2026年8月16日礼拝 説教「たらいと十字架」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ヨハネの手紙第一4章9-11節
さんび Opening Praise 御名を掲げて (Lord I Lift Your Name On High)
さんび Praise 素晴らしい主を (Goodness of God)
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第8戒 出エジプト記20章15節)

ローマ人への手紙13章8-10節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God コリント人への手紙第二8章9節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌301番「千歳の岩よ」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書13章1-17節
聖書の話 Sermon 「たらいと十字架」

 

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌454番「わたしのいのち」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ピリピ人への手紙4章17-19節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたち、ちょっと想像してみてください。体育の授業や部活で汗をかいて、足が泥だらけで、自分でも嫌になるくらい臭くなってしまったとします。そこに、あなたが一番尊敬していて、いつも「かっこいいところを見せたい」と思っている先生か先輩がやって来ました。そして突然、その先生か先輩がひざまずいて、あなたの臭い靴と靴下を脱がせ、泥だらけの足を水で洗い始めたら、どう感じますか?「うわっ、恥ずかしい!」「そんなことしないで!自分でやります!」と、慌てて足を引っ込めたくなりますよね。自分が尊敬している立派な人に、自分のいちばん汚くて恥ずかしいところのお世話をさせるなんて、絶対に申し訳ないと思うはずです。

実は、大人の私たちも、神様の愛を前にすると同じように引いてしまいます。私たちは、立派なクリスチャン、ちゃんとした大人としての顔を保ちたいので、心の中にあるドロドロとした罪や恥ずかしい部分を、神様が直接洗おうとされると、「見ないでください」「自分でなんとかします」と隠したくなるのです。しかし、今日の箇所でイエス様は、私たちの予想をはるかに超える方法で、私たちの最も汚い部分に触れようとされます。なぜ王の王であるお方が、そんな気まずくて恥ずかしくなるような方法で私たちを愛そうとされたのか。それは十字架の意味をわかりやすく説明するためでした。今日は、この事について一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.タオルを手にした王の不意打ち

ヨハネの福音書は、この13章から劇的な転換を迎えます。ここから十字架へ至るまでの数章にわたり、聖書はイエス様がご自分の弟子たちをどのように愛されたかを見せていきます。聖書はこう書き出しています。「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」しかし、そもそも「愛」とは一体何を意味するのでしょうか。実際の愛とは、どのような姿なのでしょう。私たちが普段口にする、隣人愛、家族愛、友情、そして夫婦の愛――これらすべてを結びつける本物の愛の正体とは何でしょうか。今日のこの箇所は、イエス様にとって「愛する」とはどういうことなのか、その究極の意味を私たちに突きつけているのです。

イエス様が弟子たちを愛されたとき、イエス様は彼らの「すべて」を知っておられました。この「夕食の間」の後に、サタンがすでに心に思いを入れてユダが自分を裏切り、残りの弟子たちも全員が自分を見捨てて、ローマの残虐な十字架の前に自分を置き去りにすることを見通しておられたのです。彼らがどれほど弱く、自己中心的で、裏切りに満ちた存在であるか。イエス様はそのすべてを、完璧に、冷徹なまでに知っておられました。

 

しかし同時に、イエス様は「ご自分が何者であるか」をも完全に知っておられました。「父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと」、また「ご自分が神から出て、神に帰ろうとしていること」を、はっきりと知っておられたのです。要するに、自分の前にいる者たちがどれほど「醜い裏切り者」であるかを知り、そしてご自分がどれほど「偉大な王」であるかを知っておられたのです。その上で、イエス様は「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」のです。全宇宙の「王の王、主の主」が、自分をこれから裏切る者たちに囲まれながら、自ら進んで「奴隷」の姿をとり、たらいの水で弟子たちの足を洗い始められました。

しかも、これは全くの「不意打ち」の足洗いでした。誰もこんなことが起こるとは予想していませんでした。想像してみてください。あなたが最も尊敬し、最も認められたいと思っている人――先輩、メンター、上司、先生、あるいは師匠――が、あなたの靴と靴下を脱がせ、足の指の間や爪の裏に溜まった泥や汚れをゴシゴシと洗い落とし、自分の太ももにあなたの足を乗せて拭いてくれる姿を。しかも、顔からわずか数センチのところで足を見ているのです。その時、あなたはどう感じますか?「恥ずかしい!」「もうやめてください!」と思うはずです。なぜなら、自分が無防備にさらけ出されているように感じるからです。その人が自分の汚い足を見て、ドン引きするんじゃないかと感じるからです。自分の足の手入れを怠っていたことを恥ずかしがり、見られたくない場所を知られれば知られるほど、愛されなくなるのではないかと恐くなるからです。

 

