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礼拝式順
| 前 奏 | Prelude | |
| 招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙5:6-8 |
| さんび | Opening Praise | 主のあわれみは His Mercy is More |
| さんび | Praise | ゆるぎない土台 Jesus, You’re My Firm Foundation |
| 開会の祈り | Opening Prayer | |
| 主の律法 | Law of God | (第10戒 出エジプト記20:17)
ローマ人への手紙13章9節 |
| 黙祷 | Silent Confession | |
| 悔い改めの祈り | Prayer of Repentance | |
| 主の福音 | The Gospel of God | ヘブル人への手紙13章5-6節 |
| 賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌409番「救い主イェスと」 |
| 聖書朗読 | Scripture Reading | 詩篇130篇 |
| 聖書の話 | Sermon | 「深い淵から」
武井悠馬宣教師 |
| 賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌415番「目を上げて主のみ顔を」 |
| 主の献金の招き | Lord’s Call to Give | 歴代誌第一29章11-14節 |
| 献金 | Offering | |
| とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 主の祈り | Lord’s Prayer | |
| 派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章1-6節 |
| 信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
| 頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
| 祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
| 後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
| 報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
罪悪感とは、人間が抱く非常に強力な感情であり、私たちの多くの行動の動機となっています。 たとえ幼い子どもであっても、食べてはいけないお菓子をこっそり食べてしまった時、罪悪感を覚えるものです。 人間は、自らの行動に対して責任を負う者として、創造主によって造られているからです。
宗教改革者カルバンは詩篇を「魂のすべての部分の解剖」と呼び、私たちのあらゆる感情や経験が詩篇に反映されていることを語りました。しかし、詩篇が映し出す最も強烈な感情の一つは、私たちが犯した罪に対する「罪悪感」です。 詩篇38篇には、「私の咎は私の頭を越え、重荷のように私に重すぎて耐えられません」とあり、また詩篇51篇には、「私は自分の背きの罪を知っています。私の罪は常に私の前にあります。私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、あなたの目に悪であることを行いました」と記されています。
私たちクリスチャンの歩みの中で最も葛藤する大きな感情の一つが、まさにこの罪悪感なのです。なぜなら、神様が聖なるお方であり、私たちはそうではないということを自覚しているからです。 そのため、私たちは神の怒りを受けるに値する存在であることを知り、犯した罪によって罪悪感と絶望の淵に突き落とされる時があります。 「こんな罪を犯した私を、神様が愛してくださるはずがない」という問いが心を捉えることもあるでしょう。 罪悪感によって、罪の重さに心が揺るがされ、ともすれば福音すら覆い隠してしまうほど強力な感情です。
