2026年6月21日礼拝 説教 「上げられた王、引き寄せられる民」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ書45章22-24a節
さんび Opening Praise Behold Our God ~神を見上げて~
さんび Praise 子羊をばほめたたえよ

~Crown Him with Many Crowns~

開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第2戒 出エジプト記20章4-6節)

コリント人への手紙第二6章15-18節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ペテロの手紙第一1章18-19節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書12章9-36節
聖書の話 Sermon 「上げられた王、引き寄せられる民」

 

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」
主の献金の招き Lord’s Call to Give 使徒の働き2章43-47節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きたいのですが、アニメの『マッシュル』って知っていますか?主人公のマッシュは、みんなが魔法が使える世界なのに一人だけ魔法が使えず、「できない人」と見なされ、普段はぼーっとした顔で、大好きなシュークリームのことばかり考えている地味な少年です。ところが、どんなに凄まじい魔法を使う最強の敵が現れても、彼はトコトコとやって来て、文字通り自慢の筋肉と圧倒的なパワーだけで、魔法をつかわず、相手の魔法を素手ではね返し、一瞬でボコボコに倒してしまうんです。あの、エリートたちの派手な魔法をこぶしで倒す瞬間は、見ていて最高に気持ちいいんです。今日の聖書に登場する大群衆がイエス様に期待していたのも、まさにこのマッシュのような圧倒的なヒーローの姿でした。彼らは、死んだラザロを生き返らせたイエス様の凄まじいパワーを見ていたからです。

ところが、イエス様は、私たちがマッシュを見てスカッとするのとは、完全に「真逆」のものでした。イエス様は、「わたしは敵を力づくでぶっ飛ばす王ではない。一粒のタネのように、今から最も惨めで、恥ずべき十字架にかかって、負けて死ぬために来たのだ。」と言われたのです。これを聞いた人々は、あまりのショックで言葉を失ってしまいました。多くの場合、私たちがイエス様を信じきれない時の本当の理由は、自分を勝たせてくれる、見ていて気持ちが良くなるような都合のいいヒーローは欲しいけれど、「十字架へ行く私についてきなさい」と要求するような王様には、どうしても従いたくないからです。今日は、私たちのそんな自分勝手な期待をひっくり返してしまうような、イエス様の十字架への歩みを見ましょう。

 

1.エルサレムを揺るがした『よみがえり』

ヨハネの福音書の前半は、イエス様が起こされた一連の奇跡の記録であり、そのクライマックスが「ラザロの復活」です。この前半部分を通して、非常に興味深い緊張感がずっと流れています。それは、これらの「しるし(奇跡)」を目撃した人々と、イエス様との間の緊張感です。しかしその一方で、イエス様の奇跡やその圧倒的な「力」にだけ強い興味を持ちながらも、イエス様を救い主としては必ずしも信じない人たちも大勢いました。さらに、イエス様が率いるこの新興宗教のような動きを、何としてでも力ずくで弾圧しようとする、強い敵意を持ったユダヤ人のグループも存在していたのです。イエス様が奇跡を重ねれば重ねるほど、この緊張感は爆発的に膨れ上がっていきました。

 

そして、エルサレムのすぐ近くの町で起こった「ラザロを生き返らせた奇跡」こそが、まさに決定的な転換点となったのです。このラザロのお葬式には、イエス様に敵対していたエルサレムからも、多くの人々が集まっていました。そこで彼らは、イエス様が起こされた文字通りの奇跡を目撃します。イエス様は、死んで墓の中にいたラザロを、死からよみがえらせたのです 。これを見た人々がエルサレムにそのニュースを広めると、今度はイエス様と、よみがえったラザロを一目見ようと、大勢の群衆がベタニヤへと押し寄せてきました。そしてその翌日、ベタニヤでの滞在を終えたイエス様がエルサレムに入られると、大群衆が「ホサナ!主の御名によって来られる方に祝福あれ、イスラエルの王に!」と大声で賛美しながら、熱狂的にイエス様を迎え入れたのです。

