2026年5月17日礼拝 説教 「マリヤの香油の『臭い』」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ピリピ人への手紙3章7-11節
さ ん び Opening Praise いしずえ〜Cornerstone
さ ん び Praise 私の願い〜I Give You My Heart
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第8戒 出エジプト記20章15節)

テモテへの手紙第一6章17-19節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God コリント人への手紙第二8章9節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌121番 「ああ主は誰がため」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書11章45節-12章9節
聖書の話 Sermon 「マリヤの香油の『臭い』」

 

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌465番 「キリストにはかえられません」
主の献金の招き Lord’s Call to Give 歴代誌第一29章11-14節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ 牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ 牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに想像してもらいたいです。私の家が火事になり、煙が迫る中、消防士さんが「助けに来たぞ!手を伸ばして!」と飛び込んできました。でも僕の目の前には、1年分のお小遣いと何年分のお年玉を貯めてやっと買った「スイッチ2」があるとします。その時、心の中でこんな「計算」を始めたらどうでしょう。「消防士さんの手をつかめば、このスイッチを置いていくことになる。もったいない!絶対に損をしたくない!」そうやって自分の宝物を守るために、僕が助けに来た消防士さんを突き飛ばし、やっつけようとしたら……。どう思いますか?本当に変なことをやっていますよね。

 

今日の聖書の箇所に登場するリーダーたちは、まさにそのように、自分の「地位やお金」というおもちゃを守るために、助けようとするイエス様を殺そうと計算しました。でも、マリアは正反対でした。彼女はイエス様に命を救ってくださった喜びに溢れ、お小遣い1年分よりもはるかに高価な宝物を、惜しみなくイエス様に差し出したのです。今日は、私たちが「自分のものを守る」のか、それとも「イエス様にすべてを委ねる」のかという、最も大切な決断について見ていきたいです。

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書を貫くテーマはシンプルです。ヨハネは様々な証言を並べて、私たちに「イエスは神の子、救い主であること」を伝え、「信じるだけで永遠のいのちが得られること」を説得しようとしています。今日は、ラザロの復活という最大の「しるし」から、イエスの十字架へと向かう転換点を見ていきますが、ここで私たちは、イエスに対して「信じるか、信じないか、もう少し話を聞くか」という決定的な決断を迫られます。

 

Ⅰ.決定的な証拠:勝負あり?

前回、私たちはイエス様がヨハネの福音書の中で、七つ目の、そして最も重要な奇跡である「ラザロの復活」が成し遂げられたところを見ました。ラザロは、当時のユダヤ社会でかなり影響力のある重要な人物だったので、エルサレムからわざわざ多くのお客さんがお墓参りに来ました。しかし、イエス様に対して最も敵意と不信仰を抱いていたのも、このエルサレムの人々だったことを思い出してください。イエス様は、その大勢の人の前で他の誰の助けも借りず、マルタやマリアでさえ手伝うこともない中、ただ数回の御言葉を発しただけで、ラザロを死からよみがえらせたのです。これは、イエス様が語ってきたことが真実であることを全員に納得させるための、最も説得力のある奇跡だったと言えるかもしれません。私がクリスチャンになる前は、「もし自分の目で奇跡を見たら、すぐにイエス様を信じるだろうな」といつも思っていました。皆さんもそう感じるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所は、根本的な問題を私たちに突きつけています。私たちがイエス様を受け入れられないのは、「証拠が足りないから」でも「知的に理解できないから」でもありません。本当の問題は、私たちが「真理に従おうとしないこと」なのです。

ヨハネは、この究極の奇跡の目撃者たちが、きっぱりと二つのグループに分かれたことを描いています。

45  マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。 46  しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。

キリスト教には、知的な階級も、経済的な格差も、霊的な上下関係も、そしてもちろん人種的な差別も存在しません。もしそうであれば、イエス様は何によって全人類を二つに分けられるのでしょうか?奇跡を行われる前に、イエス様がマルタに言われた言葉を思い出してください。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

イエス様はここで、私たちに「意志の決断」を迫る危機をもたらしておられます。これほどまでに明白な奇跡を私たちの目の前で行われた以上、私たちにはもう言い逃れをする余地はありません。お茶は濁せるかもしれませんが、お水は濁せませんね。ごまかしはきかないのです。イエス様は私たちに示しておられます。信仰とは、単に「奇跡が起きたという事実に同意すること」ではありません。奇跡を行ったイエス様ご自身を、個人的に信頼し、その真実にしがみつくようなことです。

