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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | ヘブル人への手紙1章1-4節 |
| さんび | Opening Praise | どうしてそこまで ~You Are My King~ |
| さんび | Praise | 見上げよう神の御座 ~Behold Our God~ |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第7戒 出エジプト記20章14節)
コリント人への手紙第一6章18-20節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ペテロの手紙第一1章18-19節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌355番「私の望みは」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | 列王記第二22章1節-23章3節 |
| 聖書の話 | Sermon | 「御言葉どおりに」
武井悠馬宣教師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌1番「聖なる聖なる聖なるかな」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 詩篇103篇1-2節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
家の掃除や片付けをしている時に、「こんな物があったなんて、すっかり忘れていた」という物を見つけた経験はありませんか?私にも同じような経験があります。日本へ引っ越す準備の際、古いゲームやガジェット類が入った箱を片付けていたのですが、その時にiPodを見つけました。103の子供たちや中高生の皆さんは知らないかもしれませんが、まだiPhoneで自由に音楽を聴くことができなかった頃、音楽を聴くための専門の機械として大活躍していたのが「iPod」でした。学生の頃、毎日のように使っていた思い出の機械で、私にとって特別な物でした。当時の大好きな曲や学生時代の思い出が残されたiPodだったので、見つけた瞬間は本当に喜びました。さっそく電源をつけて聴いてみようとしたのですが、残念ながらボタンが壊れていて、もう使えない状態になっていたのです。
今日の聖書箇所で描かれているのは、ヨシヤ王がユダの国にとって最も大切なもの、すなわち「神様の御言葉」を再発見したという、歴史的な大事件です。当時、イスラエルは南北に分裂し、北イスラエルと南ユダという二つの国が存在していました。この時代の恐ろしい特徴は、王たちの霊的な退廃です。ほぼすべての王が、主の御心を踏みにじり、主の目に悪であることを行い続けていました。南ユダの300年にわたる歴史の中で20人の王が即位しましたが、神様の目に「良い王」と評価されたのは、たったの3人しかいませんでした。その暗闇の時代に輝く、わずか3人の良き王の1人こそが、今日私たちが注目するヨシヤ王です。聖書個所の1節に書かれているように、ヨシヤは8歳で王となり、彼は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれませんでした。
このヨシヤ王の出来事を通して私たちが心に留めるべきもの、それは、ヨシヤ王が見せた御言葉への忠実さが、最終的に「真の大いなる王、イエスキリスト」を指し示しているということです。主イエスは、神の御言葉をただ大切にされただけでなく、ご自身が「肉体をとられた御言葉」であり、すべての御言葉を成就し、今も御言葉を通して私たちに語りかけてくださるお方です。それゆえに、聖書を通して、私たちに加えてイエス様の御性質について何を学べるか、ご一緒に見ていきたいと思います。
- 神殿の修理と聖書の再発見
先ほど確認しましたように、ヨシアは暗闇の時代に輝く、数少ない「良き王」でした。彼以前の世代の王たちは、皆ことごとく霊的退廃の中にあったのです。これが何を意味するかというと、まことの神様を礼拝することを捨て、偶像礼拝行っていたという事です。その結果、主の神殿は何十年も顧みられることがなく、修繕もされないまま見捨てられていました。ヨシアの前に即位した二人の王の時代を合わせると、およそ60年間もの間、神殿は誰も足を踏み入れないまま放置され続けていたのです。長年の放置によって、神殿は汚れ果て、あちこちが錆びつき、木材や石材といった建築資材もすっかり朽ちかけていたに違いありません。
まさにそのような時代に登場するのが、ヨシア王です。彼は幼い頃から神様の御心に従って歩んでいたため、放置されていた神殿のことを深く心にかけていました。それゆえに、3節にあるように、ヨシア王は26歳になった時、書記シャファンを遣わし、大祭司ヒルキヤに対して神殿の修理を命じられました。その手引きとして、神殿に集められたすべての献金を管理し、工事を仕切る監督者たちに委ねること、そしてその監督者から大工、職人、石工たちへと資金を分配して工事を進めるようにと指示を出したのです。こうして、書記シャファンと大祭司ヒルキヤの二人が全体の責任者となり、工事現場で作業の進捗をしっかりと管理していたのです。
