2026年10月18日礼拝 説教「あなたを決して孤児にはしない」

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礼拝式順

前  奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇68:4-6, 19
さんび Opening Praise Amazing Grace (My Chains Are Gone)
さんび Praise 無条件の愛
開会の祈り Opening Prayer
主の律法 Law of God (第5戒 出エジプト20:12)

エペソ人への手紙5:20-21

黙祷 Silent Confession
悔い改めの祈り Prayer of Repentance
主の福音 The Gospel of God ヘブル人への手紙5:6-10
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネ14:15-31
聖書の話 Sermon 「あなたを決して孤児にはしない」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌391番「主と主のことばに」
主の献金の招き Lord’s Call to Give マラキ書3:10
献金 Offering
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
主の祈り Lord’s Prayer
派遣のことば Lord’s Commission エペソ人への手紙4章1-6節
信仰の告白 Confession of Faith 使徒信条(Apostles’ Creed)
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
報告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。お父さんやお母さんに「ちょっと待っててね、すぐ戻るから」と言われて、怖くなったことはありますか?私がいまだに覚えているのは、子どもの頃、父が車を止めて「銀行に行ってくるから、ここで待ってて」と言った時のことです。最初の5分は平気だったのですが、だんだん時間が経つにつれて猛烈にパニックになってきました。「僕のことを忘れ去られたら、どうやって家に帰ればいいの?」「お父さんが銀行強盗にやられたらどうしよう?」車の中にあった大きな青い袋のドリトスを見つめながら、「もし2日間待つことになったら、このチップスだけで生き残れるかな……」と本気で心配になり、涙をボロボロ流しながらドリトスを食べていたことをなぜか覚えています。

 

笑い話ですが、守ってくれる親の手を離れた瞬間、世界は一瞬で恐ろしい場所に変わってしまうんですよね。大人の私たちも全く同じです。目に見える安心が揺らぐと、「神様は私を見捨てて、自分は一人ぼっちの孤児(みなしご)になってしまったんじゃないか」と取り乱してしまうのです。今日の弟子たちも、「わたしは去っていく」と告げられたとき、見捨てられた子どものように震え上がりました。しかしイエス様は、「みなしごにはしない」と約束されました。イエス様が天の父の家へ先に帰られるのは、私たちが永遠に安心して暮らせる場所を準備するためです。そして残される私たちには、「もう一人の助け主」である聖霊様を送ってくださると言われました。しかし聖霊様は、「親が戻るまでの留守番を頼まれたベビーシッター」のような方ではありません。 イエス様とまったく同じ神の力と、同じ深い愛で、どんな時も私たちを守り、支え抜いてくださるお方です。恐れる私たちにイエス様がくださる最高の約束を、今日一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.弟子たちを助けられるイエス様

前回、弟子たちは信じられないようなことを口にしてしまい、イエス様は彼らを戒められました。十字架にかかられる前夜、イエス様は「わたしは去っていかなければならない。あなたがたを残して行く。」という衝撃的な事実を告げられました。弟子たちはずっと真剣に耳を傾けていたので、イエス様が何を言おうとしているのか、痛いほどよく分かっていました。つまり、イエス様は屈辱的な死を遂げようとしておられたのです。

 

しかし、イエス様はパニックになる彼らに「心を騒がしてはなりません。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(1, 6節)」と安心させようとされました。 ところが、ピリポは「父を見せてくだされば満足します(8節)」と本音をポロッと口にしました。イエス様を信じ切れず、「イエス様だけではまだ足りない」と思ったのです。 だからこそ、イエス様はもう一度彼らを戒められました。

「どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。…わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい…」

本来なら、イエス様のお言葉だけで十分すぎるはずでした。しかしイエス様は、私たちの弱さも、弟子たちの弱さも、痛いほどよく知っておられます。だからこそ、今日の箇所でイエス様は、ご自分がこの地上から去っていかれても私たちが決して不安にならないように、もう一つの素晴らしい教えを与えてくださるのです。

 

Ⅱ.もう一人の「助け主」

弟子たちがイエス様に去ってほしくない一番の理由は、言うまでもなく、イエス様を心から愛しているからです。お別れするのが寂しくてたまらないのです。しかしイエス様は、本当の「愛」とは何なのかを彼らに念を押して教えられます。

「あなたがたがわたしを愛しているなら、わたしの戒めを守るはずです。」(15節)