残念なことに、ある人々は明確なしるしも見ましたし、その圧倒的な力も肌で感じたはずですが、イエス様ご自身を信頼しませんでした。彼らの目の前には十分すぎる証拠があったのですが、ただ、イエス様に従おうとする「意志」だけはありませんでした。

 

Ⅱ.意志の違い:「真理」の外部委託

ここで皆さんは、「ちょっと待って!もしそれが単なる意志の問題だとしたら、具体的に何が彼らを『不信仰』という選択に向かわせたんだろうか?」と思うかもしれません。ヨハネの福音書11章は、信じる者と信じない者の「思考回路」の驚くべき対比を描き出しています。ヨハネの福音書によくあるように、ここも白か黒かであり、グレーゾーンは一切ありません。

しかし、イエス様を信じることを拒んだ人々は、自分たちが目撃した真実を、指導者たちに真理の証拠を明け渡して、「真理」を見分ける責任を彼らに丸投げしてしまいました(46節)。イエス様をすぐに信じなかったユダヤ人は事実上、こう言ったのです。「私たちが見たことが真実かどうか、指導者の皆さんで決めてください。」目の前に立っておられる「復活のいのち」を与えて下さるイエス様よりも、人間の作った制度や権威を信じることを選んだのです。

私たちはよく、キリスト教を信じない人は単に「信仰がない」だけだと思い込みます。しかし、それは大きな勘違いだと思います。この世界に、真理に対して完全に中立な傍観者など一人もいません。誰もが皆、目の前の現実が本物かどうかを確認するために、自分が信頼する「祭司」を持っているのです。

私たちは皆、それぞれ違う衣装をまとった「祭司たち」を頼りにしています。

ある人は、白衣を着た医者や科学者を祭司にします。ある人は、高価なスーツを着たビジネスマンや成功者を。ある人は、権力をまとった政府の役人を。ある人は、「自分らしさ」や共感をまとったインフルエンサーや有名人を。そしてある人は、「客観性」をまとったアルゴリズムやAIを祭司とします。

私たちは皆、「ファクトチェッカー(真理の確認係)」として、何らかの祭司制度を信じて生きているのです。私は、専門家を信じることが常に間違っていると言っているわけではありません。ただ、「自分は何も信じていない、何の祭司も持っていない」という人は、この世界に一人もいないということを言いたいだけです。

 

Ⅲ.真理よりも損得勘定:守るために殺す

私たちが皆、真理を確かめるための「祭司」を持っているとして、私たちは自分のその「祭司」を、本当に最後まで信頼できるでしょうか?もし、その「祭司たち」の存在そのものや、彼らの地位を脅かすような決定的な真理が目の前に現れたとき、彼らが「これが真実だ」と正直に私たちに教えてくれると信じ切れますか?

今日の聖書の箇所に登場するユダヤ人の群衆は、自分たちの宗教的指導者たちが、まさにそのように誠実に真理を教えてくれていると信じ切っていました。彼らに判断を丸投げしたのです。しかし、その頼りにされた「真理チェッカー」たちは、イエス様が死者をよみがえらせたという圧倒的な証拠を突きつけられたとき、実際にそれをどう処理したでしょうか?

ヨハネの福音書11章47-48節に書かれている、彼らの「動機」に注目してください。

47  祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。 48  あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」

祭司長たちとパリサイ人たちは、ラザロがよみがえったことも、いっさい疑っていません。彼らが判断の基準にしたのは、「真理」ではなく、「何が自分たちにとってもっとも都合が良いか」ということだけだったからです。「損得勘定」が彼らの基準なのです。しかし、損得は真理と関係ないです。

イエス様がもたらした明白な真理を前にして、自分たちの地位を失うかもしれないと宗教指導者たちがパニックに陥ったとき、彼らのトップである大祭司カヤパが、一つの残酷な解決策を提示します。自らの立場を守るために、群衆から真理を奪い取ろうとするのです。その場面、49節から53節を一緒に読んでみましょう。

「あなたがたは何も分かっていない。 50  一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」 51  このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、 52  また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 53  その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。

彼らは、死者をよみがえらせることができたり、民を救える「王」よりも、自分たちの手で操れる宗教を選びました。やがて崩れ去る小さな国の「指導者」のままで死ぬことを望んだのです。ですから、宗教指導者たちは、自分たちが今持っているすべての物を守るために、イエス様を殺すことにしたのです。自分たちの「居場所」や「権力」が、イエス様のいのちよりも、そして自分たちを信頼してついてきている人々のいのちよりも、はるかに重要だったからです。私たちの不信仰も同じだと思いませんか?しかし、彼らの思考回路をよくみると、それはあまりにも人間的で、私たちの現実と恐ろしいほどよく似ていることに気づきます。純粋に「ただ悪いことをしてやろう」という理由だけで悪事を働く人など、この世界にはほとんどいません。私は、世の中の恐ろしい悪行のほとんどは、本人たちが信じ込んでいる「善意」から生まれていると確信しています。「これは必要な犠牲なのだ。」 「すべては国のためだ。」 「目的のためには手段を選んでいられない。」 「これこそが愛国心というものだ。」

