2026年7月26日礼拝 説教 「苦しい状況に輝く希望」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇34篇6-10節
さんび Opening Praise 新しい命
さんび Praise 死を打ち破り
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第6戒 出エジプト記20章13節)

ヨハネの手紙第一3章14-15節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ローマ人への手紙5章8-10節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌121番「ああ主は誰がため」
聖書朗読 Scripture Reading ハガイ書2章1-9節
聖書の話 Sermon 「苦しい状況に輝く希望」

 

武井悠馬宣教師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌313番「弱き者よ」
主の献金の招き Lord’s Call to Give 箴言3章9-10節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer 武井悠馬宣教師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝祷 Benediction 武井悠馬宣教師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

私は、何かを作ったり組み立てたりするのがとっても苦手です。昨年の10月に日本へ引っ越した時、アパート用に家具を買ったのですが、そのほとんどは元エンジニアの妻が組み立ててくれました。恥ずかしながら、私はあまり役には立ちませんでした。私が組み立て作業を苦手とする理由は、家具についてくる分厚い説明書を見ると圧倒されてしまうからです。その上、家具が大きくなればなるほど、説明もより複雑で難解になっていきます。そのため、組み立てている途中で、「果たして本当に完成させられるのかな?もし途中で手順を間違えたら、すべて台無しになっちゃう」と不安になってくるのです。その結果、作業中にブツブツと文句を言い始め、最終的には妻がすべて仕上げてくれるという結末になってしまいます。

私の不安と疑いによく似た感情を抱えていたのが、今日の聖書箇所に登場するイスラエルの民です。先週、ハガイ1章で学んだように、民は主からの戒めを受けた後、神殿の再建に取り掛かりました。しかし、神の宮を作っている内に、彼らは思い知らされたのです。神殿をかつての栄光の姿にまで回復させることがいかに困難であるか、そして、その建築の作業がどれほど遅々としたものであるかを。おそらく、イスラエルの民はこう自問し始めたのでしょう。「ここまでの努力と苦労に意味はあるのか?神の宮がかつての姿に戻る事はあるのか?今後、本当に神殿が必要なのか?」

 

もしかすると、今の私たちの教会の中にも、同じような問いを抱いている人がいるかもしれません。「教会を成長させるという大きな働きを、本当に成し遂げられるのだろうか?こんなにも弱い私を教会の成長のために用いられるのでしょうか?」あるいは、もっと個人的なレベルでも、自分の置かれた状況を前にして、「私はこの困難を無事に乗り越えることができるのだろうか?」と自問しているかもしれません。

これらの疑問に対して、主はどう答えるのでしょうか?私たちの目に映る結果が落胆させられるものであっても、ハガイ書は過去から未来にわたる神の忠実さを指し示し、私たちに輝く希望、栄光に満たされた想像を絶するほどの未来を提示してくれます。私たちが自分に与えられた働きを果たす中で、神様は忍耐強く歩むこと、そしてこの未来に希望を抱くことを教えておられます。この事をもう少し深く考えるために、三点見ていきたいと思います。1.期待外れの現実、2.これまでの神様の忠実さ、3.栄光に満ちた未来。

 

1.期待外れの現実

先ほど語った様に、神殿再建の働きが始まってから数ヶ月後、イスラエルの民は、この建築プロジェクトがほぼ不可能であるという現実に直面しました。まず何よりも、神殿を以前のような元の状態に戻すことなど、不可能に思えたのです。旧約を読んだ方は知っておられると思いますが、ソロモン王の時代、イスラエルは経済的にかつてないほど最も豊かな状態にありました。ですから、ソロモン王が建てた神殿は輝かしい美しさをまとい、当時の最高級の素材で作られました。それにしたがって、ソロモンのすべての成功がこの建築プロジェクトに注ぎ込まれていました。なので、イスラエルの民が依然としてペルシャの支配下にあるという現実を前にしては、神殿をかつての栄光の姿に回復させることなど、到底不可能であると思っていました。更に、自分たちの生きている間に、この働きを完成させることなど不可能に思えました。すべての資源と富を持っていたソロモン王でさえ、神殿を建てるのに7年もかかったのだとすれば、今のイスラエルの民には、一体どれほど長い年月がかかるというのでしょうか?20年?30年?神殿再建が終わったころには、今の世代はもう亡くなっておられるはずです。

