2026年11月1日礼拝 説教「屋上の狂気、泥の中の理性」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌158番「子羊をばほめたたえよ」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌301番「千歳の岩よ」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読      ダニエル書4章1-37節

聖書の話  「屋上の狂気、泥の中の理性」            マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌100番「栄えを捨てて」1-3番

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

頌  栄 Doxology  教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

報 告 Announcements

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。ニンテンドースイッチのマリオカートですごく上手に運転できたからといって、「僕、もう本物の車も運転できるよ! お父さん、鍵を貸して!」と、道路で本物の車を運転しようとしたらどうなるでしょうか。絶対にダメですよね! 大事故になって、命を落としてしまうかもしれない、ものすごく危険なことです。ゲームの中でボタンを押しているのと、何トンもある本物の車を猛スピードで走らせるのとでは、全く次元が違います。「自分は一人で何でもできる」と思い込むことほど、恐ろしい勘違いはありません。でも、大人の私たちも、これと全く同じ危険な思い違いをしてしまいます。そして聖書は、この「高ぶり(プライド)」こそが、世界中で最も危険な罪だと教えています。なぜならプライドとは、自分が神様に造られた人間であることを忘れ、人生のハンドルを握りしめて「自分が神様だ! 全部自分の力でできる!」と威張ることだからです。本当は、息を吸うことも、心臓が動くことも、毎日ご飯を食べて安全に暮らせることも、すべて神様が支えてくださっているからです。それなのに私たちは、神様の手を振り払って、「神様、邪魔しないで! 俺一人で自分の人生を運転できるから!」と大暴走してしまいます。今日の聖書に出てくるバビロンの王様も、まさにこの命取りになる勘違いをしていました。神様を忘れて「自分の実力だ」と威張り散らした人間が、どれほど恐ろしい大事故を起こしてしまうのか。そして、そんな私たちのために、自ら一番低い所まで降りてきて、十字架で命を捨ててくださった本当の王様、イエス・キリストの恵みについて、今から一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.突然の展開

この4章を読み始めると、誰もが「あれ、何かがおかしいぞ」と違和感を覚えるはずです。ダニエル書の1章から3章までを振り返ってみてください。ネブカドネツァル王といえば、アッシリアやエジプトを打ち破り、イスラエルを自分の植民地にしてしまった、バビロン帝国の偉大な大王です。世界で最も強い力を持っていた男でした。しかし聖書の神様は、彼に一つの警告として預言的な夢を見せられました。それは、「あなたの黄金の国はやがて滅び去る。だから、やがて広大で永遠の王国を打ち立てられる真の王の前に、自らを低くしなさい。」という警告でした。ネブカドネツァル王は神の力を認めつつ、完全に無視しました。そして、王は神の御顔につばを吐きかけるように、巨大な金の像を建て、拝まない者を火の炉で脅したのです。若者たちが奇跡的に救われた時、王は神を賛美しましたが、そこには自分自身の傲慢に対する「心からの悔い改め」が決定的に欠けていました 。

 

ところが、この4章に入った途端、驚くべき展開が待っています。預言者ダニエルではなく、なんとネブカドネツァル王自身が、自分の身に起きた出来事について筆を執っているのです。しかも、それを帝国中のすべての人々に向けて公表しています。彼は何を宣言したのでしょうか。3章のように自分の栄光を自慢しているのではありません。聖書の神様こそが全能の神であり、永遠の国を治めておられると告白しているのです。その姿はまるで、神様に負けて完全に打ちのめされた王のようです。オオカミの前にしっぽを巻いてひれ伏す犬のように見えます。いったい何が起きたのでしょうか。

 

Ⅱ.繁栄の眠りから揺り起こされる

ネブカドネツァル王は、まず当時の自分の心の状態から話し始めます。「私ネブカドネツァルが私の家で心安らかに過ごし、私の宮殿で繁栄を極めていたとき」。これこそが、王があれほど多くの奇跡を目の当たりにしながらも、本当の意味で聖書の神様に従い、礼拝することがなかった根本的な理由だったと言えます。彼が味わっていた平和も豊かさも、何一つ脅かされていませんでした。つまり、王にとって、神様を必要とする理由が全く見当たらなかったのです。そこで神様は、この霊的な眠りから王を力づくで揺り起こすために、再び、誰にも解き明かせない恐ろしい夢を見せられました。しかし、国の知者たちの誰もこの夢を解き明かせません。そこで王は、かつて同じように恐ろしい夢を解き明かした、神の僕ダニエルのもとへと向かいました 。

 

しかし、ダニエルはその夢の内容を聞いた瞬間、息をのみ、ひどく心を痛めました。その夢は明らかに、王にとって決して良い知らせではなかったからです。どんな夢だったのでしょうか。そこには、力強く、天に届くほど高くそびえ立ち、世界のどこからでも見える一本の巨大な木がありました。美しく生い茂り、あらゆる動物や鳥たちがその木の下に集まり、いのちといこいを得ていました。この木は、ネブカドネツァル王とその強大な帝国の輝かしい姿そのものでした。