この点において、ヨハネの福音書は非常にユニークです。真理であり、復活のいのちそのものであるイエス様を殺そうとする原動力。それはまさに、真理よりも結果を優先する「損得勘定」でした。そして、この「損得勘定」が、間近に迫った過越の祭りの中で、なんとかしてイエス様を殺害しようという恐ろしい計画を生み出したのです。つまり、イエス様を十字架に掛けたのは、「盲目的宗教心」や「理性のない感情論」ではなく、私たちの冷酷な「損得勘定」なのです。

 

Ⅳ.損得勘定を覆す信仰:マリアの油注ぎ

さて、ラザロの復活の後、過越の祭りの6日前のことです。この過越の祭りは、まさにイエス様が十字架に架けられるそのお祭りです。マリア、マルタ、そしてラザロは、イエス様をお祝いするために夕食の席を設けました。その時、マリアは非常に高価なナルドの香油を1ポンド(約300グラム)も持ってきて、イエス様の足に塗り始めます。ユダが指摘しているように、それはおよそ1年分の給料(300デナリ)に相当する額でした。マリアは、イエス様の足を洗うためだけに、1年分の給料を惜しげもなく注いだのです。しかも、彼女は自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。当時の文化では、きちんとした大人の女性が人前で髪をほどくことは、非常に恥ずかしいこととされていました。しかし、彼女が自分の髪をほどいてまで感謝と愛と献身を示したという事実は、これが決して冷たい打算的な「お返し」などではなかったことを物語っています。彼女の中には、「損得勘定」のかけらもありませんでした。圧倒的な真理であるイエス様ご自身に直面したとき、彼女の心から溢れ出たのは、計算など一切ない、常識外れで惜しみない礼拝行為でした。彼女は真理そのものの足元に、自分自身を完全に服従させたのです。私は、このマリアの姿は、マルタやラザロの心をも代表していたのだと確信しています。

「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。これは、イエス様にとってどれほど喜ばしい香りだったことでしょうか。決して無駄遣いなどではなく、絶対にそれだけの価値がある行為でした。だからこそ、イエス様はマタイの福音書(26:13)でこう言われたのです。「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」マリアの注いだ香油の香りは、その家を満たしただけでなく、時代と国境を越え、地の果てにある教会までも満たし続けているのです。

しかし、損得勘定で動く「実用主義の弟子」ユダにとって、この美しい香りは耐え難い「悪臭」でした。彼の言葉からは、嫌悪感すら伝わってきます。ユダは会計を任されるほど信頼されており、「現実的で実用的な人物」だと思われていました。だからこそ、彼は「施し」という大義名分を使って、「これを売って貧しい人たちに施せばよかったのに」と聞こえの良いことを言ったのです。ユダにとって、イエス様がラザロを死からよみがえらせ、マルタとマリアを絶望のどん底から救い出したことなど、どうでもよいことでした。彼にとっては、目の前の奇跡やイエス様への愛よりも、資金の「費用対効果」のほうがずっと重要だったからです。 しかし、ヨハネはさらに核心を突きます。ユダは立派な弟子のふりをしていましたが、彼がこれを「無駄だ」と考えた本当の理由は、彼が弟子たちの共有財産からお金を盗んでいたからでした。ユダは「貧しい人」を自分の盾にして自分の強欲さをカモフラージュしたのです。おそらく、マリアの常識外れの信仰とイエス様の反応に対するこの「嫌悪感」こそが、ユダをあの「損得勘定の塊」である宗教指導者たちと手を結ばせる決定的な引き金になったと思います。

ヨハネはここに見事な対比を描いています。真理に服従しない者たちは、自分の「持っているもの」を守るためにイエス様を殺すのです。しかし、目の前に示された真理を信じる者たちは、イエス様ご自身を得るために、自分の「持っているすべて」を喜んで手放すのです。

 

