2026年9月20日礼拝 説教「心を騒がせた裏切り」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇103篇1-5節
さんび Opening Praise どうしてそこまで ~Amazing Love~
さんび Praise ひとりの御子さえ

~How Deep the Father’s Love For Us~

開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第2戒)申命記4章15-16節
黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God イザヤ書53章4-5節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書13章18-38節
聖書の話 Sermon 「心を騒がせた裏切り」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌412番「主とともに歩む」
主の献金の招き Lord’s Call to Give レビ記27章30節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたち、ちょっと想像してみてください。あなたが一生懸命お小遣いを貯めて、何日もかけて特別なプレゼントを用意し、一番の親友に渡したとします。親友はそれを受け取ってくれました。でも次の日、その親友が、あなたの心を込めたプレゼントを、たった一個の安いチョコと交換して、他の人にポイッと手放してしまったことを知りました。その時、皆さんはどう感じますか?「信じられない!」「あんなに大切に作ってあげたのに!」と、心が深く傷ついて、怒りや悲しみでいっぱいになるはずです。

 

今日の聖書の箇所で、イエス様はまさにその「信じられないような裏切り」に直面されます。働きのための大切なお金を任せ、永遠のいのちのパンを差し出し、汚れた足を洗って絶対的な愛を注いだ弟子のユダが「銀貨三十枚」というわずかなお金のためにイエス様を裏切るのです。親しい友に裏切られるという痛みや悲しみを、痛いほど深く感じておられました。しかし、イエス様はこの裏切りや、その背後で待ち構えるサタンという悪に対して、決して逃げ出さず、怒りや復讐で戦うこともされません。イエス様は、押し潰されそうなプレッシャーの下でも決して砕けることのない「力強く勇敢な愛」をもって、サタンとの決定的な戦いに向かわれます。イエス様の圧倒的な愛が悪をどのように打ち砕くのかを見ていきましょう。

 

Ⅰ.心が騒いだイエス、混乱している弟子たち

私たちは今、イエス様が亡くなる前夜にいます。この時、その恐ろしい出来事がすぐそこに迫っていることを知っていたのは、イエス様ただお一人でした。イエス様は十字架へと向かわれる直前、弟子たちに「十字架が何を意味するのか」を伝えるための、一つの大切な姿を残そうとされました。そこでイエス様がとられた行動、それは弟子たちの足を洗うことでした。それは当時の人々にとって衝撃的で、常識外れで、ある意味で非常にショッキングな出来事でした。しかし同時に、それは弟子たちに対するイエス様の愛の深さと恵みを伝える、力強いメッセージでもあったのです。イエス様はこう約束されました。「もしあなたがイエス様に自分の足(泥だらけの魂)を洗わせるなら、あなたはキリストの相続財産――すなわち、天国での永遠のいのちにあずかることができる」と。弟子たちにとって、これは自分の耳を疑うような、驚くべき愛の申し出だったのです。

 

弟子たちに豊かな祝福と恵みを示された後、イエス様は非常に明確な線引きをされました。これはヨハネの福音書にとてもよく見られる特徴です。イエス様はこう言われました。「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。」イエス様は12人の弟子たち全員を自ら選び出されましたが(ヨハネ6:70)、ここでは、全員が同じように祝福されるわけではないと宣言しておられます。つまり、足を洗うことで示されたあの愛や、ご自分の受け継ぐものを弟子たちに分け与えるという愛は、決して「全員に自動的に与えられるもの」ではない、とほのめかしているのです。

 

詩篇41篇9節には、メシア(救い主)が親しい友に――共にパンを食べるほど身近な者に――裏切られることがすでに預言されていました。イエス様は、いざそれが起こった時に弟子たちが信仰を失ってしまわないよう、前もってこの事を伝えられたのです。むしろ、その裏切りこそが、「裏切られたお方こそ神様が立てられたメシアである」という決定的な証拠となり、弟子たちを励ましたかったのです(19節)。そして、この裏切られたメシアを信じる者は、聖書の神様を信じているということを証明したかったのです(20節)。