頭の中では、神様の慈しみ深い愛を確かに知っています。しかし、自分の罪の重さに直面するとき、私たちは激しい罪悪感に苛まれ、神に見放されたような絶望を覚える時があります。魂の深い淵の中で、真の避け所を見失い、どこへ逃げ込み、だれに心を委ねればよいのか、すぐに忘れてしまうのが、 私たちクリスチャンです。私たちが感じる罪悪感は、実は「福音健忘症」の証拠なのです。 福音は、未信者のためだけのものではありません。自分の罪や、罪に染まった世界と常に向き合っている、すべてのクリスチャンが毎日必要とするものです。 それゆえに、私たちは礼拝で福音の真理を覚えて確かめる機会が毎週与えられています。そして、詩篇130篇の著者もまた、イスラエルにこの福音の真理を思い起こさせているのです。
この詩篇は罪悪感に対して、神様の慈しみ深い愛に根ざした赦しと贖いを宣言しています。 詩篇の著者は、自らの祈り(嘆願)、確信、そしてイスラエル全体への勧めの言葉を通して、この真理を示しています。 したがって、このメッセージには三点あります。⒈ 詩人の嘆願、⒉ 詩人の確信、⒊ 詩人の勧め。
- 詩人の嘆願
この詩篇は「都上りの歌」であり、通常、イスラエルの人々が主を礼拝するために神殿へと上っていく際に歌われたものです。 しかし、この著者が主の御前に近づくとき、彼は非常に大きな葛藤を抱えています。 1節の冒頭から、彼の感情が溢れ出ています。 「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」ここで彼が経験している「深い淵」が具体的に何を指すのかは明記されていませんが、彼が言葉にできないほどの悲惨な状況にあることは間違いありません。 なぜなら、聖書の中でこの「淵」という言葉が他に使われている箇所は、詩人が敵に囲まれ、溺れかけている苦しみを描いた詩篇69篇だけだからです。淵の経験を言い換えれば、完全な苦悩と絶望の感情です。 彼は身動きが取れず、もはや暗闇のどん底にいます。 それゆえに、彼は必死に叫ぶのです。
2節において、彼の感情はさらに高まり、主に向かって呼びます。 「主よ、私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」 著者は、神様が自分の心の葛藤を聞いてくださることを切望しています。なぜなら、自分自身が主に見捨てられたように感じているからです。 主が自分を絶望の穴の中に置き去りにされたかのように感じていたのです。 彼は必死に、絶望の中で主にすがりついています。 彼は主に「私に恵みとあわれみを注いでください」と神様に必死に頼んでいます。 この深い絶望のただ中で、彼は自分には受ける資格のない、ただ恵みによる神様の備えを求めているのです。
著者が求めているのは、自分の声を聞いて同情してくれるだけの観客ではありません。彼は主からの答えを求めているのです。 彼はもう自分の状態に耐えられず、神様からの応答を切望しています。 そして3節で、彼がこれほどまでに絶望している本当の理由が明らかになります。それは、彼自身の罪でした。 3節にはこう書かれています。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立てるでしょう。」 詩人が絶望に苛まれているのは、自身の罪、あるいはその罪がもたらした生活の悲惨な結果によるものでした。 おそらく彼は、自分が犯した罪に対して、神様からの裁きを受けていると感じていたのでしょう。
この問いを通して、彼は「もし神様が私たちのすべての罪を記録し、それを咎められるなら、主の御前に立てる者は一人もいない」という真理を語っています。 ここで用いられているイメージは法廷の光景です。神様の審判の前に、自らの罪を抱えたままで立てる者は一人もいません。なぜなら、私たち全ては神の法廷で裁かれ、有罪を宣告されるからです。 著者は礼拝へと向かい、神の都へ上りながら自らの罪と神様の聖さを黙想するうちに、彼がどれだけふさわしくないものかに気づき、絶望せずにはいられませんでした。
宗教改革の父であるマルティン・ルターは、この絶望の経験を「アンフェヒトュング(霊的な試練、魂の葛藤)」という言葉で描きました。 ルターはその経験について次のように述べています。 「そのような時、神は恐ろしく怒っておられるように見え、神と共に全創造物もまた怒っているように感じられる。そこには逃げ場もなく、内にも外にも慰めはなく、すべてのものが自分を告発してくる。そのような時、詩人は『私はあなたの目の前から断たれた』と嘆くのである。この瞬間(不思議なことに)、魂は、まだ刑罰を完全に受け切っていないという思いに囚われ、自分が救われるなどとは到底信じられなくなる。残されているのは、助けを求める剥き出しの飢え渇きと、恐ろしい呻きだけであるが、どこに助けを求めたらよいのか分からないのである。」