弟子たちも、奴隷が足を洗ってくれるなら気にしなかったと思います。または、お互いに洗い合うのなら、まだ受け入れられたかもしれません。しかし、イエス様に――メシアであり、神の子であり、王の王であるお方に――そんなことをされるのは絶対に嫌だったのです。それはイエス様の身分にふさわしくない、不適切な行為だと考えたからです。愛する方にそんなことをさせるのは、無礼で不名誉な事だし、恥をかかせることになります。おそらく、すべての弟子たちがショックのあまり、恥ずかしさから押し黙っていたと思います。しかし、ペテロにとっては、黙っているわけにはいきませんでした。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」と思わず反対してしまったのです。

 

Ⅱ.不快な恵みのスキャンダル

ここでのイエス様の答えは、この聖書箇所の鍵です。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」 弟子たちは、イエス様が何を言っているのか全く理解していませんでした。しかし、読者である私たちは、最後に何が起こるかを知っています。この足洗いは、「キリストの十字架」を指しているのです。ここで絶対に勘違いしてはいけないのは、イエス様はこれを単なる「道徳的な教訓」として見せておられるのではないということです。この行為は、イエス様が弟子たちに与えようとしている「救い」そのものを表す「絵」のようなものです。神様が私たちに与えてくださる救いとは、王の王が奴隷となり、私たちの汚い足を洗ってくださるということです。それは、私たちを驚かせ、恥じ入らせ、とてつもなく「不快」な気持ちにさせる救いです。それこそが、本物の、非常に高価な、命を救う「恵み」の性質なのです。しかし、私たちのプライドは、この恵みを受け取ることを心の底から嫌がります。

ペテロにとって、この気まずさは耐え難いものでした。そしてペテロは、私たちがこの種の恵みに直面したときに誰もが心の中で思うことを、思わず口に出してしまいます。ギリシャ語の原文をそのまま訳すと、ペテロはこう言っているのです。「あなたは、永遠に私の足を洗うことはありません!」ある意味で、これは人々がイエス様を信じることができない理由を見事に言い表しています。私たちは、イエス様が何をしておられるのか理解できないわけではありません。イエス様が何を語り、イエス様が誰であるかを知らないわけでもないのです。ただ、私たちは次のような『嘘』を根本的に信じ込んでいるのです。「私は、イエス様に自分のすべての汚れをさらけ出し、人生の最も恥ずかしくて汚い部分を徹底的にきれいにしてもらうほど、汚れてもいないし、切羽詰まってもいない。私はそのような可愛いそうな人間ではない。永遠に、あなたにそんなことはさせない。」

 

Ⅲ.究極の選択:洗われるか、それともすべてを失うか

しかし、ここでのイエス様の答えこそが、私たちの頑なな心を溶かしてくださいます。イエス様は、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」と言われました。実はここは、いつもの2017年版新改訳聖書の「関係」という言葉よりも、英語の聖書(ESVやNASB)の訳し方の方が、イエス様の本当のニュアンスをより正確に伝えていると私は思います。ぜひ、この言葉をもう一度聞いてください。「もしわたしが洗わないなら、あなたはわたしと『何の分け前』も持たないことになります。」――これは単に「足を洗う」という表面的な話ではありませんよね。思い出してください。これは、やがてイエス様が十字架で成し遂げてくださるみわざを、前もって見せてくれている象徴的な出来事なのです。では、これが十字架とどう繋がっているのでしょうか?

この「分け前(分)」を持つということは、誰かと特別な関係、特別な立場にあることを意味します。それは、「あなたは私にとって特別だから、私の『財産(相続)』の一部をあなたに分け与える。」ということです。例えば、ルカの福音書15章12節で、放蕩息子が『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った時、ここで使われているギリシャ語の「分(部分/分け前)」は、今日のみことばと全く同じ単語です。では、私たちはイエス様と何の「分」を共有するのでしょうか。このヨハネの福音書の著者は、ヨハネの黙示録も書いていますが、そこでもこの表現を全く同じように使っています。「この第一の復活にあずかる(分を持つ)者は幸いな者、聖なる者である。」(黙20:6)。「神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」(黙22:19)。

 

ですから、これらをすべてつなぎ合わせると、イエス様はペテロにこう言っておられるのです。もしペテロが、全宇宙の王に自分の汚れた心を握らせ、十字架で流された血によってそのすべての汚れを洗い落とすという、考えられないほど恥ずかしく、いたたまれない程の御業をさせないなら……ペテロは、キリストの復活と聖なる都での永遠のいのちの「分け前」を受け取るという、イエス・キリストとの特別な関係に入ることはできない、と。事実、この足洗いは、イエス様が十字架でなされることの「ひな形」なのです。

