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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌245番「御名をほめ讃える歌声より」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌355番「私の望みは」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 ダニエル書1章1-21節
聖書の話 「バビロンに呑み込まれない生き方」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌158番「子羊をばほめたたえよ」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報 告 Announcements
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。誰も知らない新しい学校に「転校」する時のことを想像してみてください。みんなが自分とは違って、クリスチャンがやらないことをしていて、「仲間外れにされたくないから、本当はやりたくないけど、みんなに合わせちゃおう」って無理をしたことはありませんか?実は、大人も全く同じことをしてしまいます。神様を信じない職場や社会の中で、「みんなに合わせないと失敗する」「偉い人に気に入られないと生きていけない」と怖くなって、本当は神様が喜ばないことなのに「いいよ」と周りに流されてしまうのです。私たちはいつの間にか、「神様よりも、世の中の強い人や仕組みのほうがパワーがある」という嘘のメッセージを信じ込んでしまいます。今日の聖書に登場する4人の若者たちは、まさに「周りのルールに完全に合わせないと殺されるかもしれない」という、ものすごいプレッシャーの中に放り込まれました。でも彼らは、神様を信じない場所にいくことを怖がりませんでした。それどころか、「王様の力に頼らないと生きていけない」という心にある嘘をきれいに洗い流して、恐ろしい王様に堂々と立ち向かったのです。彼らがどうやってその大混乱の中で生き抜いたのか、今日一緒に見ていきましょう。
1.ダニエル書の歴史的背景
今日、初めてダニエル書を読む方もいるかもしれません。ダニエル書1章1節の始まりは、特定の年――紀元前605年――だと正確にピンポイントで特定することができます(ちなみに、その頃の日本は「縄文時代」でした)。当時の情景を皆さんの目の前に描いてみたいと思います。想像してみてください。それはもう、本当に恐ろしくて、先が見えない大混乱の時代でした。皆さんの住む「ユダ」という国は、南のエジプト帝国と、北の冷酷なバビロン帝国という、二つの超大国の激しい争いの「ど真ん中」に挟まれたちっぽけな王国だったのです。
このパニックを理解するためには、少し歴史をさかのぼる必要があります。かつての栄光ある統一王国はとうの昔に分裂し、北半分のイスラエル王国はすでに滅亡していました。残された南半分のユダ王国も、かろうじて持ちこたえてはいましたが、その内側はすでにボロボロに腐りきっていました。彼らは自分たちを救い出してくださった聖書の神様への信頼を少しずつ失い、代わりに「どの大国に味方すれば生き残れるか」という政治的な駆け引きばかりに頼るようになっていたのです。
最後の「神に従順な王」であったヨシヤ王でさえ、この罠にはまりました。紀元前609年、ヨシヤは神様に信頼する代わりに、大国間の戦争に自ら「軍略家」として介入しようとしたのです。神様からの「手を出してはいけない。これはあなたの戦いではない」という警告を無視し、エジプト軍の行く手を阻むために出撃した結果…その賢いと思っていた政治的計算は最悪の形で裏目に出ました。彼はあっけなく戦場で命を落とし、逆にユダ王国全体が大国に食い物にされる悲劇の引き金を引いてしまったのです。