私たちクリスチャンも、この様な罪悪感を今まさに感じているか、あるいはこれまでに感じたことがあるはずです 。御言葉を読み、祈るたびに、私たちは神様が命じておられる基準に達していない自分に気づかされます。私たちの実際の生活と、神様が求められる聖なる基準との間にある大きな隔たりは、私たちに不安を抱かせ、神様の慈しみ深い愛を忘れさせてしまいます。 このような状況の中で、サタンがまず第一に仕掛けてくる誘惑は、神様の恵みを疑わせ、自分自身に目を向けさせようとすることです。
私たちが神様から目を離し、自分自身ばかりを見つめてしまうとき、次の2つのパターンのどちらかに陥ってしまいます。一つは、自分の力で自分を正当化し、これまでの「良い行い」を盾にして、心の中にある罪を必死に覆い隠そうとすることです。もう一つは、神様の基準を守れないため、「こんな自分は、神様に愛される資格などない」と決めつけてしまうことです。しかし悲しいことに、このどちらのパターンも、最終的には等しく絶望という深い淵へと行き着いてしまうのです。 だからこそ、詩人にはただ主にのみ希望を見出すと決断しました。なぜなら、罪の悲惨な現実を解決できるものは他にはだれもないからです。
私たちも著者と同じような罪悪感を感じたら、同じ祈りを捧げることができます。ありのままの感情、罪の重さを知った人として、その罪を神様に委ねることができます。それを隠す必要はありません。その理由は、主は本当の慰めを与えてくださるお方だと確信があるからです。
- 詩人の確信
4節の冒頭にある「しかし」という言葉は、詩篇130篇全体の中でも最も慰めに満ちた大逆転の言葉です。 なぜなら、自らの絶望的な訴えを語り終えた後、著者は確かな解決を見出しているからです。「しかし、あなたが赦してくださるゆえに、あなたは人に恐れられます。」 彼は、主があわれみ深く、赦してくださるお方であることを思い起こし、それゆえに主を恐れ敬い、礼拝へと向かうことができるのです。
この「恐れ」とは、罰せられることや裁かれることへの恐怖ではありません。私たちのような罪人をも赦してくださる主なる神様に対する、深い敬意です。 主の赦しを体験してこそ、私たちは従順な礼拝を捧げる者となることができます。 私たちが神様を礼拝し、従うことができるのは、裁きの恐怖によるものではありません。 私たちが日曜日にここに集まるのは、私たちを罪から救ってくださった、イエス様の赦しの愛があるからです。 そして、私たちはこの赦しの御言葉、すなわち「福音」を待ち望むのです。 著者はまさにそのようにして礼拝に向かい、主を待ち望んでいました。
5節にはこうあります。「私は主を待ち望みます。私のたましいは待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。」 おそらく著者は、礼拝において祭司が「あなたの罪は取り除かれた」と宣言する「赦しの宣言」を待ち望んでいるのでしょう。 主の赦し以外に、彼の絶望を完全に取り除くことができるものはありませんでした。 神殿に捧げられるいけにえや罪の宥めの捧げ物でさえ、彼に本当の慰めをもたらすことはできません。ただ、「あなたは赦された」と宣言する「主の御言葉」だけが、彼の慰めでした。 これを聞いて確信できるまで、彼は切に待ち望む覚悟があります。
著者は5節で3回も「待ち望む」と言いますが、これはなぜでしょうか?実のところ、5節の最後の部分はこう翻訳できる箇所です。「私は、自分のたましいに主の御言葉を待ち望ませる(望みをおかせる)。」 これは、非常に主体的な待ち望みです。この「待ち望む」というのは、神様の恵みを期待し、目を覚まして警戒し続ける姿勢のことです。この姿勢を保つために、彼は自分の魂に3回も語りかけるのです。「警戒して、神様を待ち望みなさい」と。なぜなら、主を待ち望むことは決して簡単なことではないからです。私たちの本性にとって、主に望みを置いて静かに待つということは、決して自然にできることではないのです。 自分の弱い肉が他の場所へと逃げ出したいと叫ぶとき、著者は自らの魂に「主に望みを置き、主を待ち望め」と言い聞かせ、奮い立たせているのです。
