2026年8月2日礼拝 説教「バビロンのデスマッチ」     

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌30番「御前にひれ伏し」1-2、4-5番

開会の祈り Opening Prayer 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 聖歌229番「驚くばかりの」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読      ダニエル2:1-30

聖書の話  「バビロンのデスマッチ」                   マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

   Doxology  教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。もし「僕、みんなの心が読めるよ!」といつも自慢している子が、一番怖いガキ大将に「じゃあ、俺が今何を考えているか当ててみろ。できなかったらボコボコにするぞ」と脅されたらどうなるでしょうか? 本当は心なんて読めないので、パニックになって震え上がりますよね。今日のダニエル書で、バビロンの恐ろしい王様がやったことも全く同じことです。「私たちは神様と話せる」と、自分たちは偉いと思っていた占いのエリートがいました。そして、バビロンの恐ろしい王様が「もしそうだったら、俺がどんな夢を見たか、内容からズバリ当ててみろ。できなければ皆殺しだ。」と命令しました。彼らの力はただの「ハッタリ」だったので、お面が剥がれて大パニックになります。実は、大人の私たちも同じです。「自分の力で人生を何とかできる」とお面をいつもかぶって、強がってしまいます。この世界の人たちは、そうやってお面をかぶって「自分は知っている。自分は強い。」と嘘をつくのです。しかし聖書の知恵は全く違います。自分の弱さを素直に認めてお面を取って、「私には全く答えは分かりませんが、神様はすべてをご存知です。」と真の神様に頼ることです。それがダニエルがやったことなのです。今日、ダニエルがどのようにこの「聖書の知恵」で王様に立ち向かったのかを見ていきましょう。

 

Ⅰ. 王の王が、この世の王たちを揺さぶる

ある夜のことです。主なる神様は突然、この地上で最も権力を持つ男の心を激しく揺さぶりました。彼は豪華な宮殿の、ふかふかのベッドから飛び起きます。そしてすぐさま、帝国の中で最も力のある「夢占い」の専門家たちを呼びつけました。その夢は王様をひどく悩ませたため、彼は側近たちを試すことにしました。王様の前に呼ばれた男たちは、前兆を読み解いたり夢の分厚いマニュアルを使ったりすることには非常に長けていましたが、神様から直接言葉を受け取る「預言者」ではありませんでした。ですから当然、彼らはまず王様に「どんな夢だったのか、私たちに教えてください」と頼むわけです。しかし、王様の決意は厳しいものでした。なんと「夢の内容を言い当てられない者は皆殺しにする。だが、言い当てた者には莫大なご褒美をやる。」と宣言したのです。これはもう、スピリチュアル・アドバイザーたちによる「バトルロイヤル」のようなものです。勝った者がすべてを手にする、霊能力者たちのデスマッチです。文字通り、彼らの命がかかっていました。

 

きっと、このカルデア人(占いの専門家)たちは、何年もかけて必死に技術を磨いてきた超エリートたちだったのだと思います。彼らは社会の階段を一番上まで登りつめた、いわゆる「勝ち組」でした。彼らは「象牙の塔」のてっぺんから一般大衆を見下ろしながら、世界で一番権力のある人物に霊的なアドバイスを与えていたのです。しかし、7節での彼らの必死のお願いは、とても象牙の塔でふんぞり返っている人の言葉には聞こえません。まるで、絶望した物乞いのように聞こえます。

彼らは再び答えた。「王が、しもべどもにその夢をお話しくださいますように。そうすれば、私どもは意味をお示ししましょう。」

 

王様は、彼らのハッタリを完全に見抜きました。帝国の恐ろしい力を彼らに向け、彼らが楽しんでいた社会的ステータスをひっぺがし、彼らの正体を暴いたのです。彼らは中身が空っぽで、ただ虚勢を張っているだけの偽物のスピリチュアリストに過ぎませんでした。9節の王の言葉は、とても強烈です。