 

この裏切りが、「イエス様こそキリストである」という動かぬ証拠になるからといって、イエス様が感情のないロボットのように冷淡だったわけではありません。聖書にはこうあります。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。』」イエス様は、歴史上、最も勇敢で、最も男らしく、最も完璧に従順な方だと言えます。しかしそれは、感情がなかったという意味ではありません。ご自分が愛していた人に裏切られるという、生々しい痛み、悲しみ、怒り、孤独、そして恐ろしさを、イエス様は痛いほど感じておられました。この地球上の誰よりも深くそのすべてを感じながら、それでもなお、罪深い感情は一切ありませんでした。

 

ちょっと想像してみてください。もし私が今日、皆さんの前に立って、「私たちの新しい教会堂に火をつけ、私たちを裏切る教会員が一人いるのを私は知っています。」と言ったらどうでしょう。皆さんはパニックになりますよね。きっと、弟子たちと全く同じ反応をするはずです。ですから、ペテロたちはイエス様にこっそりと尋ねようとしました。すると、イエス様ははっきりとこう答えられます。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられました。

 

多くの人は、ユダを一目見ただけで分かるような「あからさまな悪人」だと思っています。そんなことはないです。ユダはおそらく、究極の「いい人」だったはずです。ドラえもんに例えると、ユダは、ジャイアンでもなく、スネ夫でもなく、のび太でもありません。出木杉君です。いつも貧しい人に顧みる、信頼できる会計係である出木杉君がイエス様を裏切るなんて、弟子たちの常識からは完全にかけ離れていたため、頭の中で処理しきれなかったのです。目の前に突きつけられた絶望的な真実を受け入れるより、自分たちが安心できる都合の良い言い訳を自らに言い聞かせたのです。

 

ですから、弟子たちを責められる人はいません。 彼らは「イエス様を裏切る弟子」という考えそのものに、完全にショックを受けていたのです。目の前におられるのは、ラザロを死からよみがえらせたばかりのお方であり、勝利の王としてエルサレムで大歓迎されたお方であり、神様ご自身が天からの雷のような声でメシアであると証明されたお方なのです。弟子として裏切りなんてあり得ないという思いがあまりにも強かったため、それが事実であるよりも、「自分たちがイエス様の言葉を聞き間違えたのだろう」と結論づけてしまったのです。親しい弟子による裏切りだったからこそ、イエス様と弟子たちの心は根底から激しく揺さぶられたのです。

 

Ⅱ.ユダの裏切りの心境

ユダの裏切りは、おそらく人類の歴史の中で最も有名な裏切りです。しかし同時に、最も誤解されている裏切りの一つでもあります。私たちはしばしばユダを、神様の計画の「受け身の犠牲者」――悪を行うようにプログラムされたロボットのように間違って捉えてしまいます。私たちは「ユダ、かわいそう」と思ってしまうのです。しかし聖書が明らかにしているのは、自分自身の悪意に完全に、そして自発的に関わっていた一人の男の姿です。その裏切りは数ヶ月間ずっと心の中で煮詰まり続け、マリアがイエス様の足に高価な香油を注いだのを見た瞬間に、ついに限界を超えてブワッと怒りが溢れ出たのです。殺意を抱くきっかけとしては、なんと歪んでいることでしょうか。 ユダは香油が「もったいない」と怒っただけではありません。そのお金を自分のために盗めなかったことにも腹を立てていたのです。その瞬間から、ユダの主体性が顔を出します。ユダは誰かに脅されたわけではありません。このことをきっかけにし、キリストを現金と交換するために、自分から進んでエルサレムの権力者たちに近づき、イエス様を裏切ったのです。

 