 

ところが突然、天から「聖なる見張りの者」、つまり神の軍勢である御使いが下って来て、この木に対するさばきを宣告します。この木は切り倒され、葉も実もむしり取られ、枝はへし折られ、木に寄り添っていた者たちは逃げ去り、切り株は鉄の鎖で縛られるという厳しいさばきの宣告でした。王は人間社会から追い出されて野獣のようになり、徹底的に低くされた後に初めて、再び国を治めることが許されるというのです。

 

そしてダニエルは、王に最後の警告を与えます。「それゆえ、王よ、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、また貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」この夢の目的は、極めて明確でした。神様はこう言われます。「この宣言は見張りの者たちの決定によるもの、この要請は聖なる者たちのことばによるもの。これは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最も低い者をその上に立てることを、いのちある者たちが知るためである。」(17節)この夢は、自分の力に酔いしれる王への「威嚇射撃」でした。私たちも神のことばを聞きながら、王のようにへりくだることを拒んではいないでしょうか。私たちの世界を本当に支配しておられるのは誰なのか、決して忘れてはなりません 。

 

III. 警告を無視する者たち

あれほど恐ろしく、誰にも解けなかった夢を見せられ、あれほど明快な解き明かしを受け、そして1章から4章に至るまで、神様の力と真理と絶対的な主権の証拠を山ほど見せつけられたにもかかわらず、ネブカドネツァル王は何をしたでしょうか。王は、これまでの人生でずっとやってきたことを繰り返しました。私たちがいつもやってしまうことと同じです。王は、その警告を無視したのです。私たちはネブカドネツァルのように、神様からの明確な警告を、聞き流してしまってはいないでしょうか。

 

新約聖書のパウロは、ローマ人への手紙1章の中で、これを「真理を拒むこと」と呼んでいます。パウロはこう言います。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」(ローマ1:21-22)夢から12か月が過ぎた時、ネブカドネツァル王はこのパウロの言葉通りの姿をさらけ出しました。彼は美しい宮殿の屋上に立ち、胸を張ってこう言い放ったのです。「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」

 

その言葉がまだ王の口にあるまさにその瞬間、見張りの者、あの聖なる者が、夢で警告されていたさばきを宣告しました。「ネブカドネツァル王よ、あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べるようになり、こうしてあなたの上を七つの時が過ぎ行き、ついにあなたは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」(ダニエル4:31-32)そしてネブカドネツァル王は、まるで獣のような姿に変わり果ててしまいました。牛のように草を食べ、その体は夜露に濡れ、髪の毛はワシの羽のように、爪は鳥の足のように伸びてしまったのです。

 

ネブカドネツァルが獣のように落ちぶれたのは、おとぎ話の幻覚ではありません。プライドという恐ろしい幻覚から王の目を覚まさせ、現実を直視させるために、神様がなさったことでした。私たちの傲慢さは、私たちを神にするどころか、かえって人間らしさを奪い、獣へと引きずり下ろしてしまうのです。私たちは古代の帝国を治めているわけでもなく、大宮殿を持っているわけでもないので、「ネブカドネツァルの狂気なんて、自分には関係のない話だ。」と思いがちです。しかし、フラナリー・オコナーの有名な短編小説『啓示』は、あのバビロンの王のプライドが、私たちの日常の中にどれほどごく自然に潜んでいるかを暴き出します。

 

その物語に、ルビー・ターピン夫人という女性が登場します。彼女は毎週教会に通い、広い土地を持つ、誰もが認める「立派なクリスチャン」でした。ある日、彼女は混み合った病院の待合室に入り、座っている人たちを心の中で勝手にランク付けし始めます。彼女は鼻水を垂らした貧しい白人の男の子を見下し、自分の農場で働く黒人を子ども扱いして笑い、メアリー・グレイスという不機嫌な女子大生を蔑んで、「もしイエス様が私に『貧乏白人、黒人、ブス。さあ、この中から選びなさい』とおっしゃるのなら、私はなんというでしょう!」と心の中でつぶやきました。

 

ターピン婦人は、ある上品な婦人と話しているときに、やがて、待合室全体に響き渡る程の大声でこういいました。「なにか私にあるとすれば…それはね、ありがたく思うってことです。少しでも何もかも持っていて、こういう気だてのいい人間に生まれついて。もしそうでなかったらどんな人になっていたろうと思うと、大きな声で叫びたくなるくらいですよ。『イエス様、すべてをこのように造ってくださって、感謝いたします』ってね。別の人のようになっていたかもしれないんだから。…おお、イエス様、ありがとうございます。イエス様、イエス様、感謝いたします!」