私たちにとっても多くの場合、苦難や悲しみを経験する時、すぐに希望をもって主に立ち返ることは決して容易ではありません。心にのしかかる不安や罪悪感に苛まれるとき、私たちは一瞬の猶予もなくその痛みを拭い去ろうとしてしまいます。しかし、自らの力で速やかな解決を追い求めるあまり、試練の暗闇の中で最も必要とされる、静かに主を待ち望む忍耐を私たちは容易に見失ってしまうのです。
なので、6節では著者が例えを使い、美しく待ち望みを描きます。「私のたましいは夜回りが夜明けを、まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待ちます。」イスラエルの夜回りには、一つの重要な任務がありました。それは、夜明けを見ることです。それによって、イスラエルの新しい一日が始まることができるからです。 夜回りは、夜の暗闇を切り裂く最初の光線を見逃さないよう、ずっと目を覚ましていなければなりませんでした。 彼らはこの任務を非常に熱心に行いました。だからこそ、著者は「夜回りが朝を待ち望むよりも、さらに切に」というフレーズを繰り返しているのです。 彼らは何度も何度も、光を探し求める覚悟があります。
朝を待つ夜回りのように、私たちもまた、主が確かに赦してくださるという確実な希望を抱いて、自らの内なるたましいを呼び覚まし、主を待ち望まなければなりません 。 特に主が遠いと感じられた時、目を覚まして熱心な期待を持つことが必要です。 私たちの抱く希望が実現するその時まで、ただひたすらに待ち望み、私たちのありったけの力を尽くさなければいけません。 夜回りの例えにあるように、夜は果てしなく続くように思えるかもしれませんが、朝は確実にやってくるのです。
兄弟姉妹の皆さん、自分の罪によって心が汚れてしまっていると感じている方がいらっしゃるかもしれません。もし、今まさに罪による魂の苦しみを受けておられるなら、主は必ず赦してくださると宣言する「主の御言葉」に望みを置きなさい、と詩人は語りかけています。世界が、悪魔が、あるいはあなた自身が何を言おうとも、キリストを信頼するなら、あなたのすべての罪は赦されているのです。私たちの神様は、怒るのに遅く、豊かな憐れみに満ちておられるお方です。神様がこれほどまでに恵み深いお方だからこそ、私たちはその御前に出て、主に待ち望み、祈り、礼拝することができるのです。これこそが、詩人がイスラエル全体に理解してほしかった最も重要なメッセージであり、それゆえに最後の7節と8節は、イスラエルへの「勧めの言葉」となっています。
- 詩人の勧め
個人的な体験を分かち合った後、詩人はイスラエル全体に向かって、主に望みを置くようにと励まします。 しかし今回は、なぜ主がこれほどまでに赦しを与えてくださるのか、その理由を解き明かしています。 7節にはこうあります。「イスラエルよ、主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」 1節と2節に漂っていたあの暗く沈んだ感情とは対照的に、今や詩人は喜びに溢れています。 彼の罪に対する嘆きは、神様の愛とあわれみに圧倒され、いまや賛美へと変えられました。
神様が持っておられる「恵み」とは、ご自分の民に対する、決して変わることのない契約の愛です。 どれほど私たちの罪が泥だらけで、汚く、凶悪なものであったとしても、神の愛には果てがないです。 この変わることのない愛こそが、イスラエルの希望の土台となっております。 そして、この愛があるからこそ、「豊かな贖い」があります。 詩人は、神様の無限の愛があるため、その贖いの御業を「豊かである」と語られています。 信じる私たちにとって、神様の契約の愛は変わることがなく、いつでも私たちのために注がれているため、決して希望を失う必要はありません。 私たちは、この詩人のように、神様に見捨てられたと感じたり、自分の罪深さのゆえに神様に愛されるはずがないと思うことがあるかもしれません。しかし、客観的な真理は、神様は今でもあなたを愛しておられ、信仰があるあなたをすでに贖い出してくださった、ということです。
最後の8節で、詩人はイスラエルに向けて力強い宣言をします。「主は、すべての不義からイスラエルを購い出される。」著者はイスラエルに対し、完全な赦しが存在しているのだと告げています。 これこそが、主を待ち望むイスラエル人に用意されている「豊かな贖い」なのです。 これは、神様が将来、民の「贖い主」として彼らをすべての罪から解放してくださるという確かな約束です。 この神様をイスラエルは待ち望んでいます。
