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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌4番「父なる神力の主よ」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト記20章17節、 ピリピ人への手紙4章11-13節
聖書の話 「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌438番「川のような平安が」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報 告 Announcements
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。皆さんは、クリスマスの日や誕生日の日に、ずーっと欲しくてたまらなかった新しいおもちゃを、ついにプレゼントしてもらった瞬間のことを覚えていますか?箱を開けるときの、ドキドキ、ワクワクする気持ち。本当に最高ですよね。でも、思い返してみてください。一週間、一ヶ月と経つうちに、あんなに宝物だったはずのおもちゃが、いつの間にか部屋の隅に転がったままになって、「〇〇くんと同じおもちゃが欲しいな」なんて思ったことはありませんか?実は、大人も全く同じです。私たちは、持っていないものを追いかけている時が一番ワクワクして、いざ手に入ると、すぐに「あきて」しまって、また新しいものを探します。それは永遠のサイクルなのです。
これが、今日私たちが向き合う第十戒「むさぼってはならない」の本当の入り口です。多くの人は、この戒めを「欲しいものを我慢しなさい、楽しむのをやめなさい」という、冷たくてつまらないルールだと思い込んでいます。自分の心をカラッポにして、何も望まないようにするのが正しいことだと思ってしまうのです。しかし、それは大きな間違いです。私たちの心を造ってくださった神様は、私たちからワクワクする情熱を奪って、ただ我慢させたいのではありません。聖書がこの第十戒を通して私たちを招いているのは、「あれもこれもダメ」という、すぐに「あきて」しまうつまらない世界ではありません。むしろ、「神様の最高の恵みにいつもワクワクし、今あるものにいつも深く満足している」という、まったく新しいまことの喜びの世界です。イエス様は、第十戒を通して、私たちの心の仕組みを根底から作り替え、天国の永遠の喜びへと導こうとしておられるのです。
1.第十戒は神様の御心の地図
第十戒は、他のすべての戒めとは大きく異なっています。なぜなら、「ほかの神を拝む」とか「人を殺す」といった目に見える行動ではなく、完全に「目に見えない心の中」だけに焦点を当てているからです。この戒めは、私たちが喜びをもって満ち足りることを求め、むさぼることを禁じていて、自分の状況に満足し、感謝することを命じています。しかし、この「満足する」や「感謝」という言葉は、キリスト教以外の宗教でもよく使われるため、非常に誤解されやすいテーマでもあります。そこで今日は、クリスチャンのいう「満ち足りた心」がどれほどユニークなものなのか、第十戒の3つの要素を紹介したいです。
①クリスチャンの満ち足りた心とは、次の刺激を追い求める「快楽主義」でもなければ、欲を完全に消し去ろうとする「禁欲主義」でもありません。クリスチャンの喜びの形は、そのどちらよりもはるかに豊かで、ダイナミックなものなのです。
歴史を振り返ると、私たちはいつも、喜びに対する二つの間違った罠に陥ってしまいます。 一つ目は、快楽主義という「足し算」の道です。お金、快適さ、持ち物をとにかく増やすこと。今あるものよりも「もっと、もっと」と常に追い求める生き方です。 二つ目は、禁欲主義という「引き算」の道です。これは仏教やプラトン主義的な考え方で、地上の欲望から完全に自分を切り離そうとします。肉体的な欲求や目に見えるものへの願いは、霊的な喜びの邪魔物だとみなすのです。
実は私もかつては、クリスチャンの満ち足りた心というのは、どちらかといえばこの禁欲主義に近いものだと思い込んでいました。まるで神様から、「今のつまらない人生で我慢しなさい」とか、「喜んでもいいけれど、喜びすぎるなよ」と言われているかのように感じていたのです。でもある時、運動会の練習をしていた小学生の女の子から、こんな質問をされました。 「先生、クラスで一番足が速い人みたいに、私も速くなりたい!って思うのは、第十戒の違反(貪り)になりますか?」 この質問は、私のこれまでの考え方を根本からひっくり返しました。今よりも上を目指したいという向上心を持つことは、本当に第十戒の違反なのでしょうか?