ここで心に留めておきたいのは、ヨハネの福音書において、イエス様はこれまでにエルサレムを3回、実際に訪れているということです。しかし過去のどの訪問も、今回のように温かく迎えられることはありませんでした。それどころか、訪問を重ねるごとに敵意は爆発的に膨れ上がり、ついには公然たる殺意へとエスカレートしていったのです。だからこそ、イエス様を単なる「宗教哲学者」とか「預言者」、「立派な偉人」という枠に収めることは絶対に不可能なのです。イエス様を最も疑っていた人たちでさえ、彼が「神の子、メシア」という自らの宣言を証明する数々のしるしを行われた、特別な存在であることを知っていました。旧約聖書のゼカリヤ書には、王がろばの子に乗ってやって来るという預言があります(ゼカリヤ9:9)。神様は、この王を通して、神の民から「戦車」や「軍馬」を断絶し、彼らを自分の民の群れとして救うと約束されました。エルサレムの群衆は、ついにイエス様を自分たちの「メシヤ」として受け入れる準備ができたのでした。

 

2.世界が従う、一粒の麦の即位式

この「王と救い」の約束は、もともとはイスラエルの民に与えられたものでした。しかし、このメシアの元には、ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人のグループも集まってきていました。旧約聖書を丁寧に読んできた人なら、この真の王が、あらゆる国の人々をメシアの御前に引き寄せる「世界的な」支配者になるという預言が、数多くなされているのを知っているはずです。だからこそ、パリサイ人たちが放った「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」という皮肉混じりの言葉は、本人たちの意図を超えて、これから起こる驚くべき現実を告げる「預言」となったのです。ギリシャ人たちがイエス様を訪ねてきたということは、旧約聖書の預言が、もはや遠い未来の話ではなく、今まさに「ここ」で現実になったということを意味していました。

だからこそ、ここでイエス様が語られた「人の子が栄光を受ける時が来ました。」という言葉には、とてつもなく深い意味が込められています。

 

まず、「人の子」という表現は、旧約聖書のダニエル書7章にある有名な預言を指しています。そこでは、神である「年を経た方」の前に「人の子のような方」が進み出た瞬間、すべての諸国民、諸言語の人々を永遠に統治する絶対的な権威が授けられます。これこそが、イスラエルの民がずっと待ち望んでいた「全世界を治める絶対的支配者」の姿だったのです。 この預言の文脈からすれば、人の子が「栄光を受ける」というのは、まさに彼が王位に就く「即位式」の日のことであり、「年を経た方」とともに全地を支配する、最終的な終わりの日を意味します。弟子たちは今すぐ王座に就いてほしいと願っていましたが、イエス様はこれまで『わたしの時はまだ来ていません』と繰り返してこられました。それなのに、ギリシャ人たちの到来を引き金として、ついに『時が来ました』と言われたのです。ご自身が全世界の支配者となるプロセスが始まったという宣言に、弟子たちがどれほど興奮したかは想像できると思います。

しかし、イエス様がその「栄光を受ける」とは具体的にどういうことなのかを説明されるとき、私たちはその言葉を極めて慎重に、耳を澄まして聞く必要があります。イエス様は、私たちが絶対に聞き漏らすことのないように、「まことに、まことに、あなた方に言います」という言葉を二度繰り返して、こう言われました。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままで残ります。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

これは、当時の人々にとって、まさに衝撃的な発言でした。人の子が栄光を受け、旧約聖書のすべての預言が成就するその姿は、ダニエル書7章に描かれているような、堂々とした、力強くダイナミックな王のイメージとは、完全に正反対のものだったからです。