この修繕作業が進められている最中、大祭司ヒルキヤが思いがけない大切なものを発見します。それこそが「律法の書」でした。「律法の書」とは、旧約聖書の最初の5つの書物(いわゆるモーセの五書)のことです。神様の律法は、イスラエルの民にとって何よりも重要な存在でした。なぜなら律法とは、神様と彼らとの契約そのものを表していたからです。そこには、イスラエルの民がどのように神様との関係を築き上げ、神の民としてどのように歩むべきかが明確に記されていました。神様は彼らに、この律法を絶えず心に留め、すべての生活の土台として歩むようにと命じておられたのです。
ヒルキヤが律法の書を発見したということは、それが長い間、誰にも開かれず放置されていたことを意味しています。これは何を指し示しているのでしょうか。それは、神の民が神様との契約を捨て去り、神の民としてのアイデンティティそのものを手放してしまっていたということです。少し考えてみてください。私たちクリスチャンも、日々デボーションに励もうと努めます。しかし、もし1週間、あるいは1ヶ月間も聖書を開かずに過ごしてしまったら、私たちの霊的な歩みにはどこか物足りなさや渇きを覚えるはずです。ところが、当時のユダの民は約60年もの間、神様の御言葉を触っていませんでした。もはや、完全に忘れていました。それほどまでに彼らの霊的生活は荒れ果て、その行動は「もはや神様との関係などどうでもよい」と宣言しているも同然だったのです。
実に60年もの間、神様の御言葉は神殿の片隅に置かれ、埃まみれな状態であったはずです。それゆえに、大祭司ヒルキヤが律法の書を再発見した時、最初はそれが何であるのかすぐには分からず、書記シャファンにも見せて、二人で共に読むことにしました。この時、御言葉を読んだ彼らがどのような反応を示したのか、聖書に直接記されていません。しかし、彼らはその聖なる内容に強く心を動かされ、「これは何としてもヨシア王にお見せしなければならない」と決断したのです。
彼らの惨めな状況を目にするとき、私たちは誰もが驚きます。「神の民とされたはずの彼らが、なぜ律法の存在すら忘れてしまったのか」「契約を放置するに至ったきっかけは何だったのか」と疑念を抱くでしょう。ここで私たちが教えられる大切な真理は、人間の心に潜む罪がいかに恐ろしいものであり、どれほど容易に人の考えや行動を歪めてしまうかということです。実際のところ、私たちも日常の中で、ともすれば簡単に神様の御言葉を忘れてしまいます。たとえ朝、デボーションを捧げたとしても、直後に家族と同僚に対して苛立ちを抱いてしまうことがあります。神様を第一にしなければならないと分かっていても、お金の心配や子どもの将来への不安にとらわれ、生活の安定を優先してしまうのです。このように私たちは、日々の歩みの中で御言葉を横に押しやり、罪を犯してしまいす。そして、その小さな妥協が積み重なるとき、いつの間にか神様の御心から遠く離れ、気づいた時には聖書の教えとは真逆の方向へ歩みを進めてしまうのです。
ですから、私たちは今一度、聖書に基づいたまことの悔い改めへと進み出なければなりません。まだ主を知らない方はもちろん、私たちクリスチャン自身がこの悔い改めをとおして、神様の御心を深く知り、自分の心がどれほど乱れていたかを痛感させられるのです。何より感謝なことに、私たちがどれほど大きく赦され、どれほど深く愛されているかが、主の御言葉の中に明確に示されています。私たちが御言葉に立ち返り心から悔い改めるとき、主は私たちに、罪に向き合う力を与えてくださいます。なので、聖書に基づく悔い改めは無くてはならないものです。
この事実を最も理解していたのがヨシヤ王なのです。彼の反応を見たらそれが明らかになります。
- ヨシヤ王の反応
9−10節では書記シャファンはヨシヤ王にこう報告しました、「しもべたちは、神殿にあった金を取り出して、これを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」ここで、シャファンはヨシヤ王に律法を読み始めます。モーセの五書のうち、何を読まれたかは分かりませんが、聞いた瞬間にヨシヤ王の心は御言葉に打ち砕かれました。11節にはこう書いております。「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」更には、ヨシヤ王はこう命じられました。「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、全て私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」
