2026年10月11日礼拝 説教「依存の仕組み」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇40篇1-5節
さんび Opening Praise 私たちのこの口は
さんび Praise 主よ捧げます
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第4戒 出エジプト記20章8-11節)

ピリピ人への手紙3章18-19節

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God マタイの福音書11章28-30節
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌313番「弱き者よ」
聖書朗読 Scripture Reading ローマ人への手紙7章14-25節
聖書の話 Sermon 「依存の仕組み」

武井悠馬宣教師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌129番「暗闇に輝く灯」
主の献金の招き Lord’s Call to Give ルカの福音書7章47節
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

依存・依存症とは、重い、センシティブな課題ですが、なぜ今回この限られた時間で依存のことを話すことにしたのでしょうか?これには、三つの理由があります。

 

一つ目は、私たちが思ったより依存に囚われている人が多いからです。依存症というのは色んな形で表れると思いますがほとんどの人は何らかの依存を持っています。データを見てみれば、この現実が明確です。統計データによれば、64%の大人(男性と女性含めて)はポルノを週一回は見ています。ある統計データによれば、ポルノサイトへのアクセス数はNetflix、Amazon、そしてX(旧ツイッター)をすべて合わせたものよりも多いと言われています。これだけでも十分に衝撃的ですが、さらに驚くべきことに、教会にあっても、57%の牧師がポルノとの葛藤を経験したことがあり、あるいは今まさに、その戦いのただ中にいます。私自身も中学からポルノを紹介され、高校三年までこの依存との葛藤を経験しました。なので、ポルノがどれだけ強力なものであるかを実感し、よく分かります。この統計は、ポルノという依存の、ほんの一例に過ぎません。アルコールや薬物といった物質への依存をはじめ、ギャンブル、暴食、買い物、ゲーム、あるいは仕事への依存に目を向けるなら、教会の誰しもが何らかの依存行動と向き合ってきたのだと言えるのではないでしょうか。

 

この課題を考える二つ目の理由は、依存「症」がなくても、私たちは心の奥にある飢え渇きを神様・福音以外の何かの代理で埋めてしまう者です。依存症とは、その代わりとなるものが生活の中心になってしまう状態のことです。それゆえに、自分自身が何に対して依存症に陥ってしまいやすいのか、その傾向を理解しておくことが私たちにとって重要なのです。

 

三つ目の理由は、クリスチャンとして依存を乗り越えられる希望があることを知るためです。依存とは暗い現実ですが、神様はその暗闇から私たちを福音の力で光へと導いてくださいます。罪と葛藤しているパウロがローマ人への手紙7章25節で「私たちの主イエスキリストのゆえに、ただ神に感謝します」と褒め称えたように、私たちも感謝で満ちた同じ希望があります。なので、この二日間をかけて、依存の仕組み、どう福音がこれに対応するか、そして今私たちに何が出来るのかを一緒に考えたいと思います。

 

  1. 依存に関する誤解

 

依存が何であるかを理解するために、まず、依存は何では無いかを一緒に考えたいと思います。要するに、依存の誤解をときたいと思います。まず、単なる遺伝や脳の仕組みだけの問題ではありません。もちろん、依存症には脳の仕組みや遺伝が深く関わっています。しかし、依存の根本にあるすべての原因が、単なる脳や遺伝の問題だけに由来するわけではない、ということです。もしそれが純粋に遺伝や脳の問題に過ぎないのだとすれば、現代の医学によって完全に治すことができるはずだからです。しかし現実はどうでしょうか。ある統計によれば、退院の形や患者さんの特徴、あるいは何の依存物質であるかにかかわらず、治療を終えてから半年以内に、50〜60%もの人々が再び依存物質を使い始めてしまいます。その一方で、非常に興味深い事実もあります。ベトナム戦争に従軍していた多くのアメリカ兵が、現地で重いヘロイン依存症になっていたのですが、アメリカの自宅に帰国すると、そのほとんどの人が苦しい禁断症状さえなく、自然と使用をやめることができたのです。これらの例が物語っているのは、神経科学だけでは、依存症の問題を根本から解決することはできない、ということです。