「もしおまえたちがその夢を私に告げないなら、おまえたちへの判決はただ一つだ。おまえたちは時が変わるまで、偽りと欺きのことばを私の前に述べようと決めている。だから、どんな夢かを私に言え。そうすれば、おまえたちがその意味を示せるかどうか、私に分かるだろう。」

つまり、ネブカドネザル王は彼らの頭に銃口を突きつけて、こう言ったのです。「お前たちがそんなに『霊的』だと言うなら、自分たちの神と話してこい。そして、私の知らないことを教えてみろ。それができないなら、お前たちのやっていることは全部詐欺だ!」と。

 

カルデア人たちは明らかに震え上がり、パニックになっています。しかし、ここで彼らが口にした言葉は、このダニエル書全体の中でも最も深く、ある意味で「衝撃的な告白」となりました。

「この地上には、王の心のうちを明らかにできる者は一人もおりません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデア人に尋ねたことはかつてありません。王がお求めになっていることは、難しいことです。肉なる者と住まいをともにされない神々以外に、それを王の前に示すことができる者はおりません。」

彼らがたった今、何を認めたのかを注意深く考えてみてください。何を認めたのか注意深く考えてみてください。「神々にしか答えられないが、この国の誰も神々と話せない」ということです。まるで大金を稼いできた占い師が、ヤクザの脅しに耐えきれず「本当は誰も未来なんて分からないって、みんな知ってるだろ!」と白状するようなものです。

 

では、権力も教養もある彼らに、この事実を白状させるために何が必要だったでしょうか? それは「死の脅威」でした。死の恐怖の前に立たされたとき、人はもう嘘をつけなくなります。死は、私たちが気取って被っているお面を力ずくで引き剥がし、裸の現実を突きつけてくる、最悪で、最高の『嘘発見器』なのです。

 

クリスチャン作家であるフラナリー・オコナーは、このことを深く理解していました。彼女の代表作『善人はなかなかいない』の主人公は、自分が『正しい側の人間』だと信じ込み、表面的な宗教心しか持っていない見栄っ張りなおばあさんです。彼女は周りの人を見下し、自分で作り上げた道徳的な優越感の中にどっぷりと浸かっていました。

 

ところが、家族とのドライブ旅行中、彼らはひとけのない道路で交通事故を起こしてしまいます。そこへ、森の中から「はみだしもの」と呼ばれる脱獄した連続殺人犯が現れるのです。彼の仲間たちが、家族を一人ずつ森へ連れて行って撃ち殺す中、おばあさんはその殺人犯と二人きりになってしまいます。パニックに陥った彼女は、自分の身を守るために、あの表面的でお行儀の良い宗教を利用して、「あなたは本当はいい人だわ」とか「イエス様に祈りなさい」と必死に語りかけます。

 

しかし、はみだし者はそんな言葉には騙されません。彼はゆっくりと眼鏡を拭き、おばあさんを処刑する準備を始めます。その絶対的な恐怖が、ついにおばあさんの傲慢さを粉々に打ち砕きます。死の脅威が、彼女の敬虔ぶった見せかけのメッキを、完全に剥ぎ取ったのです。おばあさんの「象牙の塔」は崩れ去り、その最期の瞬間に、彼女は自分を殺そうとしている男に対して、むき出しの、本物の恵みと憐れみを突然、強烈的に体験します。彼女は、自分とはみだし者が全く同じ「一人の罪人」であることにやっと気づいたのです。彼女は手を伸ばし、愛ゆえに彼の肩に触れようとします。しかし、はみだし者は驚いて、おばあさんを押し倒し、おばあさんの胸を3発撃ち抜きます。その後、おばあさんの遺体を見下ろしながら、殺人犯は、アメリカ文学の中で有名なセリフの一文を放ちます。「この人も善人になっていたろうよ。一生のうち、一分ごとに撃ってやる人がいたらの話だがな。」

 