なぜこの言葉が、私たちの耳にこれほどまでに衝撃的に響くのか、3つの理由に分解してみましょう。第一に、人の子は「一粒の麦」だということです。 敵の骨を砕くような、恐ろしい戦車などではありません。第二に、人の子が栄光を受けるために必要なのは、自分たちを苦しめる圧倒的な抑圧者を打ち殺すことではなく、人の子「ご自身の死」であるということです。 しかも、それは避けて通れない絶対的なものです。第三に、人の子の支配とは、時間をかけて「徐々に実を結んでいく」ものだということです。 皆さんは、種が麦へと成長していく姿を見たことがあるでしょうか。それは決して、一瞬でカタがつくような、決定的で劇的な勝利ではありません。イエス様は今、私たちに語りかけておられます。「これこそが、人の子が受ける栄光の姿であり、終わりの時代の始まりなのだ。」と。

 

3.いのちを捨てる、王の配下

しかし、イエス様が語られた『栄光』は、熱狂する群衆の期待とは真逆のものでした。だからこそイエス様は、強烈な命令を突きつけられます。

 

25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。

要するに、イエス様はこうおっしゃっているのです。「もしあなたが、人の子の受ける栄光にあずかりたいと本気で願うなら、あなたもまた、わたしが歩むのと同じ、あの『栄光への道』を歩まなければならない。王であるわたしが死ぬのなら、あなたもまた、死ななければならないのだ。」と。

では、この「死に従う歩み」とは、一体どのような姿でしょうか。そのヒントは、前回読んだばかりの「マリアとユダ」の姿にあります。王の葬りのために全財産を惜しみなく投げ出したマリアと、自分の損得勘定を守るために王とともに死ぬことを拒絶したユダ。イエス様はここで、非常に都合の悪い事実を私たちに突きつけておられます。口では「私は弟子です」と言っていても、中身が本当にそうであるとは限らない、ということです。

 

4.「苦悩の栄光」――私たちの計算を揺るがす十字架

この瞬間、ペテロのような熱血な弟子たちは、おそらく「もちろんです!イエス様のためなら、喜んでこのいのちを捧げます!」と大声で叫びたくなったに違いありません。しかし、続くイエス様の言葉に耳を傾けてみてください。イエス様はこう言われたのです。「今、わたしの心は騒いでいる。」

これから味わう「死による栄光」を前にして、イエス様の心は激しく引き裂かれていました。あまりの苦しみに、「父よ、この時からわたしをお救いください」と叫びだしたいほどだったのです。しもべは主人に勝ることはできません。もし、私たちの王であられるイエス様でさえ、この死を前にしてこれほどまでに悶え苦しまれたのだとしたら、私たちが受ける苦しみや動揺は、本来、どれほどのものであることでしょうか。

しかし、イエス様はその計り知れない恐怖と苦悩を心に抱えながらも、このように祈られました。「父よ、御名の栄光を現してください。」イエス様が、この苦悩に満ちた「死による栄光」を最後まで突き進まれた理由。それは、ご自分の目的、生きる理由、そして「栄光を受ける」ことの本質が、自分自身の名前をあげることではなく、ただ「父なる神の御名の栄光を現すこと」だったからです。するとその瞬間、父なる神様が、誰もがはっきりと聞き取れる天からの声で応えられました。「わたしはすでに栄光を現した。また、さらに栄光を現そう。」神様はそこにいたすべての人の前で、人の子であるイエス様が受ける栄光は、父なる神によって完全に承認され、全面的に支えられているものであることを明確に証明されたのです。

 