イエス様の言葉には一切の曖昧さはありません。グレーゾーンは存在しないのです。「わたしにあなたの足を洗わせ、キリストの血であなたをきよめさせなさい。さもなければ、あなたは天の御国で何の分け前も持てません。」これは、非常に意志の強い二人の人の真っ向勝負です。果たして、どちらの岩が砕けるでしょうか? 明らかに、ダイヤモンドのようなイエス様の愛が、ペテロのプライドという岩を粉々に打ち砕きます。しかし、ペテロはイエス様の強制的な力によってではなく、その圧倒的な恵みによって砕かれたのです。ペテロは、イエス様が自分に提供してくださるものに衝撃を受けました。ペテロ自身がイエス・キリストの「共同相続人」になれるのだと。神の子が持っているものを、自分も「分け前」としていただけるのだと。だからこそ、ペテロは喜びを爆発させてこう言ったのです。「主よ。足だけでなく、手も頭も洗ってください!」 ある意味で、このペテロの反応は、他の弟子たちよりも優れていたと言えるかもしれません。

 

弟子たちに対するイエス様の寛大さにもかかわらず、イエス様はペテロのこの少しコミカルな要求に対して、非常に重要で身の引き締まるような指摘をされます。「すでに入浴した者は、全身を洗う必要がありません。」イエス様は、笑顔でこう言われたのかもしれません。しかし、その後に続く言葉が決定的な一撃となります。「あなたがたはきよいのですが、皆がきよいのではありません。」

 

もちろん、イエス様は弟子たちの衛生状態について冗談を言っているわけではありません。イエス様は、自分を裏切ることになるユダの内なる「信仰」について指摘しておられるのです。ユダは今まさに、イエス様から足を洗ってもらいました。しかし、それは必ずしもユダがイエス様から「相続の分け前」を受け取ることを意味していません。イエス様はここで、決定的なポイントを突いておられます。「本当の洗い」とは、イエス様が弟子たちの足を洗うという外側(目に見える)の行為ではないのです。教会が父・子・聖霊の御名によって水でバプテスマ(洗礼)を授けるという、目に見えるしるしのことでもありません。これらの目に見えるしるしは、「信仰による目に見えない洗い」を指し示しているのです。信仰とは、私たちが信じることができるように聖霊様が私たちの内側で働かれることであり、その信仰を通して、私たちは罪を赦すイエス様のきよめの血を受け取るのです。

本質的に、イエス様はペテロとの真っ向勝負から、ユダとの真っ向勝負へと向きを変えられました。カルヴァンはこのことについて、次のように語っています。「イエスは、ユダの悔い改めの門を閉ざしてしまわないために、意図的にユダの名前を口に出すのを控えておられる。」イエス様は、ユダに何が起こるかを知り尽くしておられました。それでも、ユダに「きよめられなさい」「ペテロと同じ信仰を持ちなさい」と強く迫られました。イエス様は、弟子たち全員が、十字架のきよめの血をその手でしっかりとつかみ取ることを、心から願っておられたのです。

 

Ⅳ.たらいを持った王の「絶対的な命令」

ペテロとユダとのやり取りの後、イエス様は「上着を着て、再び席に着き」、「わたしがあなたがたに何をしたか、分かりますか。」と尋ねられました。ヘルマン・リデルボスは、この瞬間について信じられないほど鋭い観察をしています。このシーン全体には、否定しがたい王としての威厳が漂っています。

「イエスは、目立たないように働き、食事の前に姿を消さなければならない奴隷のように振る舞ってはいません。弟子たちとともに食卓に着き、飲み食いした後になって初めて、突然(間違いなく全員が驚いたことでしょうが)主導権を握って彼らの足を洗い始めるのです。そして、上着を『脱ぎ捨てた』のと同じ『権威』(ヨハネ10:18参照)をもって、後で再び上着を着て弟子たちの中に自分の席を確保し、『わたしがあなたがたに何をしたか、分かりますか』(12節)と問いかけるのです。」

 

イエス様は私たちのために「仕える者(しもべ)」となられましたが、それでも、天の御国の「王」であられることに変わりはありません。だからこそ、この「しもべなる王」は、絶対的な王の命令を下されるのです。

14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。 15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。 16 まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

私たちが王からいただく「恵み」の受け取り方は、政府からの現金給付のように、私たちを自己破産から救ってはくれても、私たちの生き方を一切変えないようなものとは全く違います。私たちの上に豊かに注がれる恵みのあり方。私たちの王が私たちを罪から救い出された手段。ご自分の王服を脱ぎ捨て、ひざまずいてイエス様が私たちの足を洗うという、その衝撃的な救い方は、私たちにあまりにも深い影響を与えるため、それがそのまま私たちの「生き方(倫理観)」となるのです。それが私たちの理想の姿となり、私たちの模範になるのです。単に「そうしなさい」と命令されたからやるのではありません。私たちは、この「しもべなる王」の否定しがたい威厳、力、美しさ、そしてその圧倒的な恵みを肌で体験したからです。王が実際に私たちの足を洗ってくださったのです。それゆえ、私たちもそのようになりたいと心から願うのです。そして、イエス様のように人を愛することこそが、最終的に最も祝福された、最高の生き方だという結論に至るのです。だからこそ、イエス様は最後にこう言われるのです。「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」

