<礼拝式順>
前 奏
神の招き
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
讃美歌 175番 「われ世のあるまに」
開会の祈り
罪の告白の招き イザヤ書 55章6-7節
罪の告白の祈り
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに )
赦しの確証 詩篇 32篇1-2節
会衆 アーメン。
平和のあいさつ
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
聖歌 634番 「世の終わりのラッパ」 (『新聖歌』467番)
みことばの宣教
聖書朗読 マタイの福音書 25章31-46節
聖書の話 「最後の審判の預言的説明」 廣橋嘉信牧師
賛美歌 161 「イマヌエルのきみのみ」
聖晩餐式
[制定のことば] コリント人への手紙 第一11章23-29節
[式 辞][祈 り][分 餐] 配餐者 大場長老 那須長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金
報 告
頌栄 (教会福音讃美歌)272番 「みつにまして ひとつの神」
祝 祷
後 奏 567番 「アーメン・アーメン・アーメン」
2021年7月4日 「最後の審判の預言的説明」マタイの福音書25章31-46節 廣橋嘉信牧師
序文)主の再臨について、ともしび油を用意してその時を待っている賢い娘と、タラントを活用して人生の清算報告の忠実さを褒めていただいたしもべたちについて、二つのたとえ話をもって、私たちに準備をするようにと、主は教えられました。続いて、今朝の箇所は再臨ののちに起る事柄・最後のさばきがどのようになされるかの預言的な説明を、主はしてくださっています。
Ⅰ 歴史は終わりなき循環ではない。閉じられる日が来る。キリストの再臨と全人類に対する最終的評価で頂点に達して閉じられる。主イエス様の重大な預言のことばを今朝は玩味しましょう。
1 歴史の終末において、主イエス様の再臨の確実であることが、まず語られます。ご自分が王座に着いて裁く王であるとはっきりと預言されました。
31−32節「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」
その御前には、すべての国民が集められます。すべての存在する国民に、さばきの対象は及ぶのです。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」とあります(マタイ24:14)。すべての人は生きている間に、伝えられた福音により、主イエス様への態度を明らかにしなければなりません。終わりが来るからです。
2 ウエストミンスター信仰告白 第33章 最後の審判について
⑴ 神は、イエス・キリストにより、義をもってこの世界をさばく日を定められた。すべての権能とさばきとは、み父から彼に与えられている。その日には、背教したみ使たちがさばかれるだけでなく、かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ悪であれ彼らがからだで行なったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つ。
⑵ 神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである。というのは、その時に、義人は永遠の命にはいり、主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めとを受けるが、神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げこまれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである。
41−46節 「王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入るのです。」
⑶ キリストは、すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも、わたしたちに審判の日のあることを確実に信じさせることを欲すると同時に、その日を人に知らせずにおかれる。それは、彼らがいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」と言うためである。アーメン。
Ⅱ 右におかれた羊たち
34-36節 「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」
すでに(マタイの福音書 10:40,41,42)で学びましたが「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」
最後に、私たちの主は、ご自分の教えのため労する者たちになされた奉仕は、どれほど小さなものも神の目にとまっており、報われるということを述べて、私たちを元気づけておられる。「わたしの弟子だというので」、ほんの「水一杯」を信者に与えた者は決して報いに漏れることはないのである。
この約束には非常に美しいものがある。これは、この偉大な主人が絶えずご自分のため労する者らに目を注ぎ、彼らの益を図ろうとしておられることを教えている。もしかすると彼らは、だれの目にも付かず、だれからも顧みられることなく働いているように思えるかもしれない。説教者、宣教師、教会学校教師、貧民街の訪問者たちの働きは、国王や議会や軍隊や政治家たちの活動に比べると、取るに足らぬ無意味なものに思われるかもしれない。しかし、彼らは神の目には無意味ではない。神は、だれがご自分のしもべらに反対し、だれが助けるか注意しておられる。神は、パウロに対するルデヤ(リディア)のように、だれがご自分のしもべに親切にするか、ヨハネを妨害したディオテレペスのように、だれがご自分のしもべを妨害するかに注目しておられる(使徒16:15、ヨハネ第3の手紙9)。神のしもべたちが神の収穫のために労する間、その日ごとの経験はすべて記録されている。すべてが神の大いなる記憶の書に書きとめられ、最後の審判の日にすべてが明るみに出される。主イエスはご自分の民を一人も決してお忘れにはならない。主は審判の朝、そんなおことばをいただくなどとは夢にも思っていなかった多くの人々に言われるであろう。「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ…てくれた」(マタイ25:35-36)。
私たちは自問してみよう。自分は、この世におけるキリストのみわざとキリスト教の伸展をどのような光で見ているだろうか。私たちは、それを助けているだろうか、妨害しているだろうか。私たちは、主の「預言者」や「義人」たちを、何らかの仕方で支援しているだろうか。主の「小さい者ら」を助けているだろうか。私たちは、主の働き人らを妨げているだろうか。励ましを与えているだろうか。これは重大な問いである。機会があればいつでも彼らに「水一杯」を与える者は、良いことを賢く行なっているのである。そして主のぶどう園で自ら積極的に働く者は、なお良いことを行なっているのである。願わくは私たちが、自分が生まれ出たときよりも良くなった世界を後に残すことを求めて努力するように。これがキリストの心を自分のものとするということである。これが、このすばらしい章にふくまれた数々の教訓の価値を見いだすことである。( J.ライルの説明)。
「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ…てくれた」(マタイ25:35-36)。旧約聖書の例。
Ⅰ列王記17:10-16 「彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」
私たちには、このやもめに与えられた約束どころではない、とてつもなく大きな、すばらしい約束が与えられていること忘れてはならない。「『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』 …正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25:40,46)
結び) 終わりに、私たちは自問してみよう。自分は、この世におけるキリストのみわざとキリスト教の伸展をどのような光で見ているだろうか。私たちは、それを助けているだろうか、妨害しているだろうか。私たちは、主の「預言者」や「義人」たちを、何らかの仕方で支援しているだろうか。主の「小さい者ら」を助けているだろうか。私たちは、主の働き人らを妨げているだろうか。励ましを与えているだろうか。これは重大な問いである。機会があればいつでも彼らに「水一杯」を与える者は、良いことを賢く行なっているのである。そして主のぶどう園で自ら積極的に働く者は、なお良いことを行なっているのである。願わくは私たちが、自分が生まれ出たときよりも良くなった世界を後に残すことを求めて努力するように。これがキリストの心を自分のものとするということである。