます。皆がそれぞれの方法で、自分の努力や肉の衝動に従って、自分自身を救おうとします。
つまり、パウロの語る律法主義者たちへの論駁は、今日このメッセージを聞いている私たちにも当てはまります。聖霊がパウロを通してガラテヤ人たちに語られることばは、いま私たちにも語りかけています。私たちが、この話の相続人の少年だということです。
ここで、次のポイントに移ります。
二つ目のポイントは「身分の変化」です。相続人の少年である私たちには、ある転機が訪れました。いえ、この世界に転機が訪れました。4節です。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」
時が満ちて、神の御子がこの世に来られました。主イエスは偶然に来られたわけではありません。人間の堕落がどうにもならないから、必要に迫られて、急いでこられたのでもありません。
イエス・キリストのご降誕の時期について、ある学者はローマ帝国の安定した支配によって道路が整備され、宣教がしやすくなったのを見計らって来られたのだと言います。またある人は、当時の共用語であるギリシア語が広まったためだ、ユダヤ人がローマ帝国の津々浦々に住むようになったためだとも言います。
確かに、そういう側面もあります。これらの条件が整い、主はこれらを用いました。しかし何より大事なのは、神の時が満ちたということです。この世を造るよりも前に、神ご自身がご自分の栄光のため、選ばれた人々を救うために、御父と御子の間に交わされた契約、約束を履行する時が来たのです。
そのためにイエス様は女から生まれた者、律法の下にある者として生まれました。主イエスは神様の約束の成就として女の子孫(創3:15)として人となって生まれました。また、主イエスは私たちの代表となられるために人となられました。
人の罪を背負うことができるのは人です。人が神に対して犯した罪は、人が償わなければなりません。しかし、人類は皆が同じ罪人です。ですから、神ご自身である主イエスが、人にはできない、神の方法で人となられました。イエス様はこのようにして、私たちと同じく律法の下にある者として、この世に来られました。
一方で、イエス様は律法の下におられながらも、すべての点において律法を全うされました。この方は罪を犯したことはありません。人類史上最初で最後に、律法を完全に守りました。ですから、この方は無罪なものとして信者みなの代表となり、信者みなの罪を背負うことができました。
5節が言う通りです。「それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」
私たちは律法の下にあるものです。律法をすべて守ることによって救われようとしていました。自分の努力や頑張りによって、「私は正しい人である」と認められると思っていました。
救いはどこから来ますか。律法の遵守ですか?善い行いをたくさんして、自分の正しさを立証することから来ますか?いいえ、そうではありません。5節は何と言っていますか。贖いだと言っているではありませんか。
贖いです。例えるなら、奴隷市場に売り物として出されていた私たちを、主イエスが探しに来られました。そして値を支払って、私を買い戻しました。その値は、神の御子であるイエスご自身の尊い血です。律法ではありません。イエス様の血潮です。
しかし、多くのクリスチャンがここで立ち止まります。次に進もうとしません。贖われて罪赦されたことに満足して、その場に留まります。いいえ、イエス様は次に進まれました。5節の後半をもう一度読みます。「私たちが子としての身分を受けるためでした。」
主イエスは地上に来られて、律法のすべての要求を成就し(律法を全部守り)十字架にかけられてしなれたことによって、私の罪の負債を完済されました。この清算は、私の罪を赦すためですか?罪を赦すため「だけ」ですか?
それだけではありません。私たちが神の子として身分を受けるためだと、5節は証言します。私たちがイエスを信じて罪を赦されたことは何を意味しますか。
神に敵対していた私が、神と和解していただいたものになったということです。神と私の間を遮っていた私の罪によってできた壁が崩れたということです。神と私の仲が回復されて、私が神様の養子として迎え入れられたということです。私が、イエス様と同じ神の子とされたということです。私がイエス様の兄弟、姉妹になったということです。
もし罪の赦しで終わりだとしたら、イエス様を見る見方はどうなりますか?奴隷市場に出品されていた私をイエス様が落札しました。代金を支払ったイエス様は「あなたはもう自由だよ。またね」と言って、私を放られた方になりませんか。
覚えていただきたいです。イエス様は私たちの罪を赦し、私たちを神の子とされるために十字架に死なれてよみがえりました。ご自分の血によって私の身代金とし、私をご自分の父の家に連れていき、ご自分の父の子とされました。私たちを神に愛される子にしました。
愛される子であることを信じますか?私たちが罪の赦しのみを信じて、愛される子であることを信じられなければどうなりますか。少し先の8節から見てみましょう。
「あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。」
私たちが神を知らなかった時というのは、まだ奴隷だった時のことです。何の奴隷でしたか。神ではないすべての異教の偶像、無神論、お金、才能、快楽、自分自身を信じていました。私たちはそれらの奴隷でした。
しかし今は主イエスを信じています。イエス様に罪を赦していただき、神の子となった私たちを父なる神が私たちを知っておられます。なのに、もう一度弱くて貧弱な、無力で浅はかな幼稚な教えの奴隷になろうとしていますか。
「私たちはいつ奴隷に逆戻りしたと言うのですか?」と思われるかもしれません。教会に通い、聖書を読み、祈り、献金もささげて信仰生活している私を奴隷呼ばわりしていいのですか?