最近読んだ脳科学の本(『The Molecule of More』)が、この人間の心の健康的なバランスを理解するのにとても役立ちました。著者は、私たちの脳には2つの全く異なる化学物質のシステムが組み込まれていると説明しています。
一つ目のシステムは、「ドーパミン」です。 ドーパミンは、よく「快楽の物質」と誤解されますが、実は違います。ドーパミンは「期待」や「ワクワク」の物質なのです。それは、人間の成長や発展を支える必要不可欠なエンジンです。私たちが新しい場所を探索し、革新的な技術を生み出し、ビジネスを立ち上げ、結婚相手を熱心に追い求めるのは、すべてこのドーパミンが私たちを突き動かしているからです。それは人類をより高い境地へと押し上げる原動力です。しかし、これが人間の「罪の性質」によって暴走すると、私たちは終わりのないランニングマシーンに閉じ込められてしまいます。なぜなら、ドーパミンは「まだ手に入っていないもの」にしか興味がないからです。目標を達成した瞬間にドーパミンは急降下し、いわゆる「ハネムーン期間」は終わります。ローリング・ストーンズのボーカル(Mick Jagger)が、その生涯で4,000人もの女性と関係を持ったという有名な話があります。計算すると、5〜6日に1人のペースです。明らかに、彼は「運命の一人」を探そうとしていたのではなく、次々と訪れる一時的なドーパミンの興奮を追いかけていたのです。
この暴走のバランスを取るために、神様はもう一つのシステム、「今、ここ(Here and Now)」の科学物質を造られました。 これは主に、セロトニン(平安と満足の物質)、オキシトシン(深い絆と愛の物質)、そしてエンドルフィン(快適さと安らぎの物質)です。これらの科学物質は、未来を見るのではなく、私たちが「今、ここ」に留まり、目の前の現実を楽しむことを可能にしてくれます。目の前にいる配偶者や子どもたち、そして今の生活に対して、深い満足感と感謝を味あわせてくれるのです。しかし、このシステムにも生物学的な限界があります。それが「慣れ」という現象です。脳はエネルギーを節約するために、ずっと続く一定の刺激を自然とシャットアウトしてしまいます。そのため、新しい刺激がないと、どんなに美しい現実であっても、やがて「当たり前の風景」になってしまい、退屈や停滞を生み出すことになります。
では、どちらの化学物質が良いのでしょうか?実は、どちらも神様が造ってくださり、両方が絶対に必要です。使徒パウロは、ピリピ人への手紙の中でこの二つの極端に見える姿を見事に生きてみせました。彼は一方では、「目標を目指して前へと身を伸ばして走る」(ピリピ3:13-14)というあくなき向上心を燃やし、もう一方では、「どんな境遇にあっても満足する秘訣を心得ている」(ピリピ4:11-12)と、深い感謝と安息を語っています。これこそが神様の創造の美しさなのです。神様が用意してくださる次のサプライズや成長に向かって情熱的に突き進む「ドーパミン的な向上心」と、今すでに与えられている神様の完璧な計画に対して、セロトニンに満ちた「深い感謝」を捧げること。この二つは常にセットです。どちらか片方だけを選ぶのは、片足だけで走るようなものです。「期待する」と「満足する」の間を「バランスをとる」ではなく、両方を「全開」にして生きることが神様がデザインして下さった喜びです。
②むさぼりとは、何かを「愛しすぎている」ということではありません。実は、「愛が足りていない」ということなのです。
第十戒を読むと、私たちはつい、むさぼりとは「家や配偶者、キャリアなどの目に見えるものを愛しすぎることだ」と思い込んでしまいます。私も長い間そう考えていましたが、それは根本的に間違っていました。例えば、私があなたの一軒家を訪問して、その素晴らしい建築を見て「こんな素敵な家に住めたら最高ですね!」と言ったとします。私はむさぼったのでしょうか?いいえ、違います。私はただ、神様が与えてくださった良いものを純粋に喜んだだけです。
では、むさぼりとは一体何なのでしょうか。列王記第一21章に登場するアハブ王のむさぼりを考えてみましょう。アハブは国全体を治め、宮殿に住み、莫大な富を持っていました。それなのに、彼はひどいうつ状態になり、ベッドに寝込んで食事さえとらなくなってしまいます。なぜでしょうか?隣人のナボテが、小さな野菜畑を売ってくれなかったからです。
アハブは、野菜を「愛しすぎていた」ベジタリアンだったのでしょうか?いいえ、違います。むさぼりというものは、実は「欲しい対象そのもの」にはあまり関心がありません。むさぼりが気にしているのは「他人との比較」なのです。アハブには、隣人に対する愛が全くありませんでした。そのため、彼のねたみは激しい怒りへと変わり、最終的にたかが小さな土の塊のために、ナボテを殺害してしまいました。むさぼりとは、物に対する愛が「多すぎる」ことではありません。隣人に対する愛が「欠けている」ことなのです。
C.S.ルイスは、著書『天国と地獄の離婚』の中で、このことを実に見事に描いています。ルイスは、パムという母親の幽霊について書いています。彼女は天国に招かれたのですが、息子のマイケルに今すぐ会わせろと要求します。彼女の兄は、「まずは神様を愛することを学ばなければならない。そうすれば、息子への愛も完全なものになるから」と優しく説明します。しかし、パムは激怒します。自分の母親としての愛はすでに完璧だと思い込んでいる彼女は、こう爆発するのです。