正直、この一言だけで丸ごと説教が一つできてしまうくらい深い言葉ですが、シンプルに言えばこういうことです。誰かを「愛している」と口先だけで言うのでは十分ではありません。 本当にその人を愛しているなら、その人の言うことに耳を傾け、理解し、実際に行動するはずです。「ママ大好き!」と言いながら全く言うことを聞かない子どもと、「愛しているよ」と言いながらお腹をすかせた子どものために必死にご飯を作るお母さんの違いです。

 

本当の愛とは何かを思い出させた後、イエス様は再びご自分の戒めについて語られます。しかし、その命令を与える前に、イエス様は人間には思いもよらない驚くべき現実を告げられます。

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(16節)

「もう一人の助け主」です。では、最初の助け主は誰だったでしょうか? もちろん、イエス様ご自身です。だからこそ、イエス様は18節で力強くこう言われるのです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児(みなしご)にはしません。」

 

「みなしご」とは、守ってくれる親もおらず、危険の中に放り出された無力な子どものことです。しかし、イエス様は「あなたがたをそんな無防備には絶対にしない」と、「もう一人の助け主」である聖霊様を約束されました。 聖霊様は、たまに来るベビーシッターや遠くの親戚ではありません。イエス様と同じ神の権威と愛で私たちを守る本物の助け主です。だから、私たちは決して見捨てられません。 では、「助け主」とはどういう意味でしょうか。私たちを「助ける」方ですが、アシスタントとしてではなく、「主人」として助けてくださるのです。原語の「パラクレートス」は一言で訳すのが難しいため、3つの姿でその意味を描きたいと思います。

 

第一に、助け主は法廷で弁護してくれる「弁護士」のような方です。私たちが訴えられたとき、法廷や公の場に堂々と立って、敵や告発者を完全に黙らせ、徹底的に弁護してくれます。しかし現代の弁護士は、どれほど腕が良くても、所詮はお金で雇われたプロに過ぎません。個人的な親友というわけではないのです。

 

そう言うわけで、第二に、助け主は無条件で愛してくれる「親や大親友」のような方でもあります。報酬のためではなく、ただ私たちの幸せを願う深い愛のゆえに、いつも隣に寄り添ってくれます。何か良いことをしたから助けてくれるのではなく、ただ無条件に愛してくれているからです。しかし人間の親や友人は、どれほど愛してくれていても、いざ本当に絶望的な危機が起きたときには、私たちを救い出す力や手段は持っていません。

 

そして最後に、助け主は有り余る富を持つ「命の恩人」であり、「連帯保証人」のような方なのです。私たちとは比べものにならないほどの豊かな力と富を持ち、私たちが生き残り、立ち直れるようにと、ご自分をすべて捧げてくださる方です。連帯保証人とは、もしもの時、相手が破綻しないように、自分の名前と財産と名誉のすべてを担保にして責任を負う人のことです。

 

イエス様はこう言われるのです。「わたしは今まであなたの助け主だった。そして今、父にお願いして、もう一人の助け主を送る。」 聖霊様は、敵を打ち負かす力強い弁護士の頼もしさと、子どもを決して見捨てることのない親の無条件の愛、そして、自らの身を投げ打ってでも支えてくれる連帯保証人としての覚悟を兼ね備えておられます。イエス様と聖霊様は、力においても栄光においても全く等しい神様です。だからこそ、私たちは決して「みなしご」と呼ばれることはないのです。

 

III. 父のみもとへ上られるイエス様

もし私がその場にいた弟子の一人だったら、思わずこう突っ込んでいたはずです。「イエス様、もう一人の助け主が来てくれるのは分かりましたけど、そもそも何で出て行っちゃうんですか!?」そこで思い出してほしいのが、イエス様が言われた「父の家には住む場所がたくさんある。わたしは場所を用意しに行き、また迎える(2-3節)」という言葉です。 イエス様が去られる理由は、私たちが父とともに永遠に暮らす部屋を準備するためです。イエス様は復活し、天に昇り、その準備を完璧に成し遂げられます。 そして「終わりの日(再臨)」にもう一度戻って来られ、イエス様を愛する者たちをその素晴らしい部屋に迎え入れてくださいます。以前にもお話ししたことがありますが、花嫁のために部屋を作りに行き、準備が整ったら花嫁を迎えに戻ってくる花婿のようなものです。

 