ヨシヤの死後、紀元前605年、若きバビロンの王子ネブカドネザルが北から嵐のように攻め下り、エジプト軍を徹底的に粉砕し、ユダの王エホヤキムを青銅の鎖で縛り上げて家臣とし、神の神殿を略奪したのです。神の民はオオカミのような奴隷商人に食い物にされながら、父親に見捨てられた子どものように感じていたと思います。もし皆さんが、自分の人生や今の世界を見渡したときに、彼らと同じような感情を抱くことがあるなら、このダニエル書は今のあなたに深く語りかけるものとなるはずです。
2.カオスの上におられる神様
しかし、この悲劇のただ中で、私たちは自問しなければなりません。神様はいったいどこにおられたのでしょうか?ダニエル書1章2節の、衝撃的な答えを見てください。「主は、ユダの王エホヤキムを彼の手に渡された。」とても短い一文ですが、私たちの常識を根底から覆すような、力強い宣言です。この状況全体が、聖書の神様の、緻密で正確な、主権に満ちた御手によって注意深くコントロールされていたのです。神様は、巨大で強情な異教の帝国でさえも思いのままに操り、ご自身の計画という美しいメロディーを奏でさせることのできる、絶対的な指揮者のようです。
神様がこの出来事の「約1000年も前」から、何百年もの間、多くの預言者を通してもし民が神様を拒むなら外国の力によって約束の地から追い出すと明確に警告しました。地の果てから異教の軍隊を「口笛」で呼び寄せ(イザヤ5:26)、あの冷酷なネブカドネザル王を「わたしのしもべ」(エレミヤ25:9)と呼んで裁きの剣とされるという、恐ろしい警告でした。しかし、神の民はこれを親のハッタリだと思い込む反抗期のティーンエイジャーのように、鼻で笑って無視し続けたのです(第二歴代誌36:15-16)。そしてついに紀元前605年、神様は約束通りの裁きを実行されました。神様は地政学的なカオスにコントロールを奪われたのではありません。ご自分の正しい裁きを行うために、このカオスを「お用いになった」のです。
3.カオスの中に歩む神の民
そして、この場面を想像してみてください。エジプト軍を徹底的に打ち砕き、ユダ王国を服従させたネブカドネザル王が、「ただ手ぶらでは帰らないぞ」と決めた時のことです。彼は神殿を略奪しただけでなく、ユダの貴族の家系から、最高に優秀で、最も見栄えの良い十代の若者たちを自分で選び出しました。あなたがその中の一人だと想像してみてください。故郷から引き離され、何百キロも離れた異国の地へと連行されるのです。
バビロンの人々は、この若者たちをただ奴隷にしたかったわけではありません。彼らの目的は、若者たちを根本から「作り変える」ことでした。ユダの最も優秀な頭脳を首都で洗脳し、ゆくゆくは高官としてエルサレムに送り返し、自分たちの国をコントロールさせるためです。バビロン帝国は、この十代の若者たちを、自分たちの「支配のための強力な武器」に作り変えようとしていたのです。旧約聖書学者のイアン・ドゥグイドは、この過酷な3年間の再教育プログラムを次のように説明しています。
「まず、彼らの名前そのものが変えられました。ダニエル(神は私のさばき主)、ハナニヤ(主は恵み深い)、ミシャエル(神のような者は誰か)、アザルヤ(主は助け主)という、イスラエルの神様をたたえる素晴らしい名前から、ベルテシャザル、シャデラク、メシャク、アベド・ネゴという、バビロンの異教の名前が付けられました。これらの新しい名前は、イスラエルの神様ではなく、ベル、アク、ネボといったバビロンの偽りの神々に助けを求める名前です。第二に、彼らはバビロンの言語と文学を徹底的に教え込まれました。聖書の代わりに、異教の神話や伝説を彼らの世界観の土台とするためです。第三に、彼らには王の食卓から、毎日ごちそうとぶどう酒が特別に与えられました。彼らが新しい主人(王)に完全に依存する生活に慣れきってしまうためです。」
アイデンティティの完全な破壊です。新しい名前、新しい言葉、新しい世界観、そして新しい食事。もしあなたがダニエルだったら、この時どう感じたでしょうか? 敗北感でしょうか。絶望でしょうか。恐ろしいほどの無力感でしょうか。それとも、自分の人生をめちゃくちゃにした帝国への、燃えるような復讐心でしょうか。