 

2章1節を見ると、主の言葉が「第七の月」にあったと記されていますが、この月は特に、神殿を思い起こさせる月でした。第七の月とは、イスラエルの民にとって主要な祭りの一つである「仮庵の祭り」を祝う月だったのです。この祭りの期間中、民は木の枝で作られた小屋に七日間住むことが求められました。それは、神様が彼らをエジプトから導き出された後の、荒野での経験を追体験するためでした。それはイスラエルの民にとって、荒野をさまよった過去とは違い、今は住むべき家があり、礼拝を捧げる神殿があり、神様が彼らをカナンへと導き入れてくださったことを深く思い巡らし、感謝を捧げるための祭りでした。それゆえに、当時ソロモン王は第七の月に捧げ物と生贄をもって最初の神殿を主へと奉献し、イスラエルの民がどこから来て、今何を与えられているのかを思い起こさせるためでした。

仮庵の祭りを祝うべき月に現在(ハガイ書)のイスラエルの民は何を思い巡らしていると思いますか?第七の月を迎え、神殿再建の働きを進めるイスラエルの民は、過去の栄光に満ちた神殿を思い出していたことでしょう。しかし彼らは今、かつての栄光の姿と、目の前にある惨めな神殿とのギャップを感じ、まさに打ち砕かれた現実に直面していました。未来への希望が見出せず、彼らは幻滅し、すっかり心が折れそうになっていました。ここで、落胆した状態にある彼らを慰め、励ますために、主ご自身が来てくださるのです。

ハガイ書2章3節で、主はイスラエルの民の苦悩の核心を突く、3つの問いかけをなさいました。「あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見た事がある、生き残りの者は誰か。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」当時のイスラエルの民の中には、最初の神殿の姿を実際に目にした70代、80代の老人たちがいたはずです。主からの「今、どう見えるか」という問いに対し、彼らは過去と現在の残酷なまでの対比に、ひどく落胆させられていました。この絶望はエズラ記3章12節にもはっきりと描かれています。第二神殿が完成した後、かつての神殿を知る者たちは、今の神殿があまりにも惨めな姿であったため、「大声を上げて泣いた」と書いてあります。彼らにとって、第二神殿は無いに等しかったのです。神殿の今の現実は、気が滅入るほどに取るに足りないものでした。ですから、イスラエルの民の心の奥底にあった本当の疑問は、「果たして神様は、こんな見すぼらしい場所に住まうことができるのだろうか?」という疑いでした。こうして、イスラエル人は現在の状況を過去と比較することで、今神様がなさろうとしている事に目を向ける事ができませんでした。

 

イスラエルの民の現実を見て、私たちも自分の生活や信仰の歩みにおいて、同じような感情を抱くことがあるかもしれません。私がアメリカで牧会していた頃、多くの教会員が証しを分かち合ってくれましたが、その多くが一番信仰に情熱を持っていた時期は、最初にクリスチャンになった時か、大学で初めて真剣に信仰と向き合い始めた時だと語っていました。そして彼らが言うには、今の自分にはかつてほどの情熱がなくて、それを悔やんでいました。私たち自身も、今の生活を過去と比べてしまうとき、こう考えてしまうかもしれません。「あの情熱的な日々はどこへ行ってしまったのだろう?」「神様は以前と同じように、今も私の内で力強く働いておられるのだろうか?」おそらく、私たちが直面している日々の困難や現実が、私たちをそのような思いへと追い込んでいるのでしょう。あるいは、私たちの教会についても、こう感じている方がいらっしゃるかもしれません。「昔の海浜幕張めぐみ教会の方が良かった。あの頃の方がみんな生き生きしていて、以前の雰囲気の方が楽しかった。」