ここで、イスカリオテではない「もう一人のユダ」が、22節で質問をします。「主よ。あなたがご自分を私たちに現そうとして、世には現そうとなさらないのは、どうしてですか。」ユダは混乱して、「あれ? 救い主が来るときは、世界中のすべての人がその栄光を見るんじゃないの?」と思ったのです。確かに神学的にはその通りで、終わりの日にはすべての人が勝利の王であるイエス様を目撃することになります。しかし、イエス様はここで一般的な話をしているのではなく、「助け主」としてご自分を現すことについて語っておられるのです。

 

復活の朝から最後のさばきの日に至るまで、イエス様はご自分を愛する者たちに対してのみ、「救い主」また「助け主」として現れてくださいます。死からよみがえられた朝、イエス様はローマの権力者や群衆の前に姿を現したりはされませんでした。ご自分を裏切って逃げた弟子たちの前に現れ、彼らを赦し、回復させてくださる親しい友として現れたのです。そして今、イエス様は父なる神の法廷で、私たちのために熱く弁護してくださる力強い「弁護士」として立っておられます。さらに、あの最後のさばきの日、私たちが聖なる神の御前に立つとき、イエス様は私たちを訴える検察官ではなく、私たちの「命の恩人」、また「連帯保証人」として前に出てくださるのです。もし私たちが霊的に破産していたとしても、イエス様が割って入って、「この借金はすべてわたしの口座につけなさい。この人たちはわたしの家族です。」と言ってくださるのです。

 

だからこそ、イエス様はこう答えられました。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(23節)。

イエス様は、世の終わりまで待ってから一緒に住むのではありません。天に昇られたときに、イエス様は、ご自分の霊である聖霊様を、私たちに送ってくださいました。聖霊様を通して、今すでに私たちの真ん中に住まいを構えてくださるのです。そして、今住まいとしてくださった人を、終わりの日には天のふるさとへと喜んで迎えてくださいます。

 

Ⅳ.父と子から下られる聖霊様

しかし裏を返せば、御子を愛さないなら、御父から迎えられることも決してないのです。 そう聞くと、私たちはホッとするどころか、むしろ心に冷たい恐怖を覚えるのではないでしょうか。「えっ、ちょっと待って! イエス様を愛する人が『その戒めを守る人』なら、こんなに失敗ばかりして戒めを守れない自分は、神様からも歓迎されないし、イエス様も助け主になってくれないんじゃないか!?」

 

もしそう思ったなら、まったくその通りです。皆さんの生活を細かく詮索しなくても、私たち全員がそうだと断言できます。旧約聖書ぜんぶを読めば分かる通り、神様の戒めを完璧に守って神様への愛を証明できた人は、弟子も、イスラエル人も、クリスチャンも、歴史上ただの一人もいませんでした。

 

だからこそ、イエス様は26節から27節でこう約束してくださるのです。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

多くの人は、聖霊様について大きな勘違いをしています。聖霊様といえば、病気をパッと治したり、預言をしたり、不思議なことばを話したりするような、超能力を与えてくれる存在だと思っている人がいます。あるいは、賛美をしているときの鳥肌が立つような感動や興奮こそが「聖霊の働き」だと思っている人もいます。もちろんそうした働きもありますが、それは氷山の一角に過ぎません。神様にとって、そんなことは「朝飯前」の簡単なことです。

 

イエス様がここで一番強調しておられる聖霊様の働きは、地上のどんな人間にも、どんな霊的な存在にも絶対にできない、最も難しいことなのです。それは、罪深い人間が、神様の戒めを心から理解し、それを喜んで守るように変えられることです。イーロン・マスクは宇宙へ行く再利用ロケットを開発でき、OpenAIは人間の知性を超えるAIを作れるかもしれませんが、罪深い人間の心をイエス様に心から従わせることなんて、誰にもできません。

 

イエス様は天国から「マニュアル本」を落としたりはされませんでした。スマホのAI要約のほうが便利だと思うかもしれませんが、神様はシナイ山ですでに十戒とモーセ5書を与えられました。しかし、誰もそれを守れませんでした。完璧な教科書があっても、私たちには守る力がないのです。だからこそ、イエス様は「聖霊様ご自身」を与えてくださいます。聖霊様は、私たちの心の最も深いところに住み、教えを理解させ、「イエス様に従いたい!」と願う心へと造り変えてくださいます。つまり、私たちの愛や信仰は、自分でひねり出したものではなく、聖霊様が造り出してくださったものです。そして、それだけではありません。聖霊様は私たちの個人的な弁護士として、親しい友として、そして豊かで寛大な恩人として、イエス様が再び来られるその日まで、私たちがイエス様を愛し続けられるように支えてくださいます。だからこそ、イエス様はこう言われます。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

 

