2026年7月19日礼拝 説教  「主の家を築く」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇84篇1-4節
さんび Opening Praise ハレルヤ神の聖所で
さんび Praise 主の名を~O Praise the Name~
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第5戒 出エジプト記20章12節)

エペソ人への手紙6章1-4節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ローマ人への手紙8章14-16節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌45番「神の子羊」
聖書朗読 Scripture Reading ハガイ書1章1-15節
聖書の話 Sermon 「主の家を築く」

 

武井悠馬宣教師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌229番「キリスト教会の主よ」
主の献金の招き Lord’s Call to Give コリント人への手紙第二9章7-8節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer 武井悠馬宣教師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝祷 Benediction 武井悠馬宣教師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

皆さんもご存じの通り、先週の臨時総会で新しい土地の購入が決まりました。 これからこの教会に大きな変化が訪れるということを前にして、きっと皆さんの心にも様々な思いや感情が巡っておられると思います。何もないところから建物を建てるということは、大変な大仕事であると同時に、非常に大きな責任を伴います。これから先、教会としてどのように歩みを進めればよいのか、何を最優先して神様の栄光を現す判断をすべきなのか、まだ見えないことや、様々な戸惑い(不安)があることと思います。

実は、今日の聖書箇所にも、私たちと同じような状況に置かれていたイスラエル人が、何を優先してしまい、どうやって神様と歩んでいったのかが記録されているのです。しかし、前置きとしてお伝えしておきたいのですが、今日のメッセージは決して皆様に今後の建築計画を押し付けたり、決断を迫ったりするための説教ではありません。私たちがハガイ書から受け取るべきことは、1)自分の都合や居心地の良さではなく、神様の栄光を第一に求めるべきだということ。2)私たちが不安や戸惑いを抱え、どう進むべきか迷っている時も、神様はいつも誠実に私たちを導いてくださるお方である事を一緒に覚えたいです。この二つの点を覚えながら、今日の聖書個所を見ていきたいと思います。

まず、ハガイ書を読まれたことがないお方のために少しだけハガイ書の背景を説明します。

 

⒈ イスラエルの状況

かつて、イスラエルは約束の地、カナン、に住んでいましたが、バビロンに征服され、町と神殿が破壊され、残されたイスラエル人はバビロン帝国へと捕囚されました。彼らはこの異国の地で、70年という長い年月をかけて生き抜く術を学んだ上で、その土地の生活習慣に馴染んでいきました。ところが、70年が過ぎた時、歴史に大きな転換期が訪れました。新しい大国、ペルシャ帝国が登場し、バビロンを征服しました。これがイスラエル人にとって何を意味するかと言うと、せっかく70年もの歳月をかけて慣れ親しんだ生活を手放し、今度はペルシャという新しい国の支配下で、また新たな歩みを始めなければならないということでした。しかし、ペルシャとバビロンには大きな違いがありました。イスラエルの民に対してペルシャ帝国の方がやや緩やかでした。つまり、イスラエル人はもう少し自由を得られる事ができました。こうして、エズラ記やネヘミヤ記に記されている通り、イスラエルの民はペルシャ王の許しを得て故郷へと帰還し、神殿の再建を進める機会が与えられたのです。ハガイ書1章はこのことに関して書かれています。

しかし、この状況を考えてみてください。神殿の再建はものすごく大変な作業なので、おそらく様々な意見、不満、懸念がありつつ、イスラエルの指導者たちも迷っていた時期だと考えられます。ハガイ書1章1節の総督ゼルバベルや大祭司ヨシュアは神殿再建派でした。しかし、その一方、ほとんどのユダヤ人は戸惑いました。これには色んな理由があると思います。経済的に考えてみれば、新しい神殿を立てるという事は、大量な資源が必要です。数百年前のソロモンの神殿みたいな宮を再建するには相当な経済的負担がかかります。政治的な理由もあったかもしれません。ペルシャ帝国に対して強い義理や忠誠心を感じた人も多く、あえてその地に残ることを選んだ人々もいたかもしれません。あるいは神学的な理由があった人もいます。イスラエルのメシアが来るまで神殿を再建しないという意見もありました。

人々が抱えていた動機は一人ひとり異なっていましたが、彼らが唯一同意していたのは、「今はまだ神殿を再建する時ではない」という結論でした。しかし、この結論を神様は叱られます。

 

