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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇130篇1-4節、7節 |
| さんび | Opening Praise | 主のあわれみは His Mercy is More |
| さんび | Praise | 主の十字架に The Wonderful Cross |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第10戒 出エジプト記20章17節)
ヨハネの手紙第一2章15-17節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ミカ書7章18-19節 |
| 賛 美 | Hymn | 詩篇歌32A |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | 詩篇32篇1-11節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「罪の告白の幸い」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌194番「詩篇73:21-24」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | ルカの福音書12章32-34節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ 牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたち、ちょっと想像してみてください。遠足で高い山に登っているとします。でも、あなたのリュックの中には、「自分の失敗」や「隠したい悪いこと」という、重くて汚い石が毎日一つずつ増えているとします。まわりの友達には「全然重くないよ!」と笑顔でウソをついていますが、本当は息が苦しくて、足もガクガクです。意地を張って隠し続けていたら、苦しくて悲しくなってしまいますよね。でも、周りのみんなも頑張って自分のリュックを背負って笑顔で登っているから、自分だけ「重い」とはなかなか言い出せません。しかし、もし、一緒に歩いているイエス様が、「その重い石を、全部わたしに渡しなさい」と言ってくれたらどうでしょう?イエス様はただ「手伝う」だけではありません。私たちが隠している「罪」という重い石を、ぜんぶご自分の背中に移し替えて、私たちの代わりに高い山のてっぺんまで背負い切ってくださるのです。最初は自分の汚い石を見せるのは恥ずかしいかもしれません。道のりもまだ残っています。だけど、イエス様のその優しい一言があるからこそ、私たちは初めて「本当はすごく重いです」と正直に認めて、「ありがとうございます!よろしくお願いします!」とイエス様に頼ることができるのです。
クリスチャンが誰でもできること、それは「お祈り」です。祈りとは神様とお話しすることですが、私たちが祈るべき「一番最初のこと」は何でしょうか。それは、「神様、私のリュックはもう重すぎて、自分ではどうしようもありません!」と正直に認めること、つまり「罪の告白」なのです。今日は、意地を張るのをやめて神様にすべてを打ち明ける(告白する)祈りが、どれほど大きな喜びと自由を私たちに与えてくれるのか、詩篇32篇から3つのポイントを見ていきましょう。
①詩篇32篇は、告白の祈りが喜びの祈りであることを教えています(32:1-2)
私たちが「悔い改め」と聞くと、おそらくテレビの「謝罪会見」を想像するのではないでしょうか。会社のトップが深く頭を下げ、重大なミスの責任を取り、正式に辞任する姿が全国に放送されます。それは名誉、犠牲、恥、そして痛みを伴う瞬間です。私たちの文化では、このような苦痛に満ちた特定の行為こそが「悔い改め」の姿だと思い込んでしまうことがよくあります。もう一つの「告白」のイメージは、カウンセリングルームやカトリック教会の告解室(懺悔室)かもしれません。罪悪感に苦しむ人が、顔の見えない神父さんやセラピストのところに来て、自分の戦いの暗い詳細をすべて打ち明けます。そこには多くの苦悩と涙があります。辛いことですが、同時に心がスッキリすることもあります。世の中の目から見れば、告白とは基本的に、自分の重荷を下ろし、罪滅ぼしをし、場を清めるのに十分なことをすると願うためのものなのです。
