2026年10月4日礼拝 説教「金像の神と、火の中の救い主」     

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌245番「御名をほめ讃える歌声より」

開会の祈り Opening Prayer 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌45番「神の子羊」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読      ダニエル書3章1-30節

聖書の話  「金像の神と、火の中の救い主」         マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌344番「神はわが砦」1-3番

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

頌  栄 Doxology  教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたち、想像してみてください。ずっと行きたかった大好きな学校に入学できたとします。ところが、その学校には掟がありました。「毎朝、一番えらい王様の写真に向かって深く頭を下げて拝みなさい。もし頭を下げないなら、この学校に通うことができません」と言われます。他の学生は、「ただの写真だから、いいんじゃない」とペコペコ頭を下げる中で、もし自分一人だけ「イエス様以外の神様は拝めない」と断ったらどうなるでしょうか?今までのお友達も、楽しい学校生活も全部失って、一人ぼっちになってしまいます。大人の私たちも全く同じです。「世の中の空気に合わせないと全部失うぞ」というプレッシャーの前で、仕事や友達を失うのが怖くて、つい神様よりも周りの空気に従いたくなってしまうのです。 今日のダニエル書で、バビロンの王様は「俺の金の像を拝まない奴は、全員燃え盛る火の中に投げ込んで焼き殺す」と命令しました。頭を下げないということは、仲間外れどころか、大切な仕事も、地位も、自分の命さえもすべて失うことを意味していました。それほど恐ろしい代価を前にして、なぜ3人の若者はたった3人だけで立ち続けることができたのでしょうか?それは彼らがヒーローだったからではなく、「たとえ自分が火で焼かれて死んだとしても、神様はどんな結果をも大逆転できる」と、神様の絶対的な力と愛に自分の命を預けていたからです。その揺るがない信仰の姿を、今日も一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.「金の像=自己神格化」

ダニエル書は、神の民が歴史の激しい濁流と神様のさばきの中に飲み込まれていく話です。強大なバビロン帝国がユダの国を攻め滅ぼし、神の民を捕囚として連れ去った時代が舞台となっています。この書物は、バビロン政府の中で働く4人のユダヤ人の若者たち――ダニエル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ――の歩みを追っていきます。

 

前回の2章で、ネブカドネザル王は恐ろしい夢を見て飛び起きました。それは、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は鉄と粘土という巨大な像の夢でした。そして、人間の手によらずに切り出された「一つの石」が飛んできて、その像を粉々に打ち砕いてしまうというものでした。ダニエルはこの夢をこう解き明かしました。「ネブカドネザル王よ、あなたがその金の頭です。しかし、あなたの後に別の国々が続き、最後には神様が建てられる永遠の国が、地上のすべての国々を打ち砕きます。」

 

ところが、3章に入ると王様は何をしたでしょうか?なんと彼は、「全身が純金でできた巨大な像」を造り上げたのです。その高さは約27メートル。ビルの8階から10階建てに相当します。ここにある5階建てのパティオス20番街の、およそ2倍もの高さです。平らなドラの平原に建てられたため、朝の太陽を浴びて、何キロも遠くからギラギラと黄金に輝く姿が見えたはずです。それは、周辺のすべての国々に対して「俺こそが世界の絶対的な支配者だ」と見せつけるモニュメントでした。しかしそれ以上に、これはネブカドネザルが「自分の運命を力ずくで書き換えようとした」姿でした。「自分の国をただの『金の頭』で終わらせてたまるか。俺の栄光を、永遠にずっと続けさせてやる!」という、神様へのむき出しの反逆だったのです。

 

しかし同時に、とても興味深いことがあります。この王様は、実はものすごく「宗教的」な人物だったということです。彼はたくさんの神々を信じる多神教徒でした。バビロン帝国には、ベルやマルドゥクといった国家公認の神々がいました。前の章で、ネブカドネザルは聖書の神様の力をも認め、「あなたがたの神こそ、神々の中の神、王たちの主、また秘密を明らかにする方だ」と賛美して、ひれ伏して拝みさえしたのです。では、なぜこれほど宗教的な男が、神様に対してここまで傲慢に反逆できたのでしょうか?