 

Ⅴ.覚えていただきたい3点

キリストの愛とは、私たちが真似したくなるような美しい道徳的なお手本ではなく、私たちの最も見苦しい部分を洗おうと迫る、キリストからの「不快な不意打ち」です。

私たちはしばしば、この場面を幼稚園児向けの心温まる絵本のような「美化された道徳の話」にしてしまいます。それは私たちの予想の範囲内で、都合の良い「距離感」を保ってくれるからです。しかし、そのように読んでしまうと、この箇所の衝撃や不快なスキャンダル、そしてキリスト教の核心を見失ってしまいます。

イエス様の足洗いとはこういうことです。立派な日曜礼拝と楽しいランチが終わった後、イエス様はあなたを座らせ、突然、あなたが絶対に人には知られたくない、最も恥じている事柄を目の前に並べ始めるのです。それは、足の踏み場もないほど散らかった汚い部屋、自分の経歴や家族、あるいは身体的・精神的な課題かもしれません。クレジットカードの借金やお金を管理していない現実。真理を曲げて人付き合いをしてきた長年の歴史や、職場や学校でのグレーで少しズルい行い。過去の性的な経験や性に関する考え、逆にその経験がないことへの劣等感。お酒、ポルノ、買い物、特定の「人」などに対するコントロールできない依存症。自分の犯罪歴。性的、身体的、精神的な虐待を受けた、あるいはしてしまったという屈辱的な過去。あるいはただ単に、孤独で悲しく、本当は誰かに愛されたいという、ありのままの現実かもしれません。そして牧師室で、イエス様はあなたのその「泥だらけの足」を手に取り、こう言われるのです。「マーク、あなたの足を洗ってもいいか。」と。イエス様の愛がどれほど衝撃的で、心をかき乱すスキャンダラスなものか、理解できるでしょうか。私たちは、ペテロと一緒に「主よ、私の足など絶対に洗わないでください!」と叫びたくなるほどのこの不快さを、本当に理解しているでしょうか。

 

イエス様がご自分の血で私たちの足を洗ってくださるのは、私たちが御父との関係に「あずかる」ためです。

単なる足の汚れ落としなら誰にでもできます。この足洗いは、王なる方が十字架で死なれるという偉大な現実を指し示しています。私たちの気分を良くするためなら、セラピストやライフコーチを雇えば済む話です。イエス様が十字架で死なれるのは、私たちの罪を洗い清め、ご自身が持っておられるものに私たちが「あずかる」ためなのです。

イエス様にとって最も価値あるものとは何でしょう? 天国の大豪邸ではありません。最大の宝物は、「神のひとり子」としての特権、すなわち父なる神様との最も親密な関係です。ご自身の血のきよめによって、私たちが単なる市民や奴隷としてではなく、愛される神の子どもとして天の祝宴の席に着けるようにしてくださるのです。だからこそ、私たちは自分の見苦しい魂をイエス様に洗っていただく必要があります。ご自身の最も大切なものを分け合おうとされる圧倒的な恵みの前に、私たちはただひれ伏すしかありません。

 

イエス様に足を洗っていただいたとき、他者を愛するという命令は「重荷」ではなく「祝福」に変わります。

私はこの聖書箇所を読むと、いつも少し嫌な気分になります。「自分の足は自分で洗っているのに、なぜ他人の足まで洗わないといけないのか。」と心の中で思ってしまうからです。そして「しもべは主人にまさらない」という言葉に大きなため息をつき、しぶしぶ人を愛そうとします。それは間違った読み方であることは理解しています。

しかし、私は気づいたんです。イエス様は不満を抱えながら足を洗われたのでしょうか? 十字架に向かうとき、「マーク、お前が罪ばかり犯すからだ。」と文句を言われたでしょうか?ぶつぶつと私の足を洗ったのでしょうか。 全く違います。イエス様は喜びと優しさ、忍耐をもって足を洗われました。寛容と親切さを示しながら、ねたまず、自慢せず、 自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを忍ぶ、第一コリント13章の「愛」で私を愛されたのです。イエス様にとって愛は、重荷ではなく、喜びなんだと、気づきます。そして、十字架の愛を本当に経験したとき、私たちは、他者の足を洗う生き方こそが重荷ではなく、最も祝福された最高の生き方だと気づきます。イエス様に足を洗っていただいた者として、私たちも同じ喜びに満ちた愛をもって、互いの足を洗い合おうではありませんか。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church