過去と現実を比べるとき、かつて手にしていたもののほうが、現在の状況よりもはるかに素晴らしく見えてしまうものです。そして、そのような比較は私たちに失望や苛立ちをもたらし、神様が私たちの生活の中で何をなされようとしているのかに気づかず、落胆してしまいます。これこそまさに、当時のイスラエルの民が感じていたことでした。しかし神様は、民の抱える苛立ちや落胆を決して無視したり、軽んじたりはなさいません。主ご自身が彼らを深く愛し、彼らに寄り添っておられることを伝えるために、その痛みに真正面から向き合ってくださるのです。ですから、神様はイスラエルに直接問いかけました。

今直面している打ち砕かれた現実が決して希望の終わりではないことを、主は民に思い起こさせてくださるのです。たとえ彼らの目にどう映ろうとも、神様は想像を絶するほど栄光に輝く未来をすでに用意しておられるからです。どうすればこの惨めな神殿から、はるかに偉大な神殿へと歩みを進めることができるのか。どうすればより良い未来へと踏み出せるのか。イスラエルの民がそのように思い悩むとき、主は変わらない神様の忠実さと契約の約束をもって彼らに近づき、慰め、励ましてくださいます。

 

2.これまでの神様の忠実さ

イスラエルの民を励ますために、神様が最初に取り上げられたのは、彼らの目の前の責任でした。民は神殿再建を続ける気力を失っていたため、ハガイ書2章4節では、指導者たちとすべての民に対して、強くあって働くよう神様が命じられています。しかし、お分かりのように、主が命じられたからといって、神の民が自分自身の力を振り絞って働き始めることなど到底できません。とりわけ彼らが失望し、心が折れそうなほど落胆している状態であればなおさらです。私たちが抱える問題は、ともすれば「あれをしなさい」と言われると、子供みたくかえってやりたくなくなってしまうことです。ですから、神様はイスラエルの民にただ我慢して働きなさいと言っているわけではありません。働くことへの招きは、いつも共にいてくださる神様の臨在から溢れ出るものであり、それを土台としているのです。働くことへの招きは、いつも共にいてくださる神様の臨在から溢れ出るものであり、それを土台としているのです。神様は「わたしがあなたたちと共にいるからだ」と言って、強くあって働くようにと命じられています。これは、1章でイスラエルが自分勝手な罪を悔い改め、主へと立ち返ったときに神様が語られたのと同じ約束です。ご自身が共におられるというこの約束は、神様が彼らの働きを祝福し、ご自身の御手によって必ずこの神殿再建を成し遂げてくださるという、主の力強い決意を示しているのです。神殿がどれほど気が滅入るほど平凡に見えようとも 、イスラエルの民は神様を信頼し、自分たちにできる最善を尽くすのが求められているのです。

私たちにとって、これほど平凡で退屈に見える場所で神様が働いておられるとは、なかなか信じがたいことかもしれません。私たちはつい、神様が人生や教会を通して働かれるためには、個人の生活であれ教会の場であれ、私たちが活気に満ち、情熱的で、純粋な姿でいなければならないと考えてしまいます。しかし私たちは、神様の栄光が私たちの弱さを通してこそ現されるのだということを忘れてしまいます。神様は、私たちの不完全で欠けている人生を通してこそ、ご自身の教会を建て上げてくださるのです。コリント人への手紙 第二 12章9節にはこうあります。「しかし主は、『私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。』」主は、私たちの生活の最も平凡な部分においてさえ、確かに私たちと共にいてくださいます。そして、神様が最も臨在し、力強く働かれるのは、まさにその「平凡さ」の中においてなのです。

 