 

かといって、依存症は決して単なる「意志の強さ」だけで解決できる問題ではありません。自分に「やめよう」と強く言い聞かせ、努力さえすれば治るというものでもないのです。依存を乗り越える努力は必要です。しかし、依存の根本を理解せず、努力を積み重ねても、また依存しているものに戻る可能性が高いです。

 

最後に、依存症は、単なる「不節制」(節制のなさ)ではありません。不節制とは何でしょうか。それは、依存の対象が好きで好きでたまらないからこそ、何度もそこへ戻ってしまうことです。しかし依存症においては、それが好きだからそこへ戻るわけではないのです。実際、あるアルコール依存症の経験者の証言を聞いたらこのことが分かります。「前夜のお酒でまだ体調がひどく悪かったにもかかわらず、自分がまた2リットルのボトルを開けることになるのだと分かっていました。そして同時に、自分はもう飲みたくないのだということもはっきりと分かっていました。ソファに座りながら、私は悟ったのです。『やめようと思えばいつでもやめられる。ただ、やめたくないだけだ』という昔からの言い訳は、もはや通用しないのだと。なぜなら、私は本当にお酒を飲みたくなかったからです。しかし私は、自分がソファから立ち上がり、自分でお酒を注いでいる姿を、まるで他人事のように見つめていました。」依存を抱えている人は、やりたくないのに、結局はやってしまうのです。このことを理解することは非常に大切です。なぜなら、依存を抱える人は、決してあるものが好きすぎてたまらない、変わっている人たちなどではないからです。その裏には、まったく別の根本的な原因が存在しているのです。パウロも同じく自分の罪をそう捉えていました。7章18−19節ではこう語ります:「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行ってしまいます」と。使徒パウロが私たちに示している大切な原則とは、クリスチャンである私たちが、単に神様の律法に逆らうのが好きだから罪を犯すわけではない、ということです。私たちは、本当は「そんなことしたくない」と心から願っている時でさえ、罪を犯してしまうことがあります。そしてこれこそが、依存的行動の持っている本当の性質なのです。

 

  1. 依存とは?

 

依存は単なる遺伝や脳の問題ではなく、単なる意志の問題でもなく、不節制の問題でもなければ何でしょうか?依存は、次のように定義することができます。罪が私たちの内なる健全で良い渇望につけ込み、悪い習慣を作り出させ、その結果として恥と罪悪感、そして破滅の悪循環(サイクル)をもたらすものです。

 

本来、神様は私達人間にさまざまな良い望みや願いを心に与えてくださいました 。それは、神様ご自身によってしか完全には満たされないように造られた、大切な渇望なのです。神様が私達に与えてくださった生まれつきの望みとは、愛され認められること、人生の目的や意味を知ること、平安と安心感、親密なつながりや居場所があること、喜びや美しさを経験すること、そして礼拝することーーこれらの渇望が人間全員の心に深く留まっております。

 

もちろん、これらの渇望は、この世において完全に満たされるようには造られていません。けれども、私たちが置かれた環境や人間関係を通して、その満たしの一部を前もって体験できるようにされているのです。伝道者の書8章15節はこう語っています:「私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむより他に、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ」と。私たちが心の健康を保つためにも、この満たしと喜びをあらかじめ味わうことは欠かせません。だからこそ、人間は置かれた環境や人間関係を通して、満たしを追い求める存在なのです。そしてそれらはすべて、あらゆる良きものの源であり、究極の善であられる神様ご自身へと私たちを導くためにほかなら無いのです。
しかし、私たちは心が抱くこの基本的な渇望が満たされない場合が多いです。なぜなら、私たちは罪で染まった世界の中で生きているからです。私たちはこのことを、人生のあらゆる経験や出来事を通して深く痛感させられます。トラウマや虐待の経験、生まれ育った環境、人間関係の難しさ、自分の罪とその罪悪感ーーこういう経験や出来事によって私たちの魂の渇望は満たされず、結果として私たちは、挫折や喪失感、現実逃避、むなしさ、不適切な欲情、あるいは怒り、不安、恐れ、孤独といった色々な感情を抱え込んでしまいます。