「あの子は私のものよ、わかるでしょ? 私の、私の、私のものなのよ!……私は自分の息子が欲しいの。絶対に手に入れてみせるわ。もしあの子が手に入らないなら、天国なんて何一ついらないわ!」
結局、彼女は天国に入ることを拒否します。彼女の要求は、一見すると「激しい愛」のように見えます。しかし実際には、これこそが最も深いレベルの「むさぼり」なのです。彼女は息子を「自分の所有物」として愛していました。神様への絶対的な愛が欠けていたため、彼女は息子を本当に愛することができず、「自分が一番の存在になれない天国」よりも地獄を選んでしまったのです。私たちが第十戒を破ってしまうとき、それは決して「この世のものを愛しすぎている」からではありません。「神様と隣人への愛が足りていない」からなのです。
③むさぼりの反対にあるものは、クリスチャンの喜びです。それは単なる「一つの感情」ではありません。私たちのすべての感情の根底に流れるものなのです。
ここで一つ、気をつけていただきたいことがあります。クリスチャンの喜びとは、単に「いつもニコニコしてハッピーだ」とか「心安らかでリラックスしている」という一つの感情のことではありません。パウロは、この喜びを次のように表現しています。
「14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。 15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、 16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです… 17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。 18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」(ピリピ2:14-18)
パウロはここで、とんでもないことを言っています。彼は骨の折れるような苦労をし、牢屋に入れられ、処刑を待っている状態でした。自分のいのちが、神様への「注ぎのささげ物」として血のように流されようとしている。それでも、そこには荒野のイスラエルの民のような「不平」も「不安」も「怒り」もなく、純粋な喜びがあると言っているのです。
皆さん、この時パウロは悲しくなかったのでしょうか? 痛みを感じていなかったのでしょうか? 悔しさや恐れはなかったのでしょうか?もちろん、ありました。悲しみも痛みもあったはずです。しかし、クリスチャンの「喜び」は、一つの絵の具というよりも、キャンバスなのです。人間のすべての感情がその上に描かれている限り、私たちの悲しみも、痛みも、不安も、怒りも、恐れも、決して罪にはならないのです。「クリスチャンの喜び」という揺るがない土台の上にパウロは立っていたからこそ、彼の悲しみや痛みは、「むさぼり」や「不平」といった罪に変わることはありませんでした。
だからこそ、クリスチャンの喜びは「世の光として輝く」のです。状況が良い時に喜ぶことは、誰にでもできます。しかし、すべてを失い、血を流し、深い悲しみや痛みのただ中にあっても、なお神様にあって喜ぶ。そのような生き方は、この世のどこを探しても存在しません。この世にはない喜びだからこそ、むさぼりの暗闇の中で圧倒的な光として輝くのです。
2.第十戒という試金石
第十戒の構造がわかったところで、旧約聖書の歴史全体を通して、神の民がどのように振る舞ってきたかを見てみましょう。むさぼる(欲しがる)こと自体は、それほど悪いことではないと思うかもしれません。しかし、神の民の歴史の重要な場面を振り返ると、実はこの「むさぼり」こそが、私たちが神様の御前にいる資格を失わせるものなのです。なぜでしょうか? 私たちがむさぼるとき、それは常に「神様に対する不満」の表れだからです。
なぜアダムとエバは、エデンの園で実を取ったのでしょうか。それは、彼らが、神様が「善悪の知識」を十分に与えてくれなかったと不満を抱き、憤ったからです。「なぜ神様はこれを出し惜しんだのか?」と。けれども、彼らがエデンの園を追い出された本当の理由は、根本的なところで「神様に愛されていること」を信じられなかったからです。皆さんは、神様が与えてくださらなかったものを見て、心のどこかで「神様は私を十分に愛してくれていない」と神様を責めたことはありませんか?
イスラエルの民は、状況が本当に悪化すると――水や食べ物が尽きたり、想像を絶する程の敵の軍勢に囲まれたり、悲劇に見舞われたりすると――神様に従う喜びをあっさりと忘れてしまいます。それどころか、彼らは神様を「裁判」にかけ、民を裏切ったと告発し、神様に対してクーデターを起こそうとするのです。その様子が最もよく表れているのが、出エジプト記14章11-12節の言葉です。
「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
荒野を旅する間、神の民はこの種の「不平」を絶え間なく繰り返しました。だからこそ、旧約聖書では「不平」が極めて重い罪とされているのです。新約聖書で「むさぼること」や「過度な思い煩い」が偶像礼拝と呼ばれるのも同じ理由です。それは、すべてを備えてくださる神様に対する根本的な不信感なのです。皆さんは、神様に見捨てられたと責めたくなるほど、不平を言ったり、何かをむさぼり求めたことはありませんか?