 

まさにその瞬間でした。『人間の進歩』というタイトルの分厚い教科書が部屋の向こうから飛んできて、ターピン夫人の目の上に直撃したのです。女子大生はテーブルを飛び越えて夫人の喉元をつかみ、床にねじ伏せました。そしてその少女は、冷たい視線でターピン夫人をにらみつけ、耳元でこう囁きました。「もといた地獄に戻るがいい、老いぼれのいぼ豚め。」

 

目の上への痛烈な一撃が、ターピン夫人の妄想を粉々に打ち砕きました。プライドとは、ただ自尊心が高いということではありません。他人の目にある小さなチリには目ざといのに、自分の目の中にある丸太には全く気づかないという、歪みきった霊的な盲目のことです。容赦のないその侮辱の言葉は、ターピン夫人の頑なな心に深く突き刺さり、上品な仮面を引き剥がして、内側に隠れていた醜い獣の姿を暴露したのです。オコナーはこの短編を通して、こう言いたいのです。目を覆いたくなるようなプライドは、優しいお説教やアドバイスでは治りません。私たちの霊的な眠りを覚ますために、神様は時に、激しく、屈辱的で、厳しい憐れみを用いられます。自分を正当化する分厚いメッキを力ずくで剥ぎ取り、私たちが自分の本当の姿を直視できるようにしてくださるのです。

 

Ⅳ.天を見上げる王

この物語の決定的な転換点は、ネブカドネツァル王が宮殿の屋上から人々を見下ろすのをやめ、泥まみれになって地べたを這い回りながら、ついに天を見上げた瞬間に訪れます。「その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた」。本当の理性とは、天の神様に打ち倒され、その圧倒的な力、権威、そしてすべてのものを治める主権を認めた時にこそ戻ってくるものなのです。本当の正気を取り戻した人は、神様を礼拝せずにはいられなくなります。神様が約束された通り(切り株の鉄の鎖のように)、打ち砕かれた王が天を見上げた時、神様の一方的なあわれみによって王権が回復されました 。それは、バビロン帝国の真の王、まことの養い主、そして万軍の主がどなたであるかを、誰の目にも疑いようのない形で証明する出来事でした。ネブカドネツァル王の最後の告白は、あの夢が語っていた通りの真理を証明しています。「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最も低い者をその上に立てる」。主は高ぶる者を低くし、へりくだる者を高く引き上げてくださるのです(ヤコブ4:6, 10参照)。

 

しかし王は、神の力を認めはしたものの、生涯をかけてすべてを委ねる信仰には至りませんでした。だからこそ、彼の帝国は滅び去ったのです。神が永遠の王国を任せるにふさわしいと認められた王は、歴史上ただ一人しかおられません。イエス様はまさに、このダニエル書4章の木のイメージを用いて神の国を語られました。それは、美しい葉を茂らせ、豊かな実を結び、あらゆる鳥や動物たちがその下で命を育む、巨大な木の姿です。しかし、この神の国は、最も小さないのちの種である「からし種」から始まります。そしてこの種は、巨大な木へと育つ前に、まず土の中に落ちて死ななければならないのです。自らを低くしてへりくだる王でなければ、神様がその人を高く引き上げ、その王国を大きく育てられることはありません。

 

そして、その木こそが、イエス・キリストご自身なのです。イエス様は神の御姿であられるのに、神としての特権に執着せず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられました。そして、死の深みまで、あの十字架の死に至るまで従順であられました。どんなに誇り高い人間であっても耐えることのできない、最も屈辱的で、最も残酷な死を、進んで引き受けられたのです。それは、イエス様が常に天を見上げて、御父の栄光と愛を仰ぎ見ておられたからです。イエス様がご自身を底の底まで低くされたからこそ、神様は、このお方を最も高い所へと引き上げ、ご自身の右の座に着かせられました。まさに、あの夢が預言していた通りです。神様は、最も低くなられたお方に、永遠の王国をお与えになったのです。

 

Ⅴ.覚えていただきたいこと

① 高ぶりとは、悪魔のように醜く、そして驚くほど「ちゃんとしている」ものです

作家のC.S.ルイスは、その著書『キリスト教の精髄』の「最大の罪」という章で、プライドの恐ろしい本質をこのように突いています。

「キリスト教の教師たちの言うところによると、本質的な悪徳、究極的な悪は、高ぶりである。これにくらべたら、不貞とか怒り、貪欲、泥酔とかいったものは、ノミに食われた程度のささいなことにすぎない。悪魔が悪魔になったのも高ぶりのゆえであった。高ぶりは人を他のすべての悪へと導いて行く。それは完全に反神的な心の状態である。…われわれは自分の内に傲慢な気持ちをもっていればいるほど、他者の内にある傲慢をますます嫌悪するものである、と。実際、もしあなたが、自分はどれほど傲慢かを知りたいと思ったら、いちばん簡単な方法は、こう自問してみることである――『だれかがおれに剣突を食わせた時、あるいはおれの存在を全く無視した時、あるいはおれのやることにいちいち口を出した時、あるいはおれに恩着せがましいことを言った時、あるいはおれに何かを見せびらかした時、おれはどの程度の嫌悪感を感ずるのか』つまり、われわれのプライドはたえず他者のプライドと競り合っているのである。…プライドは本質的に競争的であり、プライドは何かを所有することに喜びを感ずるのではなく、隣人よりもより多く所有することに喜びを感ずるのである」