⒉ イスラエルの誤ち

一見すると、この結論はそれほど悪い決断ではないように思えるかもしれません。表面上は非常に論理的で、もっともな事情による判断だったのでしょう。けれども神様は、彼らの心の奥底にある本当の動機を、すべて見透かしておられます。なので、2節と4節では神様はこう語ります:「万軍の主はこう言われる。『この民は『時はまだ来ていない。主の宮を立てる時は』と言っている。この宮が廃墟となっているのに、あなた方だけが板張りの家に住む時だろうか。』」

神様はイスラエル人の動機を訴えています。皮肉を込めて言い換えるならば、神様はイスラエルの民にこうおっしゃっているのです:「わたしの家を建てる余裕なんてないと言い張っていたくせに、自分自身の家を建てることには、嬉々として時間と労力を費やしているではないか!」

つまり、イスラエルの人々は、理論や言い訳を使って、自分たちの心の内を隠そうとしていました。その本心とは、神様の栄光よりも、自分たちの生活や居心地の良さを優先してしまうものだったのです。彼らが下した判断自体が悪かったわけではないのです。神様が咎めておられるのは、むしろその決断の背後に隠された、自己中心的な考え方です。心の迷いのため、イスラエルの民は自分を優先し、誤った選択をしてしまいました。

 

かつてダビデ王の心に燃えていた主の家を建てるための情熱は、帰還したイスラエル人の中にはもはや残っていませんでした。なぜなら彼らは、神殿のないバビロンでの生活にすっかり慣れてしまっていたからです。それに加え、ゼロから神殿を再建するという一大事業を前にして、大きな戸惑いがありました。数々の困難を生き抜いてきた彼らは、何よりもまず自分たちの生活に目を向け、それを優先したかったのです。彼らの心の中には、「これ以上の苦労はもうたくさんだ」という心境があったのでしょう。

しかし、全能の主はイスラエル人の心を知っており、彼らのねじ曲がった優先順位を暴きます。優先すべき物は神様の栄光であり、神様の国と義を求めたら「これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)という真実をイスラエル人は忘れてしまったのです。

これを見てイスラエル人を批判するのは簡単かもしれません。けれども、彼らの心の迷いは、まさに私たち自身の心の鏡でもあります。 私たちも自分を優先するのが大好きなのです。なので、私たちは常に自分たちが置かれた状況や困難を言い訳にして、自分自身の生活を中心とした生き方を選んでしまいます。だからこそ、「もっと教会の交わりに加わるためには」、「教会に奉仕するためには」、あるいは「新しい会堂へ移る準備をするためには」、まずは自分たちの生活のすべてを整えなければならない、と考えてしまう事が多いかもしれません。例えば、こんな風に考えてしまうことはないでしょうか。「自分のキャリアがある程度軌道に乗るまでは、教会の交わりは控えよう。もっと時間に余裕ができたら参加しよう。」あるいは、「貯蓄が理想の額に達したら献金しよう。」「子どもの部活や進学が一段落して、もし時間が余ったら教会へ行こう。」

 

この考え方には大きな勘違いがあります。いつ神様を優先するかはあなたが決めることではありません。私たちがどのような行いをするときにも、あるいはいかなる状況に置かれていたとしても、常に神様とその御国を人生の中心に据えて忠実に歩むこと。それこそが、神様が私たちに求めておられることなのです。

この教会の過去25年間の歩みが証明していることは、私たちがこれまで直面してきたあらゆる状況や試練の中で、神様が常に私たちを支えてくださったということです。そうであるならば、神様が「すべてのことにおいて私を最優先にしなさい」と求めるのは、果たして厳しすぎる要求でしょうか?いいえ。神様の守りと支えがあるからこそすべてを捧げて神様と共に歩むことができます。

イスラエルの民に神様を最優先にする必要性を納得させるため、神様は彼らの生活のあり方について5節から問いかけ始めます。

 

⒊ 神様の訓練

5−6節では、神様はイスラエルの民に対し、自分たちのこれまでの歩みを振り返り、経験してきたことについてよく考えるよう切に訴えかけておられます。聖書には、彼らが「多くの種を蒔いても、収穫はわずか。」と記されています。「種を蒔く」というのは本来農業の種まきを意味しますが、預言者ハガイはこの言葉をより広い意味で、日々の生活の必要を満たすための「あらゆる営み」を指して使っています。