これこそまさに、ネブカドネザル王の死刑宣告がカルデア人たちにしたことなのです。ネブカドネザルの剣は、あの「はみだしもの」の銃と全く同じ役割を果たしています。死の絶対的な恐怖が、バビロンの傲慢さの中で眠っていたバビロンのエリートの目を、強制的に覚まさせました。それは宗教的なメッキを焼き尽くし、彼らに恐ろしい真実を告白させたのです。それはつまり、私たち人間の知恵が完全に破綻しているということです。人間の肉体の外に住まわれる真の神様が、ご自身を現そうと決めてくださらない限り、私たちは皆、真っ暗闇の中で宗教ごっこをしているに過ぎないのです。

 

II. 剣の下でも揺るがない知恵

ネブカドネザル王は、占い師たちの詐欺に気づいた後、激怒して「バビロンの知者たちを全員殺せ」という処刑命令を下します。そして当然、ダニエルとその友人たちも、そのターゲットに含まれていました。一見すると、この命令は「人生は、なんて理不尽で無意味なんだ」と思わせる決定的な証拠のように思えたはずです。ただ王が理不尽に腹を立てたというだけの理由で、これまで神様に守られてきた彼らまでが、インチキな知者たちと一緒に突然死刑を宣告されたのです。

 

処刑人のアリオクが剣を振り上げて彼らを殺しに来たとき、ダニエルは死を前にしてパニックになったでしょうか? この理不尽な状況に怒り狂ったり、自分が占い師のフリをしていたことを謝って命乞いをしたりしたでしょうか? 彼の反応は、全くの正反対でした。聖書には、彼が「知恵と分別をもって」答えたと書かれています。これこそが、「真理」を信じる人と、ただ「役に立つもの」を信じる人との決定的な違いです。死の恐怖を前にしたとき、真理は『岩』となります。どんな攻撃にもびくともしない『最高の砦』となるのです。

 

ダニエルは、王様にへつらったり、わざとへりくだったフリをして「王様のために何かできることはありませんか」などとは聞きません。彼はただ真っ直ぐに、「なぜ王の命令はそれほど厳しい(急な)のですか?」と尋ねます。ダニエルは、事態がどうなっているのか知りませんでした。神様から特別な知識をすでに受け取っていたわけでもありません。しかし、彼は死を恐れていなかったので、極めて冷静で論理的な質問をすることができたのです。そして事情を聞いた後、彼は実際にこう言っています。「少し時間をください。誰もできないことをやってみせます。すぐに戻ってきますから」と。

 

すごい自信ですよね。「なぜ彼はそんなに自信満々なのか?神を操る秘密の呪文や、特別な神学の本でも持っていたのか?」と思うかもしれません。 17節から19節の、この驚くほどシンプルな説明(17‐19節)を読んでみましょう。

それからダニエルは自分の家に帰り、自分の同僚のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた。 それは、ダニエルとその同僚たちがほかのバビロンの知者たちと一緒に滅ぼされることがないように、この秘密について天の神にあわれみを乞うためであった。そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに明らかにされた。ダニエルは天の神をほめたたえた。

彼らは、自分自身や、自分たちの持っている神学的な知識や努力に自信があったわけではありません。彼らが確信していたのは、神様の「あわれみ」と「力」、そして「愛」でした。大切なことなのでもう一度言います。彼らは他の何ものでもなく、「神様はご自分の民を愛し、あわれんでくださる。」という、絶対的で揺るぎない真理だけに確信を持っていたのです。彼らは、自分たちの『本当の王』は、あのネブカドネザル王のように子供っぽく、かんしゃくを起こし、感情的で理不尽な地上の王様ではないと知っていました。そして、その確信は真実でした。神様はその夜、彼らの祈りに答えてくださったのです。

 

これが、バビロンの知恵と、聖書の知恵の違いです。バビロンの知恵は、「神々や自然を操作する自分たちの能力」に自信を持ちます。しかし聖書の知恵は、「神様ご自身が、この世の神々や自然を完全に支配しておられる。」という事実に絶対の信頼を置くのです。だからこそ、答えを受け取ったダニエルは、難問を解いて自慢する生徒のように、すぐ王様のところへ飛んで行ったりはしませんでした。彼が一番最初にしたのは、神様を賛美することです。 彼の祈りを読めば、聖書の知恵とは何かがはっきりと分かります。