しかし皆さんはこう問うかもしれません。「神が私たちとともにおられると、どう断言できますか?この退屈で平凡な人生のただ中に主がおられるという絶対的な証拠は何なのか?」その答えは、ハガイ書2章5節にあります。ここで神は、かつて出エジプトの時代にイスラエルと結んだ契約を思い出しなさい、と告げておられます。イスラエルのただ中にある神の臨在は、神が豊かな恵みによって民をエジプトから救い出し、「わたしはあなたの神、主である」と宣言された、あのシナイ山での契約に根ざしています。主が共におられるかどうかは、神殿の有無や、建物の素晴らしさには全く依存しません。神が彼らとともにおられるのは、ただイスラエルと結んだ契約があるからなのです。それは、出エジプトの荒野において、神殿の影も形もなかった時でさえ、神がイスラエルとともにおられたという事実が証明しています。 出エジプトの偉大な神と、今のイスラエルの不完全で惨めな神殿に住まわれる神は、全く同じ神なのだと、主は語りかけておられるのです。過去と現在は、決して変わることのない神様の忠実さによって結ばれています。かつて、御霊が雲の柱と火の柱となってイスラエルのただ中におられたように、今、目の前の状況がどれほど打ち砕かれた現実であろうとも、御霊はイスラエルのただ中におられたのです。神様がそこにおられるのは、この契約に基づいているのです。それゆえに 、この契約を土台として、イスラエルの民は強くあって働くようにと励まされているのです。

数年前、ある結婚式に出席しましたが、司会者の言葉が今でも私の心に強く残っています。彼はこう言いました。「人生には山もあれば谷もあります。その歩みの中で、夫婦として結び合わされた今この瞬間の喜びを、どうか決して忘れないでください」と言う言葉でした。彼が新郎新婦に伝えたかったのは、事態が困難になったとき、二人の結びつきが確かなものとされた、あの瞬間に立ち返りなさい、ということだったのです。

クリスチャンとしての歩みの中で苦悩を覚える私たちにとっても、これは全く同じだと思います。神の不在を感じ、人生が停滞しているように思えるとき、私たちはどこへ目を向ければよいのでしょうか。私たちは、キリストの血によって結ばれ、永遠に保証された契約を仰ぎ見るのです。その契約は、私たちが神の国の跡継ぎであり、深く愛され、守られ、主の御前で正しい者とされていることを宣言しています。私たちと結ばれた神様との新しい契約は、生きる日常の中で、私たちの心の内にとどまっておられることを教えてくれます。ですから、どれほど人生が傷だらけでも、生活が退屈でありふれたものであったとしても、神様ご自身が始められた働きを完成させるために、私たちの心の内で働いておられるのです。神様の忠実さは今もこれからも、永遠に変わることはないという究極の契約です。

私たちがイスラエルの民のように落胆してしまうのは、過去の状況や過去の感情の上に自分の土台を築こうとする時なのです。神様は私たちに、自分たちの状況や、自分自身の信仰深さや立派さにではなく、神様ご自身とその忠実さに、確かな避け所を見出すようにと教えておられます。私たちの理想的とは言えない状況に目を向ければ、先行きが見えない不安から、私たちはどうしても恐れを抱いてしまいます。しかし、この新しい契約のもとで共にいてくださる神様に確信を抱くとき、私たちが恐れるものは何一つありません。それゆえに、主はハガイ書2章5節で、民に「恐れるな」と告げています。

過去に示された神様の忠実さを振り返るとき、私たちには確かな安心が与えられます。しかしそれ以上に、神様が約束してくださった栄光に満ちた未来こそが、今の私たちの働きを力強く励ましてくれるのです。

 

3.栄光に満ちた未来

過去における神様の御業がどれほど偉大であったとしても、ハガイは神の民に対して、それ以上の想像を絶するような未来を描き出しています。6節から、神様は天と地、海と陸、すなわちすべての被造物を揺り動かすと語られます。ここで描かれているのは、神様が全世界の基本的な構造そのものを造り変えられるという情景です。まさに完全なる変革のイメージなのです。そして、この地が揺り動かされる結果として、7節ではすべての国々もまた揺り動かされ、「すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす」と記されています。主はイスラエルの民に対して、神様ご自身が神殿を回復してくださる時が来ると約束しておられます。それは、ただかつての栄光の姿に戻すのではなく、あのソロモンの神殿の栄光さえもはるかに超える栄光へと作り変えるという宣言です。