しかし、詩篇32篇が言っていることは、これらとは全く違うことに注目してください。もし皆さんが「自分の罪を告白したくない」と感じているなら、それはおそらく、世の中の「告白」のイメージと、聖書の「告白」のイメージを混同しているからだと思います。ダビデ王は、姦淫、殺人、裏切り、権力の乱用、そして霊的な高慢という罪を犯したことで悪名高い王ですが、彼の告白の祈りの中でこのように言っています。「幸いなことよ。その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」
この「幸いなことよ」という言葉は、私たちの耳には少し硬く聞こえますが、単純に言えば「ハッピー」という意味です。聖書的な告白の祈りは、実は喜び、そして感謝から始まるのです。謝罪会見でこんなことを言う姿を想像できますか?「皆さま、この度、、、私は非常に喜んでおります!」 この幸福の理由は非常に重要です。その理由は「私も他の人と同じように罪人だからハッピーだ」というわけではありません。「誰かが共感してくれたからハッピーだ」でも、「まだ自分のことが好きだからハッピーだ」でもありません。どれでもないのです。「幸いなことよ その背きを赦され(た人は)」クリスチャンライフのすべてが、この告白の祈りに集約されていると言ってもいいでしょう。
では、これはどういう意味でしょうか。ハッピーに聞こえますが、それは私たちが良いセルフイメージを持っているからではありません。実は、全く逆なのです!1-2節の言葉をゆっくり見ましょう。「背き」とは、私たちが積極的に神様に反逆したこと、つまり私たちの王を裏切ったことを意味します。「罪」とは、私たちが神様の完璧な基準に常に達していないことを意味します。咎(とが・不義)とは、私たちの心と行動がねじ曲がり、神様が与えてくださった良い賜物を歪めてしまっていることを意味します。「欺き」とは、私たちが無私の人間ですべてが上手くいっているふりをして、自分自身や他の人たちに嘘をつき続けていることを意味します。つまり、クリスチャンのセルフイメージは、失敗した、歪んだ、嘘しか言えない裏切り者なのです。
昔、友人の牧師が私にこう言いました。「もしあなたが、実際の自分よりも『良い人間』だと周りに思わせているなら、あなたはおそらく嘘つきだ」と。心から罪を告白する罪人は「真理」を受け入れます。自分の失敗、醜さ、汚れを隠そうとはしません。それを完全に自分自身のものとして認めるのです。しかし、そのような人達は自分たちの罪という「厳しい真実」だけを受け入れるのではありません。自分が赦されたという「喜ばしい真実」も一緒に受け入れるのです。赦しとは、自分の自尊心を高めるために、役に立つ「フィクション(作り話)」を自分に言い聞かせることではありません。聖書的な赦しとは、客観的で喜ばしい真実を受け入れることです。それは、気を紛らわせるために「私には住宅ローンなんてない」と自分に言い聞かせることと、銀行から「あなたのローンは正式に完済されました」と電話がかかってくることとの決定的な違いです。
では、神様の赦しがもたらす3つの要素を見てみましょう。まず、私たちは「赦されます。」つまり、 反逆者の罪が免除され、処刑されることがなくなるということです。次に、私たちの罪が「覆われます。」罪が免除されても、 罪を犯したことによる、いつまでも消えない「恥」は残りますね。神様はその罪からくる「恥」を覆ってくださいます。私たちの犯罪歴が封印されるということです。王が私たちの弱さをおおってくださるので、過去の罪のゆえに誰かに拒絶されることはなく、何も悪いことをしなかったかのように歓迎されます。そして、最後に、私たちは罪人と「認められない」のです。つまり、私たちは「咎ある者」とは見なされず、「義なる者」として数えられます。「認める(数える)」とは、会計士が貸借対照表に莫大な借金を記録するのと、銀行口座に10億円を記録するのとの違いです。神様はあなたを「ひねくれた反逆者」としてカウントせず、「正しく、忠実で、立派な市民」としてあなたの口座に入金してくださるのです。