そして、「最後の晩餐」での、あの背筋が凍るような対照的な姿を見てください。イエス様が「この食卓に裏切り者がいる」と宣言された時、忠実な弟子たちは悲しみに打ちひしがれ、必死に自分の心を探りながら「主よ、私ですか?」と尋ねました。しかしユダは、全く動じることなくそこに座り、平気で嘘をつき、「主」と呼ぶことを意図的に拒否しながら、「先生(ラビ)、私ですか?」と冷たくイエス様をあざ笑ったのです。ユダの邪悪な計画のクライマックスは、あのゲツセマネの園で訪れます。ユダは安全な距離から指差すだけではありませんでした。自ら前に歩み出ると、親しさを武器にして、なれなれしく「先生、こんばんは!」と叫び、わざとらしく何度も口づけをして、完全にイエス様を馬鹿にしていたのです。

 

しかし、自分の罪の恐ろしさにようやく気づいた時でさえ、ユダの後悔は、その裏切りと同じくらい損得勘定にまみれた、自己中心的なものでした。ユダは、まだ生きておられるキリストや、傷ついた弟子たちに赦しを乞うことはしませんでした。代わりに、イエス様を殺そうとしている人たちのところへ戻り、後悔していることを言っただけです。十字架を止めるために指一本動かすこともせず、銀貨三十枚を神殿の床に投げつけることで、自分の罪悪感をお金で清算しようとしました。しかも最後までケチで、以前にイエス様の財布から盗み取った残りのお金はしっかり自分の懐に入れたままだったのです。結局のところ、ユダの自殺は悔い改めの謝罪などではなく、完全に崩壊した自分の現実から逃げ出すための、利己的な逃亡に過ぎませんでした。ユダは決してロボットのような被害者ではありません。恐ろしいほど人間的で、自らの意志で決断した殺人者なのです。

 

Ⅲ.ユダの裏切りの霊的現実

もう一つよくある誤解は、ユダの裏切りが単なる「個人的な悪行為」だったというものです。実際には、この瞬間は、神とサタンとの間の「天国と地獄の戦争」における決定的な衝突でした。戦国時代に例えると、これは関ヶ原での戦いです。サタンは、イエス様の十字架が「永遠のいのち」をもたらすことなど夢にも思っていませんでした。むしろ、神の御子を十字架につけて殺しさえすれば、人類が救われる希望を永遠に葬り去ることができると信じ込んでいたのです。サタンの頭の中では、これは全人類をもう一度引きずり下ろすための、第二のエデンの園のチャンスでした。サタンはまるで、格闘技の「リング」で待ち構える邪悪なゴリアテです。神の民のチャンピオンを一撃で打ち砕いて墓の中に閉じ込め、自分自身の永遠の勝利を確実なものにしようと、殺意をむき出しにして待ちわびていました。

 

しかし、ここに非常に奥深い真理があります。それは、サタンは「自分の都合」で戦うことはできないということです。まるで、イエス様の合図を待っているかのようです。サタンは、イエス様が許可するまでリングに上がることすらできないのです。王の王としての絶対的な権威と、真の世界チャンピオンとしての自信をもって、イエス様はパンを浸し、それをユダに渡されました。それは、聖書の預言が成就された瞬間であり、サタンがユダに入った瞬間でした。そして、イエス様はこう言われました。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」究極のダビデ王であられるイエス様が、ユダに向かって『サタンよ、お前との決戦の時だ。備えはできている。リングで待っているぞ。』」と告げられたかのようです。そして、ユダを夜の闇へと送り出すことで、イエス様は圧倒的な権威を持って、自らの意志で十字架へと歩みを進め、歴史上最も重要な霊的戦いの中へと足を踏み入れられました。サタンはイエス様を殺して勝利したと思い込みましたが、イエス様はまさにその「死」という武器を使ってサタンを打ち砕かれたのです。これこそが、永遠の運命を決定づける、究極の「ダビデとゴリアテ」の戦いです。

 

