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2012年12月16日 待降節 礼拝

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2012年12月16日「イエス・キリストの系図」

 マタイの福音書 1:1−17

序文)クリスマスの待降節(アドベント)にあたり、救い主イエス・キリスト様の誕生に際して、神様の恵みの約束が、どのように不変で、確実で、不可侵で、守られてきたかを学びます。

 今朝は、イエス様の系図についてです。クリスマスの記事は、通常は、人間の側から見た救い主について学ぶことが多いのですが、今回は、神様の側の備えについてまなびます。

 そのためにクリスマスの時は、見過ごされがちな、マタイ1:1-17に目を留めたいと思います。

 Ⅰ 歴史的事実としてのイエス誕生

 まず、イエス・キリストの誕生は、おとぎ話でもなく、作り話でもなく、歴史的事実であるという点です。福音書の記者マタイは、本書の主人公イエス・キリストの「系図」を巻頭に書きました。それによって主人公が客観的な公の戸籍を持つ歴史上の人物である事を示しました。

 ユダヤ人の家には、家系図が驚くべき正確さで保存されており、家系の初代から系図は可能な限り正確に編纂され、かつ、保存されてきました。AD37-96に活躍したユダヤの歴史家ヨセファスは、ユダヤ人がパレスチナの外に居住している者でも、その子孫たちの名前が公の記録に載せられるために、それをエルサレムに送ったかについて書いています。特にダビデの子孫であった者たちは、旧約聖書が、メシヤがダビデの家から生まれると預言しているので、特別な注意を持って自分たちの系譜図を保存しました。公の登記とは別に私的な家系図を保存し、代々それを伝承した、とも書いています。

 Ⅱ 次に、イエス・キリストの誕生という事は,神の目から見るとアブラハムの時代にまでさかのぼる、すなわち、紀元前2000年の昔にまでさかのぼる神を畏れる信仰の流れの中で捕らえられているのです。イエス・キリストによる救いの計画が,クリスマスから始まったのではなくて、実は、その発端はもっと古くダビデ、アブラハムまでと言われているのです。それだけではなく、イエス・キリストの誕生は、終わりの時といわれています。第一ペテロ1:20「キリストは天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終わりのときに至って、あなたがたのために、現れたのである。」ヘブル1:1-2「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して,多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」

 神様の目から見るとイエス・キリストの誕生は,始まりではなく、終わりの時であるというのです。

 マタイはイエスの系図を自分の目的にしたがって整理をしました。17節彼は系図を14代づつ、三つに分けました。そのために8節のヨラムの次にアハジヤ、ヨアシ、アマジヤという3代の名前を省きました。11節のヨシヤとエコニヤの間のエホヤキンという名前を省きました。12節サラテルとゾロバベルの間でベダヤ(第一歴代3:19)という名前を省きました。

 私たちが旧約聖書を読みますと、もっと完全な系図が記録保存されています。それによれば、アブラハム以前アダムに至る系図もある分けです。マタイはこれらは省いています。もっともルカの福音書の系図は、アダムまでを掲載しているのです。

 マタイがこのように一連の省きを行い、整理したのは、神の救いの約束という点から考えて、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(21節)

となるイエスの誕生が、はっきりと具体的に示された時代から書いて行こうとしたからでした。

 神の救いの約束は、アダムが罪を犯したとき、すなわち、人類のそもそものはじめから与えられたものでありました。それはアブラハムの時代になってはっきりと表され、アブラハムの子孫によって全世界が祝福を受けると保証されたのでした。

 次にダビデは、紀元前1000年頃、神様から、その王座につく子孫の中から神の子を出すと約束を受け、その子によって、ダビデの王座は永遠に確立されると保証されました。サムエル第二7:13「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」それで、ユダヤ人は,これ以降、救い主をダビデの子と呼んで待っていたのでした。

 マタイ1:1 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書き出したのはこのような理由でした。しかし、このダビデ王国は紀元前586年バビロニア帝国の手で滅ぼされました。主要な人々はバビロニア捕囚にあいました。このことにより、神の救いの祝福は消え去ってしまったかのように見えました。ことに、7-11節のソロモンからエホヤキンまでの13名の者たちは、神様の背く王たちが多く13名中7名は偶像崇拝と不道徳な生活に身を汚し王位をはずかしめ不敬虔、邪悪な王たちでした。

 10節のマナセなどはバアル礼拝を行い自分の子どもを火で焼いたばかりか、神に仕える者たちを迫害し、伝説では、大預言者イザヤをのこぎりで引き殺したと言う程である。

 さて、バビロニアからキリストまでの14代については旧約聖書に名前が無いし、彼らについては知る事ができない。これらの人々は旧約聖書の終わりから新約聖書の始めまでの400年間に生きた人々である。いいかえるとダビデ王家の王位継承は、この世の目には消え去ってしまったかのように、見る影もないものになってしまった時代です。