これが「赦された罪人」であることの意味です。皆さんは、このことがお分かりでしょうか?自分が本当にこれを理解しているかどうかを知る一番良い方法は、自分自身にこう問いかけることです。「私は自分の赦しについて、本当に喜んでいるだろうか?」私がこのことを初めて深く理解した時のことを、今でも覚えています。当時の私は、誰にも知られたくない、特に恥ずかしい罪を抱えていました。罪悪感に押しつぶされそうでした。なんとか良くしようと一生懸命に努力していましたが、自分の手についた血を洗い流すためには、自分では何もできないことも分かっていました。しかしある日、詩篇32篇のこの箇所を引用しているローマ人への手紙4章7-8節を読んでいた時のことです。最初は「ああ、私はこんなにひどい罪人だから、赦してもらえたんだ…」と重く受け止めました。しかし、何度も何度も読み返すうちに、最初の「幸いなことよ」という言葉が私の胸に突き刺さり、喜ぶべきことが「こんなにもたくさんあるんだ」と気づかされたのです。その時、あまりにも大きな喜びに圧倒されて、電車で隣に座っている人に「私がどれほど罪を犯したか」を話したくなりました。まるで宝くじに当たった人のような気分でした。
罪の告白は、後悔の祈りではありません。いつまでも悲しみと恥の姿勢で「責任を取る」ことでもありません。全くの逆なのです。サマリヤの女に聞いてみてください。彼女は水がめを置いて町に走り帰り、メシアに出会った喜びのあまり、自分の過去を皆に告白しました。ルカの福音書7章に登場する罪深い女に聞いてみてください。彼女は純粋で圧倒的な感謝のあまり、涙を流し、自分の髪でイエス様の足をぬぐいました。取税人のザアカイに聞いてみてください。イエス様が彼の家に迎え入れてくださった瞬間、彼は喜んで自分の財産の半分を手放しました。彼らは皆、詩篇32篇の現実を理解していたのです。「幸いなことよ その背きを赦された人は」。私たちは決して、この真理に慣れてしまってはいけません。なぜなら、これこそ私たちが天国で、永遠に歌い続ける賛美の歌だからです!
②詩篇32篇は、罪の告白とは、罪を隠し続ける「悲惨さ」からの救いであることを教えています(32:3-7)。
罪を告白した喜びを分かち合った後、ダビデは自分の罪について「口を閉ざしていた(黙っていた)」時の、あの恐ろしい体験について語り始めます。彼の生涯には、きっとこのような経験が何度かあったことでしょう。しかし、最も有名で、かつ最も悲惨な出来事は、バテシバとの不倫の後に続いた「1年間」です。
ダビデは、自分に最も忠誠を誓っていた部下の妻と姦淫を犯しました。そして、その証拠を隠滅するために王としての権力を悪用してその部下を暗殺させ、亡くなった部下の妻を自分のものにしたのです。しかしダビデは丸1年もの間、まるで何事もなかったかのように振る舞い続けました。
そしてまさにここが、私たち自身の「クリスチャンとしての偽善」を映し出す、恐ろしい鏡となるところです。その1年間、ダビデは「宗教的な人間」であることをやめませんでした。今の言葉で言えば、教会に行くのをやめなかったのです。丸1年もの間、彼は神に油注がれた王として国を治め続けました。幕屋(神殿)へ礼拝に行き続けました。いけにえを捧げ、賛美の歌を歌い、おそらく国民を代表して祈りを捧げることすらしていたでしょう。外側から見れば、彼は完璧で立派な信仰者、「神の心にかなった人」に見えました。彼は奉仕し、リーダーシップをとり、笑顔を見せていました。しかし神様の前で、彼は自分の罪について完全に口を閉ざしていたのです。
しかし、この詩篇から分かるように、その沈黙は彼を内側から引き裂いていました。彼は罪について口を閉ざしていましたが、彼の体は悲鳴を上げていたのです。聖書には「私が一日中うめいていた」とありますが、ここで使われているヘブライ語は、実は吠えるライオンのようなどこまでも悲痛な「うめき声」を表す言葉です。彼が罪の告白を拒み続けたその毎日は、まるで真夏の激しい日照りが、人生からすべての活力を蒸発させていくようなものでした。なぜでしょうか?神様の重い御手が、彼の上にのしかかっていたからです。神様のきよいご性質を見上げ、同時に自分の隠れた罪を見たとき、あの恐ろしい重みを感じるのです。全力で逃げ出そうとしたり、重い御手を押し退けようとしたりしても、それは不可能なのです。