しかし、このユダの忠実な若者たちを見るとき、私たちは衝撃的な事実に気づきます。彼らは恐怖で身動きがとれなくなったわけでもなく、反抗心で燃え上がったわけでもありませんでした。彼らがバビロンのシステムに対して抵抗した形跡は驚くほど少ないのです。異教の神々の名前を付けられても、癇癪を起こして暴れるようなことはありませんでした。それどころか、猛勉強に飛び込んでいったのです。彼らはいったい何を学んでいたのでしょうか? 単なるバビロンの歴史ではありません。彼らは「カルデア人の呪術(占い)」を学んでいました。星を読み、夢を解き明かし、動物の肝臓を調べ、呪文を唱えるといったオカルトの専門家になることを強制されたのです。これらはすべて、約束の地では神様が厳しく禁じていたことでした(申命記18:9-14)。
では、どうして彼らはこの状況を生き抜くことができたのでしょうか?それは、ユダの若者たちが「二重の国籍」とでも呼ぶべきものを、完全に受け入れていたからです。彼らは、自分たちが今や「バビロンの物理的な住人」であるという現実を受け入れました。しかし同時に、心の中では帝国と明確な距離を置いていたのです。なぜなら、自分たちの究極の国籍は「ヤハウェ(主)」にあると知っていたからです。彼らは、ヤハウェこそが真の王であり、口笛一つでエジプト、アッシリア、バビロンの帝国を興したり滅ぼしたりできるお方だと知っていました。宇宙の王座にどなたが座っているのかを知っていたからこそ、バビロン帝国が自分たちを本当に滅ぼすことなど絶対にできないと分かっていたのです。
4.捕囚の地における神の二つの恵み
しかしダニエルは、ある一つのことに関しては、絶対に譲れない一線を引きました。「ダニエルは、王の食べるごちそうや飲むぶどう酒で自分を汚すまいと心に定めた。」(1:8)。私は長年「ダニエルは旧約聖書の食事ルールを厳格に守っていただけだ。」と思っていました。でも、それだけではつじつまが合いません。旧約聖書でぶどう酒は「汚れ」ではありませんでしたし、代わりの野菜も異教の神様の支配の下で育ったものでした。さらに後のダニエル書10章2-3節を読むと、彼は晩年普通に肉を食べ、ぶどう酒を飲んでいたことが分かります。
では、ダニエルが1章でこれほどまでに恐れた「汚れ」とは、いったい何だったのでしょうか?イエス様は、人を本当に汚すのは「口に入るもの」ではなく、「心に根付くもの」だと教えておられます。何世代にもわたって、イスラエルの王たちを汚し、滅ぼしてきた「嘘」。それは、「神様に頼るよりも、帝国の政治的・軍事的な力に頼る方が強力だ。」という嘘でした。
ダニエルと友人たちは、バビロンの、人を酔わせるような贅沢と圧倒的な力の中にどっぷりと浸かっていました。王のごちそうは、「ネブカドネザル王こそが君たちを養い、君たちの主人であり、君たちの救い主である」という、バビロンの絶対的な力を毎日思い知らせるシンボルだったのです。ダニエルは、自分の心をその「嘘」からデトックスする必要があると気づきました。そこで彼らは、帝国のシンボルである王のお肉とお酒を断食する決断をしたのです。それは、静かで、さりげない、しかし命がけの反逆でした。彼らはこう言っていました。「私たちはあなた方の偉大な文化を徹底的に勉強します。しかし、私たちの力は、あなた方から来るものではありません。」
王のごちそうを拒むことは、反逆罪に等しい行為でした。では、彼らのこの静かな信仰の決断に対して、神様はどう応えられたでしょうか? 神様は一つ目の「恵み」を与えられました。1章9節です。「神は、ダニエルが宦官の長の前に恵みとあわれみを受けられるようにされた。」宦官の長であるアシュペナズは、ネブカドネザル王の力を恐れ、拝んでいた者でした。もし少年たちがやつれて見えたら、自分の首が飛ぶことを知っていたので、公式に許可することはできませんでした。しかし、神様の守りを信じていたダニエルは、決して怒ったり暴れたりしませんでした。彼は礼儀正しく、しかも政治的にも賢く立ち回りました。直接の世話係に掛け合い、野菜と水だけの「10日間のテスト」を提案したのです。神様が守っておられたので、宦官の長はおそらく見て見ぬふりをしてくれたのでしょう。