もしルイスの言う通りなら、世界で最も成功したネブカドネツァル王や、毎週教会に通ってお行儀よく暮らしているターピン夫人のような人こそ、麻薬中毒者や犯罪者よりも、はるかに悪魔に近い存在だということです。なぜなら、プライドの最も恐ろしいところは、目に見える破壊ではなく、「自分自身の罪と、神の御前での本当の立ち位置を、完全に盲目にしてしまうこと」だからです。だからこそパウロは、まじめな私たちに向かってこう警告します。「すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです…あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。」(ローマ2:1, 3) 私たちが人を見下す時、私たちは悪魔と同じ心の座に座っているのです。

 

② 本物の謙遜は、「痛みを伴う屈辱」を通らなければ生まれません

ネブカドネツァル王が、牛のように草を食べるという惨めな屈辱を通してしか謙遜を学べなかったように、私たちもまた、自分の弱さ、壊れやすさ、そして罪深さを骨の髄まで思い知らされるような「痛烈な屈辱」を通らなければ、本当の謙遜を学ぶことはできません。それは、突然の病気の宣告かもしれません。仕事や家庭での決定的な挫折かもしれません。あるいは、何十回決心しても同じ罪を繰り返してしまう、自分自身の情けない無力さかもしれません。

 

しかし、覚えていてください。神様が私たちを打ちのめされるのは、私たちを滅ぼすためではなく、眠りから覚ますための「憐れみ」なのです。キリストのもとに来る人の多くは、人生の輝かしい成功の絶頂で来るのではなく、自分の築いた城がガラガラと音を立てて崩れ去った、絶望の焼け野原の中でやって来ます。サタンのとげに苦しめられ、徹底的にへし折られたパウロに、主はこう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」だからこそ私たちは、キリストのゆえに、自分の弱さや屈辱を喜ぶことができるのです。私たちが打ち砕かれて弱いときにこそ、神の力が私たちの内に働くからです。

 

③ 謙遜を目指すのではなく、「キリストご自身」を求めましょう

最後に、非常に当たり前ですが、絶対に忘れてはならない決定的な真理があります。それは、「謙遜自体は、誰も救うことができない」ということです。ネブカドネツァル王は打ち砕かれ、自分のプライドを暴かれ、神様の絶対的な主権を口でほめたたえました。しかし、彼は王として最も屈辱的な一歩を踏み出すことはありませんでした。それは、「信仰」という一歩です。信仰とは、ルカ18章の取税人のように、天を見上げることもできず、ただ胸を叩いて叫ぶことです。「神様、罪人の私をあわれんでください。」信仰とは、遊女ラハブや異邦の将軍ナアマンのように、「この地上に、聖書の神以外の神はいません。私の名誉も、富も、プライドも、私のすべてをあなたに明け渡します。私を救えるのは、あなたしかいないからです」と全生涯を差し出すことです。ネブカドネツァル王が立ち止まった場所で、立ち止まらないでください。「自分は罪人だとわかった」「自分はなんて傲慢なんだろうと反省した」という、自分自身の謙遜さに満足して家に帰らないでください。それではターピン夫人と何も変わりません。

 

私たちの目は、いつも濁り、歪んでいます。 ネブカドネツァルやターピン夫人のように、私たちは常に自分のエゴに視線を奪われ、人を見下すことばかりに夢中になっています。イエス様の目は、私たちの濁った目とは全く違っていました。イエス様は、私たちの罪の底知れぬ深さも、ご自身が父に従う僕であるという立場も、すべて澄み切った目で見通しておられました。その清らかな目は、ご自分のエゴや保身には一度も向けられませんでした。イエス様の視線は、常に、ご自身の周りにいる迷い、滅びゆく罪人たち――あの十字架の足元でご自分を嘲り、つばを吐きかける、傲慢で盲目な私たちに目を向けられたのです。イエス様が、私の傲慢のために、そこまで低くなられたのです。自分の謙遜さで自分を救おうとするのはやめましょう。目の中に丸太を抱えたプライドだらけの私たちのために、十字架で命を捨ててくださった、最も低き王、イエス・キリストの御腕の中に、ただ身を委ねましょう。お祈りしましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church