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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 95篇6-8節 |
| さんび | Opening Praise | キリストが全て
All I Have Is Christ |
| さんび | Praise | 希望の歌 |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第3戒 出エジプト記20章7節)
テモテへの手紙第二2章19-21節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ペテロの手紙第一5章10-11節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌319番「主イエスの御声は罪ある者を」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書12章36-50節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「私たちへの最期の招き」
マーク・ボカネグラ牧師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌129番「暗闇に輝く灯」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | ローマ人への手紙12章1-2節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたち、こんな経験はありませんか? 自分で靴ひもを頑張って結ぼうとするとき、または、勉強や友達関係でひどく悩んでいて、心の中がもうパンクしそうになるぐらい解決を探している時、お父さんやお母さんが「大丈夫? 手伝おうか?」と優しく声をかけてくれます。本当はものすごく苦しくて、誰かに助けてほしいと心の中で叫んでいるのに、なぜかその瞬間、「大丈夫だから! 放っておいてよ!」と冷たく突き放してしまいます。自分一人ではどうにもならないと分かっているのに、自分の弱さやかっこ悪いところを見せるのが嫌で、どうしても素直に助けを受け入れられない。そんなふうに意地を張ってしまったことはありませんか?
実は、大人である私たちも、神様に対して全く同じことをしています。自分の心の中に、自分ではどうにもならない暗闇や罪、人目を気にするしがらみがあると分かっているのに、いざイエス様が「わたしを信頼して、すべてを委ねなさい」と手を差し伸べてくださると、私たちは「結構です」「自分のやり方があります」と拒絶してしまうのです。これが、私たちの心の恐ろしい「頑なさ」です。今日の聖書箇所では、イエス様の圧倒的な奇跡を目の前で見ても、それでも助けを拒んだ人々の姿を通して、私たちの内にあるこの「根深い反逆心」を見つめます。では、絶対に自分から助けを受け入れようとしないこのカチカチの心を、イエス様はどうやって解きほぐすのでしょうか?今日のメッセージの最後で、私たちの意地を打ち砕く、イエス様の「十字架という究極の愛の姿」にたどり着きます。それについて一緒に考えていきましょう。
⒈最後のしるしの結論:熱狂ではなく「信頼」を
著者のヨハネが、このヨハネの福音書の前半を書き記した目的は非常にシンプルです。それは、読者である私たちに「イエス様こそが神の子である」と確信してもらい、この方を信じて「永遠のいのち」を受け取ってもらうためでした。そのためにヨハネは、イエス様が行われた数々の奇跡や、群衆に向けて語られた説教を、「目撃者の証言」として丁寧に記録していきました。およそ3年にわたるその働きの後、イエス様は「過越の祭り」の時期にエルサレムへと入られます。それは、世界中に散らばっていたユダヤ人たちが、一斉にエルサレムへと集まってくる特別な季節でした。イエス様のエルサレムへの「入城」は、大成功に見えます。多くのユダヤ人たちは、イエス様がメシア(救い主)になってくれることを熱望していました。7つ目の、そしてクライマックスとなる「ラザロの復活」という奇跡は、かつて疑い深かった群衆を、イエス様の熱烈な支持者へと変えたのです。皆さんも、この群衆の姿を見ればとてもワクワクするかもしれません。しかし、イエス様ご自身は、この群衆の熱狂に全く心を動かされていませんでした。
そして、彼らに、「人の子」として栄光を受けるメシアが、父なる神様と共に天と地を治めるとはどういうことかを、丁寧に説明されました。確かにそれは、全世界を治めることであり、すべての悪を根絶やしにする「さばきの日」を含んでいます。しかし同時にそれは、この同じメシアが、彼らが憎んでいたローマ帝国の処刑台――すなわち十字架――に架けられることも意味している、とイエス様は宣言されました。そしてイエス様は、熱狂する群衆全員に向かって、ご自分と同じようにその「死」へと従ってくるようにと招かれたのです。
しかし、群衆はすっかり混乱してしまいます。そこでイエス様は、最後にこの言葉を語られました。「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」そう言って、イエス様は彼らから身を隠されたのです。そして、著者のヨハネは、ヨハネの福音書の前半の結論を、この衝撃的な一文に集約しています。「イエスが彼らの目の前でこれほど多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」