集まっていた群衆の間に、言いようのない不穏な緊張感が走ったのを、私は確信しています。なぜなら、彼らの心の中に、どうしても答えの出ない一つの大きな疑問が浮かび上がったからです。「なぜ、世界を支配するはずの『人の子』の栄光が、イエス様の心をそれほど騒がせているのでしょうか?」という疑問です。そこでイエス様は、ご自分の死の目的である、最も決定的な核心を説明されます。「今がこの世の裁きです。今、この世を支配する者が追い出されます。」ダニエル書7章の通り、人の子は父なる神の絶対的な権威のもとで、この世のすべての悪を裁き、悪を叩き出して人々を救い出されるのです。この「裁き」とは、同時に「救い」そのものです。 そして、この世のあらゆる悪の支配者こそが、サタンなのです。「裁きの日」とは、人の子がサタンを完全に叩き出す日のことです。神の民は、旧約聖書の数々の預言を通して、この「終わりの日」がいつか必ず来ると信じて生きてきました。そしてイエス様はここで、決定的な宣言をされたのです。「その最後の日が、今なのだ。今日、これが始まるのだ。」と。ついに、終わりの時代が幕を開けたのです。これこそ、まさに群衆が熱狂し、期待し、お祭り騒ぎをしていた理由そのものでした。

 

ところが、次にイエス様が口にされた一言が、その場にいた全員の心を根底から激しく揺さぶることになります。

32 「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」 33 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

要するに、イエス様はこういう途方もないことを宣言されたのです。「裁きによる救いを成し遂げ、この人の子が全世界に平和の統治を確立するためには、わたしが十字架の上に『高く上げられ』、最も惨めで、最も屈辱的な死を遂げなければならない。」と。私たちは「群衆はイエス様の言葉を誤解したんじゃないか」と思うかもしれません。しかし、彼らはイエス様の言葉の意図を100%正しく理解し、それゆえに、あまりのショックで完全に戸惑ってしまったのです。だからこそ彼らは、すぐさまイエス様にこう詰め寄りました。「ちょっと待ってください。聖書(律法)には、人の子(メシア)の支配は永遠に続くと書いてあるではありませんか。それなのに、どうして人の子が十字架にかけられなければならない(上げられなければならない)と言うのですか?」

 

5.証拠の問題ではない――「光」を信じるか、拒絶するか

では、イエス様はこの群衆の問いに対して、どのように答えられたのでしょうか。ここで極めて重要なのは、イエス様が彼らに「あぁ、心配しなくていいよ。十字架にかけられた3日後に、わたしはちゃんとよみがえるからね。」といったような、直接的で親切な説明を一切されなかったということです。

なぜでしょうか。理由は2つあります。第一に、イエス様が死を打ち破る力を持っておられることは、すでに分かりきった「事実」だったからです。他の福音書でも、イエス様は「自分は十字架にかけられ、3日目によみがえる」と弟子たちに何度も言葉で伝えておられましたし、何よりも、つい先日、ラザロを生き返らせることで「わたしには死人をよみがえらせる力がある。」という決定的な証拠を、全員の前で見せつけられたばかりだったからです。そして第二の、より本質的な理由はこれです。群衆が疑っていたのは、証拠が足りなかったからでも、イエス様の説明が分かりにくかったからでもありません。彼らの問題は「頭の理解」ではなく、「心の拒絶」でした。 群衆はただ、自分の思い通りの王、自分の欲や損得勘定を満たしてくれる王が欲しかっただけなのです。十字架にかかって死ぬような王、負けることによって支配するような王には、どうしても従いたくなかったのです。

イエス様は、彼らの神学的な理解をつつくような問いに答えるのではなく、彼らの「心の胸ぐら」をつかむように、こう言われました。「わたしは世の光です。わたしはそのことを、すでにあなた方に証明しました。死人をよみがえらせ、父なる神様もたった今、天からの声で、この人の子が栄光を受けることを承認されました。確かに、これから暗闇の時が来ます。わたしはあの十字架の上に上げられ、死ななければなりません。今ここで問われている最も重大なこと、ゼロかイチかの決定的な問いは『あなた方は、今、目の前にいるこの光を信じるのか』」ということです。私たちは、この光の放たれ方が気に入らないかもしれない。十字架の死という、あまりにも惨めな姿を通して光が輝くことに、つまずき、憤りを感じるかもしれない。しかし、それでも私たちはこの光を信頼するのか。その決断をして、この光に身を委ねるときに初めて、私たちは『光の子たち』、すなわち、この光の国のまことの国民となることができるのです。