 

その答えは、彼が建てた像の「異常な大きさ」を見れば分かります。ドラの平原にそびえ立つ10階建ての金の像は、バビロンの神殿に祀られていたどんな神々の像よりも圧倒的に巨大でした。ここに、多神教の最大の皮肉があります。ネブカドネザルは名目上はたくさんの神々を拝んでいましたが、実質的には「たった一つの神」しか信じていませんでした。彼が一番崇め、信じていた一神教の神――それは「自分自身」だったのです。

 

私たちは、「自分を神にする」なんて古代の狂った独裁者の話だと思うかもしれません。しかし、八百万の神々に親しみ、謙虚でお行儀が良いとされる、この現代の日本を見てみてください。2025年、Number_iというグループの『GOD_i』という曲が日本のチャート1位を記録しました。若者たちは「I am my own God(俺の神は俺自身だ)… Believers forever」というサビを歌い、曲の途中で「未来の俺にお願いごと…俺に祈るだけ」というフレーズが流れます。何百万人もの若者たちが、何の違和感も持たずに、共感してこの歌を口ずさみました。

 

私が言いたいのはこうです。たくさんの神々の後ろに隠れて「自分自身を拝む」というのは、現代の流行でも古代の遺物でもなく、人間がどうしても抜け出せない罪の本質です。古代のバビロンであれ、現代の日本であれ、あるいはポストモダンの西洋であれ、人間がたくさんの神々や哲学を作り出すとき、私たちは「誰も自分の人生に口出しできない都合のいい仕組み」を作って、自分の心の王座に居座り続けているだけなのです。

 

Ⅱ.「空気を読まない」という異端

旧約学者のイアン・ドゥグイドが指摘するように、この金の像は、かつてのバベルの塔と同じように「人間の一致」のシンボルでした。

ネブカドネツァル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に出席させることにした。そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカドネツァル王が建てた像の奉献式に集まり、ネブカドネツァルが建てた像の前に立った。

バビロン帝国の隅々から、あらゆるエリート指導者たちが集められました。日本全国の知事や政治家たちが皇居に呼び集められて、国家への絶対服従を誓わされるような光景です。伝令官が「諸民族、諸国民、諸言語の者たちよ」と叫んだように、それは多国籍な一致をアピールする、バベルの塔のような壮大なイベントでした。

 

しかし、この一致はお祝いでもオリンピックでもありませんでした。それは「死の脅し」による、完全な強制服従でした。

伝令官は力強く叫んだ。「諸民族、諸国民、諸言語の者たちよ。あなたがたはこう命じられている。あなたがたが角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたときは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる。」

音楽が鳴り響いた瞬間、人々は何をしたでしょうか? 彼らは全員「空気を読みました」。一斉に地面に倒れ込み、王様の巨大なプライドの前にひれ伏したのです。

ところが、たった3人の男たち――シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ――だけは、空気を読まずに、立ったままでした。

 

これを見たエリート占い師のカルデア人たちは、絶好のチャンスだと飛びつきました。2章で、この3人のユダヤ人たちは実績によって、高い役職に就いたのですが、カルデア人たちは嫉妬で燃え上がり、彼らを引きずり下ろそうとしました。カルデア人の告発の言葉に注目してください。

王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもいたしません。

カルデア人たちは、彼らの「仕事の能力」を責めることはできませんでした。彼らはバビロンの学校をトップの成績で卒業したエリートだったからです。また、彼らの「忠誠心」も責めることはできませんでした。彼らは誠実に国を治め、告発者たちの命さえ救ったからです。

 

では、カルデア人はいったい何を問題にしたのでしょうか?彼らは「この3人のユダヤ人たちはあなたを無視しています」と言ったのです。「王様、あいつらはあなたを尊敬していません。あなたを怖がってもいません。あなたがしてあげた恩を忘れ、あなたの気持ちを踏みにじっています」と。10階建ての金の像を建てるほど自分のことが大好きな王様にとって、これは耐えられない屈辱でした。「自分を愛せ」と叫ぶこの21世紀の世の中でも、「自分のエゴを傷つけること」が、最大の「タブー」、最悪な「異端」とされているのと全く同じです。

 

III. 立ちはだかる3人の若者

歴史上、もっとも軍事的・政治的に優れていた偉大な王様が、たった3人の若者が頭を下げないというだけで「怒り狂って」います。巨大な像を造るほど自分に自信満々なはずの男が、田舎から連れてこられた若者たちの顔色を必死に伺っているのです。深刻であると同時に、どこか滑稽な光景です。

「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴよ。おまえたちは私の神々に仕えず、また私が建てた金の像を拝みもしないというが、本当か。今、もしおまえたちが……ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」