 

この不満を感じた隙に、罪の恐ろしい罠があります。罪は、人間の持つ健全な願いと、それが満たされない時に湧き上がる感情につけ込み、「私(罪)こそが、あなたの満たしの中心になり得る」と偽りの約束を掲げます。すなわち罪は、私たちが魂の奥底で追い求めるものを与えられると巧みに語りかけるのです。そして罪は、即座の快楽をもたらす特定の行い(性欲、ギャンブル、仕事、買い物)や物質(アルコール、麻薬)を通して、それを一時的に満たしますが、心が完全に満たされることなど決してありません。なので、罪の誘惑に負けてしまった私たちは、罪悪感に苛まれるだけでなく、再び満たされないむなしさを味わうことになります。

 

この罪悪感と不満を抱える人はどこに戻ると思いますか?それを少しでも満たしてくれた行いや物質に戻ってしまいます。罪はすかさず戻ってきて、こうささやきます:「これを使えばいいんだよ。」「これを見れば、あるいはこれを行えば、またその不満を埋められるよ。僕はいつでも君の味方だからね」と。こうして罪は、悪で染まった習慣を私たちの内に作り出し、人間を依存のサイクルへと閉じ込めていきます。罪は、愛や承認、安心感といった、私たちが切望している心の深い渇望につけ込んで偽りの約束を掲げますが、それを本当に与えてくれることは一度もありません。そして最終的に、その罪(依存しているもの)こそが、私たちがひれ伏してしまう偶像となっていくのです。

 

実際に依存を経験した人の証言をいくつか見てみると依存の仕組みがはっきりと分かります。

  • 「16歳の時、初めて口にした一口のお酒で、私のすべてが変わってしまいました。お泊まり会で酒棚から勝手に出してきたバーボン。そのボトルから流し込んだ、喉を焼くような最初の一口で、私の中にあった恐れも、人見知りの気まずさも、心の生きづらさも、すべてが一瞬で吹き飛んでしまったのです。私は泥酔し、記憶を失い、吐き散らし、えづき、翌日は死ぬほどの二日酔いに苦しみました。それなのに自分は絶対にまたこれをやってしまうのだと、ハッキリと分かっていました。完璧な自分を演じて誰かに認められようとしなくても、自分が仲間の一員になれたと心から実感できたのは、生まれて初めてのことだったのです。」
  • 「私は最初からヘロインにハマってしまいましたが、後に依存症になった人たちの多くは、『最初や2回目、ひょっとするとハイになるたびに吐いていた』と語ります。初めて食べた時に吐いてしまった料理を、あなたはもう一度注文するでしょうか? 寒い夜にわざわざ危険な街角まで買いに行きますか?ヘロインに関する最大で、最も暗い秘密――それは、ヘロイン自体は実はそこまで素晴らしいものではないということです。私たちが本当に追い求める価値のあるものは何かを見つけ出すよりも、薬物を素晴らしいものであるかのように追い求める方が楽だから、そうすることに同意してしまっているだけなのです。ヘロインとは、私たちが自分に欠けていると信じ込んでいるものを埋めるための、身代わりであり、穴埋めであり、仮面に過ぎないのです。」
  • 「私はポルノ依存に苦しんでいました。周りの友人たちから拒絶され、誰からも愛されていないという深い傷を抱えていたからです。クリスチャンであり、『神様の栄光を現す歩みをしたい』と心から願っていたにもかかわらず、自分の力だけではどうすればよいのか、その道を見出すことができませんでした。深く覚える孤独感のゆえに、私は夜泣きながら眠りにつく日々を送っていたのです。」