そして神様は、生活に必要不可欠な事柄を次々と挙げ始めます。食べても、決して満足できない。飲んでも、決して心が満たされることはない。服を着ても、決して暖まらない。一生懸命に稼いでも、まるで財布からお金が漏れ出ているかのよう。自分たちのために行うすべてのことが彼らを満足させず、望んだ結果をもたらさなかったと神様は指摘しています。生活のための基本的な営みをどれほど重ねても、心が満たされることはなかった空虚な生活を彼らは送っていました。

それでは、なぜ望まれた結果が出なかったのでしょうか?9節を一緒にご覧ください。神様はこう言っておられます。「あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰った時、私はそれを吹き飛ばした。それはなぜか。万軍の主のことば。それは、廃墟となった私の宮のためだ。あなた方がそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。」イスラエルの民が自分たちの家のために行ったすべてのことを、神様は吹き飛ばされました。なぜなら、彼ら自身は住み心地の良い家にしっかりと住み着いていたにもかかわらず、神様の家は荒れ果てたまま放置されていたからです。

神様は民が主の家を建てることを期待されましたが、彼らはそれに従いませんでした。ですから、神様は彼らの期待を打ち砕かれました。これはイスラエルへの訓練であり、もし神様を優先し、労力を主の家に注いでいれば、彼らの努力がこれほどむなしく終わることはなかったと示しておられるのです。神様の訓練を通して、主の恵みから離れて労苦することが、いかにむなしい結果に終わるかをイスラエルに教えておられたのです。

 

ですから、イスラエルを訓練するために、ご自身のすべての祝福を制限されました。彼らが自分たちの家を建てるための努力から多くを得ることがないように、神様は大地の自然な営みすらも制限されたのです。10−11節にはこう書かれています。「それゆえ、あなたがたゆえに、天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめた。わたしはまた、日照りを呼び寄せた。地にも山々にも、穀物にも新しいぶどう酒にも油にも、地が産み出す物にも、また人にも家畜にも、手によるすべての労苦の実にも。」イスラエルの民からは、大地のあらゆる恵みや自然の営みが断ち切られてしまいました。これはすべて、彼らが自分たちの間違いに気づき、すべてのことにおいて神様を優先する生き方へと立ち返るためだったのです。

ある意味、神様の訓練に私たちは驚きます。「主はご自分の民を戒めるために、これほどの事をされるのだろうか」と。しかしそれは、決して民を憎み、苦しむ姿を見たいからではありません。真逆なのです。天のお父様としての深い愛があるからこそ、ご自身が彼らの人生の中心となるように子供たちを訓練しておられるのです。問題は、私たちの心がとても頑なで、我が強いことです。だからこそ神様は、私たちが痛みや困難や不満を感じるような方法を通してでも、私たちの心を探り、新しく作り変えようとされるのです。

時には私たちも神様の訓練の下に置かれる必要があります。罪を抱える私たちは、ともすれば神様以外のもので心を満たそうとする誘惑に負けてしまいます。それゆえに神様はしばしば、私たちの欲や勝手な願い、そして心に絡みつくあらゆる茨を取り除き、代わりに本当に必要なもの、主の愛と恵みを与えてくださるのです。これこそが神様の愛の訓練です。私たちが最も依存してしがみついているものを奪い去ることで、神様は私たちの自己中心的な罪に目を覚まさせてくださいます。それは、私たちが再び神様のもとへ向かい、赦され、新しく造り変えられるためなのです。

 

また建築の件に戻りますが、私たちの教会が新たな章へと歩みを進める中で、私たちはこれから下すべき多くの決断を通して試されることになります。自分たちの優先順位は何なのか、なぜその決断をするのかということを、深く考えさせられるでしょう。しかし、これらはすべて神様からの愛ゆえの訓練なのです。それは、私たちが何よりもまず、神様の栄光と御国の前進を求めるようになるためなのです。そしてこれもまた、神様の訓練を通して、私たちがどのように悔い改め、神様に寄り添って歩むべきかを学ぶための、大切な機会の一つなのです。

同じように、イスラエルの罪深き偽善を神様が明らかにされた目的は、彼らを悔い改めへと導くためでした。今が主の家を建てる時だと気づかせるためだったのです。こうした訓練を通して、主は民の心と思いを造り変えられます。その結果は、熱心に神殿の再建に取り組もうとするイスラエル人の応答に表れています。