これに対する3人の返答は、驚くほど冷静でした。まるで、「床にひっくり返ってかんしゃくを起こしている子どもを、静かに見つめるお父さん」のようです。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。」王様は自分に注目してほしくて叫んでいるのに、彼らは「あなたのご機嫌取りをするつもりはありません。」とピシャリと言い放ちます。

 

「もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。」王様は帝国全体の恐ろしい権力で脅しつけていますが、彼らから見れば、小さな子どもが可愛いパンチを必死に繰り出しているようにしか見えていません。

 

「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」彼らはこう言ったのです。「命を失うことになっても、神様が私たちを助けてくれなかったとしても、あなたを神として拝む価値などありません。私たちの愛と敬意は、聖書の神様だけのものです。」

 

彼らの選んだ道は、完全に孤独な道でした。周りの全員が、彼らの事を「頑固だな。これは自殺行為だ」と笑ったはずです。あの内村鑑三の不敬事件が、とてもお行儀良く見えてしまうほどの大胆さです。世の中のルールに合わせず、「聖書の神様以外には絶対に心を売りません」と宣言するクリスチャンは、いつの時代も世間から見れば、孤独で頭がおかしいように見えるのです。

 

Ⅳ.炎の炉と、歴史上最大の大逆転

告白をフラれて逆上したストーカーのように、王様の顔は一瞬で憎しみに歪みました。 王は復讐心に燃え上がり、炉の温度を普段の7倍に上げさせ、兵士たちに彼らを縛って投げ込ませました。その炎はあまりに激しく、投げ込んだ兵士たち自身が焼け死んでしまうほどでした。そして、この場面のクライマックスを迎えます。

24  そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えた。「王様、そのとおりでございます。」 25  すると王は言った。「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」

ここでの神様の救い方は、神様がどのようなお方かを力強く現しています。神様は天からの雷で王様を打ち倒すこともできましたし、火を消し去ることもできました。しかし神様は、「火の炉の真ん中に、自ら一緒に入ってくださる」ことを選ばれたのです。神様ご自身が、彼らの苦しみと痛みのただ中に飛び込んで来られました。その神様の守りは圧倒的でした。髪の毛一本も焦げず、服も傷まず、煙の臭いさえついていませんでした。彼らは火の中で完全に守られていたので、王様が「出てきなさい!」と頼むまで、出てきもしなかったのです。

 

そして、自分勝手なプライドから目を覚ました王様はこう宣言します。

「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された。王の命令に背いて、自分たちのからだを差し出しても神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこの者たちを。それゆえ、私は命令する。諸民族、諸国民、諸言語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神に対して不敬なことを口にする者はだれでも、八つ裂きにされ、その家はごみの山とされる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」

神様は、独裁者のプライド、強制された世界の一致、カルデア人の嫉妬、そして燃え盛る火の炉のすべてを用いて、ご自身の栄光を世界中に宣言されました。傲慢な王様を徹底的にへりくだらせ、バビロン政府そのものを用いて神の民を守られたのです。これこそが、神様が起こされる「大逆転」です。

 

この出来事は、新約聖書において神様が私たちをどのように救ってくださるかを完璧に指し示しています。イエス様の十字架は、火の炉のさばきと非常に似ていますね。プライドを傷つけられたユダヤの宗教指導者たちの嫉妬から始まり、不条理で不誠実な訴えで有罪になり、ローマ帝国の暴力によって推し進められ、エルサレムの群衆の理不尽な叫びによって火をつけられました。しかし神様は、その理不尽な十字架をご自身の栄光と世界的な勝利のために用いられたのです。

 

神様は、十字架という「激しいさばきの炎」を消されませんでした。神の御子であるイエス様ご自身が、その炎の中に進んで飛び込んでくださいました。つまり、イエス様は、火の炉である十字架にとどまられたのです。その十字架は、私たちへのさばきであり、神様の聖なる火によって罰せられるところです。しかし、イエス様が私たちの身代わりにその火の炉で焼かれてくださったからこそ、神様のさばきの火は私たちに指一本触れることもできず、煙の臭いさえ残らない「完全な救い」が与えられたのです。

 