 

三つの証言を聞いてから共通点を見出せると思います。最初はなんらかの不満があり、それを何かで埋めようとし、その行動か物質が好きではなくても、最終的にはそれに戻り、悪い習慣を作り出し、依存の悪循環に陥ってしまうというパターンが見えます。まさに依存の定義であり、仕組みです。

 

ここまで聞くと、皆さんの中にはこういう思いがあるでしょうか:「依存の仕組みさえ分かっていれば、それを避けることができるはずだ」。しかし、依存の仕組みを知っているからといって、そこから簡単に逃れられるわけではありません。なぜなら依存は、私たちがその悪循環(サイクル)から抜け出せないように、非常に強力な武器を持っているからです。その武器とは、「恥」です。恥は、私たちが苦しんでいる問題そのものに縛り付けさせるものです。それは他人の評価を恐れさせて誰にも打ち明けられなくさせ、自らの内に葛藤が存在することを認める恐怖を生み出します。さらに、自分の依存が愛する人に及ぼす破壊的な影響を恐れるあまり、私たちを完全にすくみ上らせてしまうのです。これらすべては恥が仕掛ける罠であり、私たちを悪循環に閉じ込め続けるために用いられる、罪の最大の道具なのです。そして、この悪循環(サイクル)が断ち切られないまま長引いてしまうと、私たちの日常生活や人間関係、霊的・精神的健康までもが崩れていってしまうのです。

 

パウロもローマ7章13節で、自分の内の罪の仕組みを考えている時、こう語ります:「それでは、この良いもの(神の律法)が、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪はこの良いもので私に死をもたらしたことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。」

 

私たちにも良いものがあります。それは、神様によってしか完全に満たされない、私たちの心の中にある様々な望みです。しかし、罪はその「良いもの」につけ込み、私たちの想像を超えるほど恐ろしく暴走し、罪深さを露わにするのです。これこそが、依存の裏にある、罪の恐ろしい仕組みなのです。

 

  1. 三つの真理

 

ここまで依存の暗い現実について語ってきましたが、ここから私たちが覚えられる真理はいくつかあります。

 

第一に、依存に苦しむ人はごく普通の人であることです。彼らこそは、神によって与えられた魂の深き渇望を真摯に追求している人だからです。実際、彼らはその望みを真っ直ぐに受け止め、本来あるべきものとして真剣に満たしを求めています。ただ、その満たしを求める場所(対象)を間違えてしまったのです。私たちは皆、それぞれに異なる心の渇望を抱えて生きています。誰かからの承認を特に強く求める人もいれば、愛や親密の関係、安全、あるいは居場所を求める人もいます。

 

今まさに自分自身が依存に苦しんでいるか、あるいは身近にそうした行動を取る人がいるかにかかわらず、私たちは誰もが依存という問題に共感することができます。なぜなら、その根本にあるものはまったく私たちと同じものだからです。

 

ある依存症の専門家は、次のように語っています:「私達は、依存症を抱える人々が『より良い豊かな人生』を積極的かつ情熱的に追求しているだなんて、教わることもなければ、そのように考えることも通常ありません。むしろ私達は、彼らを『人生というゲームから降りてしまった人』、あるいは『自ら進んで破滅に向かっている人』と捉えがちです。しかし、現実は決してそうではありません。私はこう主張します。依存的行動こそは、人間が魂の奥底で何を最も深く渇望しているのかを、他のどのような人間の行動よりもはっきりと教えてくれるものなのだと。」

 

すべての始まりは、満たされない人間の心の渇望であり、罪はそれを利用して人生に破滅をもたらすのです。私たちも必要を満たそうとして、自分の偶像へと逃げ込んでしまうものです。だからこそ、私たちは依存的行動に悩む人に共感し、寄り添うことができます。周りの人が抱く心の渇き、そしてその弱さや傾向は、決して他人事ではなく、私たち自身の姿でもあるからです。