 

⒋ 再建の取り組む恵み

預言者ハガイを通して主の言葉を聞いたとき、イスラエル人はすぐに悔い改めをもって応答しました。これはイスラエルの民としては非常に珍しい反応なのですが、彼らは神様の命令に素直に従ったのです。12節にはこう書かれています。「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神、主の御声と、ハガイの言葉に聞き従った。民は主の前で恐れた。」

神様が彼らの罪を暴かれたとき、その心は完全に打ち砕かれました。自分たちの犯した過ちをはっきりと自覚したこの時、彼らは他の何ものでもなく、自分たちの神、主に寄り添い、身を委ねる決断をしたのです。

イスラエルの民のこの応答を見ると、私たちも深く共感するものがあります。神様が私たちの罪をあえて暴かれたとき、私たちができるのは、ただ悔い改めをもって主の御前に出ることだけです。なぜなら、私たちが完璧に心を尽くして神様の御国を最優先にして生きてはこなかったことを、痛いほど自覚しているからです。時には、福音のために自分自身の都合や安らぎを手放すことができなかったこともあったでしょう。また、キリストのようであるべきだと頭では分かりつつもその意味を見失い、兄弟姉妹に短気を起こしたり、愛し難く感じたりしたのかもしれません。

私たちが自分の神であり、王であるお方に背いてしまったと自覚したとき、その事実は私たちの胸に深く突き刺さります。しかし、ただ罪の中に取り残されたままであれば、私たちは何の慰めも見出すことはできません。ですから、13節にある主の御言葉こそが、私たちの魂にとって最大の慰めの源となるのです。

悔い改めたイスラエルに対する主の答えは、驚くほどシンプルで、力強いものでした。「わたしはあなたがたと共にいる。」主は決して、イスラエルを見放してはおられませんでした。彼らの罪をあえて暴きながらも、主は御手を広げ、深いあわれみと恵みをもって彼らを包み込もうと立ち向かってくださるのです。これと全く同じ宣言が、今、あなたと私に対しても語られています。なぜなら神様は、私たちの罪を背負い、心を尽くして主に従うことのできるイエス様を、遣わしてくださったからです。

イエス様が地上に遣われたとき、主の家への熱情に満ちていました。万物を創造された前から永遠に父なる神と共にいたため、イエス様は誰よりも主の住まいを愛しておられたのです。そして、イエス様の死と復活によって民をキリストのからだへと集め、新しい神殿である「教会」を建てられました。キリストの従順ゆえに、神様は今、日々私たちと共にいてくださいます。彼こそが、まことの神殿を建てる働きを成し遂げた救い主なのです。

その一方で、イエス様は神様の御国を第一に求めない私たちの自己中心的な失敗を引き受けてくださいました。私たちは自分の家や王国を建てることばかりに関心がありますが、その失敗は十字架でキリストが負われました。キリストが神の怒りを受けてくださったため、私たちは決して神の怒りに直面することなく、父なる神の訓練だけを受ける神の子になりました。主の家に対する私たちの熱情のなさは十字架で払われました。失敗ゆえに神様が私たちを見捨てることは決してありません。

これこそが、私たちの仕える神様です。恵み深く、あわれみに満ち、忍耐強く、そして誠実な神様。私たちを、ご自身の「家」として迎え入れてくださるお方です。この神様の愛こそが、私たちが主の家に仕えるための最大の原動力なのです。私たちが自分自身を犠牲にしてでも神様の御国に仕えようと突き動かされる理由は、この地上に主の愛以外にはありません。

 

ですから、イスラエル人も14節で仕事に取り掛かりました。この新たな働きがどれほど多くの不透明な点や不安、そして労苦を伴うものであったとしても、彼らは必ずそれを成し遂げるでしょう。なぜなら彼らは、神様のあわれみと恵みを深く経験したからです。

私たちもまた、「主の家を築く」という歩みを進めなければなりません。ただしそれは、目に見える物理的な建物以上に、神様の群れである「神の家族」を築き上げるという大切な使命です。神様はこの25年間海浜幕張めぐみ教会に対し、本当に忠実に皆様を導いてきてくださいました。だからこそ、私たちはこれからも神様の豊かな恵みと変わらない導きに拠り頼みながら、共に主の家を築き上げることができます。お祈りしましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church