 マリヤの夫ヨセフがダビデの王位を継ぎ王位に上るべき者であるということは、王家の落ちぶれた様を示し、王家の恥でもあった。ヨセフはまずしい田舎大工でしかなかった。救い主誕生の約束はもはや破棄されたかのようであった。すべてのものの終わりとなった。しかし、アブラハムに約束され、ダビデに確認された救い主は、人間的なものがすべて終わったとおもわれるような中で、イエス・キリストはお生まれになった。この事を系図は語っている。ここに歴史を支配しておられる神様が,人間の歴史の変転にもかかわりなく、その救いの約束を変えられることなく、確実に,誠実に実現してくださったということをしらされるのです。

 Ⅲ 第三番目に、イエス・キリストの系図の中に邪悪な王たちがいたことを、先ほど学びましたが、もう少し詳しく系図を見てみましょう。普通の系図は、血筋の中に立派な学者がどれぐらいいるか、芸術家がどれぐらいいるか、実業家はでたかとか,特別に世に誇れるような才能の人々がいた事を世間に誇るために書きます。

 イエス・キリストの系図は、全然そういうことがないのです。特にユダヤの系図では決して名前を連ねる事のない女性の名前が掲載されているのです。それも4人もはいっているのです。そのうえ4人とも異常な経歴の持ち主なのです。

1 3節 タマルは創世記38章に詳しくでてきます。彼女は遊女をよそおって、自分の姑であるユダを欺いて、不義の関係を結び、双子のペレツとゼラフを生みました。ユダはタマルのことを「彼女はわたしよりも正しい」といっていますが、だからといって決して名誉ある婦人ではありません。

2 5節 ラハブはヨシュア記2章 エリコの城壁の中に住んでいた遊女で、イスラエルの斥候をかくまったことにより、エリコ陥落のときに助けられました。後になってヨシュアの配下であるサルモンの妻となってボアズを生みました。ボアズはルツの夫なりました。

3 5節 ルツはイスラエル人ではなく、モアブの女性でした。モアブは偶像ケモシに仕える民族でイスラエルの宗教に入る事ができない者でした。申命記23:3「アモン人とモアブ人は、主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は10代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」と命じられている。このモアブの女性ルツが、ボアズの嫁になり、オベデを生みました。

4 6節 ウリヤの妻  サムエル第二11章、12章、列王記第一1章に出てくるバテシバです。彼女は夫ウリヤが戦争に派遣されていたとき、ダビデとの間で姦通を犯しました。ダビデ王葉,この事柄を預言者ナタンに責められて、詩篇51

にあるような、断腸の思いで、神に悔い改めました。

 マタイはなぜ、このようなことがらを書とめたのでしょうか。イエス・キリストの系図は、血筋からいえば、恥と汚れと罪と、不法に満ちているのです。不信仰で邪悪な王たちが連綿といる。マタイは、名誉ある、信仰深い、清らかな女性の名前を載せることができたでしょうに。タマルの代わりにアブラハムの妻サラをのせる事もできたでしょう。これらの点を考えると、「イエス・キリストの誕生」が、罪人、異邦人、神をしらない者のためにあったことが示されています。イエス・キリストご自身が「わたしは正しい者を招くためにきたのではなく、罪人招くために来た。」(マタイ9:13)と言われたとおりです。

 自分の過去が、この系図のように罪と恥にまみれたものであっても、「すべて彼を信じる者が失望に終わる事の無いために」救い主は自ら家系に罪人、異邦人、を入れられたのでした。

 また神様は、救い主をお与えくださる時に、血統がいいからとか、毛並みがきれいからとか,先祖が立派だったからとかで、救い主をイエスに指名なさったのではありません。神様の恵みと,誠実さのゆえに、歴史を支配し罪人をも用い、悪人をも手に握って救い主を遣わされました。神様はもし良しとされるならば、イエス・キリストの系図を一点の汚れもなく、不名誉と恥の全くないものとされることはできたのです。けれども、主イエス・キリストが地上にこられたのは、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」(ピリピ2:7)るためであり、さらに、詩篇22:6のメシア預言によると「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」とある通り,救い主は、虫けらで人間のさげすみとなるために生まれるのです。ついには、この世の悲惨と神の怒りと十字架ののろいと死とを忍びたもうためでありました。だから神はその系図に汚点が入ることを拒まれなかったのです。

 このことは少なくとも、自分の家に絶望をしたり、宿命的に罪や汚れで染まった血筋、家柄、家系に打ちのめされている人々、自分一個人の力や努力ではどうにもできないほどの巨大な重荷に打ち拉がれている人日には、素晴らしい福音、ニュースであります。

 結び) この系図に、神の慰めを汲み取る時に,大きな喜びが溢れてきます。約束の救い主イエス・キリストが、地上に生まれてくださったからです。

 この系図は以上のような点から見て、実に,今の時代の縮図であり、私たち一人一人の歴史の縮図でもあるのです。

 私たちは、このクリスマスにイエス・キリストの誕生を祝う前に、自分の経歴の、今日の頁に、信仰によるイエス・キリストの子と書き入れる事をしましょう。

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