その結果はどうだったでしょうか。「十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだつきも肥え太っていた。」 これは、この4人の若者たちに与えられた、奇跡的で、誰も否定できない証拠でした。彼らが捕囚の地に連れてこられたまさにその最初の日から、「ヤハウェ(神様)に静かに拠り頼むことは、世界最強の帝国に頼るよりも、はるかに強力である」ということが証明されたのです。
そして、神様は若者たちに二つ目の恵みを下さいます。17節です。「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を理解する力と、知恵を授けられた。ダニエルは、すべての幻と夢を解くことができた。」考えてみれば、これは面白い話です。まるで神様が、この若者たちを「オカルト宗教の博士課程」に入学させ、奇跡を起こして彼らを学年トップの成績で卒業させたようなものです。彼らはあまりにも優秀だったので、20節にはこうあります。「王は、知恵と悟りに関わる事柄を彼らに尋ねたが、彼らがそのすべてにおいて、国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっていることが明らかになった。」しかし、若者たちはその呪法や呪文の力を全く信じていませんでした。
もっと壮大な皮肉があります。ネブカドネザル王は王座に座り、この4人の優秀な若者たちを見下ろしながら、誇らしげにこう思っていたことでしょう。「私がやったのだ。私がユダの田舎からこの少年たちを拾い上げ、彼らの無力な神から引き剥がし、食事を与え、教育を施し、私の栄光あるバビロンの姿に作り変えてやったのだ」と。しかしネブカドネザルは、彼らのその驚異的な優秀さが、自分とは全く関係なく、すべてイスラエルの主権者なる神様が与えられたものであることに、微塵も気づいていませんでした。若者たちは静かに王の異宗教を捨てていて、聖書の神様に忠誠を誓っていたのです。
5.究極の生存者
そして、この章の最後の一文にたどり着きます。「ダニエルはキュロス王の元年までそこにいた。」歴史的な事実をただメモしただけのように見えるかもしれませんが、ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザルヤが、あの恐ろしいバビロン帝国を前にしても震え上がらなかった理由が、この一節に込められています。「キュロス王」とは誰でしょうか? それは、数十年後にバビロンの門の下に軍隊を進め、ネブカドネザルが築き上げたその帝国を征服することになる、ペルシャの王です。
著者はここで、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?ダニエルの生涯の、途方もなく長いタイムラインを想像してみてください。彼は、あの残虐なアッシリア帝国が恐るべき力で勢力を拡大していく姿と、その滅亡を目撃しました。エジプトのファラオ・ネコが権力を握って勢いづく姿と、その致命的な敗北をも見ました。偉大なるネブカドネザル王の黄金時代に仕え、そしてその強大なバビロンが、一夜にして崩れ去るのを見届けたのです。そしてその後、ペルシャのキュロス王が新たな暴君として歴史の舞台に現れるのも見ました。
人間の帝国は立ち上がり、咆哮を上げ、そして塵となって消え去っていきました。しかし、ヤハウェ(神様)は王座に座り続けておられました。そして、人間の帝国よりも神様に拠り頼むことを静かに決断した、あの十代の捕囚の少年ダニエルは、そのすべての帝国を生き抜き、彼ら全員を見送ったのです。皆さん、考えてみてください。ヤハウェのおかげで、今日、ダニエルという名の一人の身分なきユダヤ人の捕囚民は、自分たちが世界を支配していると勘違いしていた、当時のどんな「偉大なる王たち」よりも、はるかに有名であり、はるかに多くの人々から愛されているのです。