では、なぜダビデはこれほど長い間黙っていたのでしょうか?第一のポイントで見たように、私たちが告白を避けるのは、神様が私たちを公にさらし者にして破滅させる「謝罪会見」を開くのではないかと思っているからです。しかし、この3節から7節でダビデは、私たちが罪を隠すさらに深く、暗い理由を示しています。それは「恥」です。それは、「もし神様や教会の仲間が、私の宗教的なマスクの下にある『本当の姿』を知ってしまったら、彼らは私との関係を完全に断ち切ってしまうのではないか」という恐ろしい恐怖です。
「恥」の世界的名研究者であるブレネー・ブラウン博士は、恥を「つながりを失うことへの恐れ」と定義しました。ブラウン博士は恥を、「自分は欠陥だらけであり、だからこそ愛されたり、ここに居場所を与えられたりする価値がないと信じ込んでしまう、強烈で苦しい感情」だと説明しています。恥が増すレシピは、「秘密、沈黙、そして批判」です。「恥ずかしい経験をした後で一番危険なのは、その出来事を隠すことだ。なぜなら、自分の中にしまい込むと、恥は手のつけられないほど広がっていく(転移していく)からだ。」
では、ダビデはどうやってこの「恥」という底なし沼から救い出されたのでしょうか?彼は、恥が「絶対にやってはいけない!」とささやく、まさにその行動をとったのです。彼は沈黙を破りました。自分の罪を声に出し、批判を受けるかもしれない無防備な状態に自分の身を置きました。彼が何と言っているか注目してください。 私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。 私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。 なぜ、彼にはそれができたのでしょうか?それは、聖書の神様だけが、この後に続く言葉で応えてくださる方だからです。「すると 【主】は私の罪のとがめを 赦してくださいました。」
想像してみてください。ダビデがこの事実をバテシバ——自分の権力で奪い、その夫を殺した相手である女性——に告白しようとする姿を。自分が陰でどんなに凶悪なことをしたのかを、国民全体に告白する姿を。彼は拒絶されることに怯えきっていたはずです。私たちが「つながりを失うこと」を恐れるのは、人は簡単に赦さないからです。人間の赦しには多大な代償と痛みが伴うからです。私たちの最も隠したい罪を、心から赦してくれる人はこの地上にはいません。
しかし、神様はすぐに、喜んで赦してくださいます。神様はその代償を喜んで引き受けてくださいます。あなたを赦すために、ご自身のひとり子を十字架につけるという、想像を絶する損失を耐え忍んでくださったのです。神様はあなたをただ「大目に見る」のではありません。素早く、完全に、そして完璧に赦してくださるのです。だからこそ、恥の中に隠れている人々にとって、聖書の神様に罪を告白することは「絶対的な救い」なのです。赦された殺人者であり、堕落した王であったダビデは、この聖書箇所を通して私たち全員に叫んでいます。「さあ、祈りなさい。自分の罪を告白しなさい!」(6節)と。なぜでしょうか。もしあなたが「つながりを失うこと」を恐れているなら、告白の中でこそ、あなたは「罪人を赦す偉大な神」と出会うことができるからです。
たとえ、さばきや恥、世の中からの拒絶という大水があなたを囲んだとしても、もう罪を隠す必要はありません。神様ご自身が、あなたの「隠れ家」となってくださるからです(7節)。神様はあなたをその苦しい「うめき」から救い出し、そしてあなたと同じように「反逆し、失敗し、欺きに満ちていたのに救い出された罪人たち」の喜びの歌声で、あなたを囲んでくださるのです。
詩篇32篇は、神様に罪を告白することこそが「最高の知恵」であり「最高の幸福」であると教えています。(32:8-11)
私は長年、詩篇32篇を読んできましたが、最近になってあることに気がつきました。これは単なる「告白の祈り」ではなく、私たちの人生のための「取扱説明書(マニュアル)」だということです。8節から11節を見てください。
8 私は あなたが行く道で あなたを教え あなたを諭そう。あなたに目を留め 助言を与えよう。9 あなたがたは 分別のない馬やらばのようであってはならない。くつわや手綱 そうした馬具で強いるのでなければ それらは あなたの近くには来ない。10 悪しき者は心の痛みが多い。 しかし 主に信頼する者は 恵みがその人を囲んでいる。11 正しい者たち 主を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。 ダビデは私たちに警告しています。