「神の御名はほむべきかな。 とこしえからとこしえまで。 知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、 王を廃し、王を立てる。 知恵を授けて賢者とし、 知識を授けて悟りのある者とされる。 神は、深遠なこと、 隠されていることを明らかにし、 闇の中に何があるかを知り、 ご自分の内に光を宿される。私の父祖の神よ。 私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。 あなたは私に知恵と力を授け、 今、私たちが尋ねたことを私に明かし、 王の心の内を 私たちに明かしてくださいました。」(ダニエル2:20-23)

これこそが、聖書が教える「知恵」です。死を前にしたとしても、世界で最も権力のある男の前に立たされたとしても、そして処刑人の不当な剣を突きつけられたとしても、決してパニックに陥ることのない、本物の揺るがない知恵なのです。

 

III.  デスマッチの「圧倒的勝者」

神様に感謝を捧げた後、ダニエルは王様に会わせてほしいと要求します。ここでも、ダニエルが王様や他の誰かを恐れているような素振りは一切ありません。彼はアリオクにこう言います。「バビロンの知者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の前に連れて行ってください。私が王に夢の意味をお示しします。」そこに、こびへつらうことやお世辞は1ミリもありません。彼はまるで「世界チャンピオン」のように堂々と、王宮へと足を踏み入れました。バビロン帝国の誰一人としてできなかったことを、自分が成し遂げたと証明したからです。

 

王は彼をバビロンの名「ベルテシャザル(ベルの神よ、王を守りたまえ)」と呼びます。しかし、この名で呼ばれたダニエル(『神は私のさばき主』)が最初に何と答えたかに注目してください。 彼は実質的にこう言っているのです。「あなたが頼ったバビロンの神々に祈る知者や、呪文師、呪法師、占星術師たちは、誰もあなたを守ることができませんでした。しかし、私の神が、そう、あなたでもベルでもなく『私をさばく真の神様』が、あなたの求めている秘密を明らかにされたのです。あなたに夢を与えたのも、その夢を解き明かすのも、私の神です。」ある意味でダニエルは、「そんな安っぽいバビロンの名前で私を呼ばないでください。私の名前はベルテシャザルではありません。私の名前はダニエルです!」と宣言しているようなものです。これは本当に鳥肌の立つような瞬間です。崩壊したユダの国から連れてこられたこの若い捕囚民が、あの偉大なバビロンの王と、そのエリートたちを完全にひざまずかせているのです。

 

しかし、ここで話を終わらせてはいけません。「ダニエルこそがこの物語のヒーローであり、主人公だ。」などと、絶対に思ってはいけません。ダニエル自身、自分のことをそんな風には全く考えていませんでした! 30節の彼の言葉をもう一度読んでみましょう。

「この秘密が私に明らかにされたのは、すべての生ける者にまさって私に知恵があるからではなく、その意味が王に告げられることによって、あなたの心の思いをご自身がお知りになるためです。」

ダニエルは、「これは私の知恵ではありません。」と言っているのです。彼はただ、シンプルな祈りを捧げ、神様から答えを受け取っただけでした。私たちはこの箇所を読むと、つい「ダニエルの信仰が素晴らしかったから、こんな奇跡が起きたんだ!」と思ってしまいがちです。しかしダニエル自身はそうは思っていません。

 