イエス様が天に上られ、聖霊様が地上に下ってこられたことを、私たちは心から喜ぼうではありませんか! もしキリストが天に上られなかったら、父の家にある私たちの部屋は準備されないままでした。そして、もし聖霊様が来てくださらなかったら、私たちの心は神様の愛に対して死んだままでした。キリストの昇天がなければ、ペンテコステ(聖霊降臨)はありません。そしてペンテコステがなければ、私たちの中の誰一人として、イエス様についていくことなんてできなかったのです。

 

Ⅴ.覚えていただきたいこと

① 私たちには、弟子たちが地上で受けた以上の「最高の助け」が与えられています

私たちは弟子たちの話を聖書で読むとき、つい羨ましく思います。「イエス様の奇跡を生で見て、毎日直接教えを受けられたなんて、信仰生活の『最高峰(さいこうほう)』じゃないか」と。しかし、イエス様がくださる恵みは、世の中のプレゼントとは全く違います。ルカ11章13節で、イエス様はこう言われました。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

 

天のお父さんが子どもたちに与えることができる「最高のプレゼント」、それが聖霊様です。それは、完璧な家庭環境でも、お金でいっぱいの銀行口座でも、理想的な人間関係でもありません。聖霊様ご自身です。肉体を持っておられたときのイエス様は、弟子たちの隣を歩いて、完璧なみことばを語ってくださいました。しかし、どれほど素晴らしいイエス様の言葉であっても、聖霊様の働きがなければ、人間の頑固な心を変えることはできません。 だからこそ今、聖霊様が私たちの心の内側に住み、そのみことばを本当に信じて従えるように変えてくださるのです。 パウロが言うように、聖霊様は私たちがやがて天国で味わうすべての祝福の「手付金」「初穂」なのです。イエス様は、私たちを不安や恐れの中に置き去りにはされませんでした。あふれる平安と、聖霊様という最高の助けを与えてくださったのです。だから、私たちの心を騒がせる必要は少しもありません。

 

② 最高の助け主がいるからこそ、恐れずに立ち上がって従いましょう

このすべての約束を語り終えた後、イエス様は弟子たちを残して十字架へと向かわれます。そして30節から31節で、こう締めくくられます。「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」弟子たちは不安と絶望で足がすくみ、動けなくなっていました。しかしイエス様は、「立ちなさい。さあ、行くぞ」と声をかけられます。敵が迫り、十字架の苦しみが待っていることを知りながら、イエス様は父なる神への信頼をもって、真っ直ぐに立ち上がられたのです。

 

そして今日、イエス様は私たちにも全く同じ言葉をかけておられます。「立ちなさい。さあ、行くのです。」私たちも、恐れや将来の不安で足がすくんでしまうことがあります。自分の弱さに落ち込んで、一歩も動けなくなる日があります。しかし、私たちには父と御子から遣わされた、最強の「助け主」がともにいます。もちろん、私たちは失敗することがあります。転ぶこともあります。でも、私たちの内に住まれる聖霊様は、決して失敗されません。私たちの連帯保証人であるイエス様の口座が底をつくことは、永遠にありません。このお方に支えられているからこそ、私たちはこの世のプレッシャーや恐れに屈することなく、もう一度立ち上がって、神様の戒めに従う一歩を踏み出すことができるのです。

 

③ イエス様が最後に問われていることは、「あなたは、わたしを愛していますか?」

私たちは「どんな助けがもらえるのか」と神学的に議論することができます。「自分にはみことばを守る力があるか」と悩むこともできます。しかし、この14章全体を貫いている、たった一つの核心の問いはこれです。イエス様は私たちにこう説いているのです。「あなたは、わたしを愛していますか?」「わたしが去っていっても、最高の助け主(聖霊様)を送って守る」という、わたしの約束を信頼できるほど、わたしを愛していますか?」「自分の思い通りに生きるのをやめて、わたしのことばに従って歩みたいと思うほど、わたしを愛していますか?」「わたしが天に上り、あなたのために永遠の部屋を準備していることを心から喜べるほど、わたしを愛していますか?」

 

もし私たちが、弟子たちのように「イエス様、私は弱く不完全ですが、それでもあなたを愛しています。そのように愛したいです。」と告白するなら、どうか安心してください。父なる神、子なる神、聖霊なる神——三位一体の神様が、そのありったけの力と恵みを注ぎ込んで、私たちを必ず天のふるさとへと連れて行ってくださいます。 この確かな助け主に信頼し、平安をもって、今週も主とともに歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church