Ⅳ.私たちが立ち入れられない戦い

ユダがその場を去った後、イエス様は残された忠実な弟子たちに向き直り、別れの言葉を語り始められました。イエス様が最初に語られたのは、「人の子」が必ず勝利するということでした。イエス様は「圧倒的勝利者」として栄光を受け、暗闇を打ち砕かれるのです。しかし同時に、イエス様は彼らにこう警告されました。「子どもたちよ、あなたがたはこの戦いに、わたしと一緒に行くことはできません」。それはなぜでしょうか? 私たちは皆、その理由を知っています。それは、イエス様がこれから十字架に向かわれるからです。そこは、神様ご自身がイエス様の上に神の怒りを注ぎ出し、サタンの王国が罪と死ののろいをイエス様に浴びせかける場所です。もし弟子たちがその戦いに加われば、確実に滅びてしまいます。

 

ですから、イエス様はこの戦いの前に、彼らに最後の命令を与えられました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。それによって、すべての人が、あなたがたがわたしの弟子であることを認めるようになります」。「愛しなさい」という命令自体は、とても古いものです。それは旧約聖書の愛の核心でもあります。この命令が「新しい」のは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が付け加えられているからです。イエス様がこの直前に何をしてくださったか、思い出してください。イエス様は弟子たちの足を洗われました。それは、イエス様がこれから十字架上で示される、度を越えた、少し気まずくなるような、常識外れの愛と恵みの行動を指し示していたのです。イエス様は弟子たちに、あの十字架の衝撃的で犠牲的な愛を反映するような愛し方でお互いを愛し、世の人々にキリストの弟子として知られるようにと励まされたのです。

 

ペテロは、イエス様が「人の子」の十字架上での死について語っておられる事と、それが世界に衝撃を与える事だと分かっていたのです。ペテロは直感的に、これが「最終決戦」になることを悟りました。だからこそ、いつも血気盛んな弟子であるペテロは、こう尋ねたのです。「主よ。なぜ今は、ついて行くことができないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」しかしイエス様は、容赦なく現実を突きつけられます。「わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」実は、ルカ22章で、イエス様はサタンが弟子たちを「麦のようにふるいにかける」ことを許されたと言われました。そして、サタンはペテロを完全に破壊しようとリングに上がっていましたが、イエス様の執り成しの祈りがなければ、ペテロの信仰は紙きれのように一瞬で焼き尽くされていたはずです。

 

ここで一つ、心に留めておきたいことがあります。確かに、残りの弟子たちはユダと同じようにはイエス様を裏切りませんでした。弟子たちはイエス様の恵みと愛を拒絶したわけでもありませんし、イエス様を滅ぼそうとしたわけでもありません。しかし、弟子たちには最後まで持ちこたえる愛がなかったのです。彼らの愛は、人への恐れという重圧の下で、もろくも崩れ去ってしまいました。これって、まるで私たちの姿に似ていませんか?

 

だからこそ、十字架における「人の子」の栄光に満ちた勝利は、さらに輝くのです。信頼していた会計係からの痛ましい裏切りがあったにもかかわらず。11人の弟子たち全員がイエス様を否んだにもかかわらず。イエス様をメシアとして求めていたはずの人々が、狂信的に十字架を要求する暴徒に変わってしまったにもかかわらず。この世を支配するサタンが、すべての霊的な力を使ってイエス様を打ち倒そうとしたにもかかわらず。そして何より、父なる神様がご自分の御子を見捨て、永遠の怒りを御子の上に注ぎ出されたにもかかわらず。弟子たちに対するイエス様の愛、そして、父なる神様に対するイエス様の愛は、決して揺らぐことはありませんでした。サタンはイエス様のかかとに噛みつきましたが、イエス様は、死と悪を打ち破るその愛によって、サタンの頭を完全に打ち砕かれたのです。

 