新しい契約の恵みに生きるクリスチャンである私たちは、この約束がいつ、どのようにして成就されたかを知っています。神様は、イエスキリストとその十字架の御業を通して、この「豊かな贖い」を成し遂げてくださいました。 キリストこそが、不変の愛をもって私たちを愛し、私たちのために十字架の上で呪われたものとなってくださり、私たちの罪の責任をすべて引き受け、贖いの代価としてご自分を捧げてくださったお方です。 このイエス様の救いの御業のゆえに、私たちは今、信仰による完全な赦しを与えられています。 神様が私たちに対して抱いておられる不変の愛は、具体的にイエス様の十字架で示されました。
私たちが罪深い存在であるにもかかわらず、天の父なる神様は、あなたと私にこの計り知れない「豊かな贖い」を勝ち取り、ご自分のひとり子さえも惜しまずに与えてくださいました。 私たちが絶望と罪悪感に沈むときに、8節は何よりも必要としている希望の御言葉です。 キリストが、私たちの過去、現在、そして未来の「すべての」不義から、私たちを贖い出してくださったのです。 古代イスラエルは前を見つめ、主が来られて自分たちを贖い出してくださるのを待ち望んでいましたが、私たちは、自分自身の救いを疑ってしまうとき、すでに完成したキリストの贖いの御業を後ろに振り返り、そこに確かな保障を見出します。
私たちの救いの確信は、私たちの信仰の一貫性や強さに依存しているのではありません。 信仰とは、イエス様が成し遂げられた御業を、ただ受け取ることにほかなりません。なので、私たちの感情がどのように揺れ動こうとも、私たちの贖いはキリストの内において絶対的に保障されているのです。
私たちは、確信を得るためにキリストの救いの御業を振り返りますが、ある意味では、将来をも見つめています。 私たちもまた、著者と同じく主を待ち望み、主に希望を置いています。なぜなら、完全な贖いは将来に現れることを知っているからです。 確かに、信じる私たちには天国が約束されており、贖いはイエス様の十字架と復活によって成し遂げられました。 しかし、その贖いの完全な現れは、まだこれからのことです。 この肉において生きている限り、私たちは今なお周囲にうごめく罪の現実を目にし、自分自身もまた、罪と戦い続けています。 だからこそ私たちは、世界に完全な贖いをもたらすために再び来られる、主イエスキリストの再臨を待ち望んでいるのです。
私たちは、自分自身の罪の醜さやそれがもたらす悲惨を経験するとき、キリストの再臨を待ち望む思いをますます募らせます。 私たちが日々、自らの罪の現実と誠実に向き合い、主イエスの再臨を熱心に待ち望むとき、私たちの心には、天国へのいとしき期待と憧れがいっそう高く引き上げられていくのです。この輝かしい将来が約束されているからこそ、私たちは今、耐え忍び、主に望みを置くことができるのです。 毎週礼拝で、私たちが罪を告白し、赦しの宣言を聞くたびに、それは、罪の力が完全に打ち砕かれるあの終わりの日の輝かしいプレビューとなっているのです。主に望みを置き、主を待ち望みなさいという詩人の勧めは、彼と同じ希望と確信を持っている私たちにも、そのまま適用されます。
いつの日か、もはや罪の告白を必要としない日がやってきます。 私たちが絶えず葛藤している罪からの解放を求め、涙ながらに祈る必要すらなくなる日がきます。 ですから、私たちが今、自分の罪を告白して祈るたびに、その究極の希望へと一歩ずつ近づいており、私たちの抱く希望はいっそう揺るぎない確信へと強められていくのです。 パウロはローマ人への手紙8章23節にこう書きます。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちの体が贖われることを待ち望みながら、こころの中でうめいています。」
今日、この礼拝の中で、絶望や苦悩、あるいは深い罪悪感を抱えておられる方がいるかもしれません。しかし、兄弟姉妹、私たちの神様は無条件な愛に満ちたお方であり、私たちの身代わりとして死んでよみがえられたイエス様が全ての罪から贖い出してくださいました。 そしてキリストは、罪と死から、あなたを完全に、永遠に解放するために、必ずもう一度戻ってこられます。 今経験している惨めさや苦しみは、人生の最後の結末ではありません。神の『豊かな贖い』こそが、あらかじめ用意された、栄光に満ちる結末なのです。 それゆえに、今日も主に祈り、罪を告白し、望みを主の御言葉に置きましょう。お祈りいたします。