これは、彼らが「イエスはメシアになれるかもしれない」とか「力ある聖なるお方だ」と信じていなかった、という意味ではありません。実際、誰もそのことを否定してはいませんでした。しかし、イエス様が求めておられた「信仰」、すなわち「信じること」は、もっとシンプルなものなのです。イエス様は、あなたのお金を求めているのではありません。お世辞も求めておられません。「おおー!」とか「すごい!」といった感嘆の声も求めておられません。感謝の捧げ物や、何かを犠牲にして忠誠心を証明することすら求めておられません。イエス様が求めておられるのはたった一つ、「私たちの信頼」なのです。イエス様は、あなたの人生そのものをイエス様に委ねて、信頼してほしいと願っておられます。ご自分の言葉を、あなたの人生の揺るぎない土台として信頼してほしいのです。
「信じること」をこのように定義したとき、これほどの奇跡を――ラザロの復活でさえも――見せられたにもかかわらず、ユダヤの人々はイエス様を信頼しませんでした。神様が彼らに示された「光」を、彼らは「信頼」しなかったのです。皆さんは、「これは何か新しい課題なのかな?」と思うかもしれませんが、実はイエス様は、ご自身の働きの最初から全く同じ課題に直面しておられました(ヨハネ2:23-25を見てください)。10章にわたって奇跡に次ぐ奇跡を見せ、説明に次ぐ説明を重ねてきても、結果は全く同じだったのです。おそらく私たちは、このことに戸惑いを感じるでしょう。「ちょっと待って、私たちも同じかもしれない。イエス様は私たちの内に何が見えるのだろうか? 信仰だろうか、それとも不信仰だろうか?」と不安に思うかもしれません。
⒉驚きではない不信仰:イザヤが預言した拒絶
これは非常に落胆させられる、あるいは恐ろしいことのように思えるかもしれません。しかし、私たちに最も大きな希望を与えてくれる事実があります。それは、神様もイエス様も、この結果に全く驚いておられないということです。ヨハネ12章38節には、「それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。」とあり、それに続いてイザヤ書53章1節が引用されています。これは非常に興味深く、また圧倒的な力を持つ、深い意味に満ちた引用です。
紀元前700年頃、神様は預言者イザヤを通して、帝国の抑圧下にある神の民に救いの「良い知らせ」を約束されました。主なる神様は、神の存在をあざ笑う無数の帝国によって抑圧されているエルサレムと神の民に、救いをもたらすという「良い知らせ(福音)」を届けようとされたのです(イザヤ52:3-6参照)。いつの日か、主はすべての国々の目の前で「聖なる御腕をまくり上げ」、ご自分の民のために戦う姿をすべての人に示されると約束されました。
では、全世界が目撃することになるこの「救い」とは一体何でしょうか?神様は、一人の聖なる「しもべ」を遣わされます。神様はそのしもべを高く上げ、あがめ、民の前で栄光をお与えになるのです。しかし、神様がこのしもべに栄光をお与えになるとき、イザヤは「多くの者がそのしもべの姿を見て驚き、ひどくショックを受けるだろう」と語っています。なぜなら、そのしもべはあまりにも激しく打ちのめされ、その顔は「彼は本当に人間なのか?」と人々が尋ねるほどに形を失ってしまうからです。国々はその光景に驚愕し、王たちでさえも言葉を失い、完全に混乱してしまうほどです。その後に何が起こるかを知っている私たちには、イザヤがここでイエス様の「十字架の処刑」について語っていることが分かります。
これらを説明した上で、イザヤ書53章1節が語られます。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。」ある旧約学者が言うように、これは「これが神の救いの力だなどと、一体だれが信じられただろうか?」という意味です。要するにイザヤは、キリストの十字架について聞いたとき、誰もそれを信じないだろうと預言しているのです。ですから、イエス様が「人の子は十字架に高く上げられなければならない」と語り、神の民がショックを受けたとき、ヨハネは「これはまさに、神様が700年前に預言された通りに起こっているのだ」と指摘しているのです。
⒊光を憎む暗闇:私たちの反逆心
しかし、ヨハネはさらに深い神学的な解説を加えています。彼らが理解できなかった究極の理由はこうです。
「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。 彼らがその目で見ることも、心で理解することも、 立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないよう。」
これを聞くと、神様は残酷だと思われるかもしれません。まるで神様が積極的に人々の目を見えなくしておきながら、「お前たちは目が見えない」と責めておられるかのように感じるからです。しかし、ヨハネの福音書の別の例えを見れば、ここで本当に起こっていることが理解できると思います。
3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。 20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
イエス様が「真理」、そして「光」として来られたとき、暗闇の中で生きている人々は、必然的にその光によって目が見えなくなります。彼らは自分たちの悪を必死に隠し続けたいと願っているため、彼らの心はさらに頑なになってしまうのです。悪を行う者たちが悔い改める(立ち返る)ことをしないのは、自分たちの姿を明るみに出してしまう光を憎んでいるからです。イエス様の光が暗闇にいる人々の目をくらませ、心を頑なにさせるのは、イエス様が悪意を持っておられるからではありません。「暗闇」にいる人々が、根本的に「光」を憎んでいるので、「光」の前で強い拒絶反応をもたらすのです。ですから、不信仰というのは単に「知的な証拠が足りない」という問題ではありません。それは、私たちの心の根深い反逆心がもたらす反射的嫌悪感なのです。ある神学者はこのような例えを使います。同じ太陽の光が『蝋』を柔らかく溶かす一方で、『泥』をカチカチに固めてしまうのと同じです。太陽の光に悪意があるのではなく、固まってしまうのは泥自身の性質なのです。私たちの「罪深い心」は「泥」と同じです。