Ⅴ.覚えていただきたいこと

① 悪の本当の恐ろしさは、無限の愛をわずかな銀貨で売り飛ばす不条理さにあります。 私たちはユダの裏切りがどれほど深くイエス様を苦しめたかを、少し軽く考えすぎているように思います。イエス様の心が激しく騒いだのは、ご自分のいのちをこの男に注ぎ込んでこられたからです。他の弟子たちに与えたのと全く同じように、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝える権威をユダにもお与えになりました。働きのための大切なお金をユダに任せ、信頼しておられました。最後の晩餐では、永遠のいのちのパンをユダに差し出されました。ユダの前にひざまずき、ユダの汚れた足を洗い、絶対的な愛を注がれたのです。

 

悪の本当の顔は、私たちが想像するようなものとは全く違います。悪の本当の姿とは、これほど信じられないような恵みをすべて受け取っておきながら、イエス様の目を見て、「こんなものより、銀貨三十枚のほうがいい」と言ってのけることなのです。悪がこれほどまでに私たちの心をかき乱すのは、それが単に恐ろしいからだけではありません。あまりにも不条理で、あまりにもちっぽけで、そして私たちのあまりにも身近なところで起こるからです。それはまるで、何代も大切に受け継いできた家族の会社を、安っぽいスポーツカーを買うために売り飛ばしてしまう兄弟のようなものです。ほんのわずかな硬貨のために、無限の愛を拒絶してしまうという、この全く不条理な悲劇に、イエス様は深く心を痛めておられたのです。

 

②この悪を完全に打ち砕くのは、十字架で示されたイエス様の圧倒的な愛だけです。 イエス様はどのようにサタンと戦われるのでしょうか? イエス様は「愛」をもって戦われます。サタンは「愛」を単なる「優しい」「柔らかい」「弱々しい」ものだと勘違いしていました。十字架が愛の究極の姿であるなら、本当の愛とは、力強く、勇敢で、悪を絶対に許さないものです。しかしそれと同時に、度を越えていて、世間の常識を覆すほどスキャンダラスで、想像を絶する恵みに満ちたものなのです。本当の愛は、裏切りという押し潰されそうなプレッシャーの下でも決して砕けることなく、逆に悪を打ち砕くダイヤモンドのようです。その圧倒的な十字架の愛と、私たちが自分の力で絞り出そうとする愛を比べてみてください。私たちの愛は、あのペテロの臆病な裏切りのようにあまりにも脆く見えてしまいます。

 

だからこそ、本当の愛は特別なものであり、どこにでも転がっているような安物ではありません。実際、罪と死、そしてサタン自身の力を打ち砕くために必要な「愛の行動」を成し遂げた人間は、歴史上ただ一人しかいません。それがイエス・キリストです。だからこそ、イエス様だけが王の王、主の主であられるのです。私たちが人を愛そうと努力する前に、まず、このイエス様の「勝利の愛」の中にとどまり、ゆだねなければならないのです。

 

③私たちの愛は脆くても、主の愛が私たちを「主のように愛する者」へと変えるのです。 正直に言って、私たちの愛は薄っぺらで脆いものです。人の目を恐れ、すぐに崩れ落ちてしまいます。しかし、福音の恵みはここにあります。私たちのあの臆病な裏切りのためにイエス様が死んでくださったのだと気づいたとき――つまり、十字架で「イエス様に足を洗っていただく」ことを心から体験したとき――私たちは「主が愛してくださったように愛したい」という強烈な願いへと駆り立てられるのです。

 

だからこそ、イエス様はペテロに「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われました。十字架以前のペテロには、愛を貫く力は全くありませんでした。しかし、復活の主に出会って彼は変えられます。かつては門番をしていた召し使いの女を恐れて震えていた男が、ほんの数ヶ月後には、主を十字架につけたのと同じ暴徒の前に立ち、恐れることなく大胆に福音を語り(使徒4章)、最後には殉教者として主の歩まれた道をたどりました。ペテロは倒れ、みじめに失敗しました。しかし恵みによって、ついに「後について行った」のです。私たち自身の力も、必ず失敗します。しかし、私たちが仕える王の愛は決して失敗しません。どうか、十字架を見上げてください。王の完全な勝利の中にとどまって、そこから世界へ踏み出して、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを行っていきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church