 Ⅴ.ご自分のいのちを与えるお方

しかし皆さん、私たちが忘れてはならない最も重要なことがあります。今日の箇所の主人公は、マリアの素晴らしい「信仰」でも、ユダの恐ろしい「損得勘定」でもありません。主人公はイエス様ご自身です。この場面で、イエス様の最後の言葉は何だったでしょうか。 「そのままにさせておきなさい。彼女は、わたしの葬りの日のために、それ(=ユダヤ人の葬りの習慣)を守ったのです。」(12:7)文脈と原語を見ると、 イエス様は、「彼女が香油の半分を後日のために残しておいた」と言っているのではありません。マリアが今、自分の埋葬の準備をしてくれたのだ、と宣言しておられるのです。彼女がどこまで理解していたのかは、一番重要なことではありません。最も重要なのは、実用主義者たちの「不信仰」や、弟子たちの「理解」にもかかわらず、これまでの七つのしるし(特にラザロの復活のしるし)のすべてが、イエス様の「葬り」へと一直線に向かっているという事実です。信仰は、「しるし」が指し示すイエス様の十字架を見上げることです。

ラザロがよみがえったことの「本当の代価」は、1年分の給料(300デナリ)などではありませんでした。その真の代価とは、永遠にして義なる神の御子が、十字架で死なれることだったのです。 この箇所の中で、最も常識外れで、最も惜しみなくすべてを与え尽くしてくださった方は誰でしょうか?それはマリアではありません。マリアがその足に香油を塗り、これから私たちのために十字架へ向かおうとされた方、イエス様なのです。ですから、私たちがこの世のどんな祭司よりも、イエス様を信頼できる理由はここにあります。世の指導者たちは、自分を守るために真理を殺しました。しかしイエス様は、ご自分のいのちを失い、父なる神との交わりを断たれ、十字架という地獄の裁きを受けることになってでも、命がけで私たちに真理を語り、貫いてくださったからです。最後に覚えていただきたい3点はこれです

 

信仰とは、計算を捨てて「すべて」を明け渡す礼拝です。

イエス様は、マルタやマリア、ラザロになさったこと以上のことを、私たちのためにしてくださいました。イエス様はラザロに、いつかは再び死を迎える「一時的な」いのちを与え、愛する弟を姉妹の元へ返されました。しかし、イエス様が十字架で死に、復活されたのは、私たちに「完全で、永遠に変わることのない罪の赦し」と、「喜びに満ちた永遠のいのち」を与えて下さるためでした。イエス様は今、ラザロの墓の前ではなく、ご自身の「空っぽの墓」の前に立ち、決して揺るぐことのない証拠を私たちに突きつけておられます。そして、「わたしがよみがえりです。いのちです。」と語りかけておられます。この真理から逃げないでください。マリアの足跡に従い、イエス様のこの言葉をよく聞いてください。

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイ13:44)

一見、信仰は狂気じみて見えますが、実はこの「真理」にすべてを明け渡すことこそが、最も理にかなった、あなたに最高の利益をもたらす選択なのです。

 

マリアの惜しみない礼拝を見て、心がざわつきませんか?

もし彼女の行動を見て少しでも「やりすぎだ」と感じるなら、それは私たちの「損得勘定」が、真理を見えなくさせている証拠かもしれません。イエス様を十字架に追いやったのは遠くの悪人ではありません。真理に最も嫌悪感を抱き、マリアの愛に最も心を乱されたのは、信頼厚く、現実的な弟子「ユダ」でした。ですから、私たちは自分たちに問わないといけません。もしイエス様が「あなたが一生懸命稼いだお金、キャリア、財産、大切な時間、さらには愛する家族や老後の計画まで、すべてをわたしに委ねなさい。」とおっしゃったら、どう思いますか?その時、チクリと心が痛み、ユダのように「もったいない」と心の中で呟いてしまいませんか。あの弟子たちでさえ「損得勘定」の罠にはまりました。私たちも皆、心の中に「ユダ」を飼っているのです。その現実に直面していませんか?

 

イエス様は「計算高い者たち」のために死なれました。

安心してください。今日のポイントはユダ探しではありません。ポイントはこれです。イエス様は、損得勘定の塊のような私たちにも永遠のいのちを与えるために、この葬りの準備を受けられたのです。ペテロや他の弟子たちは皆、自分たちの命を守るという「損得勘定」のゆえにイエス様を見捨てて逃げ出しました。しかし彼らは、復活の現実という「真理」に再び直面したとき、イエス様の元に立ち返り、悔い改めました。そしてその後、彼らはベタニヤのマリアの足跡に従ったのです。弟子たちはキリストを得るために、お金も、名声も、そして自分自身のいのちすらも、すべてを捧げ尽くしました。ですから、常に計算してしまう、損得勘定から抜け出せない私たちにも、確かな希望があります。なぜなら、イエス様は、そんな私たちの不信仰の負債すらも十字架で支払い、私たちのことさえも深く愛してくださっているからです。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church