6.三つ覚えていただきたいこと
① 私たちが犯しうる最も危険な過ちとは、全く間違ったものを恐れ、あるいは、全く間違ったものを信頼してしまうことです。
ダニエル書を読む時、私たちは本当の主人公である「神様」を見落としがちです。バビロンを用いてアッシリアとエジプトを打ち破られたのは、神様です。バビロンを裁きの剣として用いてイスラエルをさばかれたのも、神様です。大混乱の中に生きたダニエルを守り、祝福されたのも、神様です。ネブカドネザル王をどん底までへりくだらせ、後にはペルシャ帝国を通してバビロンを打ち負かしたのも、神様ご自身なのです。もしこのことを見落としてしまうなら、屈辱の中で滅んでいったかつての者たちが犯した、最大の過ちに気づくことができません。彼らは、目には見えないけれど無限の力を持つ「神様」を恐れることをやめ、目に見えるけれどやがて消え去る「人間の帝国」に信頼を置くことを選んでしまったのです。
世界中で移り変わる秩序を見つめている私たち。この社会の権力構造に直面している私たち。そして、予測不能でカオスのような人生の波に脅かされている私たち。私たちは今、「間違ったもの」を恐れたり、信頼したりするという過ちを犯してはいないでしょうか? それは、銀行口座の残高という目に見える安心でしょうか。あるいは、社会的なステータスや、特定の政治的なリーダーへの過度な期待でしょうか。私たちは何を恐れ、何に頼っているのでしょうか。
② 神様に完全に信頼するなら、最も異教的な学びを極めることも、暴君に毅然と立ち向かうことも恐れなくなります。
なぜ私たちは、聖書に反するような本を読んだり、メディアに触れたりすることを恐れるのでしょうか?なぜ私たちは、心から賛同できない相手に対して、へりくだって従うことをそれほどまでに恐れるのでしょうか?日曜日に教会へ行くために、友人や上司、あるいは権威ある人に対して「ノー」と言うことを恐れるのはなぜでしょうか?おそらく私たちは、「その人たち(や世の中のシステム)にこそ力がある。」という嘘を信じ込まされているからです。私たちが信じる神様は「悪い思想」から守ってあげなければいけないほど弱い存在なのだと、心のどこかで恐れているのです。自分が「断固として戦わなければ」すべてが壊れてしまうのではないかと恐れているのです。人生で成功するためには影響力や人脈、そして権力が必要であり、それなしには絶対に生きていけないと恐れているのです。もしかすると、私たちもダニエルたちのように「断食」をする必要があるのかもしれません。それは、「神様ご自身以外の何かに依存しなければ生きていけない。」という嘘から、私たちの心をデトックスする必要があるかもしれません。
③ すべての帝国が滅び去った後、最後に立ち続けるのは「ナザレから来た名もなきお方」です。
ダニエル書は「イエス様がいかなるお方であるか」を示す絵でもあります。ダニエルのように、イエス様はご自身の本来の故郷である天を離れ、この罪と悲しみに満ちた『バビロン(この世)』へと自ら進んで下って来られたお方です。イエス様はこの世におられましたが、この世のものではありませんでした。そして、本当の力がどこから来るのかを知っておられたからこそ、最後まで主に従順であられました。イエス様は、ローマ帝国、ピラトや議会、十字架刑、そして「死」にさえも喜んでご自身を委ねられ、それと同時に、謙虚に対抗することがおできになったのです。なぜそれができたのでしょうか?イエス様はそれらの力を恐れてはおられませんでした。ヤハウェ(神様)が、死の先に必ず「復活のいのち」を与えてくださることを知っておられたからです。すべての帝国が滅びた後、最後に立ち続けるお方。それは、ナザレから来たこの「名もなきお方」です。イエス様は、この地上の最も力ある者たちの誰よりも長く生き続けておられ、今や世界中のすべての人に知られています。私たちは本当の力がどこから来るのかを、もう一度覚えて、この世であるバビロンに吞み込まれないように歩んでいきましょう。お祈りします。