 

この内容を振り返って、皆さんに三つのことを覚えていただきたいです。

①「終わりの日」はすでに始まっている。だがそれは、私たちの想像を絶するほどに長く、苦痛に満ちている。

私たちは今、とてつもない「逆説(パラドックス)」の時代を生きています。イエス様は「最後の日、終わりの時代は『今』なのだ」と宣言されました。まさに、今この時です。つまり、それはすでに始まっているということです。この世に対する最終的な裁き、そして神の民の完全な救いは、もうここから幕を開けているのです。イエス・キリストの十字架の死、復活、そして天への昇天こそが、人の子が栄光を受けるプロセスの始まりでした。イエス様は「年を経た方(父なる神)」から全地を治める絶対的な権威を授かり、真の王として、すでに「即位」されたのです。だからこそ、私たちはこの方を私たちのメシア、私たちの王として、大いに喜び、賛美する絶対的な理由がここにあるのです。

しかし、イエス様がこの栄光に満ちた即位のプロセスを始められてから、すでに2000年近くが経とうとしています。この王の即位式は、まるで「一粒の麦」のようなどん底から始まるのだ、とイエス様は言われるのです。それは、地に落ちて死なねばならず、実を結ぶまでに途方もない時間がかかる即位式です。それは、「誰も求めていない」ような王の姿です。そして、何よりも「長い」のです。そこには、数々の恥辱と激しい苦しみが伴います。しかし、私たちは覚えねばなりません。私たちの思いをはるかに超えた方法で、神様の「最後の日」は、もうすでに始まっているのです。

 

②反逆にまみれた私たちを光の国へ引き寄せるため、王は十字架で死なねばならなかった。私たちはこの姿を、本当に受け入れますか。

私たちがこうして待ち続けるのは、すでに過去において「ある決定的な出来事」が起こったからです。もともと私たちは、神に選ばれた民ではありませんでした。言ってみれば、イエス様の元にやって来たあのギリシャ人たちと全く同じ存在です。私たちには、神の民になる権利などみじんもありませんでした。神の国の一員となり、約束された救いを受け取る資格など、どこにもなかったのです。それはまるで、日本の市民権を持たない北朝鮮の人が、日本に向かって「私を国家として救い出してくれ」と要求するようなものです。

 

それなのに、イエス様がしてくださったのは、私たちを「光の子」とし、ご自分の国の市民とし、恐ろしい裁きから私たちを救い出すことでした。私たちがこの「光の国」の市民権を得るために支払われた代価とは光の国の真の王であるイエス様が、あの惨めな十字架にかけられることでした。私たちが神の国に入るためには、それ以外の方法は絶対にあり得なかったのです。私たちは本当に理解しているでしょうか。これほどまでに途方もない代価が支払われたという事実を、私たちは本当に心から受け入れているでしょうか。

 

③この世の華やかさを捨て、世の光とともに死の暗闇へと歩む覚悟はありますか?

もし私たちが、「この世の光であられるイエス様が死の暗闇を引き受けてくださったからこそ、自分が光の子になれたのだ。」という事実を本当に受け入れるなら、この世が誇るきらびやかな華やかさは、もはやそれほど魅力的なもの、輝かしいものには映らなくなります。それと同時に、私たちが明日からの日常で直面する、あの人生の暗闇や、思い通りにいかない苦しみ、主に従うがゆえに受ける痛みの数々も、もはや絶望的な暗闇ではなくなります。なぜなら、私たちの王はすでにそれ以上の死の暗闇を通り抜け、そこを希望と、光と、救いの始まりへと変えてくださったからです。それ故、私たちが王とともに歩む十字架の道は、決して惨めな敗北ではありません。それこそが、私たちが何よりも切望する歩みであり、私たちのいのちの唯一の源なのです。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church