なぜダニエルの祈りが聞かれたのか。今日の出来事を解き明かす「鍵」は、何百年も前に書かれた列王記第一 8:46-53にあります。ソロモン王は神殿を建てられた際に、神の民がやがて罪を犯し、さばきとして敵の国へ引きずられていく未来を思い描き、こう祈りました。 『もし彼らが捕らえ移された敵の国で、あなたに立ち返り祈るなら…彼らを赦し、捕らえ移した者たちの前で、彼らがあわれみを受けるようにしてください。』そして実際に400年後にそうなったのです。 ダニエルたちがバビロンで捕囚となっていること自体が、彼らの罪に対する「神様のさばき」の証拠です。しかし、ソロモン王のこのとりなしの祈りは、「神様は、捕囚となったご自身の民の叫びを、純粋な『赦し』のゆえに聞いてくださる。」という約束でした。 神様がダニエルの祈りに答えられたのは、神の民が「自分たちの正しさ」によってではなく、「神様の圧倒的なあわれみ」によって愛されている存在だということを彼らに教えるためでした。そして神様は、その事実を全世界の目の前で宣言されたのです。ですから、バビロンで繰り広げられたこのデスマッチの「圧倒的勝者」は、ダニエルではありません。それは、どこまでも私たちを追いかけてくる、聖書の神様の「尽きることのないあわれみ」なのです。

 

IV. 覚えていただきたいこと

「死」によって、「イチジクの葉」を剥ぎ取ってもらいましょう。

誤解しないでいただきたいのは、この世には役に立つ素晴らしいものがたくさんあるということです。人類が素晴らしい文明を築き上げ、ロケットやAIのような驚異的なテクノロジーを生み出し、私たちの生活を豊かにする知恵を発見してきたことを、私も嬉しく思います。しかし、だからといって「自分はタフで自立した人間だ。」と勘違いし、高いところから世界を見下ろすようになってはいけません。「死」、あるいは「死の恐怖」によって、私たちの見せかけの宗教心や、インテリぶった態度、そして薄っぺらい幸せのメッキを、容赦なく剥ぎ取ってもらいましょう。それらはすべて、私たちが「実はこの世界のことなんて何も分かっていない。」という裸の現実を隠そうとする、「イチジクの葉」に過ぎないのです。自分や愛する人に向けられた「死」の暴力的な銃口や剣から、私たちを守る事ができる人間の知恵など何一つないのだと、私たちは素直に認める必要があります。

 

死を前にしても揺るがない知恵は、より優れたとりなし手であり真の王である「イエス・キリスト」のあわれみが、決して崩れない「岩」であるということです。

死が私たちに、この世のすべてのものが単なる影であり、砂であり、薄っぺらい紙切れに過ぎないと教えてくれる時、私たちはついに「何が本物か」「何が本当に重要か」に気づきます。ヤコブの手紙(3:15、1:16-17)の言葉を借りるなら、こういうことです。悪い実を結ぶ【この世の知恵】は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。 私たちは、思い違いをしてはいけません。 すべての良い贈り物【良い知恵】、またすべての完全な賜物は、(それが家族や友人からであれ、学校、政府、ニュース、SNS、あるいはAIから来るものであれ)上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父なる神様には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。神様が私たちの祈りに答えてくださる理由、それは、イエス様がご自身の死と復活によって、私たちのために完全な「赦し」を勝ち取ってくださったからです。イエス様のおかげで、私たちは「この世のどんなものも、神様の愛から私たちを引き離すことはできない。」と知っています。バビロンの剣でさえも、そして、私たち自身の罪でさえも、神様の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

 

神様が私たちに与えてくださった「名前」を信じていますか?

聖書が「バビロン」と呼ぶこの世界全体は、私たちに「ベルテシャザル(ベルの神が助けてくれますように)」というような、この世の名前を与えようとしています。もしかすると、もうすでに与えられているかもしれません。私たちは仕事や学校、あるいは家庭で、その名前を使っているかもしれません。そして時々、気をつけないと、私たちはそのバビロンの名前こそが「本当の自分」だと思い込みそうになります。しかし、私たちの「本当の名前」を思い出してください。もし私たちがクリスチャンであるなら、私たちは「父と子と聖霊の御名」によってバプテスマを受けました。その名前の前では、この世のどんな立派な名前も、完全に意味を失います。神様が私たちに与えてくださったその名前を、私たちは本当に信じていますか? イエス・キリストの終わりのない、力強い恵みのゆえに、私たちが「圧倒的勝利者」であるという事実を深く知り、どうか誇りを持って、その名前を身にまとって生きて行きましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church