これまでの話で、喜びを追い求めることは、「神様が与えてくださったものにあきること」でも「不満を抱くこと」でもないことを学びました。クリスチャンの喜びは、決して神様の恵みにあきません。この罪を最も鮮明に表しているのが、ダビデ王の姿です。ダビデは「神の心にかなった人」として知られていました。神様のために最高のものを追い求める「向上心」を持っている人です。同時に彼は、たとえ敵から迫害され辱めを受けたとしても、神様のしもべであることに常に深く満足している人でもありました。
ところが、ダビデはその人生の絶頂期に、神様を追い求めることをやめてしまいます。神様にあきてしまったのです。それと同時に、神様がすでに与えてくださったものにも満足できなくなりました。その結果、彼は何をしたでしょうか? 皆さんもご存知の通りです。宮殿から見下ろして部下の妻に目を留め、彼女を自分のものにするために奪い取り、その部下を殺したのです。ここで非常に重要なのは、神様がダビデの罪を責めたとき、姦淫や殺人、あるいは権力の乱用についてではなく、「むさぼり」の罪として彼を告発したということです。神様はダビデを、夕食のために貧しい人の子羊を奪った金持ちに例え、このように責め立てます。
「イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。 どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。』」(第二サムエル12:7-9)
ダビデは、神様を追い求め、必要なものを神様に願い求めることにあきてしまったのです。ある意味で、ダビデの心は、約束の地を手に入れた後に神様を忘れてしまったイスラエルの民の心そのものです。そしてそれは、私たち自身の心でもあります。私たちは神様にあきてしまい、神様が素晴らしい喜びで私たちを驚かせてくださることを、期待しなくなってはいないでしょうか。
3.十戒はイエス様を指し示す矢印である
第十戒は、最終的に救い主イエス・キリストをまっすぐに指し示す矢印です。アダムやイスラエルの民、そしてダビデ王は神様にあきてしまい、持っていないものをむさぼって失敗しました。しかし、イエス様は私たちの身代わりとなり、この第十戒を完全に守り抜いてくださいました。イエス様の生涯を見つめるとき、今日学んだ要素が完璧に体現されている事がわかります。
まず、イエス様は「向上心」と「満足感」を完璧に生きられました。父のみこころを行い、失われた者を救うという燃えるような情熱、つまり神様のためのドーパミン的な熱意に突き動かされながら、同時に、枕する所もない状況でも「今、ここ」のセロトニン的な深い平安に完全に満たされていたのです。また、自分の欲のために隣人から奪うのではなく、私たちが生きるためにご自分のいのちを差し出すほど、神と隣人を最大限に愛されました。ゲツセマネの園や十字架の上で、最も深い悲しみや恐怖を味わわれた時でさえ、そのすべての激しい感情は、父への完全な従順という「喜びのキャンバス」の上に描かれていました。だからこそ、イエス様は一度も不平を言わず、むさぼらず、完璧にこの戒めを成就されたのです。
イエス様が私たちのために、この完璧な業を成し遂げてくださったからこそ、私たちは素晴らしい未来へと招かれるのです。それは、第十戒を守るための葛藤が完全に消え去る永遠の世界、すなわち「天国」です。
天国は、むさぼりのない世界が完全に実現する場所です。そこでは、「もっと」を求める心と、「今、ここ」の満足感との間の緊張が、ついに完璧な形で統合されます。私たちは二度と神様にあきることはありません。神様は無限のお方です。神様の栄光と威厳を次々と発見する驚きによって、私たちの心は永遠にワクワクし続けます。私たちは常に神様をもっと深く知ろうと、喜びをもってますます神様との関係を深め続けます。それと同時に、神様の臨在という絶対的な安心感の中で、私たちの心は完璧に満たされるのです。
さらに、天国では神様と隣人への愛が最大化されるため、「ねたみ」が完全に消滅します。他の人が受けている祝福を見たとしても、私たちは純粋な喜びだけを感じるようになります。この地上で私たちを苦しめる、他人との苦しい比較はもう存在しません。
天国の喜びとは、感情が消え去った『モノクロの世界』ではありません。天国は、罪の汚れが一切ない完璧なキャンバスの上で、あらゆる豊かな感情のパレットを全開で味わう、もっとも鮮明で、活き活きとした世界です。ですから、第十戒を単なる「重苦しいルール」として見ないでください。これは、栄光に満ちた天国への招待状です。今日、私たちが神様を熱心に追い求め、日々の備えに深く満足することによって「むさぼり」と戦うとき、私たちはただルールを守っているのではありません。私たちはまさに今、天国の圧倒的な喜びを、生きた形で前倒しして味わっているのです。お祈りします。