Ⅴ.覚えていただきたいこと

①「一致の空気」に騙されてはいけません―私たちは霊的な戦いのただ中にいます

遠藤周作の有名な小説『沈黙』をご存知の方も多いと思います。江戸幕府によるキリシタン弾圧を描いた歴史小説で、幕府は「踏み絵」を使ってキリスト者をあぶり出しました。宗門奉行の井上正重は、捕らえられた司祭ロドリゴに踏み絵を踏ませるため、実に巧みな言葉で説得を試みます。「ただの形式だ。絵を踏むだけではないか。」「心の中で信じていればいい。絵を踏めば、穴吊りにされている信徒たちの命を救えるのだぞ。」「お前の頑固なプライドが、この国の秩序を乱し、人々に迷惑をかけているのだ。」まるで「頑固な一神教のキリスト教徒が、穏やかな多神教の日本に押し入って調和を乱している」かのように語りかけるのです。「確かにその通りかもしれない。」と思わされそうになります。

 

しかし、冷静に考えてみてください。皮肉なことに、その小説の中では、暴力を振るい、穴吊り拷問をして他者を支配していたのは、キリスト教徒ではありません。多神教の江戸幕府です。なぜなら、神々を認めることの背後で、彼らは「将軍という一人の人間の絶対的な権力」を守らなければならなかったからです。バビロンで起きたことも、江戸時代に起きたことも、そして私たちが生きる現代の日本で起きていることも、本質は全く同じです。もちろん、今の日本に火の炉や穴吊りはありません。しかし、「一致の空気」を読まないクリスチャンに対する無言の圧力や冷たい視線という罰は、確かに存在します。  世の中はいつもささやきかけてきます。「空気を読めばいいじゃん」「形だけなんだから」「これはただの日本の伝統文化だよ」「みんなに合わせることこそが愛であり、調和じゃないか」と。しかし、その「一致の空気」の背後にあるのは、神仏の信仰ではなく、「人間自身を絶対化するもう一つの宗教」です。ですから、あいまいな一致の空気に騙されてはいけません。私たちが立たされているのは、真の神への服従を捨てさせ、人間を神の座に据えようとする霊的な戦いのただ中なのです。

 

② この世の神は「死」で脅し、聖書の神は「死」から救い出す

私たちはダニエル書3章を読むと、つい「3人のようにヒーローにならなければ!」と思ってしまいがちです。しかし、この箇所が語っているのは人間の武勇伝ではなく、「二つの神の圧倒的な違い」です。この世の神は、高さ27メートルの黄金に輝き、秩序や多様性、圧倒的な力に満ちていますが、その本質は「死の脅迫」です。「俺の機嫌を取らないなら火の中に投げ込むぞ。今までどれほど忠実に尽くしてくれたかなんて関係ない。」と、いつも死の恐怖で人間を支配しようとします。

 

しかし、イエス・キリストは正反対です。バビロンの火の炉の中で、そして十字架の上で、聖書の神様は自ら「火の炉の真ん中に飛び込んでくださるお方」としてご自身を現されました。神様は「拝まなければ殺す」と脅すのではなく、私たちが受けるはずだったさばきの炎を十字架で代わりに引き受け、無条件の愛によって死から救い出してくださったのです。ですから、着地点はかなりシンプルです。機嫌を損ねれば死で脅してくるこの世の神と、自ら火の中に飛び込んで死から救い出してくれる聖書の神――皆さんは今、どちらの神にひれ伏しているのでしょうか。

 

③ 結果がどうであれ従いましょう―イエス様はどんな結果をも「大逆転」できるお方だからです 

3人の言葉を思い出してください。「たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちは金の像を拝みません。」彼らはなぜこのようにいえたのでしょうか。正直に言って、古代バビロンであれ、ローマ帝国であれ、江戸時代の日本であれ、あるいは私たちが生きる21世紀の社会であれ、これほど強烈な同調圧力の中で神様に従い続けることは、とてつもなく孤独で、苦しく、心身を削られる歩みです。

私たちはこのような場面にいるとき、私たちはどのような「結果」を最も恐れているでしょうか? 仕事やお金の喪失でしょうか。人間関係や世間の評判、あるいはいのちでしょうか。しかし思い出してください。神様はあの燃え盛る火の炉も、不条理な十字架の死も、何一つ無駄にせず、ご自身の最大の勝利のために使い尽くされました。私たちが直面するすべての痛みや試練さえも、神様はご自身の栄光と私たちの完全な救いへと「大逆転」させてくださいます。「たとえ人間の目で見える逆転がなくても」、どんな結果をも覆してくださるイエス様に信頼し、結果を恐れず、ただまっすぐに主に従って歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church