御言葉が朗読された時、ヨシア王は激しい衝撃と恐れに身を震わせました。なぜなら、彼の先祖たちが長年にわたって神の律法を破り、不従順を重ねてきたからです。先ほど触れましたように、ユダの300年の歴史の中で良い王はたったの3人でした。歴代の王たちは悪に走り、民を罪へと巻き込みました。神との聖なる契約を破り続けてきた以上、国全体が神の裁きのもとにあるという現実に、ヨシア王は直面せざるを得なかったのです。旧約専門家たちの多くは、この時朗読されたのは「申命記27-28章」であったと考えています。そこには、神の命令に従う者に与えられる溢れるばかりの祝福と、背く者に下される恐ろしい呪いが鮮明に対比されています。神に従うならば、町にあっても野にあっても、子孫も作物も家畜もすべてが祝福される。しかし拒むならば、あらゆる呪いがその身に降ると宣告されていたのです。その一例として、申命記28章20節から21節をお読みいたします。「主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと混乱と懲らしめを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、たちまちにして滅びる。これは、私を捨てたあなたの行いが悪いからである。主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが入って行って所有しようとしている地から、あなたをたち滅ぼす。」
あまりにも恐ろしい裁きの宣告に、ヨシア王の心は激しく打ちのめされました。けれども王は、御言葉から目を背けることなく、その警告をありのままに受け入れました。これが主の真の律法である以上、ユダに臨む破滅は免れ得ない現実だと確信したのです。わずか一回の朗読で、神の圧倒的な聖さと、民が犯してきた罪の重さを心底思い知らされました。これこそが、ヨシア王が持っていた信仰の姿でした。だからこそ、王は必死の思いで国の最高指導者たちを招集し、女預言者のもとへ遣わしました。「この御言葉がユダにとって何を意味しているのか、主の御心を伺ってきなさい」と命じたのです。彼が最も知りたかったのは、「これから自分自身、そしてユダの民全体に何が起こるのか」「どうすれば神様の御怒りを宥めることができるのか」ということだったのです。その答えを得るために、彼は信頼できる使者たちを預言者のもとへ遣わしたのです。
歴代の王たちとヨシア王との決定的な違い、それは御言葉に対する彼の姿勢と、そこにあらわれた真正な信仰でした。南ユダの良い王たちの中でも、これほどまでに神様の御言葉に対して忠実であった王は他に存在しませんでした。なので、聖書は彼について「父ダビデのすべての道を歩んだ」と深く称賛しているのです。当時、神様の警告を打ち消すような、人々にとって耳に心地よい偽りの言葉を語る預言者たちも数多くいたはずです。実際にイザヤ書やエレミヤ書にも、そのような偽預言者たちの姿が記されています。しかしヨシア王は、そうした都合の良い声に耳を貸すことなく、神様の御言葉だけを信頼し、受け入れました。ヨシア王と悪を行った王たちとの決定的な違い、それはまさに信仰の質にありました。彼は一時の感情に流されることなく、御言葉がどれほど自分の心を強く突き刺そうとも、その御言葉だけを信じ抜いたのです。なぜなら彼は、その律法の書がどなたから授けられたものかを深く理解し、そのお方ご自身を心から信頼していたからです。
例えですが、カフェでゆったりと過ごしている時、突然、全員のスマートフォンから緊急地震速報のあの甲高いアラーム音が鳴り響く場面を想像してみてください。その音が聞こえた瞬間、「気象庁のシステムはどのように地震波を処理しているのだろうか」などと立ち止まって疑問を抱く人はいません。また、道路の下のプレートの状態を自分の目で確かめようと、外へ走り出る人もいません。誰も目に見える証拠を確認してから行動しようとはしないのです。そうではなく、人々はすぐさまテーブルの下に身を隠し、身の安全を確保するために動きます。なぜでしょうか。それは、そのメッセージの背後にある「権威」を誰もが認めているからです。警報を発している情報元が信頼でき、自分たちの感覚が揺れを感じ取るよりもはるか前に、何が起きているかを正確に把握していると信じているからです。人々は、まだ地面の揺れを目にしているから動くのではなく、ただ示された言葉をそのまま真実として受け入れているからこそ行動を起こすのです。
これこそが、信仰なのです。全知全能の神様が語られた御言葉を、そのまま素直に受け取って信頼することです。これは決して、根拠もなく、盲目的に聖書を信じることではありません。聖書が真実である理由は数多く存在します。しかしそれ以上に、神様がどなたであるかを深く知った上で、そのお方の御言葉を受け入れること―これこそが信仰なのです。
今日、私たちに求められているのも、まさにこの信仰にほかなりません。聖書を通して、神の圧倒的な聖さ、私たちの罪深さ、そして十字架のイエス様による恵みが解き明かされています。私たちはその真理をただ信じ、主の御心の中に自らを委ねて安らぎを得るーそれこそが、神が私たちに望んでおられる信仰のです。
では、女預言者フルダを通して、神様は何をヨシヤに伝えたのでしょう?