信者になってもなお占い、風水、厄、お札、パワースポット、パワーストーンなどに捕らわれている方は、すぐにそれから離れましょう。私たちはもはやそれらの奴隷ではありません。
クリスチャンがはまる罠は、これらよりもっと信者っぽいものです。礼拝に出席するのが牧師や他人に見せるためなのであれば、それが偶像です。聖書通読や祈りの時間、回数など数値化できるものにこだわるのであれば、これも偶像です。
もう少し、私たちの内面を探ってみましょう。本当に私たちは、自分が神に愛される子だと確信していますか。神様が本当に私を愛していると信じていますか。私が祈る時に、いつも耳を傾けていてくださると信じていますか?
私がある罪を犯した時に、悔い改めると赦してくださることを信頼していますか?それとも、自分の心を苦しめ内省し、何回も同じことで悔い改めて、反省する姿勢を見せてはじめて赦していただけるかもしれない、と思ってはいませんか。
または、神様が私を愛してくださっているのは、私の行いが良いからだと思ってはいませんか?もし私が奉仕や隣人を愛すること、聖書のみことば通りに生きることに失敗したら、私に対する神の愛や祝福、恵みが離れ去ってしまうと恐れてはいませんか。
もし心の中に、このようなものが発見されたのであれば、それは奴隷の考え方です。成功、成果、功労、点数で評価されるのは、愛する子ではなく、使用人である奴隷です。
10節です。「あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています」。ガラテヤ教会の律法主義者たちは律法とユダヤ人が作った伝統が定めたこれらのものを一生懸命に守りました。これは奴隷に逆戻りする道です。神から救いを争奪し恵みを略奪するために、彼らは自ら奴隷になる道を選びました。
願いますことは私たちに、このような内面の思い、態度がありましたら、立ち返ることができますように。自分には見つからないという方も自分を省み、もし自分の思いのうちに隠された奴隷の思いがあるのであれば、それに気付かされる恵みがありますように。
最後、三つ目のポイントは「実感」です。ここまで、主イエスに出会う前の私たちが、相続人の少年のように捕らわれていたものは何であったかを見ました。また、主イエスに出会って自由になった私たちの変化についても確認しました。
皆さん、実感はありますか?皆さんの身分が、奴隷から神の子へと「法定的」に変えられましたよ。心配は要りません。6節です。「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」
父の定めた日に、私たちは主イエスに出会いました。イエス・キリストを信じて、私たちは神の子とされました。もうこれ以上、養育係や後見人、管理人、この世の幼稚な教えの下にいません。イエス様は、私たちに自由をくださいました。
この自由は父なる神の子としての自由です。昨日まで奴隷だった私たちが、どうしたら神との関係を自由に楽しむことができますか?養子である私たちと離縁して、奴隷市場に売られるのではないか、不安になりませんか。
ご安心ください。神様は決して信仰者を見捨てる方ではありません。父なる神様はご自分のひとり子を遣わして、そのいのちをもって私たちを贖われました。今度は御子の御霊を私たちの心に遣わされました。これが、私たちがもはや奴隷ではなく、神の愛する子とされた確実な証拠、揺るがない証印です。
それでも「神の子とされた」と聞くと、かえって神様との距離を感じる方がいらっしゃるかもしれません。「イエス様は実子だけと、私たちは養子、、?」のような疎外感です。しかし、思い返してみてください。神様はご自分の意志でもって、神の敵であった私たちを愛して子とすることを決めました。疎外感を感じる必要はありません。
主イエスの霊である聖霊は、私たちにも主と同じように叫ばせてくださいます。「アバ、父よ」(マコ14:36)。
子どもの頃、おもちゃが動かなくて、またはジュースの蓋を開けられなくて、棚の上の物に手が届かなくて、転んで怪我をして痛いから、寝ていて起きたらお部屋の電気が消えていて怖かった時。私たちは「パパ!」と叫んだことがあると思います。多くの場合、親が走ってきて私たちを助けてくれました。
私たちは自分の親を呼ぶ呼び方よりも、親密な呼び方で、神様を呼ぶことが許されています。私たちの霊の奥底からの嘆きと悲しみ、痛み、苦しみ、悩み、恐れをもって、「パパ!」と呼びかけると、天の父はいつでも親密な距離で私たちを顧みてくださいます。
時には私たちが望む方法ではないこともありますが、神様は私たちのすべてをご存知で、私たちが知らないことまですべてを知った上で、もっとも良い方法で、私たちに応えてくださいます。
この天の父とのもっとも親しい関係が、主イエスによって許されました。イエス様が私たちの身分を神の子として劇的に変えてくださり、イエスの霊である御霊が私たちにもたらしてくださいました。ですから、7節で言うように、私たちはイエス様と同じ相続人の身分を楽しむことができます。
そろそろメッセージを終わりにしたいと思います。11節でパウロは「私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。」と言います。
決して「あーあ、時間の無駄だったよ」と嘆いているのではありません。ガラテヤ人たちと、そして私たちに対する聖霊の温かい声です。「まだ望みがあるよ」、「律法に、努力に、いのちをかけないで」、「主イエスの福音に帰っておいで」。
罪人は自らを救うことができません。しかし、イエス様は御自ら私たちと同じようになられて、私たちの代表として十字架の刑罰を受けて死なれ、よみがえりました。ご自分を信じる者の罪を赦し、神の子としてくださいました。
ですから、今週もいつでも、どこでも「アバ、父よ」と叫びましょう。私たちの努力がどうであれ、父なる神様はそれをご覧になりません。主イエスによって、私たちは神の子とされましたから。イエスの御霊が伴っておられる私たちを、ご自分の愛する子として、すぐに駆けつけてくださいます。