イスラエルの民は他国に征服され、捕囚され、すべての財産を奪い取られてしまいました。しかし神様は、この神殿をご自身の栄光で満たし、すべての国々が主権者なる王の御座の前に進み出て、礼拝と捧げ物を捧げるようになるのだと約束しておられます。ここで神様が約束しておられるのは、新しい創造と新しい神殿に他なりません。この約束の偉大さに目を向けるとき、この計画を必ず成し遂げる力を持っておられるのは、主おひとりだけであることがわかります。なので、7節でこう宣言しておられます。「わたしはこの宮を栄光で満たす、と万軍の主の言葉。」

さらに9節を見ると、終わりの時に神様が全地を揺り動かし、すべての国々が神様の新しい住まいへとやって来る時、主がこう約束されます。「この場所に、わたしは平和を与える。万軍の主の言葉。」イスラエルの文脈において「平和(シャローム)」とは、人生のあらゆる側面における満ち足りた状態を意味します。もはや戦争も、内なる争いも、涙も、悲しみもありません。そこには完全な守りがあり、神様が与えてくださる良き賜物を、心ゆくまで喜ぶことができるのです。これこそが、彼らが働くための原動力でした。いつか、この輝かしい未来が訪れることを覚えることで、現在の働きに意味を与えました。だからこそ彼らは、目の前にある働きに対して全てを尽くし続けるよう、大いに励まされたに違いありません。

 

では、私たちがこれから教会を建てて行く動機と原動力はどこにあるのでしょう。ハガイ書に約束されている全てのものを成就し始めたイエスキリストにあります。神の栄光そのものであるイエス様は、壮麗な神殿の中でではなく、最も弱い場所である飼葉桶でお生まれになりました。そのご生涯は貧しさとへりくだりに満ちたものでしたが、神の栄光はキリストの内に確かに現されました。なぜなら、イエス様の御業、恥にまみれた十字架を通して、イエス様は世の救い主となり、私たちの心に完全なる聖化を始めてくださったからです。そして、主はよみがえられ、今や私たち教会とともにおられます。ですから、御言葉と御霊によって、この教会をご自身の栄光で作り変えて下さっています。今、あなたと私は、かつてイスラエルと結ばれたものよりも、はるかに栄光に満ちた契約の中にいます。

私たちは、キリストの栄光を余すところなく味わうことができる新しい契約の内にいるのです。私たちの人生、あるいはこの教会がどれほど取るに足りない、ありふれたものに見えたとしても、私たちは今、キリストの栄光で満ちあふれるものとし、神様の宮で礼拝しています。そして当時のイスラエルの民がそうであったように、私たちもまた新しい創造、主の家で、とこしえに無上の喜びをもって完璧な礼拝を捧げるその日を、待ち望んでいます。その日が来るまで、私たちは神様が未来にもたらしてくださるあの「平和(シャローム)」を、今ここで前もって味わうことができます。私たちが一つのからだとして結び合わされたので、神様と兄弟姉妹との平和を今この礼拝を通して経験しています。この圧倒的な恵みと約束の中でこそ、今日、主は私たちに「働きなさい」と語りかけておられるのです。

私たちが働きへと突き動かされる究極の原動力、それは、私たちのあらゆる弱さと失敗が打ち付けられたあの十字架で示された、神様の愛と救いの御業です。世界が最も栄光に満ちた救いの祝福を経験できるよう、キリストが弱さの中で私たちの罪を負ってくださったのなら、主は私たちの弱さをも用いて、ご自身の栄光のために神の国を建て上げてくださるのです。

 

主は私たちに、成功を求めておられるわけではありません。成功は主の御手の中にあるのです。私たちの務めは、ただ自分に与えられたものに対して、忠実に尽くすことなのです。そして、いつの日か新しい創造をもたらしてくださる事を確信しながら、一人の信者として、または教会として最後まで力を尽くす事ができます。キリストはご自身が始められた御業を必ず完成させ、豊かな実を結ばせてくださります。ですから、ともに、働いて、神様の御国を前進しましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church