第二に、私たちが自分の依存について深く考え、黙想し、語り合うことができる時、私たちが心の中に抱いている渇望が何であるかを、依存が示してくれます。私たちの依存は複雑であり、性格や過去の経験、そして人間関係によって形作られています。けれども、その依存の詳細の中にこそ、神様が与えてくださった魂の渇望のロードマップが存在しているのです。私たちが自分の依存的行動を深く探求すればするほど、依存の詳細を語り合えるほど、神様がどのように私たちを造られたのか、どのように満たされるのかが、より鮮明に見えてきます。しかし、その反対もまた事実です。私たちが自分の依存を無視し、光の中へとさらさないでおくなら、 自分自身のことも、神様が自分をどのように造られたのかも、益々分からなくなってしまうのです。

 

それゆえに、私たちは自分の依存的行動から目を離さずにしっかりと向き合い、それらがどのようにして私たちの本当の望みを指し示しているのかに思いを巡らせる必要があるのです。神様は、私たちが自分自身の渇望を理解することを望んでおられます。神様はすでにそれらのすべてを知っておられ、なおも私たちを愛してくださっています。神様は、依存に囚われている私たちの姿に対して、苛立ちや非難をもって近づかれることは決してありません。神様ご自身の中にある真の満たしを私たちが知って、経験することを神様は望んでおられるのです。

 

第三に、あなたの依存の中にどんなに恐ろしい悪が働いていようとも、神様はあなたを心から喜んでおられます。絶え間なく依存と闘い、毎日罪に負け続けていると、自分が一体何者であるか、神の子としての確信を見失ってしまいがちです。心の中でうごめく悪や汚れのゆえに、「神様は私を御国の2等市民として、恥ずべき存在として見下しておられるのではないか」と感じてしまうかもしれません。パウロがローマ人への手紙7章24節で「わたしは、本当にみじめな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んだように、私たちもまったく同じように痛感することがあります。しかし兄弟姉妹の皆さん、イエスキリストこそがあなたの救いです。主は豊かに赦してくださるお方です。罪によって何度、恥と絶望のサイクルに落ち込んでしまったとしても、あなたのすべての罪を覆い尽くす恵みが、そこにあります。だからこそパウロは、続く25節でこう宣言したのです:「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と。依存や罪との闘いの真っ只中にあっても、キリストは私たちのすべてを満たす救い主として立ち続けておられます。主は私たちのために死んでくださり、私たちの罪がどんなに恐ろしいものであっても、そのすべてを十字架で覆われました。ここに私たちは、絶大な慰めを得ることができるのです。そしてキリストの十字架のゆえに、神様が私たちを単なる奴隷としてではなく、愛する神の子として深く喜んでおられることを、私たちは確信することができるのです。

 

そして、イエス様が復活されたからこそ、私たちには、罪がもたらす依存という悪を乗り越えるための復活の力が与えられています。私たちは、悪の力に対して武器も持たずに置き去りにされているわけではありません。私たちは依存に向き合うとき、福音という確かな希望を持つことができるのです。福音がどのようにして依存を克服する力を与えてくれるかについては、二つ目のメッセージで詳しくお話しします。ですが、今回のメッセージでお伝えしたことをまとめるとするなら、第一に、依存は私たちの良い望みを利用して悪い習慣を作り出し、最終的に恥と破滅の悪循環(サイクル)へと至らせます。第二、依存を抱えている私たちは、神様によってしか完全に満たされない様々な心の渇望を抱えた一人の人間であります。最後に、私たちのあらゆる偶像礼拝、罪、依存にもかかわらず、キリストは私たちのような惨めな人を救ってくださる、完璧な救い主であられます。ですから、主を信頼し、主にすべてを委ねて立ち返りましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church