これは少し抽象的に聞こえるかもしれませんが、見事に人の心を描くヨハネは、暗闇にいる人々が光を前にしてどのように心を頑なにさせていくのかを、具体的な姿として私たちに見せてくれます。群衆は、イエス様が死者をよみがえらせる力を持っているという否定できない真実を目の当たりにしました。そして、イスラエルに救いをもたらす、イザヤが預言した「神のしもべ」としてのイエス様の『栄光』を神様ご自身が雷のような声に出して裏付けられるのを、文字通り聞いたのです。その結果、多くの人々が信じました。しかし、彼らはこの世界の救い主に対する信頼を、公に告白しようとはしませんでした。
なぜでしょうか?「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」とヨハネははっきりと指摘します。彼らがキリストの輝かしい栄光を拒んだのは、人間の承認という、「暗闇の栄誉」を深く愛していたからです。これは、今の私たちにとってどういうことでしょうか? 例えば、自分のイメージを守りたいために、自分がクリスチャンであることを隠してしまうことはありませんか? 近所の人や友達や親戚に認められるために、神様の真理を曲げてしまうことはないでしょうか?そして、もしキリストの「光」が私たちが喉から手が出るほど望んでいる「人間の栄誉」を脅かし、それを無くそうとするなら、私たちは一体どんな行動に出ると思いますか?
⒋イエスの最後の言葉:おぼれゆく者への叫び
これまで様々なことを語ってこられた後、ヨハネの福音書の大きな流れの中で、イエス様は十字架に架けられる直前に、公の場での「最後の説教」をなさいます。これは、十字架に向かわれる前のイエス様が、私たち一人ひとりに直接語りかけておられる最後の言葉だと言えるでしょう。群衆に対するイエス様の最期の言葉とは、どのようなものだったのでしょうか。
「イエスは大声で叫んで言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないようにするためです。わたしの言葉を聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たからです。』」
イエス様はここで、私たちがついてこられないことにイライラして冷たく哲学を講義しているのではありません。また、自己啓発のコーチのように優しく励ましているのでもないのです。聖書には「大声で叫ばれた」とあります。それは、巨大な波に飲み込まれそうになっている我が子に向かって、「早くそのライフジャケット(命綱)を掴むんだ!」と喉が裂けるほど必死に叫ぶ父親の姿そのものです。
では、そのライフジャケット(命綱)とは何でしょうか? それはイエス様ご自身です。イエス様は、ご自分こそがこの世界における絶対的で唯一の「光」であると宣言しておられます。カルヴァンはこのことについて、こう描きます。
「今、もしこの世のすべての知恵を一つの巨大な山に集めたとしても、その中にまことの光の筋は一つも見出せないだろう。それどころか、それは混沌とした闇の塊にすぎない。なぜなら、私たちを暗闇から救い出すことができるのは、キリストただお一人だからである。」
イエス様が私たちの救いについて、これほどまでに断定的で、厳しく、鋭い主張をなさるのは、決して意地悪だからでも、私たちを排他的に扱って、人を見下すためでもありません。実は、全くその逆なのです。イエス様が「わたしだけが唯一の光だ」と必死に叫ばれるのは、一人でも多くの人を救いたいと心から願っておられるからです。この「他には道がない」というメッセージの裏にあるのは、イエス様の圧倒的な愛なのです。
イエス様は私たちを救いたいからこそ、「天国への道はいくつもあるよ」などとは言われませんし、私たちの状態を見て「ありのままでいいんだよ」と耳障りの良い言葉で妥協することもありません。私たちを深く愛するがゆえに見殺しにすることができず、「わたしを信じないと、あなたたちは完全な暗闇の中にいる」という厳しい現実を教えてくださるのです。イエス様は私たちを救いたいからこそ、命を得る唯一の方法は、ご自分の言葉を聞き、それを人生の土台として守ることだけだと語られるのです。
皆さんはこう思うかもしれません。「なぜイエス様は、ご自分の言葉だけが人を救うことができると、そこまで言い切れるのだろう?」と。その理由は、イエス様が「究極の裁判官」から遣わされた方だからです。その裁判官とは、私たちのすべての言葉、すべての行動、そして心の中の隠れた思いに至るまで、えこひいきする事なく、ご自身の完璧な基準で量られる神様です。そして神様は、私たちが自分自身の力だけで裁きの座に立ったとき、どのような判決が下されるかをすでに知っておられます。だからこそ、神様はご自身のひとり子であるイエス・キリストを遣わして、この言葉を私たちに語らせられたのです。イエス様の心は、父なる神様の御心と完全に一つです。だからこそ、イエス様はこう締めくくられます。
「わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」
⒌覚えていただきたい3点
本日の聖書箇所をみて、皆さんに三つのことを覚えていただきたいです。
① 私たちの心が、どれほど恐ろしく頑ななのか理解できるでしょうか?