- 神様の裁き
しかし、恐ろしいことに、神様から下された答えは16節にありました。「主はこう言われる。見よ。わたしは、ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばどおりに、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。」神の律法ではっきり警告されていた通り、主はユダを確実に裁くと宣告されたのです。なぜなら彼らは、「ほかの神々に犠牲を捧げ、自分たちの手でなしたすべての業によって、わたしの怒りを引き起こした」からです。そして17節には、また恐ろしい言葉が記されています。「わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。」この判決に対して、ある旧約専門家がこう言われます。「これはものすごく恐ろしい宣言です。これこそがイスラエル人の犯した罪でした。彼らは自分たちが思い描く現実を本当の現実とすり替えてしまい、まさに今、本物の現実へと激突しようとしていたのです。」申命記27−28章に書かれてある裁きが成就されるとう宣言でした。
これはただ神様が残酷であり、ユダの民を冷たく扱っているわけではありません。神様は自分の言葉を変えたり、取り戻したりするお方ではありません。なので、神様の判決は示されたとおりです。
国全体への裁きが決定する一方で、神様はヨシア王に対して特別なあわれみを示されました。主の激しい怒りがこの地に解き放たれる前に、彼自身は平和のうちに葬られ、これから押し寄せる災いを目にすることはないということを、女預言者フルダを通して告げられたのです。主が彼の叫びを聞き届けられた理由、それが19節に明かされています。「あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。その時、あなたは心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。」聖書で「心を痛めた」と表現されているのは、ヨシアの心が神の真理の前に柔らかく砕かれていたということです。頑なな心ではなく、神の言葉をそのまま恐れ敬う柔和な心であったからこそ、主は彼の願いに答えました。ヨシア王の義ゆえに、彼ひとりはこの恐ろしい裁きを免れることになります。神様の激しい御怒りによってこの地に下されるわざわいと呪いを彼が直接経験することがないよう、裁きが臨む前に、彼は安らかにその生涯を閉じることになるのです。もはやイスラエルの破滅を留めることはできず、ヨシアにできたのは、ただ自分自身を罪と悪の現実から救い出すことだけでした。
どれほど素晴らしい王であったとしても、ヨシア王にはユダの民の罪を自ら贖うことはできませんでした。彼らが重ねてきた罪はあまりにも重く、ヨシア自身もまた、一人の限られた罪人に過ぎなかったからです。彼自身がこの裁きから救われたのも、彼の功績ではなく、ただ信仰によるものにほかなりません。
それでは、私たちはどうでしょう。神様の律法を破り、毎日のように神様の御言葉に背いてしまいます。私たちを神様の裁きから救ってくださる王はいますか?クリスチャンの皆様はご存じのように、あります。ヨシヤ王が指していた真の王、イエスキリストがいます。
主イエスこそは、肉体をとられた「ことば」であり、その心が絶えず父なる神の御心と重なり合っていた真の大いなる王です。主はすべての御言葉を成就するために来られ、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」という真理を全うされました。神の御心を完全に知っておられた主は、罪の支配を終わらせるために自ら死に至るまでへりくだられたのです。その柔和の結果、主はヨシアのように裁きを逃れるのではなく、十字架の上で我が身をもって私たちの裁きを引き受けられました。そして、ご自身の義を私たちに着せてくださったのです。それゆえに私たちは、恐れることなく神の御前に進み出ることができます。復活の王となられたキリストは今、主の民を再び生ける御言葉へと呼び戻しておられます。主は私たちに語りかけ、私たちの礼拝を通して、まだ主を知らない心にも語りかけておられます。私たちが礼拝を捧げるとき、主は御言葉の力によってご自分の民を一つに集め、主の溢れる平安と真の安らぎの中へと招き入れてくださるのです。
私たちは、神様の溢れる愛と恵みゆえに、御言葉を素直に受け入れ、その戒めや掟に喜びと感謝をもって従うことができます。私たちクリスチャンもまた、あのヨシア王のように御言葉によって心をつくりかえられ、聖霊の力によってまことの従順へと導かれていくのです。今日、皆さんに最後に覚えていただきたい大切な真理があります。それは、聖書の中には私たちの人生に必要なすべての答えが備えられているということです。具体的な一つ一つのことは書いてはありません。しかし、神がどのようなお方であるか。キリストの十字架の恵みによって、私たちがどれほど尊い神の子とされたか。そして主が何を望まれ、いかに大いなる約束を用意しておられるか。そのすべてが御言葉に刻まれています。だからこそ、主の御言葉に心を寄せ、確信に満ちた信仰の歩みを共に進めていきましょう。