もし私たちが神様に罪を告白しないなら、私たちは「頑固ならば(ラバ)」と同じように愚かだ、と。らばはエネルギーに満ちあふれているかもしれませんが、分別(理解力)がありません。主人が痛みを伴う「くつわや手綱」で力ずくで引っ張らない限り、言うことを聞かないのです。神様は私たちにこう語りかけておられます。「私に、あなたを無理やり悔い改めさせるような、痛みを伴う『くつわや手綱(懲らしめ)』を使わせないでほしい。自ら進んで、私のところに来なさい」と。しかし、私たちがへりくだって罪を告白するなら、神様はその愛に満ちた助言をもって、私たちの人生を目的と、義と、喜びへと優しく導いてくださるのです。ダビデは、もし私たちが頑固に告白を拒むなら、その結果は避けられない「深い悲しみ(心の痛み)」であると警告しています(10節)。告白の道を見てください。「正しい者たち」——この詩篇において、それは単に「主を信頼し、罪を告白し、赦された罪人」を意味しますが——彼らは神様の揺るぎない愛と、喜びの叫びと、究極の自由に囲まれるのです。
今日、私たちはどちらの道を選びますか?「自分の罪なんて大したことない」という都合の良いフィクション(作り話)を自分に言い聞かせる、悲しみの道を選びますか?それとも、「私は失敗だらけの人間です。しかし、聖書の神様によって完全に赦された者です」とへりくだって認める、喜びの道を選ぶでしょうか。おそらく、今日ここにおられる方の中には、まだ疑いを持っている方もいるでしょう。恥と罪悪感の鎖が重すぎて、どうしても口を開くことができないと感じているかもしれません。そのお気持ちはよく分かります。私自身もその一人でした。忘れていけないのは、あのダビデでさえ、自分の力だけで悔い改めることはできなかったのです。神様は彼を深く愛していたからこそ、預言者ナタンという「くつわや手綱」を使って、彼を力ずくで引き戻さなければなりませんでした。ナタンによって罪を突きつけられたことで、ダビデはようやく王というマスクを脱ぎ捨てることができたのです。この部屋にいる誰も、自分の力だけで真に悔い改めることなどできません。私たちには、引き戻してくれる「助け」が必要なのです。
だからこそ、神様は愛のゆえに、ご自身のひとり子を送ってくださいました。イエス様は、私たちをこの告白と命の道へと導き入れる「神の知恵そのもの」です。イエス様が十字架で死なれたとき、罪が償われないまま放置されるとどうなるかを、私たちにはっきりと見せてくださいました。あの十字架の上で、イエス様は詩篇32篇のあの苦しみを、私たちの身代わりに体験されたのです。その骨は干からびました。痛みと、孤独と、恥の中で、一日中ライオンのようにうめき声を上げました。神様の怒りという恐ろしい重みが、彼をゆっくりと押しつぶしていきました。
しかし、イエス様はご自身の罪のために死んだのではありません。あなたの罪のために死なれたのです。本来なら「私たち」が受けるべきであったあの恐ろしい沈黙、神様との断絶、そしてうめきを、イエス様がすべて引き受けてくださったのです。イエス様がそののろいを引き受けてくださったからこそ、彼を信じる者に何が起こるのかも明らかです。イエス様が三日目に墓からよみがえられたので、彼を信じる私たちはもう「ひねくれた反逆者」としてカウントされることはありません。 私たちは「神の義なる子ども」としてカウントされるのです。私たちが天国に入る時、私たちの過去をさばく者は誰もいません。私たちに恥をかかせる者は誰もいません。ただ「イエス様がすべてを支払ってくださった」という理由だけで、私たちは何百万もの御使いたちの喜びの歌声とともに迎え入れられるのです。
イエス様のおかげで、私たちの選択は驚くほど明白です。私たちは十字架にかけられるべき罪人でしたが、今は天国の喜びが約束されています。頑固ならば(ラバ)のようになってはなりません。父なる神様の胸に飛び込みましょう。今日、私たちの主イエス様に私たちの罪を告白しようではありませんか。そうすれば、私たちはこの世界のどんなものにも比べられない、本当の幸い、本当の喜び、そして本当の自由を経験するのです。お祈りします。