もし誰かが「信じること」を説得できるとしたら、それはイエス様ご自身のはずです。イエス様は全宇宙の創造主であり、一言で何兆もの銀河を呼び出す事がお出来になるお方です。漁師さえ震え上がる嵐に向かって「黙りなさい」と言えば海は一瞬で凪になり、どんな鎖でも縛れない悪霊の軍団も「出て行け」の一言で一目散に逃げ出します。しかし、その同じお方が私たちに「わたしを信じなさい」と言われるとき、私たちは「いやです」「そのうちね」と答えます。決定的な奇跡を見せられても、「へえ、いいお話ですね」と言って自分の道へと歩き出してしまうのです。私たちの罪深い心は、嵐や悪霊よりも反抗的で、全宇宙を創造した御声にさえ背を向けて、反抗する度胸があるほど、カチカチに固まっているのです。
② イエス様が私たちの頑なな心のために、何をしてくださったのか知っていますか?
ヨハネの福音書の前半が伝えたい核心は、単に私たちがどれほど頑なであるかを指摘することではありません。なぜイエス様が、私たちのために十字架で死ななければならなかったのかを説明することなのです。ヨハネが今日の箇所でイザヤ書53章1節を引用したのは、その後の内容を思い出させるためです。イザヤ書53章には、私たちが主のしもべを「顔を背けるほど蔑み、尊ばなかった」(3節)とあります。これが私たちの抱える「病」の深刻さです。私たちはイエス様を神の敵であるかのように「神に打たれた」と思い込み(4節)、彼を「刺し」「砕き」、殺してしまったのです(5節)。狼から守ろうとする羊飼いの声を無視するように、「私たちはみな、羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った」のです(6節)。
神様の目から見れば、私たちは本来なら取り除かれ、さばきを受けるべき存在です。しかし、主のしもべが「屠り場に引かれて行く羊のように」(7節)殺されるのをお許しになったのは、頑なな人々の罪、さばき、そして「背き」をご自身の身に負うためでした(8節)。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(5節)。私たちのカチカチの心を癒やし、さばきから救い出すために、イエス様は顔が誰だか分からなくなるほど姿を損なわれ、あの十字架で苦しまなければならなかったのです。
③ご自身を無残(むざん)に破壊するあの十字架へと向かわれるイエス様が、私たちに「信頼」を求めておられます。
十字架に向かわれる前の、私たちへのイエス様の最期の言葉はこれでした。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないようにするためです。」私たちが自分自身の頑なさと、自分の心の暗闇と、自分の罪の中で溺れてしまわないように、イエス様は叫び、私たちに「わたしを信頼しなさい」と求めておられるのです。イエス様を信頼すべき神学的、あるいは哲学的な理由はたくさんあります。しかし、誰の心にも真っ直ぐに届き、実感できる最大の理由はこれです。私たちがイエス様を信頼できるのは、彼が私たちのために十字架へと向かって歩みながら、この言葉を語っておられるからです。
神学について疑いを持つこともあるでしょう。聖書の歴史性や、今の時代に役立つのかどうかを疑うこともあるかもしれません。しかし、私たちのためにイエス様が進んで十字架で死んでくださったことが、私たちに対する「最高の愛の形」であることだけは、決して疑うことができないはずです。どうか、イエス様に私たちの人生を委ね、信頼してください。なぜなら、これほどまでに私たちを愛してくれる方は、他にはどこにもいないからです。お祈りします。
